始まりは時の線路-Ⅱ
20世紀初頭、まだ人知によって凌辱されていない頃の空と景色。
戦乱の世中にも関わらず、車窓から顔を覗けばこんなにも生命力溢れる爽気を体感できると誰が想像できただろう。このように晴れ晴れした陽を浴びるのも、随分と久しい。
先ほど発ったばかりのアルクマールにしても同じことだが、長年田舎暮らしのイリヤにとって初めて踏みしめるオランダの大地は、牧歌的絵画の世界であった。
ユトレヒト行き列車の隣を鳥の群れが白い羽毛を漂わせながら羽ばたいていく。アムステルダムからユトレヒトへ続く車道からの景色は、実に圧巻といわざるを得ない。
「キミはドラハテンへ何しにいくの?」
「ほぇ……ふぇあ!?」
閉じた新聞を隣の席へ投げ出したアルスは、開口一番そう問い掛けてきた。
それまで車窓の景色を眺めるなり、新聞で鼻から下まで隠れたアルスの顔を訝しむように凝視して暇を持て余していたイリヤは、彼の唐突な疑問符に動揺する。
「あ~、んーっと、軽く一人旅? ……のつもりなんだけど、さ。ほら、あそこは風車とチューリップの名所だろ」
どもりながらきょろきょろと、イリヤは此方へ質問してきた人物の容姿をいま一度見回した。――しかし整った顔立ちだ。
切れ長な眉間と、丸みを帯びた輪郭。そして低身長のイリヤと比較すると大柄にも見える恰幅の良い骨つきは、まるで昔話に登場するような樵を連想させる。
実際に斧などを持たせたら本当に似合いそうだと、イリヤは考えていた。アルスは先ほど自身を死神だと名乗った気がするが、彼が鎌を振り下ろす様子を想像して、不思議なくらいにしっくりときたものだ。
「なるほどね。単にチューリップだけならオランダ全土どこに行っても同じだけど、特にドラハテンは最高だな。景色は綺麗だし、空気も清涼で。……けどさ」
彼は、車窓から頬杖をついてこれまた呆けているイリヤに視線を移してきた。
「オレ、どうやらキミの一人旅を邪魔してしまったみたいだね……すまない、こんなくだらないお喋りに付き合わせてしまって」
歳の近い子とこんなふうに話すのって久しぶりだから、感覚が少し分からないんだ。
そう言って困ったような笑顔を見せられると、さすがに多少の罪悪感が募る。何だか邪険にしてしまったようで、フォローの言葉が見つからない。
「ぁあ……いやいや良いよ変に気ぃ遣わなくたって! 弁解はヘタだけどとりあえず聞け! お前がいきなり一緒に行くなんて言い出すもんだからフツーに動揺するっしょ?」
憂色を含ませて微笑むアルスに、やや必死こいた語調で弁解の意を示す。
イリヤは人の遠慮を聞き入れない人間だ。しかし、初対面の人間と上手く話すのはあまり得意ではない。今もこうやって、旅先で出会った初めての相手とちぐはぐな会話を繰り広げている。
「確かに今どきの男子なら一人旅に憧れるとは思う。けど近頃の欧州は全面的に治安が良くないからね。いつどこで何が起きるか判らない。――戦争はすでに渦中だから、キミの旅がどうか平穏無事に進むことを祈ってるよ」
「へ? うん……っと。随分と親切なんだな。このご時世珍しいったらありゃしない」
「あ、ははは。そんなことない、キミだってこのご時世に一人旅なんて物珍しいもんさ……オレも一度、パーッと自由になってこの世界の各地を放浪したいもんだよ」
彼のためらいがちな語調と視線が、イリヤの表情と感情を居た堪れなくさせる。
「…………」
「うん?」
「ぶぉっファ!! おま……っ、お前さんなぁ、今の間はなんだよ! ヤケに意味ありげじゃねーか! ったく、何考えてんだか分からねー御仁だぜ」
「よく言われるよ、それ。そのせいで友達なんて、今まで出来た試し無いから。……一応、ナチスの軍人だからね、オレ。この紋章を見てくれれば一発で分かると思うけど、コレを見た人間はほとんど怯えるか石を投げるかの反応しか見せない」
神妙に掲げられたのは右腕の袖下にあしらわれた黒い十字架の紋章。かの軍を知る者にとっては最も忌まわしき、凶徒の輩。卍の忌み字、ハーゲンクロイツ。
もし自分が連合の狗であったならどうするのかと茶々を入れたい気持ちはあるが、アルスは至ってこちらの国柄には気づいていないらしい。
「なんとなく日本人くさいキミなら分かってくれるかと――」
「我是従共産主義陣営。請不要犯了一個錯誤」
わざとらしく口を尖らせてイリヤは反駁する。その年相応の膨れっ面に苦笑したアルスは、ごめんごめんと平謝りして軽くその場を流した。道理で異様にかしこまった口調の日本語も、此方を枢軸側である日本人と誤解していたわけだ。
「大丈夫。少なくともオレ自身、ナチスの思想に興味はない」
「なんだそうか……だったらあの赤い腕章ないのも頷けるわな」
アルスは国防より派遣された海軍の使者であったらしい。オランダ偵察の案件を任せられた彼は、偶然にもユトレイトへ野暮用があったのだという。
「にしても、なんか変なヤツ」
「はへっ? あ……そう、かな」
ヒトの子にしては異様な気配を彼から感知しているイリヤは、率直に皮肉を零した。アルスの物柔らかな眼差しからは、軍人らしさはあまり見受けられない。
が、軍人である故に今こちらへ示す表情や仕草が本来の性格と乖離しているものだとしたら……それこそ、この男への好奇もいっそう涌き出てくるものだ。
「もし俺が連合の人間だったら、今ごろドえらい地獄絵図になってんぞ」
「あはは。それは不注意だったね」
緑と聞けば人は翡翠や、エメラルドグリーンなどの宝石の色を連想させるだろう。しかしイリヤの脳裡を過ったのは、若草や新芽のように瑞々しく、それでいてどこか人里離れた深林の如く原始的な、深淵たる緑だった。
興隆と退廃。相反する意味合いながら、それらの言葉ほどアルスという死神に釣り合う表現は恐らく、無い。
「もうすぐ着くみたいだよ」
運命の歯車が火花を飛散させ、歯軋りを立てて急加速する。
「あ、ほんとだ」
アルスの言った通り、前列の車窓から煉瓦造りの駅舎とプラットホームが見えてきた。
「……風が徐々に近づいてきた」
「ほわぁ! ちょ、いきなり立つなよぉ!?」
アルスが車窓を一瞥して呟くと、突如席を立ってイリヤを瞠目させた。外ハネした赤い髪が風に煽られて浮揚する。彼は車窓の外気に手を差し出し、人差し指で空気に弧を描く。
途端、それまで平行に沿っていた風が不可視の束になり、アルスの指に絡みついた。
――イリヤはというと、開いた口が塞がらず、ただ彼の指と風に揺れる糸を前に凝然とするばかりだった。
「フフ……今日は天気が良いから、この子たちも喜んでるみたいだ。――どうしたの。これが珍しいのかい?」
彼は風を絡めた自身の指を、イリヤのこめかみに触れるくらいの至近距離に引っ張っていく。そのまま空気を弾くかのように、一振りで音を鳴らした。
「!! ――ッ!?」
ヒトの身では視認すら叶わない不可思議な現象に声も出ない。風は確かに自分の耳許をくすぐるように舞い踊っている。
「ね、なにこれ? ……何コレ!?」
横流しの長髪をまとめていた紐が取れかけ、イリヤはそれを慌しい手つきで結い直す。
「風の術式をね、お遊び用に凝らしてみたんだ。これで判ったろ? オレがヒトならざる異形の化け物だってことがさ」
「お前、まさか……?」
やはり、そうか。
この世界には、“術式”と呼ばれるある原理を用いた力がある。
イリヤは訳あって、その力を持つ者たち――“キーマン”を探さねばならなかった。
「ちょ、この風うっとうしいからいい加減止めろ!」
――しかし死神のあまりの悪ふざけに動揺させられ、その件すら頭からすっぽ抜けていた。
「でもさすがに例外だね。まさかここまで強く吹き続けるなんて思いもしなかった」
「聞けよ人の話!」
「どうやらキミの事をえらく気に入ったみたいだよ。世の中珍しいことがあるもんだ」
「だからってめでたくもねえし、お前人のコトからかってんのか!?」
しかも、もう着いてるっつーのに! と、もてあそばれたことへの吃驚と怒りが一気に込み上げてきて、小腹の立ったイリヤは自分でも驚くほどに声のトーンを張った。
「とにかく楽しかったよ。ドラハテンへの旅がキミに楽しい思い出をもたらしてくれること、心から願ってる」
そう言って彼は風をおもちゃにしながら破顔した。反省の顔色は窺えない。むしろ恰好のオモチャと巡り会えてご満悦のようだ。突然の超常現象を目の前にして驚く合間に、列車はすでにホームへと降り立っていたらしい。
「ど、どうも……」
丁度良い雰囲気で締めくくられ、イリヤは切り返す間もなく適当に返事をするしかなかった。
「それじゃあ、良い旅を」
手を振りながら降りていくアルスの背を呆然と見届けたイリヤは、しばらく甲板と線路の間で立ち尽くす。
風のようにふと姿を現し、ふと行方をくらませた男。瞬きをした瞬間にはすでにホームからも姿を消していた。彼がこの世界に存在しない異形の者だという確証を得られたような、たいへん奇妙な気持ちだ。
「……おかしなやつ」
イリヤもそろそろ歩廊から降りようと、次の乗り換えに向けて時刻表まで足を進めた。彼が降りるのを待っていたらしく、丁度ホームに足をついた途端に発車のベルが鳴る。
予期せぬ場所で予期せぬ刻に、その存在すら疑わしい魂の管理者と出会い、言葉を交わした。思えば自分に訪れる平穏が日の目を見ることは、この時点で明白だったのだろう。
だってほら。アルクマールの出立から自分を付きまとっていた戦闘機が、ついにその本性を現したのだから。
それは地響きにも似た、重々しく耳が熱せられるような残響。あの時もっと早くステーションを降りるか、様子を見て車内に残っていたらと後悔せざるを得なかった。
吹っ飛ばされるかと身構えた瞬間、宙に浮いている感覚に顔を上げると、自身は何者かに抱きかかえられているらしい。
黒煙が視界を覆い尽くすなか、目を凝らすとつい先ほど別れたはずのアルスが自分を抱えて反対の線路側へと速やかに後ずさり、爆風を間一髪のところで避けてくれていた。
「大丈夫かい?」
狐につままれたような面持ちで彼を見上げると、アルスは駅舎の屋根まで飛び上がり、向かい来る戦闘機の群れに鋼鉄の得物を差し向ける。
「左弾、解放――Bestatigte das Ziel」
若草色の双眸が禍々しく閃き、この瞬間を待ちわびていたドライゼがこれまでの鬱屈とした気分を晴らすように火を噴いた。
彼の左手をくぐって発せられる光の円刃。それを魔方陣だと理解するには、イリヤの頭はいまだに混迷の渦中をさまよっていた。
彼の銃口に睨まれた哀れな戦闘機たちは瞬く間に塵芥と化し、人が乗っていた形跡すら残さず無残に砕け散る。照準を残りの一機にあてがった彼は、囁くように呪歌を紡いだ。
「Ich bin leer Bote……」
そう呟いた間に機体はドライゼの冷徹な矢弾に貫かれ、逃げる間もなく空中の塵に混じって墜ちていく。
機銃掃射の痕が生々しく残るホームの石畳にかつて機体だった残骸の塵埃がはらはらと落ち、それまで戦闘機の騒音でざわめいていた鉄路が一気に静まり返る。幸い怪我人や犠牲者はいなかったようで、ホームに残されているのはイリヤ達だけだった。
「怪我はない?」
自身の腕からイリヤを降ろし、ドライゼを提げたまま彼は問いかけてきた。そのドライゼもまた光の粒子になり、アルスの手首に巻きついたかと思えばそれはみるみる手錠のような鎖の腕輪へと形を変えていく。
その様子を目にして呆気にとられたイリヤは彼の物案じが耳に入らずに、ただ物々しく錆びついた枷を凝視するばかりだった。
「お、おぅ……」
Um sustenance sieben Sterne……綴り刻まれた言葉の深い意味までは斟酌しかねるが、最後の弾丸が発せられる刹那に呟かれた一節と何かしら関連付けられるのだろうか。
「でででも、このままだといつ落っこちるか分かったモンじゃねーから、ま、ままた降ろしてくんねーかな?」
屋根の上にいるということをすっかり忘れていたイリヤは、見下ろすと瓦とつま先が目と鼻の先になっているのに気づき、遠回しにアルスへ助けを求める。
「? あぁゴメンゴメン」
彼の訴えに気付いたアルスは再びイリヤを抱え、ターミナルまで移動して再び降ろす。着地の衝撃に怯んだイリヤは思わずみっともない呻き声を上げた。
「うぉおお!? っ、もっと丁寧に扱えよ!」
高いトコは苦手なんだよ! と冷汗混じりに袖を上げるイリヤ。山肌に積もった残雪がいまだに目立つ季節とはいえど、ユトレヒトの昼間は卑湿とした熱気が絶えない。
「あはは、好んで高台に上るような奴なんてオレくらいしかいないさ」
冗談めかしておちゃらけるが、先程まで動物のように駅中を飛び回っていた自身への皮肉な気がしてならない。しかしこの暑さに辟易していたのは自分だけではないようで、アルスもまた襟をぴらぴらと上下させ団扇代わりにして茹だる熱気を凌いでいた。
「とはいえ多分、この騒ぎでユトレヒトの駅は封鎖だろうし、ドラハテンまでは徒歩で行くしかないみたいだね」
徐々に駆けつけてくる警備員の大群を尻目に、彼は他人事のように呟く。
それまで彼に睨みを利かせて見上げていたイリヤは、彼の用事はユトレヒトにあったのではないかと思い当たり、即時に切り出した。
「そういやお前、ユトレヒトに何か用があって来たんじゃないのか? なんかその物言いだと今からでも付いていきそうな雰囲気醸し出してんだが……」
お節介な彼のことだ。危険な目に遭ったばかりのイリヤを一人にするわけにはいくまいと、自ら護衛役を買って出る腹積もりなのだろう。
「まさかそんな図々しい真似はしないよ。こういった事が続くと危ないんじゃないかって少しは考えたけど、どうしても迷惑なら無理強いはしない」
いくら野暮用といえども軍から直々の下知が発せられたならば、それを後回しにするのは軍人としてあまり望ましい行動ではないだろう。けれどこの風変わりな御仁は、自身の都合もお構いなしに何かとイリヤを気にかけようとする。
どうやら損得勘定という概念が彼の頭の中に存在しないようだ。おめでたいものである。
「……でもそういうお前自身はどうしたい?」
「そう、だね。本音を言うとさ、いっそ仕事なんて放っぽりだしてオレもドラハテンまでの旅路を豪遊したいなーなんて。といっても軍人の大半がコレだから今の軍隊は衰退してるんだって、世間には皮肉られるわけなんだが」
地べたにしゃがみこんで煉瓦の隙間に映える三消草をいじって遊ぶ死神は、ため息混じりに笑みを漏らす。
「本当の自由なんて、どこにも在りはしないね」
白い花でぽんぽんと煉瓦の地面を叩く所作はまるで大きな小学生の様である。――けれどこの小学生は一つ、小さな勘違いをしている。
今の呟きはまるで此方を思う存分に振り回している自らの立場を自由でないと言っているかのようだ。イリヤはこの時点ですでに、彼のペースに辟易しているというのに。
言葉を選ぶのも億劫になって、思わず率直な本音が喉を衝いて出た。
「そんなに行きたいなら、やるべきこと全部すっぽかしてでも行きゃいいだろ。べつに俺はそっち側の人間でもねーし、少なくとも此処じゃ誰も咎めやしねーよ」
簡単な事だ、悩むより先に望めばいい。戦争が終わればどうせ後は自由なのだから。
「……本当に?」
虚を衝かれたような面持ちでアルスが顔を上げる。死神もこんな間抜けな面を見せるものなのだと、内心イリヤは感心した。
「あとはお前次第だけどな」
至極単純な話である。今のご時世、上に立つ者の権威など在って無いようなもの。どのみち解消されるしがらみならば、最初から切り断ってしまえば早い。
暫し考える素振りを見せたあと、アルスは静かに首肯して立ち上がる。
「ウィーリンガーウェルフなら、徒歩でも2時間とそう長くはかからない。そこからアウテ・ラントの通りを伝えば石橋が見えてくる。その橋を渡ればドラハテンはすぐそこだ」
そう言いながら手に持っていたのは周辺の煉瓦の隅で自生していた白詰め草を輪にしたものらしいが、花冠にするには本数が足りなかったらしい。
「死神同伴の片道切符、ようやく使う時が来たみたいだね」
花冠は諦めたのか、アルスの手には二人の腕が通りそうな大きさの草輪が握られていた。
いびつに捻じ曲げられた茎の束がイリヤの腕を絡めとる。手首へと下がった草輪はアルスの手錠と同じような、底知れぬ圧迫感を醸し出していた。
「……ハァ?」
まるで「お前を逃がさないぞ」と食虫草に指を銜えられたかのような気分だ。
死神の発する言葉の意味に首を捻るもつかの間、イリヤは言われるがままアルスに、盛況の広場まで手を引かれていくのであった。