14「崩れ落ちた幻影」
身体に叩き込まれた敬礼を行い、裏口から戸外に出た。
予想通り、待ち構えていた兵隊や騎士を一気に突き飛ばして山に向かって走った。
騎士たちはしばらく茫然と権左のうしろ姿を見送っていたが、やがて弾かれたように追跡をはじめた。
深い雪の中をジグザグにステップを切って駆ける。
早い時期にカンジキへと履き替えた。これがあるかないかでは歩行速度は格段に違う。
月明かりが白銀に染まった世界を照らし出していた。
反射して輝く雪原と遠方に見える佇立した白の山塊が目に痛いほどだった。
「待ってください。どこにゆくというのですか!」
ひとり、威勢のいい声を発して執拗に追いかけて来る。
アリエルという名の権左を人違いしていた女だった。
気づいてはいたが無視していたのだが――。
ふっふっと白い呼気を吐き出しながらチラと背後を見やると、五名ほどの配下を従え猛烈な速度で追ってくる。
たいした執念だが、その速度をどこまで保てるものやらお手並み拝見と行こうか。
マタギの足は平地では発揮されない。
異常に強い斜度を持つ山に入ってからこそ真価を見せるのだ。
権左の一世代前にあたる明治初年の戊辰戦争時、マタギが秋田藩の軍団に加えられた際、伝令を務めた根子マタギの山田長十郎こと疾風の長十郎は直線で往復しても百キロ近くある阿仁と久保田城を山越えして一日で往復した。
一般登山道とは比べものにならない峻険な山々をこの時間で駆けるなど、まず現代の人間では不可能である。
そして権左の足の速さは疾風の長十郎に勝るとも劣らないものだった。
平らかな場所では聞こえていた呼びかけの声はグングンと遠ざかっていった。
権左が踏み分けた雪道を歩くのだから、労苦は比べものにならないほど楽なはずなのに、小一時間もすると背後を追跡する松明の灯りは見えなくなった。
「まだ追って来やがる」
一瞬だけ足を止めて傾斜のついた背後を振り返ると、青色の上っ張りを着込んだアリエルだけが、ただひとり喰らいつくようにして坂を登っていた。
手にしていた松明は放り投げ、身体を上下させ間合いを詰めて来る。女の妄執というのだろうか、元々は相当に身軽な部類であるのだろうがここまでついて来たのは感嘆に値した。
降雪はやや陰りを見せはじめているとはいえ、土地勘もない冬季の山に素人同然の人間が分け入るのは死を意味している。
彼女が権左に異様なまで執着するのはホルベアという自分の男と勘違いしているだからだ。彼女はあれだけの騎士を率いておりこの地においては身分も高い。
たとえ権左が無事にリュチカの救出と銀月の打倒をなし終えても、彼女を見殺しにしてしまえば今後降りかかってくる罪過から免れるとは思えない。
権左は一瞬だけ迷ったが、とりあえず様子を見るために開けた坂から脇の樹林帯に入った。
黒鷲傭兵団を追うのはそう難しいことはない。
峠越えを行うために尾根へと出る道は限られているからだ。
ジッとしていると、勢いを取り戻した雪の激しさが骨身に染みた。
(いいぞ。もっと降れ。降って降ってやつらの足を止めてしまえ)
狩の際には毛皮を背負ったまま山野にごろ寝し夜明かしをする権左である。
この山の寒気は厳しいが耐えられないほどのものではなかった。
そうやってアリエルの様子を窺っていたのだが、どれほど待っても気配が近づいて来る様子がない。
手のひらを丸めて人為的視界を狭め視力を上げ、坂の下を見やるとアリエルが雪の中で頭から倒れているのがわかった。
「世話かけさせやがる」
権左は飛ぶように斜面をすべり降りると雪の中で転がっているアリエルを抱え上げた。
月明かりに映ずるアリエルの顔色は雪よりも白く、完全に気を失っていた。無理もない。彼女は銀月を追って山を昇降し、その上で権左のハイスピードについてゆこうと無理な歩調で山を駆け上がっていたのだ。
ここまで昇って来ていて、アリエルを下ろすためもう一度里に下りていたのでは傭兵たちに追いつくことはさすがに難しい。
幸か不幸かこのあたりにはビバーク用に設えていた権左専用の穴倉があった。アリエルを背負って斜面を一気に登り緊急避難場所である岩の横穴に入った。中にはクマザサを一面に敷いてあり、入り口を木枝で覆って火を焚けば相当な暖を得ることができる。
アリエルは波打つような金色の豊かな髪を広げてこんこんと寝入っていた。彼女を下ろすときに豊かな胸や身体の一部があたり、権左はこんなときだというのに彼女には激しい欲望を覚えたことを恥じた。
「まったく無防備な女だ」
穴倉に保管してあった枯れた杉の木の枝を積んで、付け木を差し込み火打石で着火した。
少々煙いが、身体さえあたためれば極度の疲労でショック状態になっているアリエルもそのうち目を覚ますだろう。
そういえばもう長い時間食事をとっていない。これから一勝負しようというときに体力切れでは話ならない。
権左は雑嚢から干してあったクマ肉を取り出すと、火に軽く炙って食い出した。カチカチに固まっているの飲み下すのに往生したが、胃の中に収めてしまえば問題はないだろう。
外には先ほどあった月明かりの一切が消え、吹雪が巻き起こっていた。
このわずかばかりの休息が自分も、そしておそらく敵にとっても吉と出るか凶と出るかはわからない。
「……ここは」
権左が皮の手袋に着いた雪を払っていると、寝こけていたアリエルが億劫そうに身体を持ち上げ、それから権左の存在に気づき頬をゆるめた。
「ホルベア……ですよね?」
「ちょうどいい。あんたもそろそろ夢から目覚めるべきだ。この距離なら見間違えることはないだろう。とっくり俺の面を拝むこった」
アリエルは鼻と鼻とがくっくつくらいに接近すると、不意に顔を歪めてその場にがくりと首を落とした。
「どこかで……そうじゃないかと……生きていてほしいと願っていただけなのに……こんなに似ているのに……嘘です……別人だっただなんて……待っていた、待っていたのよ……本当は……こんなのって……あんまりです」
低く啜り上げるアリエルの鼻声がいっそう憐れだった。耐えきれなくなって目蓋を閉じた。
権左は不意に二〇三高地で殴り殺した若いロシア兵の男と、その男が大切そうに仕舞っていた写真とうりふたつのアリエルが目蓋の裏で重なり合った。
アリエルの呻き声だけが暗い穴の中で響いている。
不意に胸のあたりにやわらかで重たげなものが伸しかかっていた。権左が驚いて目を開けると、アリエルがなにかに憑かれたような潤んだ瞳でジッとこちらの顔を見つめていた。
「お願い……今だけは……今、この瞬間だけはアリエルと呼んで……ねぇ……」
奇妙な罪悪感と胸の奥から突き上げてくるような衝動に駆られ、アリエルをそっと正面から抱きしめた。
アリエルはぶるるっと身体を大きく揺するとぶつかるようにして唇を合わせてきた。権左は黙ったまま目蓋を開き、静かな目でむしゃぶりついてくるアリエルを凝視した。
「す、すみません……私としたことが……こんなことを……」
ようやく離れたアリエルは恥ずかしそうに手櫛で乱れた髪を梳いていた。
マタギに限らず猟には女自体が厳禁なのだが、禁忌はすでにいくつも破っている。
権左はアリエルの瞳に平静さが戻ったことを確認すると、身支度をして穴から這い出そうとした。
「待ってください、ゴンザさま。いったいこの吹雪の中、どこへゆこうというのですか?」
アリエルが狎れたような声で自分の名を呼ぶことに違和感を覚えた。
「決まってる。傭兵たちからリュチカさんを取り戻すんだ」
リュチカの名前を出した途端、アリエルの表情が強張った。咎めるような目つきで睨みつけて来る。権左はほとんどアリエルのことは知らないので、彼女の打って変わった態度にとまどいながらも、そのまま無言で外に出ようとするが、裾を思った以上の力で引かれて転びそうになった。
「なにをするんだ」
「私もゆきます。ちょっと! 待ってくださいっ」
権左はつきあいきれなくなって、無言のまま外に出た。しばらく休んだせいで降雪は強まっていたが、身体はポカポカとあたたまっていた。
「ついてゆきますからね。そのリュチカという娘は私の領地の娘ならば放っておけないと義務というものがありますからね」
強風の激しい樹林帯を選んで移動を開始した。標高を上げるにつれ寒気は厳しくなってゆくが、山谷を調べ尽くした権左には憂いも迷いもなかった。
アリエルは休んだことで気力を回復したのか、意外にしっかりした足取りであとを追ってきた。
ここで見殺しにしては今までやったことがすべて無駄になる。素早さを幾分か抑え気味にすれば充分追従できるところを見ると、女にしては充分な健脚だ。
権左にしてみればどうということのない速度であったが、空が水色に変わるころにはアリエルの体力は限界に近づいていたのは顔色から明白だった。
降っていた雪はすでに止んでいた。権左は軍帽の庇に積もった雪を指先で払いのけると、眉をしかめてクンと鼻を蠢かせた。かすかなアンモニア臭を追ってザクザクと雪を切って進むと木立のすぐ下には小便のあとがわずかであるが雪を黄色く汚していたのがわかった。
「なにか、見つけたのですか」
「見ろ。小便だ。やつらはすぐ近くにいる」
すぐ近くの雑木林の下ばえがガサリと動いた。権左は素早く帯革から銃剣を引き抜くと物陰へと躊躇せず飛び込んだ。
ほとんど狙いをつけず銃剣を振るうと肉を切り裂く手応えと男の呻き声が上がった。
権左は素早く男の背後に回ると左腕を男の喉首に回して銃剣で顎先を浅く傷つけた。
「余計な声を立ててみろ。すぐにブスリといくぜ」
耳元で低くささやくと男は半泣きで啜り上げながら承諾の意を示した。間違いなく黒鷲傭兵団のひとりである。足元には拾い集めた生木の枝が転がっていた。
どうやら朝餉のため火を作ろうと、燃料になりそうなものを集めていたのが運の尽きだ。
「昨日攫った女は無事なんだろうな」
「ひ、ひ。団長の……指示で……指一本触れちゃあいねぇ」
「おまえたち、全員の総数は」
「ぜ、ぜ、ぜぜぜ、ぜんぶで二十三人……へ、へへ。けどよ……そっちはそこのアマっ子入れて……ふたりじゃねぇか……テメェ、ゴンザとかいう猟師だろう……ヨシフさまはおまえを捕らえたあとで、じっくりあの亜人の娘っ子を嬲ってやるっておっしゃってたぜ……ワリィことはいわねぇから、降伏するんだ……騎士たちがいるのならともかく、たったふたりでなにができるってんだ……」
「そんなことは決まってる」
権左は素早く銃剣を男の顎下へすべらせ素早く喉元を搔っ切った。
故郷ではニワトリをこうやって散々潰した。
もっともやり慣れた殺し方で男の息の根を止めると権左はその場を離れて、雑木林の西北方向にある岩棚の陰を見つめた。あそこには人が多数入れる横穴がぽっかりと空いていたはず。
ほどなく観察していると、円形にぞろぞろと這い出してくる多数の人影が現れた。
「どうするのです? やつらが油断するのを待って奇襲をかけますか?」
長剣を引き抜いたアリエルがすぐそばでかがみ込み耳打ちしてきた。
「あんたはあの数と斬り合って勝てる自信があるのかよ」
「半分は引き受けますが……ゴンザさまはその隙にあの娘を救い出し、村に常駐する騎士たちに伝えてもらえれば私の命の保証はされるでしょう。彼らも領主の娘を手にかけるようなことをするより身代金を望むでしょうし」
「いいや。役割は反対だ。俺があいつらを引きつける。アリエルはその間に右方から大きく迂回してやつらの背後に出てなんとかリュチカさんを奪還してくれ」