風と共に紫花よ踊れ―Ⅳ
「ん〜っと、アルスが言ってたのはっと……」
カールスルーエの駅はこのホテルの玄関口からでも視認できる位置にあった。
チェックアウトをすませたら駅まで送り届けていく、というアルスの厚意のもと彼の用事が終わるのを待っている間、イリヤは近辺をぶらぶらと堪能していた。
夜の娯楽都市として機能している『箱庭の楽園』と呼ばれる所以か、日の入り始めは長閑らしい。
「楽園、ねぇ……駅はわりと近けーもんだな」
就寝前にアルスから渡されたパンフレットによると、駅と支局を挟んだ一角にワッフルの美味な準喫茶があるという。
彼の用が落ち着いた日には二人で寄ってみないかと提案を持ちかけたのだが、死神はぽけーっと自分の顔を見つめて無言になるばかりで、まだ良からぬ幻想を抱いていたのだろう。
……上半身を見た時点で充分に察してもらいたいものだ。
「あいつも昨夜からノリ悪りーしよ。まあオトコなんて所詮そーゆーモンだろうけどさ、あいつの場合ちとばかし極端す――」
坂道の方向から地鳴りがする。行商の荷車が向かってくるのだろうが、音の激しさから考えると明らかに人の手で引けるような速さではない。
「よけてくだっさーーーい!!」
鼓膜を重機で突貫されるような悲鳴に近い叫び声とともに、若い男が荷車を担いで走ってくる。
「ぎ?」
――否。荷車が男を引っ張ってこちらへ猛突進してきた。
「ギャアアアア!? ご、ごめんなさい! 大丈、夫で――」
突としてのしかかってきた衝戟。バラける荷物。額をさすりながらこちらへ向かう薄紫のまなじり。
「……すか?」
バラけたのは荷物だけではなかったらしい。
「おうよ……よくもやってくれたじゃねーカ鬼太郎の分際デ……」
イリヤの肉体はもはや体と呼べないほど木っ端微塵に吹き飛び、辛うじて形を保っている両腕が車輪の隙間に挟まっていた。
「ひいいぃぃぃっ?! みみみミンチがしゃべったァアアア!!」
咄嗟に引こうとした足を掴まれ、商人らしき男は腹から盛大にコケた。
「逃げんなゴラァ……」
声帯がどの位置にあるのかはまるで分からないが……かつてイリヤだった肉塊は目だけを覗かせ、この際もう被害請求なり賠償なり躍起になって巻き上げてやろうという姿勢でいた。
「すーすすすすすいません、すみませんでしたァアアアア~~~ッ!!」
そんなイリヤのドス黒い魂胆などお構いなしに、恐怖に負けた無礼な加害者は荷車を放り出してそそくさと逃げ帰った。
轢殺死体の向かう先は昨夜泊まったエントランス。
同行人がまだ残っていたようなので、様子を窺いに来たのだが……まあ当然の反応だろう。客はみな見て見ぬ振りを決めたようだ。カールスルーエの人々は大変スルースキルが高い。
「やあ。おかえり、イリ――え、イリヤ?」
肉塊が人間の手を使って二足歩行している……色々とツッコミ殺してやりたくなる状況ではあるものの、アルスは特に言及せず報告を待った。
「……よ、妖精とか、魔法使いとか見つかった?」
以前に聞けるはずもない。そんなある日付き人が突然ハンバーグに変異して帰ってくるというスプラッタな状況に陥る理由など、日常生活においてごまんと存在なぞする訳がないのだ。
何よりも、肉の練り物からギョロリと覗く眼球が怖い。怖すぎる。
「ああいたな……人をミンチにしても平謝りのすんげー不躾なウィザードいたな!」
そ、そうなんだ――名伏しがたい恐怖を前に及び腰のアルスはただコクコクと頷くしかなかった。
朝が日に盛られ、石畳が諸人によって飾られていく。その様子をセントラルの入り口から見届けていたイリヤは、この街が箱庭と呼ばれる所以を改めて実感する。
「ほへぇ……やっぱ駅前も賑わってるもんだな」
「ナチスの支配を逃れた唯一の観光都市だからね。大都市のベルリンとミュンヘンが鉤十字の手に落ちた今、民衆が普通の営みを求めるようにセントラルへ押し寄せて来ることくること」
黄色のぽっくりを手で弾ませながらアルスは門前の駅まで先導していく。どうやら昨夜からこっそりついてきていたらしい。
「つまりカールスルーエの町そのものが日常の象徴、ってわけか。やっぱりナチの暴政から逃げるようにして来た人もいるにはいるんだろ?」
「地区によってはむしろその人たちで溢れ返ってる所もあるよ」
駅の外れなんて特にね。真面目な話を続けながらアルスは球体の生き物をイリヤの頭にのせ、イリヤもまた彼の鳥頭にのせ返し、幼児のような応酬を繰り返していた。
「ふぅん。行政も大変だこったな……おい邪魔だのせんなこら」
触覚にぽっくりを挿そうとする死神の手をはじきながら、セントラルの玄関に足を踏み入れる。
「そういえばキミ、どこで寝泊まりするかもう決めてる?」
「あー、いや。特には……お前の奨める宿があったら教えてもらいてーけど」
「キミが良ければ支局の部屋を貸すよ。プレハブの水車小屋が余ってるんだけど、キミ一人住まう分には不自由しないと思って……どう、かな?」
頬をかきながら遠慮がちに提案してきたアルスに、イリヤは思索に耽って歩を緩めた。
「じゃあ遠慮なく住まわせてもらおっか。支局がどんなトコかも気になるし。それに、お前さんのナゾも徹底的に解明しねー事にゃあおちおち眠れねえってな」
ふひひひひ、と冗談交じりに笑うと、当のアルスは痛い所を突かれたように姿勢を落とす。
「う……それは、まあ。キミはそう言うけどさ、オレをヒトと形容するなら、オレほど分かりやすい人間なんてそうそういないと思うよ」
「そりゃ同意だ」
話を逸らそうする際の仕草も一挙一動落ち着きがなく、ウソをつく時も目を合わせないため、分かる人間には瞬時に分かる。隙がありすぎて、かえって不審を感じるくらいには誤魔化しや取り繕いが下手であるかのように見えた。
ウソが苦手といえば、きっとマーサも同じかもしれない。
ふと金髪のチャラチャラしたアホ面を思い出したところで昨夕の腹立たしい茶番が脳裏を過り、イリヤはブンブンと頭を振った。
「あー、そうそう。同僚と昨夜話してた事なんだけどね。支局からは目と鼻の先といえど、帰りはやっぱ危険だろうからさ。キミの送迎をその子と変わりばんこで担当することになったんだ。明日はその子の番だから、先によろしく言っとくね」
ふとした予告に、思わずイリヤの歩が止まる。
「え……俺男だし迎えなんていらねーけど?」
「まーまーそう言わず。キミと歳近いし、真面目で仕事熱心だから気が合うと思うよ? オレなんかと違って空気読める子だし」
死神ひとりでこんなにも身を労するのに、彼のような歩く超常現象たちとのご近所付き合いを強いられる事態になろうとは。
アルスとの契約を正式に終えた瞬間肩の荷が下りて心から安堵しきっていたというのに、この男はこちらがあまり望まない方向で死神の仕事を全うする。
「お、俺の平穏はいずこへ……」
「大丈夫、その子にはちゃんとキミの事伝えてあるから。それにオレと同じキーマンだし、万一の時はオレよりも頼りになってくれるハズさ」
イリヤの背にまた寒気が走る。自分がキーマンであることを知っていて、あえて気に留めない素振りをするのはアルスのやりそうな事だ。
けれどその疑念は彼の目を見ればすぐに晴れる。人間嫌いの彼が、ごく一般人という肩書きで擬装をしている自分についていく理由は存在しない筈だが……それでも自分を見据える彼の眼差しは探り探りな興味ではなく、単純な信頼の色。
さすがに無欲ではないようだが、自分が男だと知って驚愕はすれど落胆する様子は見受けられなかった。むしろ変わらずここまで節介をかけるのだから、結局は彼の概念で男女の価値は同じなのかもしれない。
「まーたそうやって他者と比べて自分を卑下して……俺がいたってお前はいつまでも変わらなそーだよナ」
「持病だと思ってくれて結構だよ。どんなに自分を追いつめてきた存在でも、オレ自身がそいつらと違うって保証はどこにもないんだから」
同じキーマンであるイリヤだからこそ感じ取れるもの。彼は気持ちの揺れがあまりに分かりやすく、その純朴さがかえって他者の不審を煽っている。そして自覚しているのだ。
「うわべで取り繕われるよりはマシだけどさ……ま、いいよ。そーいう心の鎧がないと崩壊するぐらいなら俺は何も言わない。どんな感情であれ、自分を守る盾は必要だからな」
キーマンの身には鍵を持つ者の証明として肉体の一部に『おとぎ話』の該当する文章が記されるものだが、イリヤの場合その焼印は左側のうなじに掘られている。
脱衣場で出くわした際、イリヤは彼に背を見せなかった。だからアルスが知る理由などないのだ。イリヤの力を目にしたなら、彼はただ自分が身を呈して戦った意味の空しさに気づかされるだけ。何も得はしない。
「……キミは本当に優しい子だね。こんなオレにもできる事はあるっていう幻想を抱かせてくれる。こっちに戻るのは少し先になりそうだけどさーーオレの力を頼ってくれるのはもしかするとオレの事も旅の記録に留めてくれるってことなのかな~、なんて思っちゃったりして」
喧騒には早い時間。アルスは振り返ってはにかんだ。
「今なら許されるよね。そういう奴と出会ったってキミの日記に書かれること、期待しても」
無条件で旅に付き添ってくれているかと思いきや自分を女だと勘違いしてお持ち帰りを目論んでいた変態デスサイズ、とはすでに明記したが。
「さあどうだかなぁ~。俺あまのじゃくだからぁ、人から頼まれたコトの真逆をやってソイツのリアクション試してえんだよな~どうしょっかな~」
頭の上で腕を組んで白々しく嘯いてみせても、黒衣の死神は期待に馳せることをやめないのだろう。そんな単純な彼だからこそ衝突し、終いには和解できたのだ。
連れ立つ者との別れを経て、初めて一期一会の意味を読み直していくのかもしれない。
「何だかんだで書いてくれるんだろ? これから出会う人たちみんなの分まで」
「そこまで律儀に書けるかっての」
お決まりのように毒づいたところで、アルスの腰元から無常にも信号が鳴る。通信機を一瞥して、死神は――赤毛の少年はいつもと変わらぬ笑顔でこちらへ向き直った。
「あのさ、イリヤ……ありがとね」
「礼を言うのはお前じゃないだろうよ」
二人で語り合う機会はしばらくお預けになるだろう。けれど名残惜しくはない。
すべての『おとぎ話』を巡るまで、この男が死ぬことはない……そんな不可思議な、しかし絶対的な確信がイリヤにはあった。
「キミには二日も世話になって、その、言葉が見つからないけど……」
エイドと術式を穿ち合った際も同じように、どうしてこんな忙せわしい時にしか彼は誠実になれないのか。知らず知らずのうちに苦笑がこみ上げてくる。
そんな疑問はこの際置いて、イリヤは静かに彼の言葉を待つ。
「キミの探したいものが、この『箱庭』で見つかるといいね」
名の知れない悪寒が今度は心臓を蝕み、言葉が喉に詰まる。微動だにしないイリヤに首を傾げながら、アルスは踵を返して手を振った。
「それじゃあ、また」
彼の黒い背を見届けながら、イリヤはいつしか初めて会った後のように放心して立ち尽くすしかない。
遠のく背中とシグナルの音と同時に、駅構内の賑わいがまるで外敵の気配を察したかのように薄れていく。イリヤは物言わずチェーンを撃剣に変換する。
「なんで……お前がそれを知ってんだよ」
静寂が残る。考えすぎだろうか。けれどアルスの事だ。自分が何かを探す素振りを察しているだけで、その探し物について詮索することはおそらくないだろう。
解っている。自分が困る必要など、どこにもない。
解っていても“近づいてきた”と気付いてしまったからには、自分も術式を開かざるを得ないのだ。
「今度はどちらさんだ?」
鈴を鳴らして瞬時に時針を回し、鉛の弾を斬り払う。
降下した弾がイリヤの四囲を封じ込めるように砕け、割れた中身から人形兵器の動力源となるコアが薄墨色に濁っていくのが窺えた。
アルスの姿はすでに見えない。おそらく今の砲音すら聞こえていないのだろう。
『ボンジュールムシュー、ボンジュールムシュー』
シンセサイザーのように角張った女の声だ。距離は近い。
人形兵器の群れが営みの街を泥梨に侵していく。箱庭の壁に穴が開けられようとしている。
「くそっ、煙で前が見えねえ……!」
黒煙を薙ぐと、その先にぽつんと一体の幼女が待ち構えていた。
黒鉄の瞳。紅を差した唇。修道女のように慎ましく全身を隠すドレスには太いチェーンが巻きつけられている。
『これより貴男をCapturerする、貴男を星図の長に献上する』
汎用型人形兵器『アンリブ』
幼い少女の姿に設計され、そのか弱い容姿で相手を油断させて眉間に鉛の塊を穿つフランス由来の傀儡。
「献上だぁ……? 人をモノみてえに扱いやがって、女狐に買われてる分際で調子に乗んな」
イリヤは幾度となく彼女たちに付きまとわれ、その都度、術式の糸を滅茶苦茶に絡まされてきた。
術式はキーマンの血管だ。一度破れてしまえば修復も容易ではない。
増殖するアンリブの頚を狙い、斬撃を連ねていく。苛烈に、凄烈に、一体一体を切り刻む。しかしイリヤはあることを失念していた。
「くっそ返り血が……放しやがれクソ人形ッ!!」
二本の刃を繋ぐ紐がアンリブの腕甲に引っ掛かり、それを良いことにイリヤの動きを止めていた。
アンリブの血液は極めて高濃度の酸性。錆びつく刀身に違和を感じたイリヤは今になってその特性を思い出したのだ。
新たな刃を召喚すればよい話なのだが、よりによって利き手の長針が使い物にならなくなっている。これでは術式を再構築して立て直すのにどれだけの時間が生じることか。
アンリブの黒く深い眼孔に、焦燥する自身の顔が映る。それを忌々しく睨み、イリヤは苦々しげに鈴を振った。
「くそ……またこんな力に頼るなんて」
しかしこんな所で無様に死に体を晒すよりはマシだ。そう言い聞かせて、いつものアウェイを待ち目を眇める。
――よりも速く、蜘蛛のように細い鉤爪がイリヤの手首を貫いた。衝撃でチェーンごと鈴が転げ落ちる。拾いたくても思いの外爪が深くまで刺さり、引き抜けない。
「畜生が……」
生白い腕に赤黒い血が滴り落ちていく。いつの日か、誰かが雪のように白い自分の肌を綺麗だと言った……あまり喜ばしくない記憶が蘇り、歯噛みする。せめて一本だけでも刃を召喚できれば。
無情にも二度目の刺突が訪れる。こういった危機に直面した時、大体まともに助かった覚えがない。
――ではなぜ、自分は今も生きているのだろう。
「お前は……っ、さっきの!」
急に軽くなった体に違和を抱くと、目の前には先ほど自分にぶつかってきた商人風の少年が、ケープを翻しながら人形を一瞬にして粉々にしていた。
右腕には赤く光るブレード。術式で編まれた装甲だろうか。
「イエス——お怪我はありませんか、旅の方」
呆然と推測するより前に少年がゆっくりとこちらを振り向く。そこには、影に隠れてもなお炯々と光る薄紫色のまなじりがあった。




