幽世に堕つクレプシドラ-Ⅶ
マーサの術式が開かれ、しばらく放心したところでイリヤはハルデルウェイクの港町まで戻ってきたのだとようやく理解する。こちらへ向かってくる黒い外套がアルスであるということは、マーサは彼と自分を合流させるつもりで転移術式を行使したのだろう。
心此処に在らずのまま、イリヤは川岸で尻もちをついたきり動けなかった。ぼうっとしているうちにアルスの足が桟橋の木目を叩く。
「大丈夫イリヤ? さっきすごい音がしてたけど……術式の干渉でもあったのかな」
先ほど吹き飛ばされた事などお構いなしに、アルスは気がかりな面持ちで辺りを見渡していた。
「ああ、それならたった今……」
町外れにある麓の方角を指そうとしたところで、黄色い来客はやってきた。
「待ちなっさ~~~いっ!」
「なのねぇええええええええええええええ~~~んッ!!」
しかもペアで。
「……イリヤ?」
ぷるぷると震えるイリヤ。状況が全く読めていないアルス。
「ま、マーサと~……何か、あったの?」
葉っぱだらけの帽子女と、これまた葉っぱがあちこちにこびりついたお気楽アサシンが白昼の鬼ごっこを再開したらしい。
――なぜあの状況で生きているんだ、そもそもケガはどうした、つかルクレツィアは?
名称持ちのキーマンを撒くだけの俊敏さが彼にあったのかは定かでないが、絶対に使いたくない力を二度も行使させられ、憤激するなという方が理不尽なもの。
アルスとの旅は体力を酷使する。馬鹿と居合わせると脳をフルタイムで労働させる。
「……せ」
「いい、イリヤさーん?」
「さんざん張り巡らしてきた術式と神経を返せぇえええええええええええぇぇえええ!!」
イリヤの疲労はこの二日ですでに許容量を倍近く上回っていた。
こちらに気づいたマーサが振り返るより早く無慈悲な拳の制裁を受ける。
「おっと、無事でなによぎねばーーーッ!!」
未来の車掌が振りかざす拳は鉛より硬い。
うろたえるアルスの目には、鉄拳を振りかざすイリヤの背と、夕日をバックに宙返りを決めるマーサの姿が映っていた。
「イリヤがご乱心だぁあああああ!!」
「あり、マーサさんは?」
帽子の少女がきょろきょろと見回してもそこに金髪の殺し屋はおらず、魔獣のような佇まいで黄昏を見上げる青い髪の少年と、それを宥める赤い髪の少年の姿しか残っていなかった。
君の手のぬくもりに触れて、僕は初めて優しい世界という存在を知った。
生きている年数を数えることより、君と接した日付を辿ることがこんなにも胸躍る時間だなんて。今までに想像すらしなかったよ。
どうせ散りゆく世界だからと悲観せずに、滅びへと進むかけがえのない今を、大切に刻みつけていこう。樹に刷りこんだ切れ込みの数は、君と過ごした時間の数。
マーサはひとり意味もなく口の端を緩ませて、白樺の幹を撫で上げていた。
「おにーちゃん、どーして幹にキズなんてつけてるのー」
しかし幸福の先に笑顔はない。
「ん? ああ……これといって意味はないんだけど、友達がね。大切な人への遺言を白樺の幹に刻みつけてるの、マネしてたんだ」
そして不幸の果てに、喜びがあるとも限らない。
「えー。へんなのー……おにーちゃん、ちょっとうれしそうな顔してる~」
怒りは我々が思うよりも先に、悠然と待ち構えている。
「あっはは! そうだね、うん。実は、逢いたい人にまた逢えたんだ」
嘆きは人々が憂うよりも先に、泰然と待ち伏せている。
「ほんとー!? よかったー! そうだ、おにーちゃんまた例の『おとぎ話』聞かせてよ!」
悲しみは常に僕たちのとなりに。
「……うん。そうだね、また今度にしよう」
哀しみはいつも君と僕のあいだに。
「行きますよ~、マーサさ~~~ん!」
仲間の声に振り返ったマーサは、古本と形見の水時計を少女たちに預けて彼女たちの待つキャラバンへ向かった。
「じゃあ、また」