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01「異郷の山河」

 はじめに雨竜権左が目にしたものは凍れる銀のような冷たい雪の塊であった。


 ――生きているのか、俺は。


 薄い膜が張ったようである不確かな網膜をゆっくりと動かす。


 冷たい雪の上に仰向けになっているのだ。


 身を動かそうとすると、ぎじぎじと骨の髄まで染みとおるような断続的な痛みが襲って来た。


 あたりまえだ。

 至近距離であの爆破をモロに喰らったのだ。


 とすれば、今いるここはあの世というものであろうか。


 権左はもの心つく前からマタギである信心深い祖父について山々を回って育ったが、たいして仏の教えというものを信じてはいなかった。


 そもそもがマタギの山における作法ですら懐疑的であったのだ。山中に住み、明治維新後の文明開化の恩恵を受けることなく生きてきたにしては、酷く合理的な精神の持ち主であった。


 が、それはあくまで一般的な古来の作法を守るマタギたちと比べて、程度であった。


(どこだよ、ここは)


 二〇三高地の頂上付近で戦っていたのだ。


 東北出身の大日本帝国陸軍二等卒である権左は祖国のためアジアに不凍港を狙って南下してきたロシア軍と血で血を洗う戦いを、今しがたまで行っていたはずだった。


 最後の記憶を思い出す――。


 権左は上官をかばってロシア兵が投じようとしていた手榴弾の爆発に巻き込まれていた。


「ここが世にいう極楽か……にしては随分と寒い」


 激烈に身体中を刺す痛みをこらえながらなんとか身体を起こすと、小銃を杖にしてどうにか立ち上がった。


「どいうことだよ、これは」


 痛みと疲労でともすればくらみそうになる視線をぐるりとあたりに巡らせた。


 周囲は禿山のような丘であった二〇三高地とは似ても似つかぬブナ林が広がっていた。


 刺すような寒気はあるが木々の中なので開けていた激戦の丘よりかはまだマシだった。


 喉が渇く。


 長時間寝転がっていたせいか背中はほとんど感覚がなくなっていた。


 搬送中、なんらかの手違いで捨てられたのだろうか――。


 確かに自分は全身傷だらけであるが、その可能性は低いだろう。


 幾度か戦闘中に戦友の遺骸を目にしたが自分の身体は仏と見紛うほど傷つきはしていないはずだ。


「だよな。死体にゃ見えんだろ」


 権左はマタギの習性で周囲に広がっている山塊の姿を目にし、奇妙な食い違いにすぐさま気づいた。


 行軍中、頭の中に叩き込んでいた大陸の山々とあきらかに情景が違うのだ。


 山で狩りをするマタギというものは、現代の登山家などと違って第一に地図などは必要としない。


 遠景に見える山々の形を脳髄に染み込ませ、地形という地形を身体の中に叩き込む。


 その空間把握能力や方向感覚は常人とは隔絶した超人的な力があった。


 山というものを身体で染み込ませているマタギは下手に山岳地図などを読むと、その差異でかえって道に迷ってしまうほどだ。


 だが、軍から落伍したというのならば自力で兵営に戻る努力をしなければならない。


 ここは本土と違って得体のしれない匪賊が跋扈する支那(中国)大陸なのだ。


 地元の人間からしてみれば、軍団からはぐれた権左などは格好の獲物であろう。


 大陸には土匪がやぶ蚊のように猖獗を極め、単独では危険極まりない。


 落ち武者狩りにあって身ぐるみ剥がれても当然だ。

 せっかく拾った命なのだ。

 わざわざ捨てるには惜しすぎた。


 長らく転がっていたせいか、痛みはあるが歩けないほどではない。


「う――がっ」


 権左は左太腿に喰いついている砲弾の破片を指先で触りながら、敢えて抜かずに歩き出した。


 山野の中で下手に破片を引き抜いて大出血でもすれば、今度こそ本当に命が保てなくなる。


 権左の軍衣はズタズタに傷つき粘った泥と雪で薄汚れている。


 これほど純白の雪景色の中では異様に目立つであろう。


 死を前提にした戦争の中ではまるで気にならなかったが、現地住民に発見される恐れのある今は舌打ちしたくなるほどの負担だ。


 ザクザクと膝まで沈む雪を踏んで、一歩ずつ移動する。


 意識がハッキリしてゆくにつれ痛みは徐々にくっきりとした輪郭を見せ全身を苛みはじめた。


「チックショウ……こんなとこで死んでたまっか」


 女の悲鳴が聞こえたのは本当に偶然だった。


 咄嗟に飛び出すかどうか逡巡したが、身体は勝手に動いていた。


 まとわりつく雪を蹴散らかして木々を抜け出ると、距離にして三〇メートルほど先に、ひとりの女とそれに覆いかぶさるようにしている奇怪なバケモノを目にし、身体が硬直した。


 女を襲っていたのは巨大な植物であった。


 二枚貝のような巨大な葉をゆっくりと開閉させながらずりずりと前進している。


 茎があって根があれば、植物の一種とみなされて当然だが、目の前で女を襲っている怪物は権左が今までの人生で出会ったことのない、異物であった。


「クワッキか……?」


 マタギの山言葉でクワッキは妖怪を意味する。


 権左は生まれてはじめて見た歩行する植物にぶるりと身体を震わせた。


 だがそうこうしているうちにも、奇妙な植物はその場に座り込んで動けないでいる女を巨大な葉で左右から押さえ込もうと首を差し伸ばしつつあった。


 歩くハエトリグサに似た食虫植物めいた怪物は確かな意思で人を襲おうとしているのだ。


 瞬間、権左の冷え切った身体に熱い血が沸々と湧き上がった。


 それは狩猟者の本能とでもいえるような瞬間的な反応だった。


 すばやく膝立ちになると、挿弾子を使って弾込めを行い三十年式歩兵銃を構えて前進する怪物の葉に狙いを定めた。


 この距離ならば目をつむっていてもはずさない。

 絶対的な自信があった。


 まず一発。


 狙い違わず撃ち出された弾丸が怪物の巨大な葉へ見事に命中した。


 山野に響き渡った銃声とともに怪物は鋭い悲鳴を上げて、後方にそっくり返った。


 遠景に倒れた衝撃で白雪が霧のように舞い上がった。


 ――いける。この銃はあの怪物に有効だ。


 ボルトハンドルを引く。


 薬莢を弾き出してすぐさま銃口を怪物に据えつけた。


 権左が無我夢中で二発、三発と弾丸を送ると二枚葉の怪物はどさりと横倒しになって、数度震え、動きを完全に停止した。


 長らく銃を使っていると、撃ち出された弾にも確かな手ごたえが残るものだ。


 深く息を吐き出して、肩から力を抜いた。


「やった、か」


 気を張っていた間はよかったのだが、ついに最後の精魂を使い果たしてしまった。


 権左は手にした銃を持ったままうつ伏せに倒れた。


 怪物の向こう側から、意外に素早い足取りで女が駆け寄って来る音が聞こえた。


 見たこともない民族衣装を着ている。


 どちらにせよ、もはや権左にそれらを思考する力は残っていなかった。


 ぷっつりと途切れる意識の最後に垣間見たものは、灰がかった銀色の髪と驚くほど大きな目をした女の雪のような白さだった。






 ぱちぱちと火の粉が爆ぜる音を耳にしゆっくりと目蓋を開ける。目の前にいたのは巨岩のように角ばった顔を近づかせていたシワだらけの顔だった。


「おう。ようやく気づいたか。まずは重畳」


 灰色の髪に立派な口髭は日本人にないものだ。窪んだ眼窩に突き出した鷲鼻。


 ニッと剥き出しになった白い歯が妙にくっきり闇の中に浮かんでいる。


 巨躯の老爺だった。


 分厚い胸板に広すぎる肩はヒグマを思わせる強靭さだ。


 権左はその巨大さに度肝を抜かれ唇を震わせた。


「こ、こは」


 喉が渇き切っていたのか舌がもつれた。


 自分は板を張った床に敷いた毛布の上で寝ころんでいた。すぐそばには、ロシア人が好んで使うと聞いていた西洋式の暖炉らしきものがあり、くべられた薪が赤々と燃えていた。


「ずっ」


 右手を動かすと鈍い痛みが走って意識が明白になった。それは傷が治りかけているという前兆であることを権左は経験則で知っていた。


「待て。身体を動かすな。十日ぶりに目を覚ましたというに、若者は元気がよいのう」


 ロシア人の老爺が巨大な手のひらを開いて制止している。


 倒れた自分を救助したのは紛うことなき白人ならばそう判断するしかほかはない。


「どうやら助けられたようだな。感謝する」


 引き攣るような痛みをこらえて上体を起こすと、デカい手のひらで簡単に転がされた。


「なにをするんだ」


「無理に起きることはない。リュチカも戻っておらぬし、当分の間は養生するがよい」


 無視して起きる。

 転がされる。

 起きる。

 転がされる。


「はっはっ。なんだか子をあやしていた昔を思い出すわ」


「ガキ扱いするなよ。それよりもだな、このデカい手を放してくれないか?」


「うーん。ダメだな」

「なんでだよ」

「儂がリュチカに怒られるわ」


 巨躯の老人は長煙管を取り出すと美味そうにぷかりぷかりとやり出した。


 よほどタバコが好きなのだろうか、紫煙をくゆらせ目を細めているその姿はどこか大型犬を思わせた。


「……ずいぶんと日本語が上手いんだな」


 露探――すなわち専門に日本軍の情報を探るロシアの斥候スパイであるならば、日本語に通じているのもうなずける。


 権左は山深い東北の出身だが元武士であり江戸(東京)に遊学したこともあったという父に通常語に近い関東の話し言葉を習っていたので巨躯の老爺の日本語の上手さに舌を巻いた。


「ニホンゴ? なにを申しておるのかはわからんが、儂が使っているのは汎用ロムレス語。お主たちニンゲンが使う主要言語じゃろうが。ん……それともあれか。儂らもこの地方に移ってきてそれほど日が経っておらぬゆえ、なにか微妙におかしなところがあるのかの?」


「おかしなところって……まあ、いろいろとだな」


 それよりもなによりも権左には気になっていたことがある。


 老爺の頭からにょっきり生えている奇妙な耳だ。


 権左もかつて猟のため犬を飼っていたが、彼の頭上から生えているそれは秋田犬のものと酷似していた。


(なにか、そういった習慣で捕らえた山犬の耳をくっつけているのか?)


 土地の風習というものは余所者からすればとかく奇異に思われることが多いものだ。


 マタギである権左もその風習やしきたりに多く縛られているので、一様に好奇の視線を向けるのは不作法だ。


 命の恩人でもある彼にそのようなことをするのは、たとえ敵国の人間であるとはいえできるものではなかった。


「わ。動いた」

「ん? なにをいっておるのじゃ」


 爺さんの犬耳がぴくぴくと確かに動いた。目の錯覚かなと思い、大きくまばたきをするが、依然とタバコをくゆらす老爺の犬耳はひくひく蠢いている。


 徐々に目が薄闇に慣れてわかったのだが、目の前に座っている老爺はどう見ても六十を過ぎているようだが堂々たる体躯だ。


 厚い毛皮を羽織っているが、袖口を盛り上げている筋肉は鍛えに鍛え抜いたものであろう。灰色の髪をうしろに撫でつけている。こうしてみると一種の風格すら漂っていた。


(その奇妙な犬耳を除けばな)


 眼の前の人物は人か魔かと権左が激しく懊悩していることを知る由もなく、老爺は片眉を吊り上げ人懐こそうに白い歯を見せた。


「とにかく寝ておれ。それに感謝するのは、こちらのほう。主は命の恩人よ。リュチカをアレから助けてくれたことを差し引いても滅多にない客人じゃ。傷が癒えるまでゆるりとされよ。客人をもてなすのはサロスウルフにとっては当然の行為じゃからな」


「命の恩人?」


 サロスウルフという舶来言葉も尋常小学校も通ったことのない権左にはまるで理解できなかった。


「ジゴクソウに襲われていたところを間一髪で救ってもらったと。リュチカは泣いてよろこんでおった。ありゃあ夏場にすべて駆除しておいたはずじゃがまだ残っておったとは計算違いじゃったわ。とりあえずは再度見回りをやっておいたから今度こそは大丈夫じゃ。おっとと、そんなことよりも。見知らぬ衣服じゃが。お主はどこぞの軍人だろう。ああ、そう身体を固くせんでもいい。深くは聞かんよ。傷を見ればわかる。お主が勇敢な戦士であることはな」


 ジゴクソウとは娘を襲っていた怪物の名である。どうやら老爺がいうにはこのあたりでは別段珍しくもない生物らしく、権左は二重の意味で度肝を抜かれた。


「そのリュチカさんってのは」

「儂の孫娘よ」


 ――あのときの目の大きな娘か。


 意識を失う瞬間、駆け寄って来た若い娘のことを思い出し、権左は柄にもなく胸が熱くなった。


 生まれてこの方、数人の娼婦を除けば堅気の娘と触れあったことはなかったからだ。


 誤魔化すように咳払いをすると、続けた。


「そういえば助けてもらっておいてまだ名前も名乗ってなかったな。帝国陸軍歩兵第二十八聯隊の雨竜権左衛門だ」


 二十五歳。

 いくさをするためにはもってこいの年齢だった。


 権左は寝転がったまま右拳を握り締めた。目の前の老爺がいつなんどき考えを変えて襲いかかって来るかと、反射的に身構えたのだ。


 だが、案に相違して老爺は困ったように首をかしげるばかりだった。


「とりあえずお主のいうことはよくわからんが、名乗られれば名乗り返さんとな。儂はこの村に住むロボ・ガートランドじゃ。なにもないところじゃが、ま、治るまではゆっくりしてゆけ」


「……本当にとぼけているわけではないんだな? アンタはロシア兵でもなんでもないのか? だったら旅順(ルーシュン)はどうなったのか教えてくれないか? 二〇三高地はどうなったか知っているか?」


「待て待て待て。落ち着け、若者よ。ゴンザよ。それ以上慌てると本当に傷が開いてしまう。リュチカが悲しむぞ」


「あ――っ! お気づきになられたんですね!」


 ぎいと扉が軋む音とともにひとりの少女が部屋の中に飛び込んで来た。少女は入り口で分厚く頑丈そうな靴をとんとん鳴らして雪を落とすとすべるような速さで権左の横に移動し、膝を折って座った。


 ふわりと甘ったるい香りが鼻のあたりに漂って権左は心が落ち着かなくなった。


「本当によかった。もう、二度と目を覚まさないかと思ったんですよ」


「いや、あの」


 灰がかった銀色の髪をした少女は権左の手を取ると、くふんと鼻声を鳴らし座ったまましっぽを左右に振って床の上を掃除している。もの凄い勢いだった。


 ――って、しっぽがある。


「あ、そういえばはじめましてでしたね。わたしはリュチカです。危ないところをお助けいただき、この御恩は生涯忘れることはありません。どのようなことでもお申しつけください、ね。わたしはあなたさまのいうことならば、いかようにも従います」


「ちょ、ひ――リュチカ?」


 どのようなことでも、の部分でロボが長煙管を落として狼狽した。


 無理もない。


 いきなり大事な孫娘が不穏当極まりないセリフを放ったからだ。


 そして権左が一番気になったのは、この娘もロボと同様に頭上にぴっこりと二つの犬耳が生えており、尻からは獣のようにしっぽがふさふさと動いているのだ。


 さすがに作りものかどうか確かめねば気がすまない。


 権左はそっと手を伸ばして動くリュチカのしっぽをむんずと掴む。


「んみゃっ!」


 リュチカは口を大きく開くと切なそうな顔で吠えて、それから頬を真っ赤にするとサッとうつむいた。


「あれ――本物?」


 ふわっふわしている上に、こうして強く握ると中に芯らしきものがある。


 作りものなんかではない。歴とした本物だ。


 さわさわと触った手の感触は確かな犬のしっぽと同じ感触だった。瞬間、ロボの手が雷光のように頭上から走って長煙管で権左の頭を鋭く打ち据えた。


「小僧、無礼者ッ!」

「んがっ」


 痛烈な打撃を喰らって目の前に星が瞬いた。


「あ――あ! なにをやっているのですかっ」


 泣き叫ぶようなリュチカの悲鳴を聞きつつ権左の意識は再びほの暗い水底へとゆっくり落ちていった。



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