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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

GL系

寄る辺なき水霊の見る夢は

作者: 佐々森渓

 出先から戻ってきた私の耳に飛び込んできたのは、リュナの美しい歌声だった。


(リュナ、また歌っているの)


 我知らず足音を消して、彼女を幽閉しているアトリエを覗き込めば、まるで絵画のような姿が目に飛び込んできた。


 久しぶりの、少し明るい空から届く光に包まれて、出窓の外を眺めるワンピース姿の女性がそこにいる。クリーム色の肌によく似合う、クセの強い黒髪を覆い隠すような、刺繍入りの薄紫のヴェールをまとった彼女。

 腰掛けたソファの後ろを探るような、何かを求めているようなその後ろ姿は、歯噛みしたくなるくらい美しくて、強烈な敗北感があった。女として、ではなくて、そういう美しいものを作り出す人間として、だった。


 彼女はよく、知らない国の歌を歌っている。

 それは、彼女が夢見るように語る館で流行っていた歌で、少なくともこの辺りの国の言葉じゃない。

 まるで、呪文のような……たぶんきっと乾いた国の歌。

 そう、例えば今、彼女が纏っている薄紫のヴェールを生んだ国のような……。

 どこか遠い、別の世界にいるように歌っている。

 それだけでたまらなく美しくなれるのだから、悔しくもなる。


「ただいま」


 ちくり、と浮かんだ妬心を覆い隠すように、歌声をかき乱しながら声を掛けると、大きな出窓から外を眺めていた彼女が振り向く。

 ぼうっとした、どこか別の国を見ていた鳶色の瞳が、私を貫く。

 染み込むように歌声がやんで、口元が笑みに歪んだ。


「ええ、暇だったから。お帰りなさい、ルシル」

「ただいま。不便な生活をさせてるわね」


 努めて平静を装って出した声に、彼女は淡く首を振った。


 彼女の世界は、私の部屋で完結している。

 そういう生活を私が望んで、彼女と契約したからだ。

 閉じ込めないと、どこかへ消えてしまいそうな気がしてこわいのだ。

 美しいものは、いつだって儚い。


「不便? そんなこと感じたことないわ」


 そう言って、彼女は微笑んでくれるけれど。

 じゃあ、どうして外を眺めて歌っているのだろう。


 そういえば、出会った時も彼女は歌っていた。

 かなり型の古い、まるで親のお下がりでも着ているんじゃないかと思えるくらいのワンピース姿で、道端で誰に聴かせるでもなく歌っていた。

 よく暴漢に襲われなかったわね、と思う。訊ねれば不思議とそういうことはなかったらしい。私が不細工だからじゃない?なんてリュナは笑っていたけれど、彼女がそうなら、果たして美人の基準はどれだけ高くなってしまうのだろう。

 自覚がない、というのは恐ろしいことだ。けれどきっと、彼女の語る館の中では、彼女は下から数えたほうが早かったのだろう。

 そういう美しいものが集う場所だったのだ。


 ともかく、私はその歌う姿に心を奪われた。何を描くか迷っていた私に、彼女とその乾いた歌は強烈なインスピレーションを与えてくれた。

 だから、あなたを描く代わりに一緒に暮らさないと声をかけた。そんなこと、一度だってしたことがなくて、とてつもなくはしたないことのような気がしたけれど、彼女は笑って助かるわと受け入れてくれた。

 彼女としては身寄りもないしお金もないから渡りに船だったのだろうけれど、私にはそのあっさりとした承諾が、どこか恐ろしく思えた。

 だってそれは、あまりにも世間知らずだったからだ。今ならその理由もわかるけれど、見ず知らずの相手と共に住もうと言われて悩むこともないというのは、危ういという他ない。

 そういう、無垢さを求められる場所だったのだ。


「前の生活と、何一つ変わりがない。それって、とても気楽なことよ」


 私が不思議そうにしていたからか、リュナはふんわりとした表情で教えてくれる。でも、聞きたかった答えはそれではなくて。けれど、誤魔化すようにそれもそうなのかな、と答えた。


「不便と感じるのは、あなたが外を知ってるからよ。私は、もう忘れてしまったわ」


 だから外を眺めるだけなのだろうか。

 だから異国の歌を歌って、遠くへ行ってしまった誰かに焦がれていても、ここに留まっているのだろうか。

 わからない。

 わかりたいのに、何一つ届かなくて。胸の中に澱のような不満だけが積もっていく。

 聞いても理解できないということは、あまりにも、辛い。


「じゃあ、早く外を知れるように、これを完成させないとね」


 それが降り積もることは良くないことだと知っているから、私はその不満を別の形へと組み替える。

 本物の美しさには敵わないと知っていながら。

 けれど、これにもまた別の美しさがあると願って。

 ぎ、とイーゼルの前の椅子を軋ませた。


「はぁい」


 あくびでもするように、ふふり、と笑ったリュナがソファから手を伸ばす。

 サイドテーブルに置かれたパイプに火を灯すと、ゆっくりと紫の煙が昇り始める。

 甘い甘い、幻夢の薫りが、部屋に満ち始める。


 そうして十分に煙が立ち上ると、彼女はすっと、形のいい唇にパイプを挟み込んで。

 一息、吸い込んだ後にわあと煙が吐き出されていく。


 それは、たぶん、この辺りの誰もが想像する、オリエントの香りがする佇まいだ。

 刺繍の入ったヴェールを被った女がタバコを吸う姿は、まるで未知なる大発見を知らしめようとするかのように新聞に載っていることもあったし、物の本にも仰々しい文句と共に書いてある。

 けれどそれをしているのは、オクシデントの香りがする顔形の人間で、サロンにでも行けば見ることのできそうな姿。だけども、そういう場所にありがちなかぶれ(・・・)ともいうような浮ついた感じがないのは、やはり彼女がそういうものに慣れ親しんでいたからなのだろう。


 ソファの上にだらしなく寝転がって、あなたもどうかしらと誘うように鳶色の眼を細める様は、ぞっとするほどに魅惑的だ。

 その国の人たちとは違う、少し襟ぐりの深いワンピースを着ているから、その大きな乳房に至るなだらかな道が開いていて、私の視線を吸い寄せる。微かに付いている赤味が、虫を誘う灯りのようで苦しくなる。


「はじめないの?」


 ほりん、とグラスの縁を撫でたような透き通った声で指摘されて、私は視姦に夢中になっていたことに気づく。

 悪戯っぽく微笑みながら片足を持ち上げて、ワンピースの裾を翻してみせる彼女は悪魔のようだ。

 その付け根に、何もないことを知っているから、目が吸い寄せられる。

 まったく、いつもこう。いつもいつも、座ってからが長い。


「ごめんなさい、当てられてたわ」

「あら、ほめてもなにもあげられなくてよ」

「いつもサービスしてもらっているものね」


 くすりくすり、笑いながら彼女は煙を吸い込んで。

 夢を、夢を語り出す。


 それはもはや地上のどこにもない館の話

 それは本当にあったのかわからない館の話

 それは彼女が愛した、一人の女の話。


 最初は対立関係にあったこと。年を重ねるにつれて、折り合いをつけて行ったこと。

 あることがあって、体を重ねたこと。それから定期的に求め合うようになったこと。

 そして、外に出たら共に暮らそうと約束して、引き裂かれたこと。


 何度も繰り返し聞かされた話だ。

 私はそれを寝話のように聞き流しながら、彼女の形をキャンバスに掬い上げていく。

 切り取った平面を、瞬間を、出来るだけ立体に、時間を感じられるように、執拗に絵具を塗り込んでいく。


 私は、下手だ。

 もうすぐ描き上がりそうなこれだって、果たしてどれだけ元の輝きを切り取れているだろう。

 冷静になってしまえば、引き裂きたくなるに違いない。

 だから目をそらして、必死で手を動かし続ける。


 私と、彼女だけになるために。


 ***


「ルシル、今日はもうこっちにするの?」


 気づけば、リュナを押し倒していた。その頬に絵具を塗りこむように、乾いた指先で何度も何度も撫で回していた。

 彼女は寝起きのような茫洋とした表情を浮かべていて、その目の中に、感情をうかがうことはできない。


 こういうことが、時折ある。

 それは、紫煙に頭がやられているからなのだろうか?

 どうしてなのか、わからなかった。


「ごめん、また、私……」

「平気よ。平気。あなたは、優しいもの。痛くしないし、苦しくもしない。ただ、撫でているだけよ?」

「でも覚えてない」

「じゃあ、覚えているうちに、する?」


 ふふふ、と柔らかく微笑まれると、誘いの中に溺れてしまいそうになる。

 彼女の体は柔らかくていい匂いがするから、抱いていて、とても気持ちが良くなってしまう。

 

「いや?」

「いや、じゃないけど……指を、洗わないと……それに、筆も」

「そうね。そうしないと、ガサガサするものね。じゃあ、一緒にシャワーを浴びましょう?」


 何がどう、じゃあ、なのか。

 私にはよくわからないけれど、彼女の中ではきちんと繋がっているのだろう。

 結局、誘いを拒むことはできなくて。

 一緒に道具の掃除をして、シャワーの中で彼女を貪ってしまった。


 たくさんの泡とお湯に包まれた彼女の体は、寒い日に食べるコトコトと煮込んだシチューのように甘く温かで、私を掴んで離してはくれなかった。


 そうして、のぼせそうになるくらいにシャワーのお湯を無駄遣いした私たちは、適当に体を拭きあって、同じベッドに入った。

 私たちの匂いが染み付いた、質素なベッド。

 私の寝る側からは、乾くのを待つキャンバスがよく見える。


 私の執念と多量の絵具が練り込まれた画布は、周囲を捻じ曲げているような不思議な感覚がした。

 それこそこの絵に向かって何もかもが落ちていくような、そういう不思議な重み。

 それは、美ゆえの吸引力なのだろうか。それとも、私の執念という名の重力なのだろうか。

 見ていると、恐ろしい気持ちになってくるような気がして視線を逸らした。


 今は、腕の中に彼女がいて、そして手放そうとしなければどこにもいかないのだから。

 何も、恐れることはないのだ。

 なにも。

 なにも。


 ***


 それから少しして、絵は完成した。させた、と言ったほうがいいかもしれない。

 打ち切らなくては、いったい、あとどれだけの絵具を塗り込んだかわからなかった。

 そのせいか、キャンバスはいつもより重いような気がして、手渡した画商にも首を傾げられてしまった。


 あれはいくらで売れるのだろう。

 しばらく食べるのに困らないくらいで買ってもらえるのかな。

 昔ならともかく、今は養う相手がいるんだから、少しでも高く売れてほしいな。


 そんなことを思って店を後にした。


 その絵が、驚くほどの高値がついたと聞いたのは、それから少ししてからだった。


 手渡された皮袋の重みが嘘ではないと知って、私の胸に舞い降りたのは喜びではなく恐怖だった。

 その値段は、やっぱり私の腕ではなくて、彼女が美しかったからなのだろうし、だからつまり、それは彼女の価値ということでもある。

 私みたいな下手くそが描いた、ホンモノよりも、はるかに劣化したそれでこれだけ重いのだから、彼女自身はどれほど重いのだろう。

 あの柔らかでいい匂いのする肢体は、どれだけのものと交換できるのだろう。


 もちろんする気はないけれど、ない、けれど。

 ただ、妄想はしてしまって、そんな妄想が申し訳なくて。

 私は持ち帰った皮袋を、彼女に押し付けた。


「これは、なに?」

「お金。あの絵の、値段」

「ふぅん」


 興味なさそうに受け取った彼女は、皮袋いっぱいの金貨を、その、手入れのしっかりされた、艶々の細い指で一枚一枚テーブルに広げていく。

 重さでわかってはいたけれど、改めて目の前に並べられると、それは向こう一年は普通に暮らしていけるだけの金額だった。


「これが、あの絵の」

「あなたの価値よ」

「ちがう」


 ピシャリ、と叩くような口調だった。つい言ってしまった不躾な言葉は、強い力で否定された。


「これは、あなたの、腕の、価値。私みたいな人を描いてこれだけのお金がもらえるんだから、それは、あなたの腕ということ」

「でも、今までは」


 もっと安かった。値段がつかないこともあった。見向きもされないで、帰ってきたそれを焼き捨てたことだってあった。


「それは、相性」

「相性?」

「そう。あなたには、あってなかった。そして、欲しい人にも、あってなかった。それだけの話よ」

「……そう、なのかな」


 私にはわからない。

 もう、わからないのだ。


「……ルシルは、疲れてるのよ。それと、驚いちゃったの。こんなお金、もらったら誰だって驚くし疲れちゃう」


 ぎゅっ、と彼女が抱きしめてくれる。

 頭を撫でてくれる。柔らかな、いい匂いが、鼻いっぱいにする。


「だから、約束通り旅に出ましょうよ。ここから出て、あの子を探しながら、元気になったら絵を描いたりして、旅して回りましょうよ」


 その声音にはどうせ見つかりっこないのだから、仲良く旅をしようという色が見えた。


「でも、不安よ。あなたが、その子と再会したら……」

「離れていくかもって?」

「うん……」


 私の答えに、彼女は肩を揺らして笑った。

 何がそんなにおかしいのだろう。


「私はあなたのものよ。それは、どこまでいっても変わらない。違うの?」

「そんな……」

「私の世界は、あなたの部屋の扉と窓と壁が(はて)よ。そうあって欲しいと、あなたが望んだんでしょう」

「そう、だけど」

「それが少し広くなるだけよ。そう、それはきっと、海って言うような、そういう歩くことのできない空間が広がるだけ」


 つまり、どれだけ世界を広げても、彼女は私の隣にいてくれる?


「そんな世界……あなたは、どう、なの?」

「どうあって欲しい?」


 その無垢な問いかけに、私は息を呑んだ。

 彼女は、本当に、心の底からこの言葉を口にしているのだ。

 彼女にとって、世界とは誰かに見つめられる、区切られたものでしかないのだ。

 それは、私の描く絵画と何も変わらない。

 なにも、なに一つ。

 私が望むままにできるということも同じだ。


「私は……」


 ***


 汽車が警笛を鳴らしながら線路を進む。

 もうどれだけ国を回っただろう。短い間にいくつもの国に触れすぎて、よく、わからない。

 違いも小さな国々だから、なおのこと。


「ねぇ、ルシル。次はどこへ行くの。どこへ、あの子を探しに行くのかしら」


 最新の服と帽子をきた、美しい女が私の前の席で笑っている。

 その指に、既婚を示す指輪をつけて。

 その首に、私の名を刻んだ首輪をつけて。

 美しい鳶色の瞳で、窓の外をぼうっと眺めている。

 眺めている景色なんて、ただの絵でしかないというみたいに。その目の中には、本当には何の色もない。


「そうね、次は海辺の国よ」

「海?  私、海は初めてよ。浜辺っていうのを歩きましょうよ。一緒に、はしゃいでみましょうよ」


 楽しそうに口にする彼女に、私はこれでいいのだと頷いて。

 その、茫洋とした横顔を、また一枚、絵に起こしていく。


ここまでお読みくださって、ありがとうございました

この物語を気に入っていただけたなら幸いです


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