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13「出撃」

 夜半にかけて雪の降り方は強くなった。アリエルは馬を棄てて徒歩となった騎士たちを鼓舞するように声をかけながら率先して闇に溶ける雪山への登攀を開始した。


 アリエルに従う兵は騎士を含めて八十名を超えていた。手負いとなった残存兵力を除けばほぼ全軍である。


 銀月が性懲りもなく人肉を求めて壊滅させたばかりのリューペック近くである亜人村に出現したのは好機だった。銀月というクマは完全に人間を侮っている。


 思えばこの時期に魔獣を追って山狩りをするのはじめてである。山に分け入って魔獣を討滅した経験はゼロではないが、それらはすべて夏山における経験だ。


 わずかな不安がアリエルの脳裏をチラリとかすめたが、今更引き返すというわけにもいかない。


(それに黒鷲傭兵団のこともありますし)


 私事の範疇に属するがアリエルとしては彼女が傭兵ごと死んで終わり――というふうには物ごとを片づけたくなかった。


「ホルベアとのことを思えばキチンとしておきたいのです」


 松明の群れがひとつの流れとなって長く伸びた。


 いくら領主の娘であるアリエルが率先して先頭に立って指揮をしても、領民から徴募した前線に配備されない予備役程度の雑兵では勇気も士気もたかが知れているのだ。彼らは先ほど蹴散らかされた騎士の惨めな姿を見ているだけあって、意気は完全に阻喪していた。


 ちょっとしたショックがあれば算を乱して潰走しかねない弱兵の集まりである。


 甲冑を着込んで豪奢な毛皮を纏っている騎士は深々と腰まで埋まる積雪に苦しめられ列は登りはじめたときとまったく似ても似つかぬバラバラなものとなっていた。


 山林の傾斜を必死に登り出して一時間ほどが経過したころだろうか。


 アリエルから見てはるか後方から男たちの鋭い悲鳴のようなものが響き渡った。


「なにごとですか――」

「クマだ」

「クマが出やがったぞ」


 混乱と動揺は一瞬で全体に広がった。


 アリエルは手にした松明を声が上がった方向に向け、闇の中から忽然と現れた巌のような物体に思わず悲鳴を上げそうになった。


 その黒く濃密な毛の塊から放射される貪婪な暴力の意思と殺気は三十メートル近く離れているここらでも感じ取れる強烈な部類のものだった。


 指示を出す前に黒山がぬっと動いた。


 途端に兵たちは手にした松明をあちこちに散乱させて、手当たり次第に屠られはじめた。


 ――これが銀月なのですか。


 目測でも五メートルは超えている信じられない大クマである。


 幾人かは槍を構えてどうにか陣を組んではみたものの、銀月が激しく吠え立てながら突進すると同時に紙で作ったようなやわな砦はあっさりと崩壊した。


 振り下ろされた爪と強靭な牙で次々に歴戦の騎士たちですら殺されてゆく。彼らがなんとか体裁を繕って山に入れたのは集団であるという一点に信頼を置いていたからだけのことであった。


「態勢を整え直しなさい。敵は巨大であってもただのクマです。鋼鉄の塊ではありません」


 とはいえアリエルはやはり気丈だった。


 普通の年頃の娘であればこれほどの巨大な魔獣が武装した騎士たちを紙人形を突き飛ばすように転がしているのを見れば恐怖ですくみ上って声すら出せなくなるのが普通であるのに、アリエルは瞬時に動揺から立ち直って冷静な声を闇夜に響き渡らせた。


 騎士たちも腰抜けというわけではない。日頃、重たい鎧を着込んで名誉を口にしている手前指先ひとつ動かせないとあればそれは彼ら貴族という存在の死を意味した。


「声を出しなさい。銀月は無敵の魔獣ではない!」


 凛と響くアリエルの澄み切った声が重ねて木霊すとともに兵たちは徐々に恐怖から解放されて自発的に陣形を組み銀月を半包囲して攻撃し出した。


 無数の槍や剣の刃が組み合わさって一個の意思を持つと、巨大な生物といえど玩具のように蹴散らすわけにはいかなくなる。


 銀月と人間の集団の揉み合いは双方決死の雄叫びを上げて、わずかに続いていたが、やがて銀月が踵を返して山に逃げ込むことで一時の終止符が打たれる格好となった。


 ――このときの被害は実に多く、騎士と兵を合わせて四十名近くが犠牲となった。


 だが、形だけとはいえ一応は銀月を撃退したものとなった。


 アリエルはとりあえずの勝鬨を上げさせると、残った人間で負傷者や亡骸を回収し、来たときとは打って変わった意気消沈しきった隊を引き上げさせた。


 思えば銀月はアリエル部隊の列が綺麗に伸びきるのを、山陰にジッと身をひそめたまま息を凝らして見守っていたのだろう。


 塊を砕くのよりも、薄絹のように引き延ばされた隊列を横合いから破るほうがずっと危険度は少ないのだ。


 それが証拠にアリエルが前後の兵を中央により集めると、銀月はたいして戦闘に執着せずとっとと逃げ帰っていった。


 周囲の村々から集めた道案内人はいたが、アリエルが村に戻る途中で彼らはひとり残らず逃げ去っていた。これではこの山に詳しい人間を探すところからまずはじめなくてはならない。


 アリエルは唇を強く噛み締めると蒼ざめきった表情で、早く村に戻って彼に会うことだけを考えていた。





 周囲には赤々と盛んに焚かれているかがり火がいくつもあり、檻の中には毛布も投げ込まれているので寒気はほとんど感じなかった。


(妙だな)


 権左は抱えていた膝を起こすと閉じていた目をゆっくり開いた。


 周囲には監視の兵が五人もついている。


 喚こうが暴れようが彼らに権左を解放する気がなければどうにもならないことはわかっていたから、今の今まで狸寝入りを決め込み体力の回復に努めていたのである。


 そうでなければそのときがきたときに、リュチカやロボを救うことすらままならない。


 アリエルがこの場を去ってから四、五時間程度が経過しているだろうか。


 腹の減り具合でなんとなく権左はそう計算した。


「なぁ、あんたら。俺は見世物屋の珍しい畜生じゃないんだぜ。そろそろ人間扱いする気にはなったかね」


 兵たちは権左の問いには神妙な顔つきでひとことも応じなかったが、焦ったような足どりで同輩が近づきなにごとかを耳打ちしてすぐ、それとハッキリわかるほどのうろたえを見せた。


「ホルベア卿。食事をお持ちしました」


 権左が兵たちの動揺を観察していると褐色の肌を持つダークエルフの女騎士ギルベールがトレイに湯気の立つ茶と黒くて硬そうなパンを乗せてやって来た。


「アンタは……なにかあったのかよ」


「ん。実はアリエルさまに伝えるなといわれていたのですが、銀月討伐に向かった隊が一敗地塗れたそうなのです。アリエルさまは、最初、卿に会いたがる素振りを見せていたのですが、今は己を恥じて天幕で休んでおります。そこでひとつお願いがありまして。今からアリエルさまをここにお連れします。


 非常に申し訳ないのですが、ホルベア卿がそれを望んだという形で……ここはひとつそういう形でアリエルさまをお慰めしていただけませぬか? アリエルさまは本当は卿に会いたくて会いたくてたまらないのに、我慢しておられるのです」


 人を閉じ込めておいて勝手極まりない話だった。


 権左が不機嫌そうに黙りこくっていると、ギルベールは主の様子を窺う犬っころのような目でジッと見つめ口元をへの字にしていた。


 人種の違いがあっても美人は美人であることに違いない。


 これが大の男なら怒鳴りつけもしようものだが、年頃の顔立ちが整った女にやられれば状況がどうであれ強く出れないのが男の性だ。


「ゴンザ、ゴンザはおるのかっ!」


 沈黙を突き破るようにして割れ鐘のような怒声があたりを圧した。


「ロボ爺――無事だったのか! リュチカさんはどうしたんだっ!」


 権左が鉄格子に組みついて顔を近づけるのと、杖を使いながらしがみつく兵隊たちとともにロボが倒れるのは同時だった。


「すまぬ。儂は姫とずっといっしょに隠れておったのだが……途中で出くわした傭兵どもに身柄を……クソッ。この腰さえもちっとマシであったら不覚は取らなんだのに。ゴンザよ。やつらは銀月退治ついでに峠越えをしようと企んでおるのじゃ。儂も詳しくは知らんかったのじゃが、銀月というバケモノグマはラランド領だけではなく、隣領にも被害を及ぼしておるらしい。怪物の首はラランド公爵でなくとも売りつけられると踏んだのであろうのう。リュチカ姫は……お主には黙っておったのじゃが、儂らはタダの村人ではなく、今はなきサロスウルフ族の――」


「それ以上はいわなくていい、ロボ爺。あんたとリュチカさんは俺の命恩人で家族だ。彼女は絶対に助け出す」


 ロボが語り出した因縁を遮って権左はいい切った。


「すまぬ。リュチカ姫が攫われたのは儂らの追撃の手を鈍らせる保険のひとつかもしれんが本質的には違う。あのヨシフという男は、必ずお主が追って来ると、信じておるらしかった」


「あのオカマ野郎が。望むところだ。今夜中にすべてケリをつけてやる」


「ちょ、ちょっと待った。ホルベア卿。いったいなんの話をしておられるのですか? だいたい、あなたをここから絶対に出すなというアリエルさまのおいいつけで――!」


 権左はギルベールがいい終わる前に窮屈な体勢で頭を後方へとグンと引くと、解き放たれ矢のように鉄格子へとぶつけはじめた。


「な、なにをやっておられるのですかぁ!」


 二度、三度、四度、五度と。


 権左が自死を行うかのように手加減なしで鉄格子に頭突きをはじめると、割れた頭部から真っ赤な血が噴き出し冷たい鉄の檻を朱に染めていった。


「やめっ。やめてくださいっ。そのままでは確実に死んで、死んで――ひいっ」


 ギルベールは自分の頭を両手で押さえながらその場で激しく足踏みを繰り返した。


 彼女は半狂乱になって泣き叫んだ。


 困り切ったギルベールは周囲の兵を見つめるが騎士階級のものはいない。


 判断を下せる人間が自分以外にいないとわかると、彼女は慌てて檻の南京錠をはずして涙目で頭を突っ込んだ、


 それを待ってましたとばかりに権左のたくましい腕で首を捕らえられた。


「にょむっ」


 奇妙な声を上げて目を白黒するギルベールの首を右腕でホールドしながら権左はようやく檻の外に出た。


「おっと、下手に動いたらこの女の首はぽきりとゆくぜ」


 権左がふてぶてしい笑みを浮かべて周囲に視線をぐるりと巡らすと、雑兵たちは手にした槍をどうしていいかわからず右往左往し出した。


「え、え、え。嘘ですよね? おやさしいホルベアさまは、ちょーっと戯れてみたかっただけなんですよね?」


「あいにくと冗談じゃねぇんだよ。それと何度もいってるだろうが俺はホルベアって男じゃねぇ。マタギの権左だ。覚えときな」


「ゴゴゴ、ゴンザ? は、はれれ。すると、私ってば、私ってばこれかどーなるんでしょうか」


「人質だ」


 ようやく己の身に危機が迫ったのを知ったのか、ギルベールはごく普通の若い娘が上げるような金切り声を突然発した。実際これをやられると、耳に相当に響くので権左は顔をしかめた。


「てなわけで、ロボ爺。ちょっくら狩りに行ってくる。リュチカさんと大物を仕留めてくるから、火の用意を頼んだぞ」


「……く。儂もそうじゃが、お主もそう簡単に死ぬタマじゃないわい。頼んだぞ」


「応よ」


 権左は泣き叫ぶギルベールを引きずりながら村を移動した。


「助けてっ。いやっ、犯されるううっ」


 耳元で涙とよだれを垂らしながら泣かれると、やはり罪悪感が込み上げてくるが、緊急時ということで許してもらおう。


 兵隊たちはバラバラと上級者に指示を仰ぐため数人が離脱したが、残りは権左と捕らえられたギルベールを遠巻きにしてゆっくりついてくるだけだ。


(とにかく家に戻って装備を回収できればあとは山に入るだけだ。なんとでもなる)


 権左はリュチカとロボの家に戻ると扉にカンヌキをかけてギルベールを床に放り出した。


「ひゃんっ。は、ままま、まさかまさかまさか! い、いいい、いやらしいことをする気だろう。十九年私が守ってきた大事な貞操をムチャクチャに踏み躙ってケダモノ並みの欲望をすべて解き放つつもりだろうっ! 


 こ、殺せ! 辱めるくらいならば、殺せっ! このようなことをする男がホルベア卿であるはずがないのだっ。私は、ああ、気づくのが遅すぎるんだぁ。私のばかー。ううっ。やだぁ、やだよお。おかぁさぁん」


 ――だからなにもしねえってのに。


「ううう。その顔。すっごく変態的な行為を迫るつもりだろう。それこそ娼婦ですら拒否する極めつけのいやらしいまねを。ひどい、ひどすぎるよぅ。私、はじめてはたっくさんの綺麗なお花をばら撒いた純白のシーツを敷いたベッドの上で結ばれるって決めてたのにぃ。


 こんな、こんな、薄汚れた板の上で……無理やり組み敷かれて……ケダモノみたいに……散らされるなんて……しかもアリエルさまの思い人とそっくりな殿方に……まるでオモチャのように扱われて……はぁ、はぁ」


 ギルベールは熱を帯びた瞳を潤ませて小指を咥えながら、なぜだか激しく興奮し出した。


「あう」


 とりあえずつき合っている暇はなかったので、黙らせようと寄ってゆくとギルベールは自ら後退って壁に自分の頭をぶつけ昏倒した。


「死んでないよな」


 権左はギルベールを静かに床に横たえその上に毛布をかけると、保管してあった軍装一式を身につけ、三十年式歩兵銃を手にした。


 ――まさか再びこれを手に取ることになろうとは。


 限られた銃弾を節約して使わなかったのは、まさしく天が自分にリュチカを救えと命じているように思えた。山に入れば確実に傭兵団や銀月との戦闘が待ち受けているだろう。


 特に、もう何人も殺して人間の肉の味を覚えた銀月のような「アナモタズ」のクマは危険極まりない。追っ払ったとしても必ず里を下りて人に害をなすだろう。そのような獣を討つのはマタギとして、この地に生きるものとして権左がやらなければならない責務であった。


 ロボには明日にでも帰るような話をした。ヨシフは案外に山を知らなさ過ぎる。この積雪と寒気で峠越えを行うの無謀である。


 普通の人間であるならばという但し書きがつくが。


 山に入る以上リュチカを取り戻すのは時間の問題だ。彼女の貞操のことが意識の端にチラついたが、それほど時間の経っていない今ならばと天に祈るしかほかはない。


 帯革に通して携帯した左右の前盒と後盒に百二十発の実包を詰めて部屋の隅に立てかけてあった山刀と転がっていた銃剣を吊ると戦場へはじめて赴くため船に乗り込んだあの日を思い出した。


 置き去りにされていた軍帽をかぶり、鹿皮を背負って雑嚢を腰に括れば準備は万端だ。


「雨竜権左衛門二等卒、いってまいります」


 無人の部屋でつぶやくと心が定まったような気がした。



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