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水鏡

作者: 桜 夏姫

 私は人が嫌いだ。

 世界が嫌いだ。

 私が死ぬほど苦しい時に助けてくれなかったから嫌いだ。


 誰もいなくなった灰色の冷え切った自習室で、一人本をめくる。本の中の世界の人は、紙の上から消してはい出てこない。それなのに、時々、痛いほど強い想いを持った言葉たちが私の胸の中に飛び込んでくるときがある。それは哀しみだったり、嬉しさだったり、図星であるが故の苛立ちだったり様々な感動を私のカラカラに乾いた心に与えてくれる。

 めでたし、めでたしで物語は終わるとは限らない。

 筆者が筆をおいても物語の中の人たちはまだ旅を続けないと行けなかったり、戦い続けなかったりする。中には、謎が謎のままで終わってしまう不完全燃焼な終わり方をする物語がある。でも、私は案外この謎が謎のままである状態が好きだ。謎が解けてしまったら飽きっぽい私はその時点で簡単に興味を失ってしまう。だから、永遠に答えがわからないとなんだかずっと頭の片隅にその謎を置いておける充足感が私を繋ぎ留めてくれるからだ。

 本を閉じる。耳に痛いほどの静音が部屋には満ちていた。閉じた本を鞄の中に片づけると急に現実ってやつに引き戻される。この本を閉ざすみたいに私の人生も簡単に幕を下ろせればいい。死んでしまいたい。けれど、約束してしまったから私は自殺できない。もう、こんな世界にいたくない。それなのに、たった一つの約束だけがどうしようもなく私の動きを鈍らせる。チャックを閉じる音が、白い壁に吸い込まれていく。



 帰路の足は重たい。休みの日。父もいて母もいて妹もいる休日が大っ嫌いだ。早く学校が来ればいい。人間関係はめんどくさいけれど授業中は教科書とノート、黒板に集中して、休み時間だけフラッとどこかに消えてしまえばいい。玄関のドアを回す手がだるい。自分の家のドアだというのに、心臓が早鐘を打ち出すほどに緊張している。

「話を元に戻さないでよ。今は、×××の話をしているの!」

「まだ俺の話が終わってないだろう。だいたい、お前はっ」

 嗚呼、もう何も見たくないし何も聞きたくない。家の外まで聞こえる怒鳴り声に、うつむく。黒い働きアリが、せっせと家から物を抱え逃げ出す。ただ茫然とその姿を見送る。暦上ではもう秋だ。夜になるにつれ空気がだんだん張り詰めて、吸い込む空気が冷え込んでくる。いい加減、家の中に入らないと風邪をひく。風邪をひいたら、看病をしてくれるだろうか。それとも自業自得だからといって放置されてしまうのだろうか。もう、私がこうして玄関の前に立ち続けて一時間以上たつというのに、誰も気が付かない。ここにいるのにまるで透明人間になってしまったかのように実態がない。いないのなら、いる意味なんてないのかもしれない。大きく息を吸い込む。どうせ、酸素をはじめとし資源を無駄に食い尽くすだけで、何をなしうるわけでもない命だ。いっそ、ここで終わった方が地球のためになるのかもしれない。


「ただいま」


 わざと大きく足を鳴らし、乱暴な動作でドアノブを回す。いっそ、死んでしまった方が……私さえ生まれてこなければ大好きな母さんも父さんもこうして互いを貶め合い、責任を押し付け合うことはなかったのかもしれない。声と同時に、風を受けてばたんとドアが、打ち付け軋む。罵声が一時的に止まる。痛いとその音は悲鳴を上げているようだ。

「「おかえり」遅かったな」

 帰ってくる声には、まだわずかに温かみがあった。これすら消えてしまったら、ここに帰ってくることなんてできない。そうなったら、どこにも居場所がなくなってしまう。そんなのは嫌だ。この地球上で唯一私が帰ることを許されていると思いたい場所すら、焼失してしまったらもう本当に、どうやって生き続けたらいいのかわからなくなる。

「ただいま。十冊しか借りられないから、借りる本に悩んじゃって。結局一冊読んできちゃった。もうすぐ、ごはんの支度だよね。母さん、手伝うよ。今日のメニューは何?」

「ハンバーグよ。手伝って」

 いつからだろう。

 心臓に攣ったような痛みが走るようになったのは。もうずいぶんと前から、この家の酸素が薄くなってしまった気がする。ポンプを繰り返し押し出して真新しい泡を取り出して、湿った頬へ押し当てる。まっさらな石鹸がぶくぶくと泡立ち、ぱちんと破裂して壊れていく。野外でまとわりついたホコリや土を包み込んだ泡が、排水溝へ吸い込まれていく。冷たい水が、じりじりと指先に熱を集めていく。

 かぴかぴになるほど太陽光を浴びすぎて干からびたフェイスタオルに手形を二つ押し当てる。黒いしみが、じわじわと広がっていく。こんなんなら……こんなに世界が見にくいのなら知りたくなかった。死に底なった蝉がまだどこかで鳴いている。

「まだー」

 台所から催促の声がする。「今行く」と短く鼻にかかった声とかぶせるように、「うるさい」と理不尽な太い声が飛ぶ。メッキは、まがいものだ。本物にはなれない。だから、こうして剥がれ落ちて綺麗じゃない部分を日の目にさらすんだ。



 鬱蒼と茂った、雑木林の中をあてもなくさまよう。黒に近い緑の葉が幾重にも重なり、不気味さを感じさせる。 カァーというカラスの鳴き声とともに、バタバタバタと騒々しい羽音が耳につく。湿った枯葉を踏んだ拍子に体が傾きそうになり慌ててバランスをとり直す。

 べったりと張り付いた苔の道の先に、蒼がひろがっていた。留まることなく流れ続ける川の水を呆然と眺める。何処までも流れ、いつかはこの水も海へたどりくのだろうか。泥に汚れ、塵に汚染され、塩気を帯びたあの残酷なまでに広大な海の一部となるのか。小さな滝が、岸壁に打ち付け水の音を鳴らす。日の光がキラキラと水面に反射させて、世界をより美しく写し取る。深い緑の臭いが、髪を撫でつけて足を止める。

 何かに誘われるようにして、衝動のままに靴をぬぎすてる。素っ裸の足の裏を尖った草のてっぺんがくすぐる。川の水に触れる石の上に腰を落とす。


「このまま世界に溶けちゃえたらいいのに」


 ひんやりとして心地よい水と触れる。

 川の一部になって、そしていつかあの海の一部になって、人間なんてやめられたらいい。人魚姫はずるい。好きでたまらない人を助けることができて、その人の傍へ行くための手段を声と引き換えとはいえ手に入れられた。結局王子様と結婚はできなかったけれど、大切に愛されていた。姉達が美しい髪を犠牲にしてまでも惜しくないと、妹姫の存在と生を渇望して迎えに来たのに……ずるい。


 ぷくり、ぷくりっ。


 気泡が向こうの川岸の方で浮かび上がる。だんだんと大きくなったその気泡の向こうから大きな影が、身を起こす。しぶきが舞う。きらきらとした水しぶきが、水面には波を生み出していく様をただ茫然と見ていた。

 褐色の肌に青い目をした男の子。鍛え上げたれたみなれない肉体は、水と混ざり合っているかのようだ。異国情緒あふれる彼の容姿は、まるでついこの間読み終えたばかりの恋愛小説に出てくるようだ。ハーフなのだろうか。肌も目の色も私とは違う色だけど、その顔立ちはどこか親しみを持てる男の子。


「なんだよ。お前も俺が嫌いか」


 バクバクと全力疾走した後のように体の真ん中でドラムが鳴り渡る。避難の色を色濃く纏わせた青の目が、まっすぐと見ている。まだ声変わりしていないのだろうか。澄んだ声を鋭くとがらせて、表情豊かに顔を歪ませている。


「嫌い。人間はみんな大っ嫌い」


 考えるより先に言葉が出ていた。早口に声を震わせた後、ヤバイと思ったけどもう取り消しはできない。この世界にはリセット機能なんてない。不便で、それでいて一度しかない世界。


「お前だって人間だろう。馬鹿じゃないか」


 せせら笑われた。名前なんて知らない。一度見たら忘れられなさそうな綺麗な顔だ。見つめたら真っすぐと見つめ返されるその青い瞳に悪い感じはしない。だから、つい悪い癖が出た。


「馬鹿じゃないわ。だって、私は私のことが死ぬほど大っ嫌い」


 声は興奮したように震えを帯びて、どんどん大きくなっていく。試したくなる。今、私と言葉を交わしてくれている人がどんな人間なのか知りたくなる。知りたいという欲が、隙間風のように心の中に吹き抜ける。


「何だってそんなに嫌いなんだよ」


 伏し目がちに、どこか遠慮しながらも、ぼそりと聞いてくる。私のものさしで世界のすべてを測れるなんてありえない。それはただの傲慢だ。それでも、私が世界を履かれるのは私が今まで見て聴いて知っていることを組み合わせてできたものさししかない。


「私を助けてくれなかった人はみんな嫌い」


 言葉が、自分の言葉ではないみたいにするすると吐き出される。うわべをなぞっているだけの女友達同士のつまらない会話なんかと違って、本当にそう思っている言葉が吐き出されていく。


「何だよ。それ理不尽すぎるだろ。でもそうか、あんたは、俺がこんな見た目をしてるから嫌いなんじゃなくて。人間だから嫌いなのか。変な奴。そんでもって、俺より生きにくそう」

 同情して男の子はしばし黙りこくった。うつむいているから表情なんてわからない。でも、なぜか鼻で笑われた。抑揚のないそのつぶやきの内容には、ムカついた。いくら秋に入り始めたからといってまだ日差しは強い。魚がはねる音がした。


「なぁ、あんたは俺のことどう見える」

 その声には追い詰められたものが特有の響きがあった。だから、嘘は良くないと直感的に思った。


「結構綺麗な顔してるくせに言葉遣い最悪。そのくせ、こっちの本音をなんか引き出させるのがムカつく。でも、あんたからは私を必要以上に見下す感じも変に気を遣う感じもしなくて楽。行きずりの関係だからかしら」

「綺麗な? ショタコンなのか。それってやっぱ普通じゃないってことだろう。なぁ、でも何でこの色を気にしないの」


 噛みつくような質問に、目を細める。足の先っぽで川の水をかき上げ、跳ね飛ばす。


「気にしてほしいの? そういわれてもねぇー。私の幼なじみの両親は中国人なの。つまりその子って日本語ペラペラで、黒目黒髪なのに日本人じゃなくて中国人ってわけ。でも、それと私が彼女と友達であることもケンカして、たくさんぶつかり合うことは関係ないし。ケンカするのは単純に似た者同士の同族嫌悪が原因だもん」


「喧嘩するのか。凄く見た目と合わないな」


 儚げと称するのがしっくりくる細身で低い身長にゆるい三つ編みをした白いワンピースを着た少女が海面に映る。私は野山を駆け回るのが好きだ。本を読むことも好きだけど、押し花を造ったり、綺麗なシーグラスを集めたり、ミミズをつかまえて亀のエサにしたり、蛇苺や野イチゴをつまみ食いしたりそういうことの方が楽しいと心の底が沸き立つ。


 でも、それは望まれていない。私は女の子で、お姉ちゃんだ。見本にならなきゃいけない。あの人たちに相応しい娘でなければだめなんだ。カサカサになった喉に張り付いた声を無理やりはがすように言葉を発する。


「そう? それなら、きっと擬態がうまくいっているだけね」


 ぺろりと唇を舐め、言葉をつづける。


「まぁ、なんていうの。他にも、フィリピン人と日本人のハーフの子とか、台湾と日本のハーフの子とかさ、いろいろと普通に周りにいたせいで、あんまり外国人とか見た目とか気にしないのよね。気にしないっていうより気にできないというか。気にならないというか。性格のいい子は素直にいいなって思えるし、趣味が合う人と葉なんかうまくやっていけそうな気がする。故意ではないとはいえ怪我させられたら逆恨みでも何でも嫌いって思うもの」


「俺は、結構言われて堪える。母さんと父さんはすごくラブラブで、ホント、今でも、ウザイくらい。全然熱が冷めないんだよな。好きで国際結婚してさ。俺はでもここしか知らない。もう一つの自分のルーツなんて知らないけど、こんな見た目しているせいで結構間違われて迷惑だ。俺は同じなのに、外国人扱いとか本当にムカつく」


 お互い名前すら知らない。何処に住んでいるのかも、誰なのかも知らない。だからこそ、隠していた本音が話せる。ここだけの関係だからとどこかで信じている。ここは、今この時、この場所だけは現実であって現実ではない場所。緑と水が覆い隠す異界。


「日本人なのは、国籍? 心? 血液?」

「あん?」

「別に、いいと思うよ。あなたの考えは考えでいいと思う。でもさ、それってあなたの片親のルーツを全否定しかけてない? 向こうは向こうでいいことも悪いこともあるし、こっちはこっちでいいことも悪いこともある。たぶん、気の持ちよう次第で、いいことが二倍になるし悪いことが二倍にも膨らむ。どうありたいかくらいは、自分で思い描きたい」


 たとえそれが現実にならない夢物語に過ぎないとしてもだ。ただ、好きな人を否定し続けるのは苦しい。嫌いたいけど本当に心の底から嫌いになれない。だからといって素直に好きにももう慣れない。私が知っているのは否定されるのが凄く悲しくて寂しくてつらいということ。信じてないと言われた言霊が、今も私を縛り続け苛む。


「俺が悪い所ばっか見てるって? でも、確かに母さんの文化を知りもしないで嫌うのも悪いよな。すっげぇーうまいもんだってあるかもしれないしな」

「そうそう。綺麗なモノだって、楽しい音楽だってあるかも。聞いて見なよ」


 無責任に、相手の心に踏み込んでかき回して笑う。言いたい放題言って、逃げる。私は今一番自分がされて嫌なことを平然としている。本当に人間は嫌いだ。私は私すらも嫌いだ。これだけ言葉を交わしているのに、幾つなのか、どこに住んでいるのか、どこから来たのか、誰なのか、名前は、そんな質問はどちらも意図的にか偶然にか口にしない。


「そうする。俺、そうか。まだ世界を半分も知らなかったってことか。俺にはもう一つ世界があるのか。なんかそれカッコイイな」


 二かっと笑って、闇を振り払うその陽だまりが羨ましくなる。いつから、私は素直に笑えなくなったのだろう。死にたがりの私に、母さんは「あなたが死んだら私も後を追うわ」と言った。重すぎた。死ぬことで、すべてから解放されたいと願うのに、これでは死んだ後の方がずっと罪深い。死にたいと思うほどまでに追い詰められた始まりは私の過失。事故とはいえ、人を傷つけた。その治療費の事で、みんな揉める。傷つけた相手が同い年だったらまた違っただろう。傷つけた相手が妹と同い年でなかったらまた違っただろう。ただ、止めようとしただけなのに。


 目の前に大きな影が落ちる。空がかげる。

 伸ばされた手が頬を容赦なくつねり、引き延ばす。皮膚が、ひっぱられる痛みに、涙腺が刺激される。


「な、泣くなよ。あんた、俺より年上だろぉ」


 パッと手を放し思いっきりうろたえる。

 泣くつもりなんてなかった。だけど、一度決壊した防波堤はそう簡単には復旧されてはくれなくて、頬に滴が伝う。ぼろぼろとみっともなく零れた涙が、渇いた石を黒く染め上げる。


「ごめん。ごめんなさい。悪気はなかったんだ。痛いか? 大丈夫か?」


 うっすらと色づいた頬を割れ物のようにそっと触れ、今にも泣きだしそうな表情で私を見つめる。「俺は悪くない」そう言って、逃げ出すことだってできたのに、そうはしない。それは、この子を形作ってきた環境が、そう育ててくれたのだろう。さわさわと葉ずれの音が鳴る。かわいいと思った。綺麗だと、心が浮き立つ。


「大丈夫だよ。ごめん。大丈夫だから」


 涙声では、説得力が欠けていて、余計に心配させてしまったようだ。「大丈夫」、たった数文字の言葉を何度自分に言い聞かせただろう。「大丈夫」でなくなってしまうのが怖かった。異国情緒漂う男の子の年齢なんてわからない。だけどまだ高いボーイソプラノに、あの時自分がけがを負わせてしまった相手と同じくらいだと思い、鼻の奥がツーンとなる。


 私はただ危ないから止めたかっただけだった。最上級生と、妹と同い年の二つ下の男の子のチャンバラごっこ。一年生から六年生まで班ごとにわかれて清掃する掃除の時間。大きく振り回すたわしやモップ、ワイパーがいつ、まだ幼い低学年の子たちに、その矛先が当たるかひやひやしていた。五年生だから、私しか止める人がいなかったから……私が止めないとダメだと思った。まだほんの少しだけその男の子より強かった力でワイパーを取り上げた。


「ねぇ、本当に大丈夫? 泣きたいときは泣いちゃったほうがいいってばあちゃん、言ってた。がまんばっかしてくと、身体によくないんだって」


 おそるおそる伸ばされた手が、とんとやさしく頭に触れる。

 水にぬれていても感じる小さくて温かい感触に、胸の弱い所を刺激されて嗚咽をあげる。


 あの事故の瞬間――――――掃除の終わりを告げるチャイムが鳴って、片づけずに教室に戻ろうとするその子に私は怒った。


 もう何度も、オネガイした。何度も注意した。何度も、何度も言葉を紡いできた。だけど、言葉も思いも何一つはねのけられ続けて、とうとう私は掃除道具を男の子につき返した。柄の真ん中程をもって「はい、ちゃんと片付けなさい」って相手の眼前に突きつけた。


 毎週金曜日は、外のピロティ―と階段を水で洗う日。男の子にワイパーを突き返した拍子、少し大き目の砂利と濡れた足場、たった一段だけの段差に滑って、気が付いた時には男の子がうずくまっていた。つんのめった体勢から顔をあげる。「歯が!」って叫ぶ男の子と少し離れたところ横たわるワイパー。隅に転がる白い歯の欠片。


「ごめん。ごめんなさい。でも、もうちょっとだけこうさせて」


 謝りたかったのはどちらの男の子だろう。あの時すぐに謝って、それから保健室に連れてってあわただしく男の子は歯医者に運ばれた。私はただ教室に戻された事件としてクラスに駆け巡った話を聞いていた。身を小さく縮こまらせて、大事に至らないことを祈っていた。両親とともに謝りにもいったんだ。事故だった。でもそれは私の不注意。


 私は悪だった。


 どんなに普段いい子でいても、先生たちは一方的に私だけを悪者にした。私の言葉は何一つ信じてもらえなかった。事故だと思いたかっただけで本当は、私が暴力を振るったのだろうか。暴力もケンカも危ないのが嫌で、止めたくて始めたことなのに、誰よりも嫌なことを自分がしていた。ぐるぐるぐるぐる思考が回る。


「俺さ、今までずっと仲間はずれされているみたいに感じてた。自分だけ、他のみんなと違うのがすごく嫌だった。わかってもらえないのがすごく悔しかった。どうしても、どうしても、肌の色も目の色も変えられなくて、鏡見るのが気持ち悪かった。なんで俺だけ違うんだろうって、母さんに当たった。頭冷やしたくて、飛び出していつの間にかここに来てた」


 顔をあげると、どこか大人びた表情をした男の子。きゅんとして、惹きつけられる。私自身が誰よりもあの時のことを許せない。ぎゅっと抱きしめ返してくれる小さな命。それはとても尊くて、綺麗で……守りたいもの。傷つけたくなんてなかった。それなのに、どうしてああなったのだろう。もう、三年も過ぎて中学生になったのに、いつまでも捕らわれる過去。パラパラと葉が枝の先から散っていく。


「俺の肌も目の色も親からもらった大事なものだったから、周りにそれを汚らしいものみたいに扱われて嫌だと思った。何にも知らないくせに、俺の行動一つで親の評判が悪くなる。何もしてないのに。早く走れても、漢字が苦手でも……他の子みたいに褒められたり怒られたりしないで、しょうがないよねって感じで壁があるのが悔しかった。それなのに、俺は、母さんが好きだっていう気持ちと、こんな体なんて欲しくなかったっていう気持ちが混ざり合って……」


 どこか湿っぽい声で、想いを紡ぐ名無しの男の子。


 私がかつて、あの男の子に怪我をさせて、両親が呼び出されたり慰謝料だとかの話し合いとかに出るようになった。大好きだった父さんが母さんに「お前の育て方が悪い」という言葉をはじめに、相手をののしる。それを受けて母さんは「だったら、あなたは何をしてくれたの? 何もしてこなかったじゃない」と返し、徐々にヒートアップする口げんか。それを見るのが嫌だった。箒を振り回した争いを止めたくて、私の中のちっぽけな正義と勇気をもって起こした行動が、火種となって、一番大切な家族が争い出す苦痛。


「好きなものを、嫌いになるのは難しいし苦しい、よね。大切なものを一番自分が否定していたことがもっと嫌だった、んだね」


 すんなりと天から降ってきた言葉を、男の子に言い聞かせている風に装い本当は自分に言い聞かせていた。


「そう、それ」


 弾んだ同意の声に、心が温かくなる。私は、人間が好きだった。嫌なところもたくさん見た染みにくさも愚かさも知り始めている。でも、それでもやっぱり寂しんぼうの私は人のぬくもりがないと生きられない。水面に、渇いた涙の痕を頬に張り付けた、目をはらした不細工な顔が映る。だって、私は私が大好きなんだ。弱いけど、何でも抱え込む悪い癖があるけど、すぐ逃げるし、すぐ泣くし、正確だってあんまりよくないけど、私は私のことをずっと嫌いになりきれなかった。


 そのまま川の中に勢いよく顔を突っ込む。眼球が、突然入り込んだ水が痛いと泣く。だって、私が私を嫌いになったらもう誰も私を愛してくれる人がいなくなってしまうような気がして怖かった。目を大きく見開いて川の中の世界を除く。名前の知らない細長い魚が、ぎょっとした様子で、進路を変える。


 誰かを嫌い続けるのも世界を恨み続けるのもひどく疲れる。楽しいことや嬉しいことは長続きするけれど、マイナスの感情は精神を摩耗させてばかりだ。そろそろ息が苦しくなってがばっと顔をあげると、長すぎる前髪からぽたぽたと大量の水が服を濡らす。


「ありがとう。名無しくん。なんか、うん。何にも変わんないんだけど、なんか変わりだした気がする」

「なにそれ。俺は、吹っ切れた。俺は俺だ。どうせ一度きりしかないんだし、あんたみたいに後悔はしたくない。あぁ、帰ったら母さんに謝らないと」


 滴り落ちる水を、フェイスタオルでぬぐうと、なんだか気分がさっぱりした。


「うん。謝ったら、お母さんの故郷の話聞いてみたら?」

「いいね。それ。そういえば、家に出る料理ってほとんど和食や洋食だったなぁ。無理してたのかな? 今度、うまい料理があったら、作ってもらうわ。泣き虫なあんたは、どうするんだ」

「私は……」


 先のことを考えると不安になって心細くなる。あの時みたいに間違えた洗濯をして誰かを傷つけたらどうしようと身が震える。ただ、静かに答えを待たれている。そのことに焦りが生じて、うまく考えがまとまらない。それに苛立って強く二の腕をつねる。


「頭硬すぎるだろう。俺、そこまで深く聞いてないんだけど」

「あ、うん。ごめん。私は、どうしたいんだろう。私がどうこうしたって、あそこまでぐじゃぐじゃな家庭環境をどうにかできそうにないし、特に夢とか目的があるわけじゃないんだよね」


 原因が私にあるのかもしれない。そうわかっても、もう何をするにも手遅れという感じがする。そもそも、二人の間には初めから愛などなくて打算しかないと知っているから、なおさらだ。両親は不仲でも私の前では親という姿を取ってくれる。それは私が押し付けたものかもしれないけれど、仮面かもしれないけれど、そのままであってほしいと思ってしまう。母親や父親や娘という関係性が辛うじて家族の形を繋ぎ留めている。


「生きてて楽しい?」

「つまんないね。でも、死ねないの。だって、約束したから。一緒にタイムカプセルあけるって、友達と。だから、とりあえずそれまでは生きなきゃって思ってはいるんだ」


 膝を抱えてぼそぼそと返す。人が聞いたら嗤いそうなこと。でも、私には何より大切な未来の約束。たとえ相手が忘れてしまっていたとしても、忘れない。それを責めるかもしれないけれど、嫌いになれない。離れ離れになった大切な親友との約束だから、私は果たしたい。


「約束、したら生きられるんだ。じゃあ、俺と約束しない?」


 胡座を組み、握った右手を顎にふれたその姿勢で、男の子は小悪魔のような声でささやく。ちょいちょいと手招きされ口元に耳を近づける。呼気が耳にかかりくすぐったい。誰もいないから普通に話せばいいものの、こういうのにはこういうのなりの風情がある。



「えっ」




 いつか誰かに行ってほしかった言葉。でも、私がもらうことはないと思っていた約束。

 たとえその約束がかなえられないとしてもかまわない。約束の先という幻想が私に前に進む力を与えてくれる。


「二回目は言わない」

「うん、ちゃんと聞こえていた。約束だよ」


 小指を絡める。お互いどこかで叶わない約束だとわかっている。だって、私たちは互いの名前も、住んでいるところも何一つ知らない関係だ。分厚い雲にせき止められていた太陽の光が男の子に当たる。まるで、男の子自身が光り輝いているようだ。


「待ってろよ。じゃあな」


 強い太陽光が水面から反射し視界を一瞬だけ白く焼く。反射的に目を閉じる直前に、こちらに向かって手を振る男の子の姿が網膜に張り付く。強い風に、長い前髪が攫われる。そっと瞼を開いたその先には、もう男の子の姿はない。風を受けて舞い上がった葉がくるくると地上へと足を付ける。


「ユメ?」


 瞬く間に姿を見失った男の子。いくら速く走ったとしても、まだここから見えるはずだと辺りを見回すけれど人っ子一人いない。足音すら聞こえない。男の子が、水から上がった時に濡れたその一帯だけが、黒く小石が変色していた。

「ううん、きっと現実。約束したもの。約束は守らなきゃね」


 立ち上がる。まだ右の耳には、男の子の言葉が残っている。去りゆく雲を名残惜しむように、今この時を惜しもう。


「シ――ラァ。ソー、ミー。ファぁ――――、ラシドミ」


 意味のない音を発する。鼻歌交じりのそれは独特の旋律を以て川の上をすべる。言葉という形に押し込めてしまうのがもったいないこの感動をありのままに表現する。誰が聞いているわけでもないから、恥ずかしがる必要がない。

 小枝を避けるようにスキップし、舗装されていない土の道を歩む。両親にばかり縛られていないで私は私の道を進もう。私は、約束を果たす。だって、それが私の信念だから。がっかりされないように、綺麗になろう。あの綺麗な男の子に恥じないようにあろう。大切な大切な私の未来の約束相手。だから、今日を頑張って生きられる。


 ―――――――迎えに行く。約束だ。

 私は小さく微笑んだ。目の端から一粒だけ涙をこぼし、拭う。そしてスマートフォンの通話ボタンを押す。


「もしもし、私。……あのね、帰ったら話したいことがあるの。だから、聞いて欲しいな。……うん、ありがとう……」


 その願いが果たされる遠き日を夢想して、私は今を生き続ける。これからも、この先も。おとぎ話を夢見続けて。

 顔をあげた世界は、どこまでも美しくていとおしかった。



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