魔法はやっぱりタダじゃない。剣で未来は切り開けるか?
こんにちわ。小説家になろう初投稿の豊福です。お見知りおきを。当作品はよくある地球と異世界を行ったり来たりして陰謀渦巻く世界を救う系の作品ですが、えーんかいなというぐらい魔法と環境問題に突っ込みつつ、えーんかいなというぐらい禅と武術のリアルにも突っ込んでいます。ライバルは勝手ながらも『拳児』と『セイバーキャッツ』と『リーンの翼』。剣と弓と魔法、日本古流武術や禅や内家の世界にどっぷりとはまりたい方は後編も合わせて是非どうぞ。
「六枚の翼」
柏木咲さんに捧げる。
剣道インターハイ県予選準々決勝。
両者の全身を滝のように流れ落ちる汗。蒸せる熱気。
残り時間も半ばを過ぎて行く。
風巻一矢は頭をヒートさせ視野を狭めんとする焦りを半ば無理やり腹の底に捕まえた。敵の前にまず己に打ち克たなければ勝利は覚束無い。古流剣術、風巻光水流の基本だ。
どうせなら『己を捨て敵と調べを同じくすれば剣自ずと隙を突く』境地まで行きたいところだが、今の一矢の実力ではそこまでは無理だった。真似事をしても相手のフェイントに引っかかるのがオチであろう。
ならば攻めるしか無い。
半歩踏み込み強引に小手。隙ができる。相手は当然小手で返す。そこまでは織り込み済み。右足を浮かして上段に躱し、もう半歩踏み込み必殺の面を放つ。
ガリリッ。竹刀は寸前で首を傾げて躱した面の側面を擦ってゆく。
やはりこいつはやる。
だが感心する暇など無い。攻め手は緩めない。体ごとぶつかって鍔迫り合い。押して離れ際に胴を放つ。が、肘に防がれ間合いを取られた。
睨み合い、動きを止める両者。
県立武道館の観客たちのボルテージも最高潮に高まった。
一矢は深く息を吸いながら八双に構える。
「「「――?――」」」
観客も相手選手も一瞬呆気にとられた。
その動揺を一矢は見過ごさない。
「エイヤア!」裂帛の気合いにて一歩踏み出し肩口から袈裟懸け。一瞬の遅滞なく流水のごとく滑らかに切り返して逆袈裟。見事な太刀筋であった。
剣道の一本に袈裟懸けと逆袈裟が有れば、の話だが。
「あれ?」
一矢はふと我に返った。
気付けば相手選手、堂島の面が迫る。一矢は寸での所で躱したが、その後主導権を取り戻すことは無かった。
「「あのバカ……」」試合場の脇や観客席で一矢を応援していた者のうち幾人かは、顔を覆って呻きを上げる。
結局お互い一本は無く時間切れとなった。
一矢はふと上を見上げた。何だかやたらと照明が目に沁みる。
旗判定は赤二本、白一本。
風巻一矢の高校最後のインターハイへの挑戦はこうして終わりを告げた。
遠くて近い異世界。
カロは黙って畑を見つめていた。
苗はどれも霜にやられ萎びている。呪い女がいくら呪文を施しても無駄だった。自分がどれほど落胆した顔をしているのか、カロは傍らで心配げにこちらを見上げている痩せこけた飼い犬のチロのすすり泣くような鳴き声で気付いた。
冷害は今年に始まった事ではない。カロが生まれる前から収穫は減り続けている。霜一つが問題なのでは無く、寒さで土自体が痩せ衰えているのだ。いくら肥や魚粉を撒いても駄目だった。すでに見切りをつけて村を去った者も何人かいる。
「カロ」母親のベラが背後から声をかけた。「村長さんが呼んでるよ」
「……今行く」
村長の所では他の村人たちと北から来た羊飼いたちが待っていた。羊飼いたちは言った。どうかこの村を自分たちに売って欲しいと。値は農家一戸につき銀貨六枚。
「たった六枚か……」カロは六枚の銀貨を握り締め、涙を流した。
羊飼いたちもこの冷害で北の牧草地を失っているのだ。この銀貨も身を削るようにして出してくれたものだとは分かってはいる。だが現実問題としてたった六枚の銀貨でこれから先どうやって生きて行けばいいのか。それに自分たち代々の血と汗と誇りが染みついた土地の価値が、自分自身の価値がこれだけしかないのかと思うととめどなく涙が溢れた。
「これからどうすっだよお?」「おらは従弟が漁師さやってるで、そこさ行ってみるだよ」
「小作か下男の口を探してみっか」「食えれば何でもいいさ」
村人たちが口々に今後の身の振り方を相談する中、ジッタと言う名の若者がうつむいていたカロの肩を叩いた。
「一緒にヴァーリ大王の所に出仕しないか?」
「……出仕? 剣でか?」カロの目にわずかに光が戻った。
「ああ、ヒエン爺に仕込んでもらった剣で、俺たち自身の価値を世に示すんだ」
昔騎士だったと言うヒエンは何の気まぐれか引退後この貧しい寒村に移り住み、子供たちに剣を教えた。中でもカロとジッタは筋がいいと特に可愛がられた。ヒエンの死後も二人は修練を重ね、粗食故痩せてはいたが、見事に筋張り鍛え上がった体をしている。
「俺たちの価値が銀貨六枚で終わる訳が無い!」
「……おお!」カロは顔を上げ、吠えた。
これまでカロは剣が好きだったが、剣で身を立てようとは思わなかった。上には上がいると分かっていたからだ。だが今は違う気持ちが湧き上がりつつあった。上がいたから何だ、追いつき追い抜けばいいではないか。剣に命を賭け、自分の価値は自分で勝ち取るのだ。
「おい、上を観ろ!」その時、羊飼いの一人が叫んだ。
果たしてそこには何の凶兆か吉兆か、一匹の黄金の龍がいた。大蛇のように長く、より巨大な体躯をうねらせ、六枚の大鷲のごとき翼を広げ、悠然と空にいた。
「天使様だ!」「それも天使長様だぞ!」「ありがたやありがたや」
「見ろ、俺達の門出を祝福してくれてるんだ」ジッタは熱に浮かされたように言った。
カロは思った。忘れない。今日のこの光景を忘れない。
たとえこの先どんな試練が有ろうとも。
「ローンガルト大陸ではまた一つ耕作放棄の村が出たそうです」
恰幅がよく顔立ちの濃い宮廷魔術師モートンは腹を揺すりながらそう報告した。この世界において通信魔術は広く普及しており、遠く離れた北の大陸の情報も求めればすぐに伝達される。
「ローンガルトだけではございませぬ。このミッデルシア大陸でも百年の間に平均気温がおよそ三度下がりました。作物や漁業の被害は皆様もご承知の通り。認めたくはありませんが、件の説は真かと」
細身で鷲鼻、眼光鋭い宰相のラスゴーはそう述べた。ちなみにこの男、並み居る政敵や他国の外交官相手の交渉に、常に理路整然と論破する姿と思慮深さから『賢哲』の異名を持っている。また、モートンはそれぞれの研究に没頭しがちな個性の強い魔術師たちをその押しの強さと根回しの良さで見事にまとめあげる姿から『剛腕』の異名を持っている。口さがない者は「二人とも優秀な御仁に違いないが、モートン殿が宰相でラスゴー殿が宮廷魔術師の方が見た目も性格もよりらしいのではないか」と陰で揶揄している。
「このまま行けば、神話の代にあったようにラ・フォーロ・ファ・ジーナ界全体が氷河期に陥る可能性もある。そう言う事ですかな?」
セントゥリウス元帥が顎髭をしごきながら訊ねた。自身の能力は凡庸だが、誰の献策が一番優れているか聞き分ける『良耳』を持っていると公言し、またその通りの成果を上げてきた男だ。『賢哲』『剛腕』『良耳』の三人で女王陛下の『三本の剣』と呼ばれている。
「うむ。自然の均衡とは微妙なもので、いつ破綻をきたしてもおかしくないとの事じゃ。詳しくはオットー卿とパランタン卿の報告書を読むがよい」
玉座のクレメンティア・クロースリア女王は悠然と答えた。やや歳をとってはいるものの、若いころはかくやと思わせる眉目の整った気風のいい美女だ。
「我は娘の地球界行きを正式に許可する。良いな」
「「「異存はありませぬ」」」
『三本の剣』は揃って答えた。
「失礼ながらもう一つお耳に入れたき事が」モートンが表情重く切り出した。
「良い。申せ」
「ヴァーリ大王の元にレティーグ殿が仕官していたとの事です」
一同の顔に強い緊張が走った。軍師『謀略』のレティーグ。かつて女王陛下の『剣』は三本ではなく四本であった。その欠けた一本である。
剣に行き詰れば弓を取り、弓に行き詰れば剣を振れ。
風巻光水流ではそう教えている。
だが今一矢が弓道場に足を運んだのは、行き詰ったから突破口を探して、とか言う以前に、不甲斐無い結果から逃げたい、当分剣を見たくも触りたくも無いと言う後ろ向きの考えからであった。
当然、集中できる訳も無く、皆中などできる筈も無い。十射中一本外した。普通の人から見れば大したものだが、道場主の孫としてみればやや不甲斐無い。微妙な結果だ。
「やりましたぞ。十射中八本的中でーす」隣ではオーストリアからの長期留学生が控えめに喜びの声を上げる。
「まあ、パランタンさんすごい」「始めて二年少しでそれはすごいな」「射が綺麗だよ。すっかりと日本人以上に日本人だな」
無邪気な声が耳に痛い。正座をした背中と腰も丸くなる。さっさと手から弽(弦を引くための革手袋)を外して的から矢を取りに行こう。
「これ、一矢」
ギクリ。いつから来ていたのだろう、白髪を総髪にした祖父、英明の声だった。
「いつも言っておるじゃろう。風巻光水流を学ぶ者、いついかなる時も腰と志を立てるべし、尻尾を丸めてはならぬと」
一矢は慌てて丸めていた腰を立てて背筋を正した。
「試合に負けてショックなのはわかるが、負けた事よりそれしきの事で練武の志を失う方が爺ちゃんは哀しいぞ。言ったじゃろう。気分でやったりやらなかったりではただの趣味じゃ。真の練武は日々の所作一つ一つから心がける事じゃと」
「そうは言っても力も気合も出ないんだよ~」一矢はため息をついた。「だって去年ベスト8まで行ったから、当然自分も周りも今年は全国出場だって思うだろ。それが今年もベスト8。ああ学校行きたくねー、絶対陰口言う奴がいるって。それがきっかけでまたガキの頃みたいにいじめが始まったりしたらどうしようって、ブルーにもなるぜ」
「馬鹿者」英明は斬って捨てた。「優勝したとて今度は妬みからお前がいじめられる事だって有り得るじゃろうが。大事なのは陰口を言われようといじめられようと屈しないお前の心がけ、意志じゃ。お前の価値は大会の結果で決まったのではない。色即是空、空即是色。今この時お前が決める事じゃ」
英明は元禅僧である。風巻光水流では剣も弓も禅の道と捉え、その道場主は代々一定の期間禅僧となることが義務付けられている。
「それでもどうしても迷いが晴れぬようなら、お前も禅寺へ行くか?」
「……いいよ。道場継ぎたいわけじゃないし。他に夢もあるから」
道場は従兄の大志が継ぐことになっている。一矢の夢はお玩具やプラモデルの設計技師になる事だった。
「ならばその夢を志し、己の価値とするがよい。剣の道も今日で終りではあるまい」
「そうだよな。爺ちゃん、有難う。とりあえず気分は後ろ向きじゃなくなった」
前向きで元気いっぱいとまではいかないが、自分には来年のインカレ(大学総体)も夢もある。その事がじわじわと鳩尾と肚の丹田に沁み入り、一矢を立ち直らせ始めていた。
しかし、
「オーウ、一矢さん、落ち込んでいますか?」
パランタンが口を突っ込んでくる。この顔良し、頭脳良し、運動神経も良しの一見完璧な一矢のクラスメイトの留学生には一つとんでもない悪癖があった。
「いや、今立ち直った所だからお前は何も言わなくていい!」
一矢のみならず道場中に戦慄が走る。
「オー。それでは立ち直ったお祝いに小粋なジョークを一つ。『隣のおうちに塀ができたってねー』『いえー、カッコイー』」
道場に氷河期が訪れた。
パパ、ママ、寒いよ。僕はこんな目に遭うほど悪いことをしたの?
「えー、今のギャグはおうちといえと、塀と囲いが掛けてありまして」
「説明すんな!」一矢は平手でパランタンの後頭部をはたいた。
その後一矢は矢を回収し、弓から弦を外してそれぞれ袋と弦巻にしまい、矢を矢筒にしまい、袴装束を着替えて八幡大菩薩と虚空蔵菩薩の掛け軸を拝み、帰り支度を整えると、洗面所で顔を洗い、スポーツタオルで顔を拭った。
その時鏡の中の、己の背後にそれはいた。
黄金の龍。
獅子の如く豊かな鬣、馬の如く長い鼻面、虎の如く猛き牙、兎の如く紅い眼、鹿の如く勇壮な角、大蛇の如くうねる巨体、大蜥蜴の如く筋張る四肢、猛禽の如く鋭い爪。
それは一矢の良く知る東洋の龍の特徴だったが、一つ決定的な違和感があった。
六枚の大鷲の如き翼。
やがてそれは口を開いた。
『わが占に現れしはお主か?』
一矢は後ろを振り返った。そこには何もいなかった。鏡に向き合っても何もいない。
「一矢、早くしないと、もう戸締りをするぞ」
「ご、御免。爺ちゃん。今出るぜ」一矢は慌てて出て行く。
「どうした? お化けにでもあったかのような顔をしておるぞ」英明は怪訝な顔で訊ねる。
「う~ん」一矢はさんざ迷いながらも「爺ちゃん、龍って見たことあるか?」と返した。
「龍? 夢でなら見たことがあるぞ。禅僧時代の同僚にはじかに見たという御仁もいたがな」英明は目を細めて「見たのか? なら吉兆かのう」と莞爾と笑った。
一矢はほっとした。嘘と決めつけぬ祖父の態度が有り難かった。
「ワタシは故郷で見たことありますよー」パランタンが口を突っ込んできた。
「お前の故郷はオーストリアだろ」
「そうそう、翼のあるドラゴンでーす」
「……」一矢は黙り込んだ。自分が見た龍?は一体何物なのか。
家に帰った一矢はPCでドラゴンを検索した。ほとんどのドラゴンはよくあるファンタジー物に出てくる翼と飾り鰭の生えた大蜥蜴の上半身と肉食恐竜の下半身を持った体だったが、『聖ジョージの龍退治』と言う一枚の絵に目が止まる。
それは黒い大蛇のような体に翼のついたドラゴンだった。
主に逆らう長虫。
キリスト教の伝承では存在したとされるドラゴンだ。
「おお、まことに魔法だ!」
黴臭い地下室。幾百もの書物が無造作に床から積み上げられ、テーブルの上には香やタロットや水晶球や動物の骨の細工物などと言うそれらしい小道具と酒瓶と杯が散乱する。テーブルを囲む男達は年季の入った、悪く言えば小汚いローブを身に纏っていた。
男達が使っているのは手から火花を飛ばすだけの、真の魔術師から見れば取るに足らない魔法だ。彼等の熱狂が、魔術師クロブにとっては滑稽だった。
「それくらいにしておきなさい。賢者の石は貴重なのです」実際、賢者の石が何なのかを知れば、この愚かな男達ですら眉をひそめるだろう。クロブの故郷、ラ・フォーロ・ファ・ジーナにおいても入手や所持には魔術師協会の許可がいる代物だ。こんな男達の遊びに使うには勿体なさ過ぎる。「ドラゴンさえ召喚できれば、魔法などいくらでも使えますよ」
「おお、ドラゴン! 七十二の堕天使たちを召喚すれば、この地球は救われ、我が『宵闇の月』は、『金色の夜明け』を凌ぎ、世界を支配できるのだ!」頭目たる男が陶然と語る。
男達は拳を振り上げ同調し、熱狂をますます深める。
クロブにとってはどうでもいい。重要なのは彼らが資産家で、クロブの余生を贅沢に過ごせる富を与えてくれる事。故郷の魔術師協会で木っ端役人をしていたころに思いもよらなかった話だ。ドラゴン、それも天使長に出会い、秘奥とされる転移魔法を伝授され、彼の人生は変わった。
天使長は傲慢にもこの地球界を救うと言う。
ただし何十億の犠牲を払って。
なぜクロブは選ばれたのか? 多分何も感じないからだ。何十億もの犠牲に。
ラ・フォーロ・ファ・ジーナという名の異世界がある。
ドラゴンが天使と呼ばれ、魔法が実在する、永らく地球人に秘されてきた世界。
長い歴史の中、彼の地から地球には幾度か魔術師が訪れ、彼らは天狗や妖精、魔女、魔法使いと呼ばれてきた。
だがおおよそ百五十年前、一人の魔術師が地球からとある技術を持ち帰った時、彼の世界のバランスは崩れた。彼の地と住人達は危機に陥ろうとしている。
斯くして二つの世界の人々を救うべく、その者たちは地球にやって来た。
「こーの、ばかざまきー!」
朝。
登校中の一矢を怒鳴りつけた白いセーラー服のセミロングの可愛い娘はクラスメイトで放送部員の斉藤美穂だった。
「よお、袈裟懸け」「よお、逆袈裟」「「わーい。反則負けだ」」
同じくクラスメイトの横幅の広いがっしりした体格の空手部員吉田隆と長身で温厚そうなバスケ部員景山浩二が茶々を入れる。一矢を加えて三年理数系Fクラスの仲良し四人組である。
「せっかく応援してやったのにあれは無いでしょ!」
「あー、聞こえない、聞こえない」
一矢は両手で耳を塞いだ。
「てゆーか、お前ら、『残念だったね』とか『元気出しなよ』とか、慰めや励ましの言葉は無いのか? 普通友達ならそーゆー事をまず言うもんだろ」
「ふっ。馬鹿な」と鼻で笑う景山。
「折角友が体を張って振って来たネタに食いつかないほど俺たちの友情が安っぽいものだと思ったか」とニヒルに笑う吉田。
「俺は安っぽくても至極まっとうな普通の友情を要求する」
「まあ、自業自得よね。ばかざまき」やれやれと首を振る斉藤。
「さりげなく『ばかざまき』とか変な呼び方定着させようとすんな!」
「「「ふっ、残念だったね。ばかざまき、ばかずや」」」三人綺麗なハーモニー。
「そんな『残念だったね』は、いらーん!」
まあ、これでもこいつらなりの気遣いなのだろう。他の奴らに言われたら嫌な事でも、こいつらがネタや冗談にしてくれたおかげで多少は気が紛れた。
「さあ、早く行こうぜ」「おう。今日は体育館で朝礼だからな」「全校生徒の前で『県予選ベスト8おめでとう』って校長先生に褒められるんだよねー」
……そんな気遣いと言う名の追い打ちに、ちょっと涙がこぼれそうだ。
教室の黒板には『去年も今年も全国行けなかった君。残念!』と書かれていた。
お蔭で、もはや涙も枯れ果てていた。
一矢は皮肉気に笑った。
「全国行けなかった君が笑ってんぜ」「調子乗ってたからだろ」「かっこわりー」
クラスでも横柄な横山達のグループがひそひそと囃し立てる。無視だ無視。
吉田も景山も斉藤も黙って学生カバンの中身を机に移している。このままさっさと体育館に行くのが賢明というものだ。
「すかしてやがんな」「どうせこの後すぐに恥かく羽目になるんだぜ」「いこーぜ」
行くならさっさと行け。一矢は心で毒突いた。
そんな横山の肘が、クラスでも大人しいグループの一人の後頭部にぶつかった。彼はしばらく黙っていたが、横山達が教室を出る辺りで、
「謝れよ。頭悪いな」
と呟いた。
運悪くそれは聞こえた。横山達が教室の中に戻ってきて哀れな少年、城崎を囲む。
「誰が頭悪いって」「後で学食裏に来いや、コラ」
一矢の足は勝手に動いていた。
「おい」
後ろから横山の肩を掴む。
「人には散々陰口言っておいて、自分が陰口言われたらみっともなくすぐ切れるってのは随分とまたカッコ悪い話だな。おい」
「そうよ。器小さいよ」斉藤も付いてきた。
「やーい、小さい小さい」景山が尻馬に乗る。
「それとも俺らも学食裏に呼び出してみるか?」吉田が獰猛な笑みを浮かべた。
「この場はこれで終わりにしようぜ。お前らもこの時期で内申に傷がつくような騒ぎを起こしたくないよな?」
一矢は努めてクールに言い切る。
沈黙の睨み合い。
やがて人の波は体育館へと流れ始めた。横山達も諦めて立ち去る。
「やっぱ陰口ってのは気分のいいモンじゃないぜ」一矢は城崎の肩を叩いた。
「そうとも」吉田が肯く。
「やっぱり悪口は正々堂々本人の前でおちょくり倒すのが醍醐味というもの」景山が妙に胸を張って言う。
「そりゃ僕だってお前等ぐらいに強かったらそうするよ」城崎は俯く。
「違うわ。こいつらだってそんなに羨ましがられるぐらい強かったら県予選や地区予選で負けてたりしないしね」斉藤は肘を張って腰に手を当てて説いた。「ハッタリよ」
「「うぐっ」」吉田と景山は胸に手を当てて唸った。
「ざまを見ろ」一矢は溜飲を下げた。「大事なのはそういう腕っ節の強さよりも、心の強さ、お前自身が気持ちのいい奴かどうかってとこじゃないかな。よかったら一度うちの禅道場に来てみろよ。爺ちゃんのアドバイスが聞けるぜ」
「フフッ、アハハハ」
快い鈴の音の鳴るような、それでいて芯の強さを感じさせる凛とした笑い声だった。
「話を聞いた限りでは腑抜けかと思っていたが、なかなか及第点ではないか」
今時見ないようなビン底眼鏡に三つ編みの黒髪。ここまで来ると胡散臭い。少なくともこのFクラスの者ではない。だがよく見るとその鼻筋と唇は鮮やかだ。すらっとしたしなやかな長身でスタイルもいい。
「ああっ、その声は姫様?」それまで事態を静観していたパランタンが慌ててその少女に駆け寄る。「何でこんな所に一人で? レイチェルとエリスロはどうしたんでーすか?」
「置いて来た」
「置いて来ないでくださーい! 護衛の意味が無いでーす!」
「だからそう言ったいろいろ煩わしい事が関わる前に自分の目でこのクラスと一矢を見たかったのだ。それぐらい察しろ」
「え? 俺? 何で?」一矢は間抜けに口を開けて尋ねる。
「そ・ん・な・事より、もう時間がありませんよ。早く体育館に行かないとでーす!」
パランタンは明らかに誤魔化しにかかっているようだったが確かに時間は無かった。
一同は慌てて体育館へと向かう。少女は体育館に入ると一同から離れて講壇側へ走り去って行く。一矢とパランタンもそれを追いかける。講壇で表彰されるからだ(パランタンもフェンシングでベスト8だったのだ)。
準備室に入ると少女は三つ編みのカツラと眼鏡を外した。何か短い文言を唱えると瞳とまつ毛と肌の色まで変わる。
宝石がいた。
いや、宝石のように美しい少女だった。
ルビーを細く糸にしたような艶やかな髪は背中まで伸びる襟足の長いシャギーヘア。顔立ちの各パーツは白人らしく鮮やかだが、日本人の血でも混ざっているのか、鋭過ぎず、くど過ぎず、絶妙に柔らかく甘くかつ完璧な整いを見せる。肌の色も白すぎず、それでいて内側から輝いているようだった。
長いルビーのまつ毛に彩られた、深く澄んだ南の海のように輝く青緑色の瞳がこちらを向いた時、一矢は魂を抜かれたかと思った。
「あー、いたいた。姫様。心配したんだぞ」
「まったく。給料分は働かないと、アタシ、パパに怒られるんだよね~。勝手にいなくならないでほしいんだわ~」
声に振り返ってみると、バレッタでまとめ上げた金髪に青い目の活発そうな少女と、そばかすのあるウェーブした肩までの茶髪と茶眼の気だるげな少女が一矢の後からやって来た。宝石のような少女ほどではないがこの二人もなかなかの美少女だ。
一矢は前に向き直ると「あ、あんたさっきから姫様って一体何者なんだ? それに今のは魔法か手品か一体なんなんだ?」と訊ねた。
「私はシエラだ。シエラザード・クロースリア。詳しい話はいつかな。すぐにすむ話でもない」シエラは悪戯めいた微笑みを浮かべた。「それにどうせお前とは長い付き合いになる予定だしな」
一矢は今度こそ魂を抜かれた。
一矢の意識はしばらく曖昧だった。パランタンと一緒に全校生徒の前でベスト8の成績を校長に表彰された時に、「よっ、進歩の無い奴!」と野次を飛ばされても、別段ショックを受ける事も無く、ピースサインをつくって「イエー」と返したくらいだ。体育館は笑いに包まれた(後で担任に怒られたが)。
一矢とパランタンが生徒の列の中に戻ると、オーストリアからの長期留学生の紹介が始まった。シエラとお付きの二人、レイチェル・リリエンタールとエリスロ・ラスゴーだ。桁外れの美少女三人の登場に全校生徒はざわめきたった。三人とも理系Fクラスだと知ると、文系クラスの男子たちはしきりに悔しがり舌打ちをし、Fクラスの男子たちは喜んだ。
朝礼が終わり、一時限目の授業も終わって休み時間になると、シエラ達の周りには当然人だかりができた。女性比率の低い理系クラス、男子たちが生肉を投げ込まれたアマゾン河のピラニアの群れ状態になるのは当然と言えたが、少数の女子たちも嫉妬よりも好奇心が勝ったか、次々とシエラ達に質問を投げ掛けた。
「ねえ、ねえ、なんでそんなに流暢に日本語喋れるの?」
「うむ。曾祖母が日本人だ。他の皆も曾祖母に習った」
「パランタンやレイチェルさんたちがシエラさんを姫様って呼ぶのは何で?」
「オーストリアの伯爵の家系に生まれたからだ。今ではただの金持ちなだけの庶民だがな。まあ、あだ名のようなものだ」
「そうでーす。そして私のフェモーク家は代々姫様の家に仕える道化師なのでーす」パランタンが歌劇めいた手振りで語った。
「ああ、それでいつも、つまらないギャグを言ってるのか」「あれは本当に酷いよな」
「オウ、心外な。では今度こそとっておきの面白いギャグを」
「やめんか!」レイチェルの光速の肘突っ込みがパランタンの後頭部を捉える。
「オウ、リリたん。合いの手が早すぎます。愛が痛いでーす」
「何が愛だこのボケ! それとリリたん言うなって前から言ってるだろ!」
「リリたんとパランタン。お揃いでいいじゃないですか。一緒に吉本に行きましょう」
「誰が行くか!」吉本が何か知らないが、反射でそう断言するレイチェルだった。
「前からこの二人こんなんなの?」
「そだよ~」エリスロが笑いながら答えた。
「理系クラスに来たって事は大学もそっち系?」
「うむ。そういう意味では留学先はドイツでもよかったのだが、曾祖母がぜひ日本の精神文化を学んで来いと言うものでな」
「うわー。シエラさんのひいおばあさんえらい。日本に来てくれてよかったー」
「特に禅と風巻光水流を学んで来いと言われた」シエラは一矢に目をやった。「と、言うわけでこれからよろしく頼むぞ、一矢」艶然と微笑む。
「あ、ああ。うん。喜んで」遠巻きに見ていた一矢はハトが豆鉄砲食らった顔で肯いた。
「「「なんだとお?」」」男子たちが一斉に一矢を睨む。
「「どうなるんだ、これ?」」吉田と景山は斉藤を見やった。
「知らないわ」斉藤は憮然としていた。
「爺ちゃん!」一矢は息せきを切らしながら学校からまっすぐ剣術道場にやって来て勢いよく戸を開いた。
「うむ。ちゃんと剣を握る気になったか。薬が効いたようじゃな」英明は不動、大威徳、愛染の三明王の名を記した掛け軸の飾られた道場の上座で正座したまま答えた。
「薬って何だよ、シエラさんたちの事、知ってたのか?」一矢は食って掛かる。
英明は平然とした顔で「知っておった。彼女の曾祖母はうちの先代と交流があったからな。その縁で頼まれた」と受け答え、木刀を携え立ち上がり、鋭い視線を一矢に向けた。「早く着替えて来い。今から師範代になるための奥伝を伝授する」
「師範代、俺が?」一矢は戸惑った。
「そうじゃ。お前がシエラさんたちに教える」英明は破顔した。「嬉しかろ?」
正直嬉しい。だが、「無様に負けたばかりの俺なんかでいいのかよ?」と躊躇する。
「儂は儂の目を信じる。お前に勝った奴がよほどの奴だっただけじゃろう」
確かに相手選手の堂島は準決勝、決勝ともに見事なストレート二本勝ちで優勝をした。一矢が最も堂島を苦しめた選手と言ってもいいだろう。
「それに何でもできる天才よりも、お前ぐらい破滅的に不器用で運動音痴だと言うのに、一つ一つを丁寧に噛み砕いて学んできた者のほうが、人を教えるにはよかろう」
それは思い出したくない、いじめられっ子の過去だった。
「褒められてる気がしないんだけどな」一矢は顔をしかめた。
カロとジッタは練兵場で男と睨み合っていた。
その男、百人長のナガラは人を小馬鹿にした顔で「ふざけるな、貴様らのようなどこから見ても百姓の小倅が、よりにもよって近衛騎士筆頭であったヒエン様の弟子なわけがあるまい」と吐き捨てた。
確かにカロとジッタの装いは百姓の野良着だ。余所着の服など持って無いのだからしょうがない。だがカロは怯む事無く「論より証拠。我々が何者かは剣で証するつもりです」と答え、腰の剣を叩いた。
「なんだとお」ナガラは目を剥いた。
「まあ待て、カロ。うっかりその剣で相手の腕でも切り飛ばしたらどうするつもりだ。後々面倒だぞ。幸いここは練兵場。木剣の一本でも貸してもらえ」ジッタは余裕すら浮かべている。故郷から王都までの道のり、二人が毎夜毎朝積んできた激しい鍛錬。ヒエンに教えられていた型や技の意味が体で分かり、自分のものになって行くという実感は、それほどまでの自信を彼らに与えていた。
ナガラや兵達の身のこなしで分かる。ここに自分達より強い奴はいない。
「後で吠え面を掻くなよ」ナガラは額に青筋を浮かべた。「誰でもいい、こいつらの相手をしてやれ! 骨の一本ぐらい折っても構わん!」
「十二人抜きだと?」ヴァーリ大王は肉の塊にかぶりつきながらそう訊ねた。波打つ黄金の髪と髭、鋭い眼光を持つ堂々の偉丈夫だ。粗野な振る舞いが却って威厳すら感じさせる。
「はい。残りの兵が怖気づいてしまい、それ以上は続かなかったそうです」伝令兵は畏まって答えた。
「ならばその二人、ヒエンの弟子と言うのは真であろう」ヴァーリは酒杯を呷る。
「良い頃合いですな、大王」脇に控えていた痩せぎすで黒髪の男が口を開いた。「盤は整いました。そろそろ駒を動かす時です」その長衣の左袖は空だった。
「よかろう。その二人、カロとジッタと言ったか、近衛に取り立ててやれ。この件は国中に広めよ。余はローンガルト大陸統一の兵を興す。兵に志願する者はその腕次第で高く取り立ててやるとな」ヴァーリは側近たちに命を下した。
「「「御意に」」」一同畏まって頷きを返す。
「レティーグよ。ミッデルシア大陸の件は滞りなく進めよ」
「はっ。我が『謀略』、すべては陛下の御為に」隻腕の男、『謀略』のレティーグは胸に右手を当てると深々と頭を下げた。
「こっちだよ、母さん」カロは手を振って犬のチロと馬のダカン、そしてそれらを連れてきた母親のベラを、屋敷と言うにはやや小さいがそれでも品のいいつくりの一軒家に迎え入れた。「召使いだって一人付く。これからは楽をさせてやれるよ」満面の笑みだ。
隣の家ではジッタとその家族が喜びの声を上げている。ジッタの妹の小さなシュリーははしゃぎまわって新しい家の中を探検していた。
だがベラはニコリともせず、「ねえ、カロ。この家の庭にじゃがいもを植えたら叱られないかねえ?」と思い詰めた顔でカロに懇願した。
「おいおい母さん。言ったろ、楽をさせてやるって。これからは働かなくてもいいんだよ」
「馬鹿をお言い。人間、働かないと腐っちまうもんだよ。じゃがいもが駄目なら街で機織りの仕事でも探すからね。止めても無駄だよ」ベラは気丈にカロを睨み付けた。
カロはあんぐりと口を開けて何かを言いかけたが止め、ぐしゃぐしゃと頭を掻くと観念した。「わかったよ。じゃがいもを植えていいかどうか聞いておく」
「ありがとう、カロ」ベラはやっと笑った。「あんたも一人前の男になったんだね」
それは南仏風の赤い屋根の白い瀟洒な大きな屋敷だった。
バブル崩壊の時に持ち主が破産して手放して以来、買い手がつかず放っておかれたものをシエラが購入したのだと言う。
シエラが門につけられたインターフォンに「今帰った」と告げると電動の鉄柵の扉がゆっくりと左右に開いてゆく。広々とした庭に一同が入って行くと、植込みの手入れをしていた二人のメイドがハサミを止め、「お帰りなさいませ、シエラ様」と頭を下げた。
「うむ、ご苦労」シエラは鷹揚に返すと、一矢と城崎に向かって「引っ越してきて、とりあえず家の中は片付けたのだが、庭はまだ手を付けたばかりでな。荒れた様を見せてしまい、申し訳ない」と謝罪した。
「いや、そんな事、気にするほどの事じゃねえし」一矢は恐縮した。
「シエラさんが謝るようなことじゃないよ。まだ片付かないうちに押し掛けた僕らの方がむしろ悪いんだよ」城崎は半ばパニックだ。
「異な事を言う。招いたのは私だぞ?」シエラが小首を傾げると赤いシャギーの髪が白いセーラー服にさらさらと流れる。一矢と城崎はうっとりと眺めてしまう。
「オウ、姫様。日本人はやたらに恐縮して謙遜するのが癖で流儀でデフォルトなのでーす。あまり御気になさらずに」留学生としては先輩のパランタンがフォローを入れた。
「それにしたって城崎君は緊張しすぎだぞ。もっと楽にしなって」レイチェルが気を回す。
「無理ないよ~。こんなゴージャスな美女三人に囲まれたらね~」エリスロはあえてからかった。少しだが笑いが起こり、城崎の肩の力が抜ける。
一矢が師範代の資格を得てすぐ次の日から、シエラ達への指南が開始されることになった。一日目の今日は禅と呼吸法から始める。
なぜ城崎もいるのかと言えば、さかのぼる事、放課後下校前の教室で、「「どうせなら城崎も」」と一矢とシエラは同時に城崎に声をかけた。思わずシエラと目を見合わせたものだが一矢はさっと目を逸らした。できるならシエラと見詰め合いたいのだが緊張してそんなことできない。ってな事があった。
「ぼ、僕も一緒に行っていいの?」多分一矢だけが声をかけたのなら、城崎のこの反応は無かっただろう。美女の力は偉大だ。
場所も風巻道場ではなく、シエラの屋敷の離れを稽古場に改修していた。
かくして一矢、城崎、シエラ、レイチェル、エリスロ、パランタンの六人はシエラ邸に集い、執事に紅茶を振る舞われているのである。
「私が子供のころから仕えてくれている爺だ」シエラは自慢げに紹介する。
「ヨゼフ・シュタインです。お見知りおきを」ロマンスグレーの洒脱な物腰の執事は軽く会釈する。その何気ない立ち姿は見る者が見れば恐ろしい。
「失礼、ヨゼフさん」一矢の背筋はピリピリしていた。「相当の腕に見えるんだけど」
「何故、私がシエラ様に教えないか、ですか?」ヨゼフは悪戯めいた微笑みを浮かべた。シエラの微笑みはきっとこのヨゼフから貰ったのだ。「基礎ならば昔お教えしましたが、私の強さは悲しきかな私一人の物。風巻光水流の様に、人に教え伝えるように理論立て体系化されたものではないのですよ」
「ああ」一矢はその言葉で腑に落ちた。「でなけりゃ俺の出番なんてある訳無いよな」
「一矢殿もなかなかの腕前とお見受けしましたが」
「急ごしらえもいいところだよ」英明の指導で新しい領域へ踏み込んだという自覚はある。だがその領域にいまだ自分の神経が追い付いているとはとても言えない。
「これからも伸びる余地がまだまだあるという事ですな。年寄りには羨ましい限りです」老獪である。物は言い様だ。
一矢と城崎が今まで味わったことの無い薫り高いスリランカのウバの紅茶を満喫した後は、床を張ったばかりの木の香りの立ちこめる稽古場へと場所を移した。
六人が輪になって座禅を始める。
「本来なら結跏趺坐(両足の甲を両太腿の上に乗せる座り方)をしてもらうところなんだけれど、無理なら胡坐でもいい。まず大事なのは尻尾を丸めないことなんだ」
肛門から皮一枚(三分の一ミリ)後ろを天から糸で吊り上げられている感覚を取り、腰を丸めない。尻の二つの坐骨を柱を立てるつもりで地に着け起こす。
同様にして胸骨の髄と頭頂(百会)の合せて三箇所を天から糸で釣り上げられる感覚を取り、余分な力みを抜き緩めて血の巡りを良くする。基本の姿勢の取り方だ。
風巻光水流は弓術の流派でもある。風巻光水流では弓を構える時、身体を動かさず安定させようとするあまり、腰と下腹を前に突き出す事を、してはならぬ事と教える。固めようとすると却って体は矢を放つときにぶれてしまうのだ。腰を僅か少し引き前に傾け仙骨を立てる(能ほどは反らさないが)事によって筋肉とその動きを流水と成し、淀みの無い射をよしとする。それは剣術の理でもある。
「そして瞼を三分の一だけ開いて、逆腹式呼吸をする。息を吸うときにお腹をひっこめ、吐く時に膨らます。現代スポーツとは逆だけど、これが禅の祖、達磨大師の教えなんだ」
現代スポーツから見れば迷信と思われるかもしれないが、呼吸と三つの丹田の関係は天地の法則で成り立っている。
天から水の恵み(雨)ある時、高き所は洗われて冷たく澄み、地表の人獣や草葉には潤いが与えられ、大地の中の種子や根には濁った養分が与えられる。しかる後、天から光の恵みのある時、高き所は明るく、地表には彩が溢れ、大地の中には温熱が与えられる。
肛門を締め、空気を鼻から吸う時、眉間の奥、脳の中心にある上丹田は洗われ、意識は冷静に明瞭となり、状況把握力や洞察力が高まる。息を止める時、心の底、鳩尾の奥、前から3対7にある中丹田に(言葉による)思考が頭から流れ落ちて沈(鎮)まり(思考や言葉が『腑に落ちる』)、言葉は彩に溢れ、草木がまっすぐ天に伸びるように意志が立つ。最後に肛門を緩め、空気が口から吐き出されるのは、臍の4センチ下、前から3対7にある臍下丹田に、重く濁った養分の気である感情が、良く耕した柔らかい土に浸みこむ様に沈(鎮)まって腹圧が高まり、余分な空気が上へと追い出されるからだ。そして臍下丹田は血流が良くなって温もり、生命(それ故ここに赤子は宿ると言う)と行動力が高まる。
たった一つのゆっくりした長い呼吸にこれだけのイメージを待たせる。
この呼吸を十回ほど繰り返し、最後に下から順にそれぞれの丹田を落ち着かせるための呼吸をする。臍下丹田に集中しながら一呼吸。中丹田に集中して一呼吸、上丹田に集中しながら一呼吸。以上を毎日朝夕に行う。
「コツは力じゃなくて、手放す事。言葉と思考を頭から手放して心の底に鎮める事、感情を心の底から手放して臍の下に鎮める事。だけど人間、ついつい意識も思考も感情も全部頭に詰め込んでごっちゃにしちまう。これじゃ頭でっかちで煩わしいと悩むわけだ」
意識と思考と感情をそれぞれ互いに自由にする。腹の底から喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。心の底で考え、言葉を出し、意志を決める。すると頭にある意識ははっきりとし、五体隅々に満ち届き、常に自分の有り様に気付ける。そして悟りとは気付きの積み重ねだ。「城崎、今更お説教で悪いが、お前は肘を頭にぶつけられて怒った。だけど相手が強いからと思考と打算で感情に蓋をした。だけど抑え込んだ分、その反動で結局感情に支配されて陰口を叩かずにはいられなかった。違うか?」
よくある煩悩の形だ。
「じゃあ、どうすれば良かったんだよ?」城崎は食って掛かった。
「まずは一呼吸して意識と思考と感情をそれぞれ自由にしてやること。やり方はもう言ったよな。そしたら後は、感情に素直に『痛いなー』って言えば良かったんだよ。できれば嫌味無く、明るくな。そうしたら案外向こうも『わりー、わりー』って言ってくれるもんだ。実際俺も昔はいじめられっ子だったんだけど、大体はこんなもんで上手くいったな」
基本は感情を素直に受け容れつつも感情に支配されない事である。
「大体か。全部ではないのだな?」シエラが問いかけの視線を向ける。
「それは子供のころ爺ちゃんに尋ねた事がある。全部に上手くいく方法は無いのかって。そしたら即座に『無いな』って言われた」
禅の言葉の一つに『凝り固まるな、凝り固まるなと言う言葉にすら凝り固まるな』とある。結局は洞察力を磨き、臨機応変に最善を成すしかないのだろう。
横山達が横柄でも周りにそれ程嫌われないのは、自分の感情に素直で分かり易いからだ。(下手に感情を押さえて我慢してやっていると言う嫌味が無い)。城崎たちが大人しいのに周りにそれ程好かれないのは大人しすぎて何を考えているのか分かり難いからだ(その代り大人にとっては扱いやすいという事なので、大人への受けはいいのだが)。
「感情で相手を傷つけるのは良くない。だけど自分が不快なのを伝えないのは相手にとっても良くないよな。お互いに見習うべきところはあるのさ」
自他の有り様がどれだけ相手に影響を与えているかに気付く。そして自分の思考と感情がどれほど状況をコントロールしているかを気付けばいい。
流れは自分で変えられる。
「他人を悪者に仕立て上げて陰口を言い、自分が不幸だと思う不自由な人生よりも、人生ってのは自分次第だと思える方が楽しいだろう? どうせ同じ喧嘩になるならいじけるより気持ち良く生きた方がすっきりするし、味方も増えるもんだぜ」
『頭の悪い奴』や『悪者』などと決めつけられれば相手だって腹も立つ。口にしないでもそれは何となく伝わる時がある。因果応報である。本当に人に優しく偏見なく相手を立てれるという事は、力で無く相手を変え、自分の世界を変えて広げられる事なのだ。
「そんなの中学生にだってわかるよ」城崎は不貞腐れた。
「じゃあできるのか?」
「………」目を逸らした。
「分かっているだけはただの知識。分かっていても身に付けず、人にケチ付ける為だけに使われちゃ知識が勿体ないよな。『いにしへの道を聞きても唱へても我が道にせずばかひなき』って薩摩島津武士の歌にもある。行いとして修めるから修行って言うんだぜ」
「自己責任の多くなる人生ですな」パランタンは片目を閉じてそう言った。
「多くなったんじゃなくて、元からあるのに気付くだけなんだ」
「うん。大変だけど、そっちの方が気持ちいいし、格好いいぞ」レイチェルは腕組みをしながら大仰に頷く。
「リリたんは昔から努力大好きだもんね~」エリスロは感嘆した。
「エリスロまでリリたん言うな!」拳を振り回して激しく抗議。
「リリたんと言うのも可愛くていいではないか」シエラがクスクスと笑う。「しかし一矢。洞察力と言うものは一朝一夕で磨かれるものでもあるまい。心で思考するのも中々に難しい。今すぐ簡単にできる事は無いのか?」
「それも昔爺ちゃんに尋ねた事があるな」一矢は苦笑した。「そしたら『最初は人の話をちゃんと聞くところから始めろ』って」
心の底をもって相手の言葉を聞き入れ、心の底から言葉を出して受け応える。相手の感情をしっかり腹の底で受け止める。そう心がけるだけで自分の精神が安定するのはもちろん、相手も自分の話をちゃんと聞いてくれていると思うものだ。受け身に見えるが立派な状況のコントロールである。これをしていると心で思考しやすくなるという利点もあるし、頭をクリアーにしている分、洞察力も徐々に磨かれる。
「じゃあ、今日の問答はここまで。後は稽古着に着替えて木刀を振るぞ」
「それなら僕はここで帰るよ。受験勉強があるしね」城崎は手を振って帰って行った。「じゃあまた明日、教室で」
一矢達は城崎を見送った。
しばししてシエラが物言いたげな目で一矢を見る。
「何?」一矢はどぎまぎする。
「いや、何でもない」シエラはそっぽを向いた。
ミッデルシア大陸には五つの国がある。中央にクロースリア。その東西にブラッドとダルファン。東端にヒクセン。西端にラスパニア。
約一世紀前、大陸に戦争があった。ヒクセンとラスパニアがそれぞれブラッドとダルファンに侵攻したのだ。クロースリアはブラッドとダルファンに援軍を送ろうとしたが、折悪くローンガルト大陸の海賊たちがクロースリア北方の拠点を襲撃した。
時のクロースリア王は愚行とも取れる全軍の三分割を断行。三分の一を海賊対策にあてつつ、残りをブラッドとダルファンに送った。この迅速さが敵の動揺を呼び、戦争は早期の決着を見る。そしてブラッドとダルファンは即座に海軍をクロースリアに送り、海賊は約半数が討ち取られ、残り半数は逃げ去った。
戦後、ブラッドとダルファンは、ヒクセンとラスパニアに大幅な領土の割譲を迫った。しかしクロースリアの仲介で領土割譲は一部とし、残りは賠償金で済ます事となった。その代わり、対ローンガルト大陸の軍事同盟を五国間で締結させたのである。
「今回利用すべき火種は、割譲された旧ヒクセン領のバスターク地方と旧ラスパニア領のフェイエノーサ地方ですな」
軍師『謀略』のレティーグはぞっとするような陰惨な笑みを浮かべた。
この二つの地方は気候良く農作物が豊かな上、交通の要所として商業も発展している。だからこそ奪われたのであり、また他の地方に比べ高い税を課される事ともなった。
当然住民たちは面白かろうはずもない。
レティーグの手駒達は日頃から領主への不満を口にしている者たちの中から手頃な者を選び出す。そして別の者が領主の側近を殺害する。その現場に先に選んだ、一服盛られ、酔いの回った男達を誘い出して殺害し、あたかも側近の護衛と相打ちしたかのごとく死体を残して現場を偽装する。
後は報復に見せかけた殺人を数件起こし、流言飛語を用いて互いの敵愾心を煽るだけ煽る。『我が地方はヒクセン(ラスパニア)に再帰属すべきだ』と。
「それで戦争が起きるのか?」ヴァーリ大王は訝しげに聞く。
「起きれば儲けものですが、起きなくても後への布石としてはこれで十分です」
「よくぞそこまで気軽且つ姑息に他人を操れるものよな」感嘆とも呆れとも取れる声音。
「お褒めに預かり恐縮です。ですが人は誰しも無自覚に他人を操っているもの、それを自覚する者がより巧みに人を操れるのでございます。拙は謀略にて、大王は王者の才にて」
「持ち上げたつもりか?」鋭い眼光。
「ただの事実でございます」レティーグはしれっと答える。
ヴァーリは鼻を鳴らした。「まあよい。担がれてやるわ。余は神輿故な」
土曜日の放課後。
「わりい。今日も日曜もシエラさんたちと用があるんだ」一矢は両手を合わせて謝ると、そそくさとシエラ達と帰って行った。この所毎日繰り返された光景である。
「……。」斉藤は不機嫌であった。
「何だ、その、嫉妬してるのか?」吉田は恐る恐る訊ねた。
「まさか」斉藤は斬って捨てた。「彼氏にするには物足りない奴だもの。そんな邪推は小説やドラマの見過ぎよ」
吉田と景山は顔を見合わせた。じゃあ自分たちはどう思われてるんだろう? なんだか胸がドキドキチクチクするのであった。
「でも私たちは親友だったわけでしょ。それを横からかっさらっていったんだから、シエラさん達がそれにふさわしい人かどうか、納得させて欲しいの」眉間に皺を寄せる。「美人なだけじゃ納得できないのよ」
「なんだか娘に彼氏ができた父親の心境だな」景山は、はぁーっと長い息をついた。
「何か配役が逆じゃないか?」
「確かに。それに普通息子に彼女が出来たら喜ぶ所だよな」
「すでに彼女を飛び越えて嫁姑戦争か?」
「……。」斉藤は二人を睨み付ける。
「「御免なさい」」吉田と景山はへこへこと頭を下げた。
「さっ、一矢の事は置いといて、勉強するわよ」
「「うぃーっす」」高3の夏はハードなのだ。
一矢がシエラ邸に着き、袴装束に着替えると、リビングに呼ばれた。
そこには先に茶席に着いて紅茶を飲みながら待ち受ける祖父、英明の姿があった。卓の上には何やら細長く大振りな包みがある。
「何で爺ちゃんここにいるんだ?」一矢は軽く混乱した。
「お前にこれを渡すためじゃ」英明が包みを開けると黒漆塗りの鞘の大小二振りの刀が現れる。「現代刀じゃが、備前の刀匠が特別に実用本位のクロームステンレス鋼で作った古伝丸鍛えの中々の業物よ。今日からお前が持つといい。向こうではきっと役立つじゃろうて」
「いや、ちょっと待ってくれ。嬉しいけど、向こうって何だ?」一矢はますます混乱する。
「向こうと言えばシエラ殿の故郷じゃが?」
「馬鹿言うなよ爺ちゃん。オーストリアまでは地球を三分の一周しなきゃならないんだぜ。今日明日なんか行ってすぐ帰るだけで終わっちゃうって。それに飛行機に刀なんて持ち込めるわけ無いだろ?」
「……シエラ殿。ひょっとして何もお話しでない?」英明は目を細めた。
「い、いや、言おうとは思ったのだ。何度も」気まずく目を逸らすシエラ。シエラ達も見慣れぬ刺繍の入った中世風のチュニックを着ている。オーストリアの民族衣装だろうか?
「仕様がありませんねー。私が説明しまーす」パランタンが大仰な口調で語る。「実は私たちはラ・フォーロ・ファ・ジーナと言う異世界からやってきた魔法使いなのでーす」
「馬鹿こけ。またつまらない冗談だな、ゲームやラノベの見過ぎだぜ」
「おや、一矢殿は最新の学説ではビッグバンの発生時に並行宇宙が複数誕生したと考える方が自然だと言われている事を御存じ無いのですか?」
「ねーよ。それに並行宇宙があったとしても、魔法なんか実際ある訳ねーだろ。精神力だけでエネルギーを発生させるなんて物理学上有りえねーって」
「なら、よく見るんだぞ」レイチェルが虚空に向かって手をかざす。
炸裂音。決して小さくは無い火花が散った。
「えっ、ええっ?」一矢は度肝を抜かれる。「ちょっと待て、もう一度」
「生憎賢者の石が勿体ないから~、もう一度は向こうに行ってからね~」エリスロが呑気に宥める。
「一矢の言うとおりだ。精神力だけでエネルギーなど生じない」シエラは真剣に答えた。
魔法には代償が必要なのだ。その代償ゆえシエラの故郷は危機を迎えている。
加えて地球では何十億もの命を犠牲にする企みまで存在すると言う。
「一矢、お願いだ。私は二つの世界の人々を救いたい」シエラはまっすぐに一矢の目を見つめた。「一緒にラ・フォーロ・ファ・ジーナに来てくれ。そして手を貸して欲しい」
「これを」執事のヨゼフは首飾りと指輪を一矢に手渡す。「転移の首飾りと翻訳の指輪です。お離しになられぬよう」
一矢は言われるままに指輪をはめ、首飾りをかける。
「それでは行きますぞ」ヨゼフは呪文を唱える。「ラムトゥーサ・エアリドゥー……」
「ちょっと待ってくれ。まだ心の準備が……」
首飾りが輝き、闇に包まれ、虚空に浮かび、一瞬か、それとも数時間かがわからぬ刻が過ぎた後、再び光と重力が戻り……
「出来てないんだって…」
一矢は見たことも無い程荘厳な、白亜の城の中庭にいた。
斧槍を構えた儀仗兵たちが最敬礼を取る。「お帰りなさいませ、シエラザード姫殿下」
「うむ。ご苦労」悠然と、王族の貫録を持って応えるシエラ。
「何てこった……。もう二度とファンタジー物のゲームとか気楽にやれねー」そんな感想を漏らしている場合なのか一矢。
「まあ、人間、諦めが肝腎よね~」エリスロは一矢の肩をポンポンと叩いた。
「ではそんな落ち込んでいるあなたに景気付けのギャグを一発」
「やめいっ!」レイチェルのボディーブローはパランタンの肝臓に突き刺さった。
今よりおおよそ百五十年前、かつて文明の遅れた田舎と思われていた地球は急激な進歩を果たしつつあった。ラ・フォーロ・ファジーナの魔術師はそれに驚嘆し、その理由を探った。そして探し当て、故郷に持ち帰った技術が製紙術と印刷術だ。
かつて手作業による写本だった高価で希少な魔術書は、大量かつ安価に世間に出回った。
全人口の一パーセントにも満たなかった魔術師の数は、簡単な術を使えるだけの一般人も含めると、おおよそ二十パーセントにまで膨らんだ。
だが二十倍以上に膨れ上がった魔法の使用量が一体どんな意味を持つのか、その変化はゆっくりで、彼らは長い間気付けなかった。
地球における温暖化がそうであったように。
「いやそれにしてもすごい城だな」一矢は口を開けて周りを見回した。
鉄筋コンクリート製の城塞をクレーンの代わりに念動魔法を使って組み上げているのだ。単なる石組みの地球の中世の城に比べてずっと巨大で中も広々としている。それでいながら細やかに神経の行き届いた鮮やかな浮彫や調度。過剰にならない絶妙なバランスである。
「あまり豪華にすると税の無駄遣いだからな。色もほとんど白一色で味気ないだろう」
一矢に説明をしながら六人は謁見の間に辿り着いた。
段上の玉座からまっすぐに敷かれた緋色の絨毯の上で五人は片膝をつき、頭を垂れた。一矢も慌ててそれに倣う。
「クレメンティア女王陛下、フィスレイ皇太子殿下、御臨席」侍従の声が響く。
本来王と王妃が座るであろう二つの玉座に、シエラと同じルビーの髪の二人、母親であろう女性と、弟であろう九歳ほどの愛らしい少年がそれぞれ着席する。
「苦しゅうない。頭を上げよ」女王の声に五人は頭を上げ立ち上がる。一矢も慌ててそれに倣う。「シエラよ。元気そうで何よりじゃ。して学業は捗っておるか?」
「は。京香曾祖母様の学問所の御指導が良かったゆえ、滞りなく修めております」
「善き哉」クレアは目線を一矢に移す。「して一矢。そなたがシエラの新しき剣指南役よな?」
「あ、はい。そうです」そう言えばそうか。
「正式に認める。これより月金貨二十枚の禄を授ける」翻訳の指輪が約四十万円と告げる。
「いいんですかそんなに?」いまだ学生の身としては貰い過ぎでは無かろうか。
「謙虚な奴よな」
「良き若者です」ヨゼフが口添えする。「これで私の荷は降りました。後はただの執事として悠々自適の毎日を送るのみです。楽隠居も同然ですな」
「羨ましき哉。我も早くフィスレイに王位を譲りたいものよ」
「十年は早うございます」宰相のラスゴーがたしなめる。
「固いぞ、ラスゴー。それよりそちも久しぶりに娘に会うのだ。何か言葉は無いのか?」
「それもそうですな」ラスゴーは頷く。「エリスロよ。シエラ様は世界を救う御方。心して仕えるのだぞ」
「……固いのう」クレアは呆れた。
「は~い。パパ。頑張るよ~」エリスロは呑気に答える。
「姉さま、今日この後はどこに赴かれるのですか?」フィスレイがおずおずと尋ねる。
「うむ。京香曾祖母様の学問所と、マリエル姉さまの療養所を訪ねるつもりだ」
「なら僕もついて行きます」顔が輝く。フィスレイも京香とマリエルに会いたいのだ。
「うむ、久しぶりなのじゃ。相手をしてやるがよい」クレアは顔を綻ばせて認可した。
京香のいるクロースリア王立学問所は白亜の城に隣接する敷地にある。
そこではクロースリア中から集められた千人を超える学生が、地球から伝えられた学問を修めている。数学、化学、物理学、生物学、地質学、農学、医学。建築、機械、電気等の各種工学。日本語、ドイツ語、英語等々。
役に立つ程度の知識を得て故郷に帰る者もいれば、居座って延々と研究に励む者もいる。
シエラ達もここで日本の高校生にまで匹敵する教育を与えられたのだ。
「曾祖母様!」「おじい様!」フィスレイとレイチェルが勢いよく学長室に飛び込んでゆく。
学長の京香・クロースリアと、副学長のオットー・リリエンタールが笑顔で子供達を迎える。「まあまあ、よく来たわね」九十近い老婆でしっとりとした物腰の京香はフィスレイを抱きとめた後、一矢に視線を向けた。「その腰の二本差し、貴方が今代の風巻さんね?」
「あ、はい」一矢は身を引き締める。
「剣人さんの面影があるわ」京香は懐かしさに顔を綻ばせた。
西暦千九百四十五年。
空襲によって十八才の京香とその家族は焼け出された。
呆然とする京香や町の人々に声をかけて回ったのが風巻剣人と風巻光水流の門下生達だった。
「うちの道場に来なさい。とりあえず 夜露はしのげるし、飯も少しは蓄えがある。お偉いさんがうちの門下生だから、後の事だってどうにでもなります」頼もしい笑顔だった。「ドイツの客人! お前も握り飯と茶を配れ!」
そして良人となるライリック・クロースリアと出会う。「怖かったですネ? モウ大丈夫ですヨ」二十歳程の赤毛の青年はどぎまぎしながら京香に語りかけた。後で訊ねれば一目惚れだったと言う。「お握りドウゾ」
「有難うございます……」京香はボロボロと涙をこぼした。
人々はしばらく道場に身を寄せた後、ある者は家を建て直すため町に戻り、またある者は知人や親戚のつてを頼り田舎へと去って行った。京香の家族は田舎へと引っ込んだが、京香自身は学業を続けたかったので、道場の飯炊き女として居候する事となった。
ある日尋ねた。「剣人さんは、私と同い年なのに、なぜそこまで強いのですか?」
「修練を積んでいるからです」
「私の聞いているのは剣や弓の腕前ではありません。心です。人はいざと言う時にその本性が試されると言います。なぜ剣人さんはあの時あの行いが出来たのですか?」
「それこそ修練です」年寄り臭く咳払いをする。「禅とは人の本性、器を広げるための修練。餓鬼の頃の自分なら、我が身しか見えず我が身だけが可愛かったでしょうが、ある日、気付いたのです。徳が高いとは自分がしたい事と成すべき事が一致する事。その正直な気持ちを人と重ね合わせられる事。そして今と言う時は今しか無いという事です」
「なんだか難しいですね」
「まあ、禅問答と言うぐらいですからね」
京香は剣人に淡い気持ちを抱いた。だが剣人には許嫁がいた。落ち込む京香を支え励ましてくれたのはたびたび道場を訪れるライリックだった。そして女学校で数学の教師を二年勤めた後、二十四歳で京香はライリックの気持ちに応えた。
「シエラから手紙で伺いましたよ、一矢さん。貴方はいざと言う時のその一歩が踏み出せる方だって。シエラと私の教え子達をよろしくお願いします」
「いや、城崎を助けたのは俺が昔いじめられっ子だったからです。たまたまです」
「あら。シエラも昔いじめられっ子だったのよ」
「一国のお姫様が?」一矢は目と口を大きくした。
「本当だ」シエラは恥ずかしげに告げた。
可愛いと一矢は思った。
「この子は昔ちょっとばかり頑なな所があったのよ」
「おバカで欲深な貴族子弟子女どもと反りが合わなかっただけだ」
「正義感も強かったから、余計にねえ」京香はため息をつく。
六歳の時、姉のマリエルが病に罹り、シエラの王位継承権が母に次ぐ地位になった時、周りが手のひらを返しながらも『向こうの立場が強いからこっちは仕方なく合せてやっている』と陰で言われた事は、当たり前の喧嘩よりもずっと彼女の心を傷付けた。他人が信じられなくなった。
七歳で優しかった父が亡くなった時、辛さの余りとうとうシエラは引き籠ってしまった。
しかもクレアはすぐに次の男性と再婚してしまう。もっともこれは父親が死病に侵された時から、前王や閣僚の間で内々に決められていたことなので、クレアばかりを責めるわけにはいかないのだが。
八歳の時に弟のフィスレイが生まれた。愛らしい赤子だった。
弟が生まれた喜びにシエラは一度立ち直った。
だがいじめは深刻化した。世継ぎの王子が生まれた以上、シエラを特別扱いする必要は無い。親たちは子供たちにそう言い聞かせたらしい。貴族子弟たちは露骨にシエラを無視したり陰湿な嫌がらせをした。
シエラは再び引き籠った。
やがて一年を過ぎるころ、クレアは一計を案じた。度あるごとに京香の学問所とマリエルの療養所にシエラを使いに出させたのだ。
そしてシエラは学問所で三人の友と出会った。副学長の孫でシエラ以上に正義感が強い熱血娘のレイチェル。宮廷道化師の家に生まれたがその才能はさっぱり無く、頭は良かったので厄介払い同然に学問所に押し込まれたと言うのに、馬鹿みたいに飄々と陽気なパランタン。幼い頃に両親を亡くしてラスゴー家に養子に入ったのに、辛そうなそぶりはちっとも見せず、いつも呑気で朗らかなエリスロ。シエラにとって初めての尊敬できる友人たちだった。仲良くするだけでなく、喧嘩だって当たり前にしてくれた。
シエラは再び立ち直った。
もう挫けなかった。挫けそうな時にはいつも友がいた。
六年前、フィスレイの父が落馬で亡くなった時には、父から注がれるはずであったろう愛情の幾ばくかでも彼に注ごうと決意する事もできた。
「そして今は、おバカな貴族相手にもうまく立ち回れる器の大きさ、徳と言うものを一矢から学んでいると言う訳だ」シエラはそう締めくくった。「まあ、私の昔話などどうでもいい。ここにはオットー殿から一矢に講義をして欲しかったから来たのだ」
「どうでもよくなんかないぜ」一矢は真面目に抗弁した。「俺は聞けて嬉しかった」
京香は微笑んだ。口を挟む野暮はしなかった。
「あ、失礼しました。オットーさん、講義をどうぞ」一矢は慌てて頭を下げ、促した。
「クックック、いや、失礼」オットーはこみ上げる笑いを押さえるのに手間取った。「若いと言うのはいいですな。いや、失礼」ゴホンと咳払いをして真面目な顔を取り戻す。
ラ・フォーロ・ファ・ジーナは魔法に満ちた世界である。
故に弓矢の類は猟師を除いて持つ者が少ない。戦場で用いても魔法の風で吹き散らされてしまうし、魔法の方がより広い範囲を攻撃できて、威力も高いからだ。
地球で鉄砲が発明された時、この世界に持ち込んだ魔術師もいたが、何故かボフンと言う気の抜けた音がして弾丸はわずかに前に転がり落ちるだけだった。
「地球の武器は役に立たぬ」人々はそう結論付けた。その時何故そうなるかを追求する人間はいなかった。
おおよそ七十年前、南方のジュデッカ大陸では戦乱が頻発した。その頃地球では第二次大戦の只中で、戦車や装甲車が活躍をしていた。地球を訪れていたある魔術師はこの戦車を故郷に持ち帰れれば、戦争に勝利できると考えた。魔術師にとって都合の良い事に、とあるドイツの機甲小隊が撤退に失敗し、連合軍の包囲を受けつつあった。魔術師はオットーの父であったリリエンタール中尉に囁いた。「このまま犬死する事は無い。我が世界に来れば栄耀栄華は欲しいままだ」中尉は部下を死なせたくは無かった。交渉は成立した。 機甲小隊はジュデッカ大陸に現れた。
だが戦車も装甲車もラ・フォーロ・ファ・ジーナに着いた途端、動かなくなってしまった。主砲も機関銃もボフンと言う情けない音がしただけで、発射される事は無かった。
軍勢は突然現れた鉄の塊に驚いたが、寸毫も動かないことを見て取ると、無視して戦いへと戻って行った。
その後リリエンタール中尉とその部下たちは艱難辛苦の末、クロースリアに辿り着いた。かの国の王子妃は同じ地球人だと言う噂を聞きつけ、自分たちに便宜を図ってくれるのではないかと一縷の望みを託したのだ。
ライリック王子と京香は快くリリエンタール達を迎え入れる。彼らは王立学問所の研究員として遇された。そこで彼らは探究する事となる。何故地球科学の一部はラ・フォーロ・ファ・ジーナでは機能しないのか。役立つ技術は何か。
そもそも魔法の源である魔素、マナとは何なのか?
古くからの定説では魔法を使い過ぎると体温が奪われることから、人間の体の熱がその代償なのだと固く信じられていた。
だがそれでは辻褄が合わない。魔法で発生するエネルギーは奪われる体温など比較にならないほど大きいのだ。彼らは考えた。マナは恒常的にエネルギーを世界から奪い、蓄えているのではないか。人間の体温が奪われるのはたまたまマナが濃くなり過ぎたためについでで起こった事ではないかと。
検証は繰り返された。火薬も粉塵化した炭素も噴霧した揮発油も燃えはする。ただしゆっくりした速度であった。地球のように爆発的燃焼が起きない。鉄砲も内燃機関もそれで動作しなかった。マナにエネルギーが奪われていたのだ。だが爆発的燃焼など普段は起こらない事象だ。普段マナはどこからエネルギーを得ていたのか?
マナは本来地表に届くはずの太陽光の一部を掠め取っていたのである。
魔法として放出されるエネルギーよりも奪われる光熱エネルギーの方が多いのは、エネルギーが蓄積されているであろう異空間において熱拡散が起きていると考えれば自然だ(どんなに効率の良い魔法瓶でもいずれは冷めて行く。エントロピーの法則である。地球や金星の様な温室効果が起きる方が珍しい)。マナは異空間のタンクにつながる回廊でしか無く、無限のエネルギー源では無かった。
研究者の一人がたまたま会話する事の出来たドラゴンからその確証を得た。このまま魔法の使用量が増えればマナは増え、氷河期すら訪れるかもしれないと。
「百年で三度って事は、五百年で十五度度以上も下がるって事ですよね、そりゃ本当に氷河期が来るって事ですか!」一矢は驚嘆した。
「もっと早いでしょう。ガイア理論を御存じですか?」パランタンが珍しくシリアスだ。
地表に氷雪が増えれば増えるほどその白い氷雪は太陽光を吸収せず反射してしまう。ある一定の水準まで気温が下がってしまえば、後は一気に転がり落ちてしまうのだ。
「とにかく我々は、一刻も早く石油や石炭を発掘して燃やし、温暖化現象を起こすしか無いのです」オットーは沈痛な面持ちで語った。
すでに蒸気機関車は実用のめどが立っている。発生した蒸気圧がそのままでは高まらない所を、マナを消散させる魔術を使えば、動く事がわかったのである。
「じゃあ、それでガソリンエンジンも動くんじゃないですか?」
「駄目でした。毎分数千回の爆発で動くエンジンを動かすには、毎分数千回毎に消散の呪文を唱えなければ駄目な事が分かったからです」
「……そりゃ駄目だ」一矢は目を覆った。
大規模な温暖化を行うためには蒸気機関車だけでなく、天然ガスの使用や蒸気タービン発電機関を造って本格的な電気文明を築く事が必要だった。文明維持に必要な魔法の何割かをガスと電気力で代用し、特に仕事の無い魔術師には常にマナの消散を行わせ、冷却化と温暖化のバランスをとる事が現時点での理想だ。
その技術を得るためにシエラ達はわざわざ地球まで留学してきたのである。
「一矢さんは設計技師を目指しておられるとか。そのお力を借りられませんか?」
「俺が、蒸気タービンの設計を?」
「うむ。玩具を設計する片手間でいい。私からも頼む。一矢」シエラは頭を下げた。
一矢はしばらく何も言えなかった。だがその頭の一部はすでに蒸気タービン機関の図面をいかに描き上げるかにもう飛んでいた。「……やってみます」
「……有難う。一矢」シエラは安堵の笑みを浮かべた。
だが問題はもう一つあった。ラ・フォーロ・ファ・ジーナでは無く、地球の事である。
地球の温暖化も逆の手法で解決できるのではないかと思いついた者はいた。だがそれを現実的だと考える者はいなかった。もしマナが冷却化に必要なほど濃くなれば、内燃機関のほとんどは使えなくなる。穀物生産に必要な農業機械も輸送手段も使えなくなるのだ。
餓死する人口は数十億に上るだろう。
だがそれでも事を成そうとする者はいた。ドラゴン、それも天使長である。
彼は魔術師協会の役人であった魔術師クロブをそそのかし、宝物庫の賢者の石と、ドラゴンを召喚するための祭器、アーティファクト、『魔法王の指輪』を盗み出させた。
ドラゴンは一体で一万の魔術師に匹敵する。いきなり冷却化するほどのマナは生み出せずとも、数十体のドラゴンが召喚されれば人々が簡単な魔法を使えることのできるくらいのマナは生み出せる。そして書籍やインターネットで本物の魔術書を広め、本物の魔術師を数千万人生み出せれば、冷却化は可能だと踏んだのだ。
『傲慢たる天使長』はクロースリア王城に現れ宣戦布告した。
「我は傲慢にも地球界を救う。ただし数十億人の犠牲を払って。我が行いを傲慢にも止めんと欲するならば、地球界にて我と戦うがよい。我が占に現れしシエラザードよ」
そして半年が経ち、現在に至る。
「『我が占に現れし』って、じゃあ俺が見たのも、天使長とか言うドラゴンだったのか!」一矢が道場で見た、幻かと思っていた一件を皆に話す。
「一矢殿まで関わることを見通していたとは、流石はドラゴンの占術ですな」オットーは感銘を受けた。
「これで『六枚の翼』が揃ったな」シエラは一矢、パランタン、レイチェル、エリスロ、ヨゼフの五人の顔を見やった。シエラ自身も含めれば六人。六と言う数は天使長の六枚の翼を表しており、ラ・フォーロ・ファ・ジーナでは縁起のいい数なのだ。
「ところで何でドラゴンは天使って呼ばれてるんですか?」一矢は今更の疑問をぶつけた。
神話の語るところによると、ラ・フォーロ・ファ・ジーナの人々も以前は地球で暮らしていたのだと言う。だが氷河期が訪れた際、ドラゴンたちは先祖たちを連れて温暖なラ・フォーロ・ファ・ジーナに移住したのだそうだ。またドラゴンは求められればその占術と知識を以って人々に助言を与えた。それらの行いからか、ドラゴンの事を天使と呼ぶのだ。
蛇は人に知識と魔術を与え、人は楽園から追放された。旧約聖書の一部はかつてあった事の一部を伝えたのであろうか? 真相は最早わからない。
オットーの講義はそこで終わった。
フィスレイは京香としていた綾取りを止め、「話は終わりましたか?」と尋ねた。
「ああ、終わりだ、フィスレイ。今度はマリエル姉さまの所に行こうか」シエラが優しく答える。
「姉さまたちの話は半分ぐらいしかわかりませんでした。僕ももっと難しい話が分かるようになりたいし、学問所で友達をいっぱい作りたいです」
「家庭教師と母上の許可が下りればな」
フィスレイの学習速度が遅い訳では無い。引き籠って本ばかり読んでいたシエラの学習速度が非常に速く、またレイチェルやパランタン、エリスロも年齢に比べて非常に頭が良かったのだ。
一同は京香とオットーに別れの挨拶をしてから学問所を去った。
一同は馬車に乗って郊外の緑多く空気の良い場所に建てられた療養所を訪れた。
彼らを出迎えたマリエルはシエラによく似た二十歳程の佳人であった。違うのは腰まである金色のストレートの髪と、張り詰めた所が無くひたすらに穏和に見える所だろう。
「シエラちゃん、フィスレイちゃん、よく来たわね。いらっしゃい」マリエルはふと視線を一矢に留めると、「まあ、シエラちゃんに新しい友人が出来たのね」と無邪気に笑った。
「シエラちゃんはお止し下さい、姉さま。私はもう十七です」シエラは困り顔だ。
「ごめんなさい、シエラ。つい癖で」マリエルは右手を口に添えた、
一矢は異常に気付いた。マリエルの左手が最初から一度も動いてない事を。それでこんなに若くて元気な人が療養所にいるのかと早合点した。
一同が木陰に設えた卓席に着くと、メイドがお茶の準備を始める。他の木の陰を見ると同じように茶を楽しむ老若男女がいた。その多くが片手が動かないか、椅子に松葉杖を立て掛けているかしていた。
「手足の不自由な方が集まってるんだな」
「ただ不自由なだけならばまだ良いのだがな」シエラは悲痛な顔で答えた。
「一矢、失礼を詫びるんだぞ!」レイチェルが腹を立てた。
「でもまあ、知らないんだから無理も無いよね~」エリスロが宥める。
「あらまあ、知らないという事は、一矢さんも京香曾祖母様と同じ地球人なのですね」
「すみません。そうです」一矢は素直にマリエルに頭を下げた。
「私達の病はマナによる石化の病。石化が重要な臓器まで達すれば死に至る難病です」
何故そうなるのかはわかっていないが、マナが時折人体に偏って濃くなる事がある。最初の内は体温が奪われるが、やがてそれが恒常化すると生命エネルギーそのものを奪うのか、体組織を石化させる。
この石化した体組織が『賢者の石』だ。
マナの凝縮したこの石は、一刻も早くマナを集積する必要のある戦闘魔術や、マナの希薄な地球で魔法を使う際に必要となる。それ故、許可を待たない者が使用はおろか、所持をするだけでも重犯罪となる。無制限に認めれば石化した人間から無理矢理切り取って奪う者が出かねないからだ。この療養所は石化を抱えた人間を保護するための施設でもある。そして健康維持に必要な程度の花の世話などの軽作業を除いては安楽に暮らせる代わりに、その死後はその石化した体組織、賢者の石を魔術師協会に寄贈する約定なのだ。
話の筋を戻す。マリエルは幼い頃に左手の指先が石化し始めた。今では肘の上まで石化している。石化の始まった時点で彼女の王位継承権は十位に落とされ、それからフィスレイが生まれるまでの間はシエラが筆頭王位継承者だった。
だが、政争とは無関係になったと思われたマリエルに求婚した男がいた。『謀略』のレティーグである。優秀な軍師であるレティーグが王家との結びつきを深める事に周囲の者はおおむね賛同し、マリエル自身も「王家の為になるならば」と、一度は承諾した。だが既に幾人もの妾を抱え、女がらみでは悪い噂しか立たないレティーグなどと結婚するのが本当にマリエルの幸せなのか。納得いかないシエラはマリエルを問い質した。マリエルは言った。「本当は嫌です」と。そしてボロボロと涙をこぼした。死の病に侵されても気丈に涙一つ見せず、シエラがいじめられて泣いた時にはいつも励ましてくれた姉が泣いた。
クレア女王はそれを汲み、婚約を無期限の延期とした。
レティーグは荒れた。毎晩酒場で「せっかく厄介者の傷物王女を貰ってやろうと言うのに、何を勿体ぶっているのだ、あの女狐め。どこまで値を釣り上げるつもりだ」と、管を巻いた。
「そのような物言い、不敬罪に当たりますぞ」取り巻きが宥める。
「フン。そこらの木っ端役人が聞いていた所で何ほどの事があるか。王族にでも直に聞かれていない限り……」そこまで言ってレティーグは向けられた殺気に振り返り凍り付いた。
「不敬の言葉、確かに聞いたぞ。レティーグ」シエラ達はレティーグがどのような人物かをその目で確かめるためにこの酒場に訪れていたのだ。「決闘を申し込む」
レティーグは剣が不得手であった。剣を抜き無造作に歩み寄るシエラに対して、破れかぶれの抜きざまの突きを繰り出したが通じず、剣を弾き飛ばされてしまう。
シエラはゆっくりと剣を振りかぶる。「ひいっ」レティーグは両手で頭を守り、死だけは免れようとしたが、シエラは初めからの狙いであったレティーグの左腕を斬り飛ばした。
「貴様の言う傷物の不具の苦しみ、少しはその身で味わうがいい。これに懲りたらクロースリアより去れ!」
レティーグは少なからぬ配下の間諜達と共にクロースリアを去った。一年前の事だ。
「今にして思うと随分大人気無いことをしたものだと思う」シエラはしみじみと回顧した。「一矢の教えを受けた今ならば、レティーグの弱みを握った上で好きな様に操っていれば良かったと気付けたのだがな」
「レティーグ殿は素直に操られる様なタマでも無いでしょう」パランタンは呆れた。
「まあ、話は戻るが、私は飢えた事が無いから飢餓で死ぬという事が本当には理解できぬ。だが地球にマナが満ちれば石化の病になる人間が出る。それを見過ごすわけには行かない。それが私が地球の人々を救いたい本当の理由だ」
幼い頃、初めてシエラが療養所を訪れた時は、不具と死の匂いがただただ恐ろしかった。そんな自分が悔しかった。病と闘っている姉や人々を思いやれぬ自分が恥ずかしかった。姉のように強く、優しくなりたいと思った。
「だから一矢。これからも私がなりたい自分になるための力を貸してくれ」
「力になるよ」一矢は精一杯力強く肯いた。「シエラさんの心の自由は、俺が守る」
「本当か?」
「本当だよ」
穏やかな沈黙が流れた。
「うわああっ」少し離れた卓の一人の少女の悲鳴がそれを破った。「もう嫌! 私死ぬのよ、死ぬんだわ!」
「ミリアちゃん。落ち着いて」白衣の医師たちが駆け寄って宥めるが、なかなか落ち着かない。彼女の石化は肺の一部にまで及び、既に呼吸が苦しくなり始めているのだと言う。
マリエルはミリアに歩み寄る。「怖いのね、辛いのね」
「分かったような口を利かないで! 姫様の病はまだ私ほどじゃないじゃない!」
「そうね。でもこの病で死んだ人たちでも、最後まで笑って機嫌良く生き切った人たちも大勢いるわ」マリエルは問いかける。「彼等が貴方ほど怖くも辛くも無かったと思う?」
「それは……」
「自分の苦しみだけに閉じこもったらその人は一人。でも辛いけど負けないって思ったら、同じように負けないって思っていた人たちがいるのに気付ける。一人じゃなくなるの」
「……」
「さあ、せめてもの励ましに歌を歌うわ。私にはこれしかできないけどね」
「やった! 姉さまの歌だ」フィスレイは顔を綻ばせた。
「おお、姫様の歌か」周りに集まっていた者たちが快哉を上げる。「それなら是非シエラ様も歌って下され」「うむ、前に聞いたあれはまさに至福だった」「冥土のいい土産じゃ」
マリエルとシエラは顔を見合わせた後、頷いた。
子守唄が響いた。
マリエルの柔らかい温かな声。シエラの快い凛とした声。
その美しい重なり合う二つの声に、人々は、一矢は、聞き惚れ酔いしれた。
やがて歌が終わると自然と拍手が沸き起こった。
人々は次々と歌い終わったマリエルとシエラにハグを求める。
その時一矢達は殺気に気付いた。レイチェルとエリスロが殺気の源であるハグの列に並ぶ二人の若者を押さえにかかる。だが一矢はもう二つの気配を背後に感じた。
一矢は翻訳の指輪を外して日本語で警告する。「みんな、気付かない振りをしてくれ。俺の正面から七時の方向十五メートルくらいに不穏な気配がある。ヨゼフさん、なんか電気ビリビリとかで生け捕りにできる魔法が有ったら頼む」
「了解しました」ヨゼフは日本語で答えると囁くような小声で呪文を詠唱し、振り向きざまに指示された場所にある茂みに向かって雷撃の呪文を放つ。
「がはあっ」「ひぐうっ」二人の男が悲鳴を上げ茂みから転がり出る。一矢とパランタンは抜刀して男達に走り寄り、その手から毒矢のつがえられた石弓を弾き飛ばした。
レイチェルとエリスロも掴んだ手から直接電撃の呪文を流し込んで二人の若者を捕えた。やはり懐に毒の塗られた針のような短剣を携えていた。
四名の下手人は縄でぐるぐる巻きにされ、取調室代わりの診察室へと運び込まれる。
パランタンが回復の呪文を施してゆく。「これで喋れるはずでーす」
「さあ、喋ってもらいましょうか。貴方達は何者で、誰にそそのかされてマリエル様とシエラ様とフィスレイ様の命を狙ったのですか?」ヨゼフは凄みのある表情と声音で問い詰め、剣の切っ先をその喉元に突き付けた。
「わ、我々はジュデッカを搾取するクロースリアの帝国主義者たちに天誅を加えに参ったのだ」若者の一人が裏返りそうな声でヒステリックに叫ぶ。
ジュデッカ大陸は長い戦乱により各国の国力を疲弊させた。貧困ゆえに収入を得るために産物をミッデルシア大陸の各国に足元を見られた安い値で売らざるを得ず、それゆえにまた貧困が増すと言う負の循環に陥っている。その上農業や鉱業の生産効率を上げようとすれば、早くから地球の技術を取り入れたクロースリアの優れた工業製品を高値で買わざるを得ない。ジュデッカ各国からしてみれば経済がクロースリアによって支配されているも同然と見えた。
「魔法の世界って言っても経済やお国事情ってやつは地球と変わらないんだな」一矢は嘆息した。魔法が使えるからと言ってその世界が楽園になる訳でもないのだ。
「仮にそれが真実だとしても、貴方達を手引きした人間がいるでしょう。それを喋ってもらいましょうか」ヨゼフはほんのわずか切っ先を首の皮に食い込ませる。
「こ、この国で手引きしてくれたのはそこにいる二人だ」若者は石弓を持っていた男二人に顎を向けた。
「では貴方達は何者ですか」ヨゼフは切っ先の向きを変え男二人を問い詰めた。
「古くからクロースリアに移り住んでいたジュデッカの民だ」彼らは平然と答えた。
「本当にそうかな~」エリスロが割って入る。「アンタ達プロの匂いがするんだよね~。そりゃもうぷんぷんと。だから足首を見させてもらうね~」
「や、やめろ」男達は初めて冷静さを崩した。
エリスロは男のズボンの裾をめくる。「あった、あった~。この刺青はラファブル暗殺者匠合で間違いないよね~」
「馬鹿な」何故知っているのかと言いたげだった。
「知ってるよ~。だってアンタ達ラファブルが皆殺しにしたロウガ暗殺者匠合の生き残りがアタシだもん」エリスロはいつもの呑気な笑みでなく、凄惨な笑みを浮かべた。「だからアンタ達に手加減してやる謂れはこれっぽっちも無いのよね~」
「幸い反対しそうなレイチェルは姫様たちの警護に残してきましたしねー」パランタンが共犯者の笑みで肯く。
「我々は兵だ。誰に依頼されたかは知らされておらん!」
「だろうね~。でもアジトの場所まで知らない訳じゃないよね~。拷問は無駄だろうから、直接脳みそを覗くよ~」エリスロは男の頭を鷲掴みにし、呪文を唱える。
「ど、読心の呪文は重大な禁忌だぞ!」一通りの身体の苦痛に耐える訓練を受けたはずの男達がはっきりと恐怖する。覗かれたものは良くて数日の錯乱、悪くて発狂の末廃人である。通常は伝授すらされない重犯罪呪文だ。エリスロが知っているのは呪文がロウガ暗殺者匠合で代々受け継がれていたからだ。
「それは発覚しませんな」ヨゼフは断言した。「何故ならこの後貴方達は逃げようとした所を、一人残らず背中から斬られて死ぬからです」
「「鬼畜生!」」
「自分たちがしようとしていた事を棚に上げるとは感心致しませんな」
本当の父は愛想など無くひたすらに厳しい人だった。それでも激しい鍛錬に耐え抜いた時だけは、その大きな手でエリスロの頭を手荒くガシガシ掻き回し撫でてくれた。本当の母はとても暗殺者には見えない物腰柔らかな人だった。その性格は計算の上で、口癖は『決して周りの人に自分が暗殺者だなどと思われてはなりません』だった。母の愛情がどこまでが演技か本心だったのかはもうわからない。エリスロ自身の性格だって、どこまで演技か素なのかも、もうわからないのだし。
それでも両親を失った痛みだけは紛れも無い本物だった。
「囲まれていると?」暗殺者匠合長のガリン・ラファブルは驚愕に目を見開いた。小太りで善良そうに見える男で、普段は人のいい商人を演じている。
「はっ。表口裏口はもちろん、下水道への抜け道、隣家の井戸への抜け道に至るまで全てです!」いかにも切れ者然とした副匠合長サヴァンは、苦悩に満ちた声で報告した。「更に突入隊が我々の手勢を紙のように斬っては捨てて、防ぎようが無く……」
暗殺者とは言え、不意を打てぬ正面からの戦いでは騎士には敵わない。エリスロの暗殺者としての経験と勘、一矢の気配を察する能力によって不意打ちはことごとく失敗した。
そして英明より一矢が貰い受けた刀は、敵の防御にかざした剣ごとその腕を易々と断ち斬った。通常の刀に使われる炭素鋼の十数倍の強度を持つクローム鋼を鍛え上げた刀は、実戦においては古刀をも凌ぐ業物であった。
一矢は無念無想で剣を振るう。悟りと言うより、考えれば初めて人を実際に斬った事の後悔に囚われ身動きが取れなくなりそうだったからだが。
「貴方とその刀が敵でなくてよかったでーす」パランタンが軽口を叩きながら必殺の剣を敵の胸に突き立てる。
「若い者はいいですな、私はもう息が上がりそうです」そう言うヨゼフも相当な数の敵を屠っている。
剣の腕では男性陣に一歩及ばぬ女性陣は、もっぱら後方から魔法で援護した。加えてエリスロは暗殺者相手の戦いの指示も飛ばす。隠し武器は見抜かれ、天井や床下に潜んだ敵は出る間もなく魔力の槍で貫かれ、吹き矢の類は風の障壁で防がれた。
奥で待ち受けるガリンは恐怖していた。戦いの喧騒が徐々に近付いてきたからだ。
「もはやこれまでかと」サヴァンは開き直った者の力強さで告げた。「しかし一太刀を報いる一計はございます。まずは小生をお斬り下さい」
「気でも違えたか」予想外の言葉にガリンは目を剥く。
「正気でございます。我が一計とは……」サヴァンは淡々と説いた。
一矢達がガリンの部屋に辿り着いた時、ガリンの手には血の付いた剣が有り、床には胸を斬られて仰向けに倒れたサヴァンの姿があった。
「お、思い知ったか。この期に及んで我を敵に売ろうとした裏切り者め!」ガリンはそう罵ると剣の切っ先を一矢達に向け直し、じりじりと後ろに下がった。「来るな、来るなよ」
一矢達はガリンを包囲して間を詰めた。
「やっと辿り着いた……」エリスロは暗い復讐の炎を目に宿らせ、前に出た。
その時、サヴァンはガバッと上体を起こし、左右の手で袖口から鈍く暗い色の毒の塗られた短剣を取り出して投げた。
「危ない!」ヨゼフはエリスロに向かった短剣を剣で弾き落とした。
しかし、もう一本の短剣はヨゼフの脇腹に深く刺さった。
「「ヨゼフ!」」皆の耳目と剣先がヨゼフとサヴァンに集まった。
ガリンは腐っても暗殺者であった。機を逃さずシエラに剣で斬りかかる。
「チエイ!」だが、一矢は右手の剣先をサヴァンに向けたまま左足を半歩引き、至難とされる左手での脇差の居合でガリンの剣を叩き斬った。
「う、うぬうっ」ガリンは脇差の剣先を向けられ、一筋の汗を流して固まった。
「無念、道連れが一人とは……」サヴァンは呆然と呟いた。
「うわあぁっ!」エリスロは叫びながらサヴァンの胸にとどめの一撃を突き入れた。
「ヨゼフ……」シエラは崩れ落ちるヨゼフを抱く。
エリスロは剣から手を放し、向き直るとヨゼフに縋り付いた。「何で? 何でアタシなんかを助けたんだよ~。自分一人なら助かったはずだよ~」
「貴方はシエラ様の掛け替えのない親友です。そして私は後は余生を過ごすだけのただの執事です。どちらの未来が重いかは知れましょう……」
「アタシ、いい親友なんかじゃないよ~。復讐にみんなを利用したよ~」
エリスロの目から涙が、いや、皆の目から涙がこぼれ頬を伝った。
「それでも貴方は、その自らの有り様で幼きシエラ様を救って下された。老いぼれの私には、ただ見守る事しかできなかったと言うのにです……」ヨゼフは毒に侵された震える手で、最後の力でエリスロの頬を撫でた。「いい親友でないと言うのなら、今、この時にいい親友におなりなさい。人の心とは自由なのですから……。さようなら、エリスロ・ロウガ。そして後を頼みます……、エリスロ・ラスゴー……」
そう言い遺し、ヨゼフは事切れた。
「……ヨゼフさぁん!」
「っ、爺! 爺ーっ!」
エリスロとシエラの慟哭が響いた。
六枚の翼は、一翼欠けたのだ。
王族がジュデッカからの刺客に命を狙われた。その噂は一晩の内に王都中に広まった。明日になれば通信魔法と吟遊詩人のネットワークによって大陸中に広まるだろう。こうまで噂が広まるのが早いのは、黒幕達が予め準備していたからだった。
クロースリア軍をジュデッカ大陸に侵攻させるために。
アーネス公爵は深夜の内に白亜の城に呼び出された。
「火急の呼び出しとは、此度は何の御用でしょう?」古強者の威厳のある老公爵はふてぶてしく問うた。
「貴公とその息子の命を貰い受ける」玉座のクレアは非情に告げた。「家督は子爵に落とし、領地の八割は没収とした上で孫に継がさせる。王族殺しを示唆したからには、最低限ここまでの沙汰をせねば示しがつかぬからの」
「必要な事だったのです」アーネスはふてぶてしさを崩さない。
ヴァーリ大王がローンガルト大陸を統一すれば、次はミッデルシア大陸を狙うだろう。今の内にジュデッカ大陸を植民地化して国力を付ける必要があると訴えた。
「その絵図面を描いたのはレティーグよの」
「確かに、一年前その策を奏上したのはレティーグ殿です」
そしてアーネスとレティーグはその後も連絡を取り合っていた。レティーグはローンガルト大陸統一戦中にクロースリアに介入をされると困る。これは双方に益のある話なのだとアーネスに説いた。
「貴公の言い分、もっともである。だが考えてはみなんだか? 『謀略』のレティーグのやる事ぞ。既にローンガルトが内密に同盟を組んでおる可能性を」
ヴァーリ大王や周辺諸国が兵を集めているのはローンガルト統一のための戦では無く、初めからミッデルシア侵攻のための挙兵ではないのか。その時クロースリアが軍の大半をジュデッカ大陸侵攻に送っていれば、ミッデルシア大陸は為す術なく蹂躙される事だろう。
「貴公はその可能性に気付かずに、己に都合の良い様にその言を信じ込まされたのじゃ」
「ぬぬうっ」アーネスはわなないた。その顔からふてぶてしさは消え、一気に十ほど老け込んだ様に見えた。
『それにしても』クレアは扇を口に当て、内心で呟く。『この可能性に逸早く思い至るとはなかなかやるの、一矢とやら。剣だけの男では無い様じゃの』
ガリンから今回の依頼人がアーネスとレティーグの二人だという事を聞き出した時、一矢は可能性を示唆したのだ。レティーグの狙いは、今回の件は王族への意趣返しとか、ローンガルト大陸に干渉させない為と言うより、クロースリアに攻め込む為ではないかと。
翌朝。アーネス公爵邸には数十人の商人や貴族が集まっていた。ジュデッカ大陸侵攻における利権に群がっての事である。ジュデッカ侵攻軍において、以前から派兵を唱えていたアーネス公爵ば、セントゥリウス元帥に次ぐ地位を占めるだろう。堅物の元帥ではなく清濁併せ呑む度量を持つ公爵は、献金の額に応じた利益の分配を為してくれるに違いあるまい。彼らの乗って来た馬車には少なからぬ金が積まれていた。
だが彼等を迎え出たのはアーネス公爵ではなく、シエラザード姫とそのお付きであった。
「アーネス公爵は逮捕した。レティーグめに唆されたとはいえ、王族殺しの示唆は死罪故な」シエラは居並ぶ者達を眼光鋭く見回した。「貴公らがどこまで事を知っているかは存ぜぬが、アーネスに取り入ろうとしただけでも懲罰の対象に成り得る」
何名かは露骨に顔を青ざめさせる。残りの者達も慌てふためいた。
「とりあえず貴公らの持ってきた金は没収する。異を唱えるならジュデッカの民に此度の顛末の首謀者として知らせる。遠く離れたこの地に刺客がやってくるほどだ。ジュデッカにある貴公らの出先の店が火付けや襲撃にでも遭うことは間違いあるまい」
「そ、それは……」「どうかお許しを」
「ならば金をもう幾ばくか積め」ヴァーリ大王はおそらく攻めてくるだろう。軍資金はいくらでも必要である。「献金を拒まぬならば、もうじき実用になる蒸気機関車や蒸気船での交易への便宜を図ってやる。出資として扱い、利益の出た際には分配してやるし、王家への忠誠としても受け取ろう」シエラは一旦区切ってから語気を荒げた。「選べ! 忠誠か懲罰かを」
一同は顔を見合わせ損得勘定を働かせた後、「「……忠誠を誓います」」畏まった。
「クレメンティア女王の御厚情に感謝するがいい」シエラは言い残すとその場から去った。一矢達も粛々と後を付いて行く。
「これでいいか? 一矢」
「上出来さ」二人は手を打ち合わせた。
そして王族殺害未遂の首謀者としてアーネス公爵とその息子が処刑される事が公式に発表され、ジュデッカ大陸への侵攻は為されない事となった。
一矢達は一睡もしないまま、予め決められていたスケジュールに従い、蒸気機関車の試験運転を視察したり、シエラの公務の補佐をしたりした。
夕方早くに泥のように眠りにつき、翌日早朝にはヨゼフの葬儀に参列した。
「今度は腕では済まさん」小雨降る中、シエラとエリスロは埋葬されるヨゼフの棺に誓う。
「仇は、レティーグの首は必ず取る」
「残念ながら、策が一つ潰されたようです」レティーグは陰鬱に奏上した。
「余の勝利が揺らぐ程にか?」ヴァーリ大王はレティーグの様を面白げに眺める。
「勝ちは揺るぎませぬ。ただ、抵抗すら許すつもりもありませんでした」
「おいおい、余の楽しみまで奪うつもりか?」ヴァーリは呆れた。
レティーグは実際の戦場での用兵は不得手である。対してヴァーリにとって戦場で自ら指揮を執る事は至上の喜びであった。
「では程良く戦が楽しめるよう、上意に従いましょう」策が潰されたことに苛立ちはするが、盤上の優位が覆る程ではない。レティーグは気を取り直した。
「あ~、今日も朝まで呑んだ、呑んだ!」ジッタはご機嫌だ。
ローンガルトの騎士はミッデルシアのお上品でストイックな騎士と違い、大いに食べて酒を呑む野放図な戦士達だ。今は戦が近いとあって、士気を高める為と連日の宴だった。
「……なあ、ジッタ。これから稽古しないか?」カロは以前のように誘った。
「稽古なら散々毎日やってるじゃないか?」相手をする近衛達は流石に馬鹿の様に強い。
「俺たち二人だけの稽古だよ」
「何言ってんだ? 今のままでも俺たち近衛より強い奴らなんかいないぜ!」
「近衛の中でも最強になりたくないのか? 戦場では今の俺たちより強い奴に出会うかもしれないじゃないか!」
「それこそありえねえ!」ジッタは首を振ると背を向け去って行った。「さっさと寝ろ!」
「……」カロは家に帰り着くと、その庭で黙々と型稽古を始めた。
故郷で抱いた気持ちを持ち続けるのは間違っているのだろうか。あの時見たドラゴンは今どこの空にいるのだろうか。カロはふと空を見た。
答も、ドラゴンも、そこには無かった。
あるのはただ、蒼い空と白い雲。
―後編に続く―
まだ後編があるのに後書き。何書こう?困った。
言うほど武術書いてないじゃないかって?ごめんなさい。投稿にあたって前後編に分割したらこんな事に。後編に期待してね。一矢とカロが覚触の悟りの境地(現代では簡単に覚悟って言いますが、本来の禅での意味って何やねん?)に至って対決するクライマックスが描かれます。途中武術の薀蓄ばっかり出てくる所が楽しい人は楽しんでください。実際に学んでいる人はあーここはそうだよな、とか共感したり、ここは違うもっとこう書けよとか突っ込んでやってください。薀蓄が楽しくない人はその部分は適当に流し読んで人間模様にやきもきしてやってください。
ありゃ、ドラゴンとの戦いとか戦争まであるじゃない?そっちはどうすんの?って、もう原稿は出来てんですが。あとは最後の調整だけ。
では近い内に。
再見。