風と共に紫花よ踊れ-Ⅰ
痛みという言葉を知ったのはいつの日だろうか。
その日は仄黒い雨が降っていた。放射能に侵されて穢れた雨。
僕は自分が化け物と蔑まれる意味を、耳が潰れるほど理解していた。
「だから君はいつだって甘いんですよ……くっふふ、ははははは!」
廃棄場のガラクタのように積まれた人形兵器の残骸。
それらを執拗に蹴り上げる同期。
剽軽な性格で場を和ませてくれる普段の雰囲気とうって変わって、今の彼女の様相は怨念にとり憑かれた悪鬼そのものであった。
「待ってください大尉! 悪いのは教授であって、作り出された兵器たちに罪はありません!」
あらん限り声を振り絞る。これ以上に無体な彼女の姿を見ていることなど出来ない。
「ないですって? 現にアルスさんの故郷や君のご家族だって消し飛んだじゃないですか、こいつらのミサイルで」
「だからって……だからってそんな、」
「じゃあなぜ君は依り代を持っているんです。依り代は憎しみの象徴、キーマンの証。愚者の烙印であり悪魔の証明。善人面も甚だしいですよ大佐。君には心がないんですか?」
「それは……」
答えようもない。しかし自身の心に憎しみという黒く燻った感情があることを、認めるのが恐ろしかった。
負の感情とは無縁でいたいのに。
それなのに、依り代は自身の悪心を見逃してはくれない。
「ほら何も言い返せない。図星なんでしょう。本当は殺したくて堪らない奴がいるんでしょう。いいんですよ、私たちは“キーマン”ですから。憎しみに生かされて当然の存在なんです。憎しみを糧として我々は生きているんですよ」
キーマンは憎しみを拠り所とする、たしかにそうかもしれない。仮に平穏な世界で育ったならば、自身の躰へ刻印が宿った理由に説明がつかない。
「あんまりじゃないですか……兵器にだって、心はあるのに」
彼は膝を折って地に頭を押しつけた。
散り爆ぜた瞬間にこちらへ向けた怨嗟の目。機械と呼ぶにはあまりに悲痛すぎる絶叫。
自身が討滅対象としている“金髪の女たち”にも、彼らのように心が宿っているかもしれないのだ。
「ふふははは、馬鹿な大佐。私たちが何のためにここへ志願したか分かってるくせに」
同期はつくつく喉から笑う。彼女に語りかけられる言葉はこれ以上なかった。
いっそこの場で殺しておけば、彼女にとっては幸福だったのかもしれない。
ふと僕は思ったんだ。
もしも世界は君が作った箱庭で、僕が箱庭に入れられるオモチャなら、どれだけ幸せな物語だっただろう。
災いの鍵を持つ彼らはいつも、素人の語り紡ぐ悲劇に酔っている。
彼らの目を覚まさせるのは、君の繋いだおとぎ話だけ。
君が傍で笑ってくれるだけで、過酷な現実は彼らにとっての喜劇となる。
そんな単純な彼らだから、止めどない涙の降り注ぐ世界を黙って見ていられなかったんだろうな。
嵐の防波堤に、かつて熾天使と呼ばれた男が立っている。
「ありがとう、大尉。私に憎しみを教えてくれて」
内なる翳りを自覚したとき、彼の口から昏い微笑がもれた。
彼らの心を支えるのは安らぎではなく、いつだって対極の怒りでしかない。憎悪の支柱を失った彼らは平穏という人の子の肩にもたれ、やがては腐り果てていく。
「心があるなら壊してしまえばいい。どうせ彼らは赤の他人なのだから」
熾天使は音も立てずに術式を開く。紅い光が、薄墨色のケープを這い回る。
「それはあなたも、ねぇ?」
一斉に黒い蝶が飛ぶ。熾天使の視線の先には、白い外套に身を隠す少年の姿があった。
「ふん、よく言うよ。君は何度も同じ世界で僕に殺されたくせに」
「それでも私には戦う理由がある。あなたのような、偽者が書いたおとぎ話に踊らされる人形と一緒にされる謂れはない」
「僕のもつおとぎ話が偽物……だと?」
観測者の声色が強張っていく。
「ふざけるな、ウィル様の著された意趣巧逸なるシナリオが贋作だとでも言うのか!」
「そうでなければ、あなたに殺された私が歴史の汚点として一生後世に蔑まれる悪趣味な脚本は誰が考えたものだ? 他でもないトラッド氏に違いはないだろう」
「黙れ! その口を閉じろ、墓守に飼い殺された家畜め……!」
熾天使は怪訝な顔をするが、気にも留めず言葉を続けた。
「権力者の狗にどうこう言われる筋合いはない。あなたに危害を加えるつもりも毛頭ない。私はただ、人形兵器がクレムリンを掌握するなどというふざけたシナリオを変えたいだけだ」
毅然と言い放つ熾天使に、観測者は眉を顰める。
「その為だけに、今日までずっと生きてきた――!」