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12「女の妄念」

「怒っているのですね。私がリンドバウム公爵の後添いになる話を受けようとしたことを……でも仕方がないじゃありませんか。あなたはちっとも私の気持ちをわかってくださらないのですもの! でも、でも。もう一度こうして出会えただけで、アリエルは今日まで生きていた価値がありました」


「う――んむっ」


 まったくもって状況が呑み込めない。茫然としている権左をよそにアリエルは情熱的な口づけを、それはもう一方的に権左へと強いてきた。


 商売女を抱いたときも接吻はとうとうしなかった。


 つまり生まれてはじめて生の女生と行う接吻に権左は目を白黒させて手足をバタつかせるしかなかった。


 混乱のうずの中、アリエルは権左に吸いついたと形容するがふさわしいほどぴったりくっついて、あろうことかにゅるりと舌まで入れてきた。


 はじめて行うキスと熱くぬめったものが口内に侵入してくる感触に権左は痛みすら忘れて一瞬惑乱状態になったが、どうにかアリエルを引き剥がすことに成功した。


 周囲に残っていた騎士たちは権左たちがキスを行っている最中、先ほどの剣吞な空気は一切霧散してやんややんやと喝采を送っていた。


「ホルベア、私はもうあなたから二度と離れませぬ。一生おそばに置いてください」


 うっとりとした目つきでアリエルは身体を寄せてくるが、半ば蠱惑的な術から覚めた状態の権左はさっと立ち上がると、後方に跳び退って困ったような顔でいった。


「だから――俺はそのホルベアとかいうやつじゃないっ。人違いもいい加減にしろ」


「え――」


 アリエルは一瞬悲しそうな顔をしたが、ふるふると小さく首を振って、それからあろうことか大粒の涙をボロボロとこぼし出した。


「あなたは……なにがなんでも……私を許さないと……そういうことですね」


「許すも許さぬも、俺にはあずかり知らぬところだ」


 これを隣で見ていたダークエルフの騎士ギルベールは、頭上にぴこんと豆電球が灯ったような閃きを持ってして両腕を組むと、うんうんとうなずいた。


「ホルベア卿は昨年の事故で少し精神が疲れているらしい。みな、卿をお連れして気が鎮まるまでじっくり静養していただくのだ!」


 ギルベールの意図を察した騎士たちは権左をあくまでアリエルの婚約者であったホルベアであると勘違いしたまま、素早く行動に移った。


「ちょ――待てよ! 触るな、離せといっているだろうが」


 権左はたちまちのうちに屈強な数人の騎士たちに四肢を拘束されかけるが、傷ついた猛獣さながら暴れまくった。


(冗談じゃねぇ。俺はこんなわけのわからんやつらと遊んでる暇はねぇんだ。早く、リュチカさんとロボ爺のそばに行ってやらなければならないってのに)


 奮闘虚しく権左はその場を無理やり連れだされると、巨大な鉄格子のある檻へと放り込まれた。


「ホルベア卿。私とてこのようなことを望んではおりませぬ。あなたがアリエルさまのお気持ちを汲んでいただけぬからでございますよ」


「だからなにをいっているか俺にはわからねーよ! そのアリエルってさっきの女をとっとと連れてこい。俺がとっくり語って聞かせるから!」


「あまりワガママをいわないでいただきたい。お腹立ちはわかりますが、お嬢さまとて公爵自ら頭を下げて懇願されれば立場上リンドバウム卿に会わねばなりませんでした。本意でないとわかっているのに、あなたたちは昔からそうやった互いに意地を張って――」


「だから俺はホルベアじゃない。別人だ!」


「……ほほほ。あまりギルベールを笑わせないでください。ああ、それとこの檻は銀月とか呼ばれている魔獣を捕らえるために特注であつらえた鋼鉄製のもの。無事であるのに、不人情にも連絡を怠ったホルベアさまには少々反省していただくのにちょうどよいかと」


「だから――聞けよ、人の話を」


「その顔、その声、その背丈。おまけに顔の傷までまったく同じの人間がこの地上に幾人もいるはずはないでしょう。それにしても、ホルベアさまは剣の腕はからっきしだったはずなのに、わずか一年会わぬうちにずいぶんと上達されたようで。


 これもアリエルさまに対する愛の力といったところでしょうか。あの傭兵たちを幾人も倒した手並みは素晴らしい。これならば、あなたを軟弱といっていたラランド公爵もあなたをお認めにならざるを得ないでしょう」


(駄目だなこいつらは。まったくこちらの話を聞こうともしない)


 考えてみれば騎士たちがやって来たことによって村から危難は去ったのだ。


 そう焦らずとも、リュチカとロボが戻ってくれば、彼女たちが思い込んでいる人物と権左がまるで別人であることはすぐに判明するだろう。


 権左は鉄格子の中で膝を立てて座り込むと、今更ながら痛みはじめた身体のあちこちをそっと手で触れて確認した。見た目は血塗れで相当なものであるが、骨はやられていない。権左の特殊な体質であるのか、少々打撲傷のあとが腫れても時間さえ経てば自然治癒するだろう。


 視線を感じて顔を上げると目の前にはアリエルが小さな木箱を手にして立っていた。


 ギルベールは気を使ってか檻の錠をはずすと声が届かない程度の場所へと離れた。


 アリエルは腰をかがめて檻に入ると目の縁を真っ赤にしたまま木箱を開けて包帯や薬瓶を取り出して無言でそれらを調合し出した。


 彼女は権左を潤んだ瞳で見つめながらそっと手を伸ばして袖口に触れた。反射的に身体を引こうとすると、アリエルは叱られた子供のように泣きそうな顔で口元を歪めた。


 彼女は怪我の手当てをしてくれるというのだろうか。特に拒否する理由もないので押し黙ったままやりたいようにさせた。


 アリエルは甲斐甲斐しく狭い檻の中で動き回って権左のシャツを脱がせると血の滲んだ背中や治りかけた二〇三高地で負った傷跡を見て「ひっ」と息を呑んだ。


「……ずいぶんと、苦労をなされたのですね」

「おい。血で汚れるぞ」


 権左は背中にアリエルが触れる感触で狼狽した声を上げた。


「よいのです。この傷はあなたが勇敢に戦った勲章なのですから」


 髪のさらりとした感触と、アリエルが貝殻から取り出した軟膏を塗るたびに触れる指先のしなやかさに妙な声を上げそうになった。


(そういえば、この女。どこかで見たことがあると思ったら。戦場で見たあのロシア兵の)


 権左は塹壕で殴殺したロシア兵が首からかけていたペンダントに挟まっていた写真のことを思い出した。そもそも若くて白人の金髪女性に対する接点など権左が持ちようもない。


 そうだ。写真の女なのだ。

 だが同時にありえないことだ。


 ここは権左が住んでいた場所とはまるきり違うのである。奇妙な罪悪感が確かな輪郭を持ってどっしりと権左の腹の上に姿を現しはじめる。


「ホルベア。包帯がきつかったらいってくださいね」


 野暮の塊のような権左でもこの娘とホルベアという男が深い仲ではあるが、肉の関係を持っていなかったと断ずることができた。


 男女の深い関係になれば、いくら顔つきや声や背丈が似ていても身体を見れば少しは気づきそうなものである。


 特に権左は、背中の右肩甲骨の下あたりにかなり大きな黒子が幾つかゴマをばら撒いたように点を打っていた。相当に特徴的なのか、何度か枕をかわした娼婦ですら珍しいと騒ぎ立てたほどだった。


「ここからはどうしても出してももらえねェのか」


「すみません。でも、今のあなたは普通ではないのです。ね。聞き分けのないことをいわないで」


「俺は早くリュチカさんやロボ爺が無事

 かどうか確かめたいんだよ」


「リュチカ――?」


 権左が怒鳴ると今まで慈母のようにやさしい瞳をしていたアリエルは鬼女かと思わんばかりの形相で顔を醜く歪めた。


「誰です、それ」


 一転してアリエルは感情を消した顔で訊ねてきた。


「いや、俺が世話になった家のお嬢さんだ」


 なんのうしろめたいこともないが気圧されるように答えると、アリエルは途端にイラついた仕草で自分の肩にかかった金色の髪を鬱陶しそうに払いはじめた。


「私のことは忘れたふりをして……いいです。はい、いいですよ。殿方にはそういうコトが必要だと聞いてはおりました。ああ、もおっ。私は狭量な女ではありませんから、ちょっとした火遊び程度は多めに見るつもりですっ。


 結論からいいますが、やはりあなたには記憶の混乱が見られるようですので、私が直接その方たちと後腐れのないように話をつけてきますので――ええ。これも将来あなたの妻になる私の役目ですので、致し方ありませんが。覚えておいてください。私はこのことを許したわけではありませんからね」


 それだけいうとアリエルは憤然とした手つきで治療用具を木箱に収めると、追いすがろうとした権左の顔面に包帯のあまりを投げつけ、檻の錠を再び下ろしてその場を去っていった。






 アリエルは急ぎ足で鋼鉄製の檻から離れると、しばらく進んだのち耐えきれなくなって後方を振り返った。


 彼に再会できたことは望外のよろこびであったが、同時にこらえようのない嫉妬の炎が胸のうちに燃え広がっていた。


(わけのわからぬことをいうのは仕方がないでしょう。ホルベアは魔獣討伐の際、あれほどの崖から滑落したのです。この数ヶ月音沙汰がなかったのは完全に記憶を失ったせい。そういった事例を土地の古老から聞いたことがあります。でも、私の前であんなふうにほかの女の名を口にして、あのような顔を見せるなんて――酷すぎます)


 アリエルが知っているホルベア――実際は権左であるが――は、幼少の頃からのつき合いである。彼が断じて人の心を踏みにじるような真似をする人間ではないと知っている。


 正常な男である以上、記憶を失った彼が面倒を見てくれた土地の娘とそういう関係になってしまってもある意味しかたがない。


 ああまで傷ついてこの戦争難民の村を救うため手練れの傭兵たちと戦って見せたのも、リュチカという女のためというのであればそれは騎士道に則ったもので称賛を送って当然の行為であったがひとりの女としてアリエルは手放しで褒められるものではなかった。


 黒鷲傭兵団の名はちょくちょくと聞いている。各地でそれなりに苦情が出る程度のものであり、また街の冒険者ギルドの報告ではそれなりに領地の魔獣討伐に貢献しているということだった。


 領主の娘であるアリエルとしてはムキなって叩き潰すほどの悪ではなく、ほどほどに使えば価値のほうが大きいと見て放っておいたのであるが、直接この目で見てしまった以上見過ごすことはできなかった。


 鼻の利く傭兵たちのことだ。アリエルたち騎士団を出し抜いて銀月を狩り莫大な褒賞金をせしめるつもりであったのだろうが、それもこれまでだ。


 すでに騎士たちに命じて領地の街道という街道は抑えた。報告によれば傭兵の一団はバラバラになって逃げたということであったが、そちらはそれほど心配していなかった。


 問題はリューペック村を襲った銀月のほうだった。


「それとリュチカという娘も」


 公的な魔獣討伐に思いを巡らせた思えば、いつしかアリエルの脳裏には見たことのない、彼の心を奪っている女の幻影が亡霊のように憑りつき離れない。


 当然深い仲なのだろう。彼女を目の前にして自分が感情を激さずにいられるかどうか不安だった。


 あまり好きではないが、身分をチラつかせ金でことを収めるしかないだろう。そう思うと、まだ見たことのないリュチカなる娘が屈辱に満ちた表情で顔を歪めるさまが脳裏に浮かび、知らず黒い愉悦のような胸に浮かび上がり、アリエルは酷く強い羞恥を覚えた。


「アリエルさま。リュチカという娘とこの村の纏め役であったロボという老人の所在、まだ見つかりません」


「そうですか。引き続き捜索を続けてください。おそらく災禍をさけて付近に潜んでいるに違いありません。時間が立てば村が安全であることも伝わるでしょうし――」


 捜索を命じていた騎士から立ったまま報告を受けている最中、それは起きた。


 すでにあたりは薄暗闇になっている。アリエルがガチャガチャと鎧をこすり合わせる異様な金属音にエルフ特有の長耳をぴくつかせると、村の山裾を散策させていた雑兵たちが青息吐息で駆け寄って来た。


 彼らは無手のまま引き攣った表情で背後を振り返りつつ怯えた声を上げた。


「クマだ。バケモノグマが……みんなを喰っちまった!」


「銀月が、麓にまで出たというのですか」


 しばらくすると騎乗したまま鋼鉄の鎧を血塗れにした騎士が、十数人の歩兵に纏わりつかれるようにして必死の形相で逃げ帰って来た。


「グランドル。いったいなにがあったというのです」


 アリエルにグランドルと呼ばれた中年の騎士は落馬同然で地面に転げ落ちると、ひゅーひゅーと細く息も絶え絶えに薄い唇を動かす。


 アリエルが慌てて寄って抱え起こすとグランドルの胸元は甲冑がべこりとへこんで喉元は拳が入るような穴がぽっかりと空き、赤黒い血がとめどなく流れ出ていた。


 グランドルはどう見ても言語を操れる状態ではない。喉が完全に欠損しているし、かすかな気道から自発呼吸を行っていることすら奇跡なのだ。アリエルがわずかにとまどっていると、槍を抱えた兵のひとりがかなり明瞭に事態を説明し出した。


 アリエルに命じられたリュチカとロボを探すため索敵の最中に銀月の襲撃を受けたのは間違いない。


 指揮官と二十名ほどの部隊は突如として現れた銀月の姿に整然と立ち向かったが「とても人間の力でどうこうできるものではない……」レベルであったらしい。


「捜索の結果リュチカなる人物は発見できませんでしたが、サロスウルフ族の老人だけは銀月との戦闘後近くの藪で見つけ出しました」


「そうですか。その後老人に怪我はないでしょうね」

「それが……実は彼の孫であるリュチカなる娘が黒鷲傭兵団に攫われたらしく……あの足でどうやって抵抗したかはわかりませんが、相当な重症です」


「すぐさま街に搬送して専門の医者に見せなさい。私たちが乗ってきた馬はいくらでもいますから。それと傷ついた騎士と兵はこの村に待機させて。残りはすべて第一種軍装を整えたのち、私について来るのです」


 アリエルは兵に指示を下すと弄んでいた自分の髪を指先で払い、武器兵糧の運んである村の中央広場に向かって歩き出した。


「姫、どちらへ」兵のひとりが背負った丸盾を鳴らしながら問うた。


「決まっています。山狩りです。傭兵団を捕らえて、銀月を討滅します」


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