始まりは時の線路-Ⅹ
遠い日の話を思い出した。
村の住人から慕われていた農夫の青年が、禍つ神の呪いにふれた夜のことを。
すべてを焼き尽くされて失意に落ちたあの日のことを。
やるかたのない憤怒に身を落とし、死神と成り果てたあの時のことを。
そういった意味を踏まえればナチスは、ひとつの想いがすべての物を狂わせるという立証をあの場で果たしたという事になる。おかげで、悪質なマスメディアや財団連中によって彼らの所業が正当化されるという始末に陥った。
それでもアルスは、最後まで希望を捨てなかった。ぶっきらぼうな旅人の叱咤と励ましを得て、自分は前へと進むための踏ん切りをようやくつける事ができる。
それにもう、自分は独りではないのだから。
「おはよう。もうそこらで着くみてーだぞ。オネボウサン」
座席に横柄に凭れ掛かって足を組む。そこで一睨みを利かせて滲み出る凄味といったらもう、やかましい同僚の説教を地で行かんばかりの抑圧感だ。
「お、おはよう……」
びくびくとしながら挨拶返しをする様は死神と形容できないほどに滑稽な絵面であった。冗談交じりに苦笑しながらイリヤはアルスにからかいの応酬を畳み掛ける。
「イビキすごかったぜ。くしししし、よほど気持ちよく眠ってたみてーだな」
こっちはスイッチの切れたお前を運ぶのに難儀したってのによ。
意地悪な笑みを浮かべてきたイリヤに、蒼白となった彼の面持ちは実に愉快である。先ほどはよくも弄んでくれた。今度はこちらから意趣を突いてやろうか……そんなイリヤの悪巧みが透けて見えるような、非常に黒い影の差した微笑だった。
「え、えっと……なんだかごめん」
「なーんでお前が謝るワケだよ? お前さっき赤い服着た人形たちに追い回されて、ズテーンておっ倒れちまったっきり動かなくなっちまって、そんでお前に連れ回された列車ん中に逃げ込んだっつー顛末だ。わかったか?」
「え、エイドは……?」
「あー、お前に意識ないって分かったきりそのまま帰っちまった」
冷静になって鑑みれば、エイドがイリヤを狙うという行動自体に何のメリットも無い。戦闘不能となったアルスに止めを刺さなかったのはあずかり知れぬ疑問であるが。
しかしこれだけの被害を出しておきながら車掌から何のお咎めも無しであった事、今も何事も無かったかのように運行し続ける特急列車に比べてみれば些細な問題のようだ。
どうやらイリヤの口添えらしい。こういった計算高さも自身が学ぶべき要素だろうと改めて反省させられる思いでいた。
「まーよかったんじゃねーの? 一件落着ってコトで」
長年と前線に立つことで得た頑強な肉体とはいえ、あれだけ強力な術式の束にさらされていれば致命傷も免れないところである。
イリヤが彼に刻んだのは治癒の術式だが、アルスにこれ以上の重責を感じさせないための配慮として、鈴を揺らして記憶を一部取り去った。
結果、彼は自身の犯した失態に苛まれる事なくのほほんとしているものの、どこか釈然としない面持ちで視線をさまよわせている。
「そ、そっか。そうだよね……んーっ!?」
どれだけおどけても大した反応を見せない死神に暇を持て余したイリヤは、アルスの真似をして風を彼の頭に巻きつけた。
面白いほど跳ね上がる彼の髪と反応を、ひとり満面の笑みで見守った。死神同伴の片道切符も、案外悪くはない。
「ちょ、ちょちょ……ひーどーいよイーリーヤ~~~っ!」
ドラハテンでの用事を終えた頃には、また彼の余興に付き合ってみるのもいいだろう。きっと自分を強く変えられる転機になるかもしれないと、愉快な死神に期待を寄せて。
ある話を思い出した。
死神が旅人と出会うとき、それまで平行していた世界はひとつに集束する。
幾千と、幾億の数に満ちた箱が寄せられ、それぞれの庭に独自の展開がいくら設けられてようと、自らに待ち受けている末路は同じだ。
ドライゼの装甲を木っ端微塵に砕かれて、自身もすでに死の間際の水平線にいる。
旅人の少年と初めて邂逅を果たした駅はもう、長きにわたる戦いの末、とうに線を断たれていた。
ずっと手入れのなされていないこの路線は去年の洪水で水没し、復旧の希望はないとみて良いだろう。
それをまるで時の無常を嘲うかのように咲き誇る閖の香り。絶え絶えになった息でようやく吸い出せる空気の甘さに耐え切れず、大きくむせ返った。
風に踊る彼らをみて、線路に張る水面のたゆたいを前に、旅人が揺らしていたあの鈴の響きを思い起こす。
世界に希望の持てなくなった自分に唯一手を差し伸べてくれた存在を、ただ守りたいだけだった。
それは世界という大きな箱に目もくれず、自らの妄想で作り上げたに過ぎない庭へ固執していた故の報いだろうか。
自身の守る集落は、いつも戦乱の脅威にさらされていた。
考えもなしに穿たれるナパームに強い怒りと憎悪を覚えたアルスは、今より強大なる力を依り代に求めた。思えばそれがすべての元凶だったのだろう。
結果、代償に守るべき故郷そのものを失った。依り代の恩恵を受け、キーマンの力を得ようと時計盤へと赴いたほんの数日後、死神の不在を察知したドイツが彼の故郷へと一直線にこぎつけてきた。
彼をナチスの傀儡にするための、止むを得ない作戦だったと聞く。その作戦に駆り出された兵士のなかには泣き出した者もいるという。
願いの先に生まれた罪を赦せるのは、償いの果てにある地獄でしかない。
それを知っていた死神はただ、贖いの弾丸を注ぎ込むことでしか過ちの清算を果たせなかった。冷酷なる仮面を取り繕ったとしても、結局は自らの罪を恐れての逃げでしかなかったのだ。
月夜に照らされた水平線に手を伸ばす。何も掴めないのは判りきっている。
満ちた月はおぞましいほどの静謐さを湛えながら雲を従えていた。
まるで自らの死を待ち望んでいたかのように。
――七つの星を糧にして、この身を滅ぼしてでも君に逢いに行く。
それは果たして誰に向けた決意なのだろう。誰に誓った約束だったのだろう。
いつか読んだ物語の死神は、自分の犯した過ちに区切りをつけるために償いの旅に出かけ、孤独という名の牢獄に身を寄せながら生涯、自分の罪を見つめ直し続けたという。
どのみち死神と化してしまった肉体なら、せめて彼らしく逞しい生き方でありたかったものを。
最期まで約束した意志を貫き通せなかった自分に涙するだけの、無様な男と成り果てた自分には、何の縁もない話だと気付かされる。
だけど幸せな旅路だった。未来の車掌は自分を輝かしいレールに導いてくれたのだと、今でも信じている。
そう、今でも。
めぐり回った罪の意識は、愛も絆も破壊する。
償いきれない罪を犯した死神は、痛みという名の水底に沈む。
「また……逢えるよね」
そんな『おとぎ話』を、思い出した。