幽世に堕つクレプシドラ-Ⅱ
クレムリンに新たな時計盤を建て替え、その竣工式が執り行われる赤の広場にて。
ウスペンスキー大聖堂の朝はいつも閑散としていたが、今日に至っては忙しなく人が押し寄せていて、身廊から庭園まで息をつく暇もないほどにごった返していた。
やはり国の命運を揺るがす物量兵器の導入となると、群衆は気が急くのだろう。不躾に迫り来る無関係者の連中を軽くあしらいながら、エイドは礼拝の間へと足早に歩を進んでいった。側近はすでに大聖堂へと着いている。
「貴様らァ、各地の教会を見境なく穀潰ししていくに飽き足らず先人らによって厳かに守り継がれてきた時計台をも殺戮の穢れに堕とすか、痴れ者どもめ!」
「穀潰しとは人聞きの悪い。実体のない偶像から信仰の目を背く機会を与えてやったまでの事だ。……差し出がましいようだが部外者には早々にお引き取り願いたい」
老父の雑言を流して彼は横柄に手のひらを振って退去を促した。そのジェスチャーを愚弄と受け取った老父は血走った目で東岸部隊指揮官の後ろ姿を睨みつける。
このように狂信的なキリシタンの連中から詰め寄って罵声を浴びせられるのは一度きりではない。式典はすでに始まっていたが、赤軍の動向に忠実でないエイドは意に介さず、ただ気の向くまま社交辞令として上層の者たちに顔を見せているだけであった。
敬虔な信仰心を踏みにじる軍事開発は国家ぐるみで通年、所かまわずしと行われている。
特に東岸部隊は信仰に対する認識に重きを置いておらず、たとえキリストの聖地であろうと無名戦士の墓地であろうと無断で拓き、野放図な軍国拡大計画を進め、その横暴な政策によりザングト・ガレンを拠点とした大規模な教会都市からは多大な顰蹙を買っていた。
しかしこれといって時計盤新設の件に関心のないエイドが本部まで出向くのには、煩瑣きわまる目的があっての事である。
「おーおーおー。当事者のおひとりが遅刻とは腹構えのなってない……とんだ唯我独尊の権化サマときたモンだぜ。お前さんの席は残ってねぇよ、残念だったなエイド」
「その必要は無い。折り入って話すような要件でもないのでな」
翼廊の窓際にもたれて腕と脚を組む同僚の嫌味をかわし、礼拝堂へ続く扉を勢いよく開け放った。静寂に包まれていた堂内がどよめいて、聴衆は一同に顔を見合わせて騒ぎ出す。
「御機嫌は如何かな同志諸君。我らが長年悲願としてきた時計盤の加護が今此処に降り立ったこと、誠に天晴れと申し上げたい時分であるが……この場を借りて貴殿らに御覧頂きたい物があるのでな。しばしの時間をいただこうか、マヘル同志?」
周辺がガヤとなる瞬間を見計らってか、厚顔にもエイドは聖餐台の前に立つ背中を確認するや否や、開口突として高らかと傲然たる大風を吹き放つ。
「ほう……これは大層みごとな出来だ」
少女の目の前に鎮座する天文時計は屋根まで届く大きさであったが、竣工直後にもかかわらず悠然と回る十二宮の環がさらに清閑とした迫力を放っていた。
振り返ったシエナに、限界なまでの驕慢をかさに着せて笑みを作り上げる。笑い慣れていないポーカーフェイスは不恰好にも、口端の皮膚を小刻みに揺らす。
「ふふ。礼節の観念を知らないその傲岸な態度は相変わらずのようですね、シチェルビギン同志。式ならもうとっくに終えてしまいましたわ。あなたがこちらへ来られる事はうすうすと予感していましたので」
皮肉を込めて返した笑顔は歳不相応にも、この場に立つ枯れた男たちの色情すらそそるような艶美を醸し出していた。
「実に殊勝な判断で何よりだ。貴公らの執り行う失政には塵ほどの興味もない」
あたり近所の女達をすでに知り尽くしている彼には、微塵とも効かないようだったが。
「控えよ下郎! 此処に貴様が踏み入れる地などは無い、聞かねば解隊も辞さんぞ! 東の処刑人めが!」
反駁は予測通り。キーマンの彼は依り代の加護を受けている。たとえ石を投げつけられようと死角から銃弾を穿たれようと死に至ることはない。白々しげに聴衆の末端を見上げたエイドは肩をすくめながら、先ほど詰ってきた教会都市の老父を睥睨する。
「解隊?」
「貴様ら東の隊の横入れなくともな、枢軸の狗どもとの決着に此方へ軍配が上がるのは必然なのじゃよ!」
意気盛んに断言した老父は傍聴の場から合法的にエイドを見下せるという状況に酔っている。ゆえに予期とせずして洩れた失言の重大さに気付けないでいた。
喧騒で二人の声が埋もれていたという空気が一変し、礼拝の間は瞬時に凍土と化す。
「フン、……ならばやってみるがいい」
エイドの操る大気がいかに灼熱であっても、この絶対零度に近い凍えきった場を平穏に溶かすまでの温度には至らない。
「んな……!」
「解隊したいのだろう? やってみろ。どのみち俺の力はあの少勢部隊の中に収まりきれるほど惰弱なものではない」
真顔できっぱりと確言して老父から背を向ける彼の表情はじつに勝ち誇っていた。
「小童めがァ、言わせておけばいけしゃあしゃあと――」
「いいのよアレクサンドル。続けてちょうだいエイド・シチェルビギン、こちらの聖餐台へおわす刻の神をも超越した力の加護とやら、私に見せてくださいな」
シエナは場を取り直そうと計らい、聖餐台に隣接する物品から敷布を剥がすように促した。せっかちな御仁だ、そう呟いた彼はようやく布を広げ、件の見せ物を提示する。
「それでは本題へと入ろうか」
堂々と姿を現した白妙の巨体。一見それはロケット砲の形態をとっていたが、端の一角が丸々とした寸胴な図体はカール・ツァイスの天象儀のようにも見て取れる。
「あら。私、ちょうど星が見たいと思っていたところなの。あなたの事だからどんな細工が施されているのかはあらかた察しがつくけれど……こんなに立派な装置なら、いちど現物を覗いてみたかったわ」
「貴公の期待には添えられよう。さて同志諸君、存分に天体観測を楽しみたまえ」
声を弾ませるシエナを尻目に、エイドは投影機へと手を伸ばす。シエナは礼拝堂の帷帳をすべて閉めさせながら、得体の知れないプラネタリウムに歩み寄った。
堂内は寂々とした闇に包まれる。稼働音が大きくなっていくにつれ、あたりに点々と白い天体が散り始めた。
突如として流れ出すオルゴール。殺伐の場に不釣り合いな音律を背に展開される壮観な星の集会に、一同はひっそりと息を呑む。実在する施設のようなリアリティがかえって聴衆の不安を煽った。
「おいおい、ここまでテンプレ通りにやられっとかえって気味が悪いぜ大塔さんよ……」
「なんじゃ子供騙しのようなシケた真似をしおって!」
ラツィルの厭味とアレクサンドルの怒声が重なり、傍聴席もまたハッタリに気付かされたように呆れ果て、席を立とうとした者すら現れる。
しかし星を映した箇所から徐々に穴が開いていくことに気付くや、聴衆はようやくエイドの思惑と、特異な形の天象装置に隠された酷烈な意図を知るのだった。
「お、ぬし……おい! なにをしておる! 聞かんか、煉獄の狗!!」
オルゴールの音にカーラジオの様なノイズが混じり込んでいく。
老神父の絶叫を横目で流したエイドはしてやったり、といった体でほくそ笑む。映写された星々はまるで虫眼鏡で光を当てられた黒い紙のように焦げ腐っていき、堂内をしきりに痛めつけていく。
「狗―――ッ!!」
不協和音に穢されたプラネタリウムの音響が禍々しい旋律に変調する。由緒正しきクレムリンの聖堂もすっかり傷物となって、アレクサンドルの怒りを買うのには事足りていた。
「あちゃ~……こりゃずいぶんハデにやっちゃってくれたじゃねーの。爺さんひとり押さえつけんのもラクじゃねェんだぜ」
大災害にならなかっただけ僥倖とすべきところだが、今の彼には如何なる言葉も通じまい。それを理解しているラツィルは老父をなだめる事を諦め、やれやれと手を振り降参を示した。
「腐食療法だ。病的な崇拝に酔った細胞は熱傷によって取り除かねばなるまい。貴公らの淀みきった信仰心とやら――俺がすべて正し、此処に新たなる拠点を敷こう」
Под именем Щер――高らかに宣言したのち、シエナに目配せして天象儀のスイッチを切った。言わずもがな、総員からの顰蹙は免れない状況だ。飛び交う野次、石ころ。はたまた銃声まで、エイドは風のごとく躱していってアプスを降りていく。
ラツィルの制止を振り切ったアレクサンドルが怒涛の勢いでエイドの襟をつかむ。澄ました顔で振り返る彼に殺意を覚えながら、ありあまる罵倒の限りを尽くした。
「なんたる横暴を! 貴様の行おうとしている所業はすべて神へのあるまじき冒涜じゃ!」
此処が聖堂であるといった認識を切り離すような騒ぎは紛雑を極め、とうとう国際問題にまで発展しかねないような様相にまで到っていた。しかしこの撹乱も計算あってのこと。
教会の連中の怒りを自ら指揮を担う東岸部隊に向けることで、赤軍自体への意識を逸らそうといった魂胆であるが、教会都市からの反目を捌く面倒な役も押し付けられたラツィル達東岸の直属からは不興を買っていた。
当然、ソ連全土の教会を乗っ取り、個隊の軍事強化を図る身勝手なエイド自身も。
「元より神なんぞという不確かな事象にはありがたみの一つも感じきれていないのでね」
これより私は失礼する。扉が硬い音とともに閉ざされる。騒然とした礼拝堂において、東岸の関係者であるラツィルへの注目が一斉に集まった。
とんだ貰い火を受けたものだと、すっかりあきれ果てた彼女は肩を落とし、どう処理してくれようかとアプスの天象儀を見やった。するとこれまで二人の風波を静観してきたシエナが、ようやく天象儀の前に立ち、号令を挙げる。
「皆の者、静粛に!」
威風堂々たる気迫は鶴の一声となって、ようやく堂内は静まりかえる。
思えばエイドは何をしにドラハテンからこちらへわざわざ戻って来たのだろうか。
軍国主義な彼のことだ、良からぬ劃策を企てていることは明白であるが、ポーカーフェイスを貫く榛の瞳には今日も今日とて何も映らない。ラツィルは小声で彼女に問いかけた。
「んで、結局奴は何を企んでんだかな」
「要するに、教会に注ぐ土地があればそれをすべて自分の私有地にしてしまいたいのでしょう。彼は本気なのよ。――なにせ、私の敬愛する“あの人”に負けてしまったもの」
引き幕から差し込んだ光が、シエナの濃艶たる笑みに紅を差す。泡が跳ね返ったように低く、澄み渡る声はビオラの音色にも似ていた。
堂内に悶々とした空気が漂う。それが醸し出しているのは先刻のような緊迫とした雰囲気ではなく、色に惑わされた男達の精の情動……実際に放っている者もいるかもしれない。
反対する理由などなかった。元よりシエナも監視者という立場とはいえ、英国から寄せられた使節団のひとりに過ぎない。東岸とはうって変わって教会都市とも懇ろな仲を築いている。それが正規な手段を介した友好条約でなかったとしても、だ。
「私はシチェルビギン中佐の要求を承認します。皆は外部の混乱をおさめたのち、中央広場においてソルダート総動員の指揮を執りなさい」
聴衆に向き直り、シエナは即断で指示を出す。使える駒は、使える内に。今や竣工された新たな時計盤よりも、エイドの持ち寄った新型兵器の話題で持ちきりとなっているだろう。
彼には内心おおいに感謝していた。教会都市の注目が例の白い天象儀に集まる事で、義父が成さんとしていた時計盤の計画――シェレネイドマギアテスタから目が逸れるのだから。
つまり彼女は、東岸の赤服にカマをかけていたのである。
「し、しかし! この騒動はそう簡単に静まるものでは――」
「尚、中佐の独断行動につきましても私が全責任を負担すると約束しましょう。……皆の者、散りなさい」