第九話『手』
【流血・暴力表現アリ】
やんわりと、揺れている。人の歩調に合わせて、浮かんだ体が揺れ動く。安らぎが培って生まれた花園のような、不思議な夢見心地にまみれ、それによる確かな名残惜しさを感じながらもゆったりと瞼を開いていく。
暗がりに川辺の輝きがぼんやりと浮かぶ。木葉に積もった、触れれば溶け出しそうな雪が無情にも水底へと沈んでいく。二つの呼吸が真っ白く、真っ黒に消える。
体いっぱいに抱きしめた温もりの正体が、次第に確かに見えてきた。短く乱雑に切られた、根元に黒さを残す金髪の髪が頬を、鼻を、心をくすぐる。ゆっくりと顔を上げて下方へと、眠気の詰まった喉から声を出す。
「せい、しょう……」
「あぁ、やっと目が覚めたんだ」
「うん……。何処だ、ここ……」
「遊歩道。んで、今は下校の真っ最中」
「……みたいだな」
俺と自分の鞄を小脇に抱えてそう返答してくる青翔。
辺りはすっかりと夜へと向かい、星がちりばめられ、灯りがぶら下がっているまっすぐな道沿いには川がある。見紛うことなく遊歩道で見られる光景で、下校中なことに対しては疑問点がない。それとは別に、一番説明して欲しかったのは、青翔が俺をどうしているかということだ。
「なあ……なんで俺、青翔におんぶされているんだ?」
青翔の盛大なため息と共に俺の体は一度大きく持ち上げられ、元の体制を取り戻した。顔を暗闇に隠しながらのんびりと一定の歩調で俺をおぶさり歩く。遠く色あせた童心の頃の温かな思いに自分を沈めて、待ち続けて……そして、やっと青翔は話し始めた。
俺が教室で気絶して保健室に運ばれたこと。なかなか目を覚まさない俺を、青翔は保健室の先生方の静止を押し切って半ば強引にここまで背負って来たということ。それを説明する青翔の声は疲労と呆れの混ざり合いだった。
「なんか、ごめんな」
「別にいいよ。それより、なんでまた気絶なんて……。そこまで軟じゃないのに」
「それは…………」
痛いところを突かれて言葉が詰まる。意識を失っている間に蘇った昔の記憶、それを無かったことにしたくて堪らないのだ。そんなものを今は蒸し返したくない。今はただただ綺麗なものに包まれたかった。
「……まあ、いろいろ」
髪の毛の丸まった先を弄って視線を逸らしながら、俺は曖昧な回答をした。その際に自分の手があろうことか、青翔の手の平を握りしめていることに気づく。微かに汗ばんで生温かい。この大きな手のひらを俺はずっと握り締めていたようだ。少しの困惑よりも、なんだがこれはくすぐったい。
「これはどういうことだ、青翔?」
面白おかしく言った俺とは対照的に、青翔は顔を俯かせて隠しながら、穏やかでどこか決まりの悪さを感じる声色で呟いてきた。
「君が、ずっと手を離さないから……悪いんだろ」
そう言って手を広げ、互いの指先を交差させた状態からゆっくりと俺の手からそれを抜いた。指の隙間が風に晒されて寒さと淋しさを与える。そんな手を自分の手で包みながら意地悪に、俺は恥ずかしがる青翔の首筋の近くで言ってやった。
「お前の手、いつもあったかいからかなー。つい寒いと握りたくなるんだよ」
しばらく青翔は黙り込んで歩いた。顔を月光に照らされることがないように、ゆっくりと。白い息が俺の顔を掠めて消えていくのを見送れば、やっとのことで青翔が顔をあげた。どこか拗ねた面持ちで俺の方をジロっと見つめる。
「温かくなんかないよ。そんなこと言うならもう一度、触ってみる?」
いじらしいそんな表情にはっとなり、気がつけば目線を川に写された月の方へ向けていた。
のどかに流れて光る水の波が幾重にも連なり、さーっと通った風に葉を揺らして、音を鳴らす松柏の涼しげな音。天空から舞い降りたった白妙を宝石のように輝かせる月影は眺望を柔らかく包む。
目に見える全ての景観に息を呑まずにはいられない筈なのに、今の俺にそれを楽しむだけの余裕はなかった。頭の中が全て真っ白で……言葉が見つからない。
「……いらねぇよ、べつに。つーか……降ろしてくれ……、重たいだろ」
その程度のことでも言うことが既にいっぱいいっぱいで、焦りが声に浮き出なかったのは幸いだった。
青翔は何も答えない、再びの沈黙が待っていた。動揺が悟られたのかと思うと顔が熱い。なんでこんなにも自分は緊張しているのか、考えただけで可笑しくなりそうだ。少しばかり、意地悪が過ぎて、思わぬしっぺ返しを食らってしまって……。自分の言動に素直に反省する。
呼吸音の一つでさえ、立てることを躊躇してしまう。そんな何とも言えない妙な空気が、お気楽な何時もの声によって戻された。
「……まーね。朱連、身長の割には体重あるから正直ヘトヘトだよ」
「あっそ。……すみませんね、筋肉質で」
「もしかして鍛えてる?」
「趣味の一環でな」
「わーお……」
「なあ。……もういいか、早く降ろせよ」
「あぁ、ごめんごめん」
急かす言葉で青翔をしゃがませると、そっと地面に足をつけた。両足に確かな自分の重さを感じると、すぐさま白雪が降り積もった芝生の上に座り込む。大きな深呼吸を何度も繰り返し、ヒンヤリとした両手で未だ熱さが残る顔のあちこちを触る。耳たぶへと降りてきた結晶が一瞬で肌に溶けた。
雪を靴底で柔らかく押しつぶしながら、気がつけばその気配がすぐ隣に寄り添っている。
「ねぇ」
「なんだよ……。寒いから、うずくまっているだけだからな」
そう言って頑なに、顔を合わせようとは思わなかった。
「そうじゃなくてね、君の手」
「俺の、手……?」
「そう。朱連の手」
俺の手がどうしたと言うつもりだろうか。俺は腕で隠した顔を興味本位に少し起こして目を覗かせる。そこに映った青翔の顔を、あまりよく見ることが出来なかった。
口元の動きだけは何とか分かる。だけどその動きがやけにスローに思え、言葉の一つ一つがまるで魔法のように頭の中へと溶け込んでいく。
「いつも、凄く温かいんだ。握られたら、ずっと握っていたくなるくらい」
気がつけば髪を梳いていた指先が心地よかった。俺のことを見守る瞳が何よりも美しく思えた。心臓がはち切れそうな程に激しく鼓動して熱い。自分の手が氷のように冷たく、とてもじゃないが温かいとは思えなかった。
自分ばかりがこんな調子なのが悔しくて、思わず仕返しとばかりに手を差し伸べて、口ごもりながらも言ってやった。
「じゃあ……もう一回、触ってみるか?」
手を伸ばせるだけ突き出して応えが返ってくるのをひたすら待つ。冷気にさらされた指先が震え始めていても、そのまま。
暫くして、おずおずと出された手の甲がひと時だけ触れたかと思えば、瞬く間に引っ込まれた。ついその手を追おうと顔を上げたら、視界の奥に何者かが佇んでいる。青翔もそちらの方を注視していた。
パーカーのフードを深く被った小柄な人影を見た途端、背筋に走った冷たい感覚。ソイツはキケンだと、忙しない警告音がガンガンと頭の中で鳴り響いている気がした。
「みーつけた」
まるでゲームを楽しんでいる、子供じみた男の子の声が耳に入ってくる。その発言に危機感を覚えつつも、気を静め、隙を見せまいと慎重に立ち上がるとあちらを威嚇するようにして対応する。
「……なんだ、テメェ」
「あハぁ……? ふフっ……く、はァ。みィーツけタァ、ミつぅけチャっタよ~。鬼ゴっこ、おニごっコぉ。遊ボっ、アっそボぉ~……。オニさぁンこうタァ~いぃ。キ、きゃハハはハ~……ヒャは!」
俺の問いにフードの男は身体を上下左右に揺さぶりながら、はしゃぎ声を小さく漏らすだけだった。どのタイミングかでそれを急にピタリと止めると、男は先ほどの声の持ち主とは思えないほどに低く、豪然たる声で言い放つ。
「上西朱連を遊歩道で発見。周囲にいる者は直ちに駆けつけ、速やかにターゲットを……」
「――!?」
瞬間に、全てを理解した。この言葉を今まで何度も聞いてきた、それもこの一週間の間で九回も! そして、待っているのは決まってあの……! こんな時に……まただ、また……
「始末せよ」
――来てくれた。
高揚とした気持ちの高鳴りに笑い出してしまいそうになりながらも、喉の、本当にすんでの所で抑えつけた。自分の右腕がウズウズと生き物のように蠢き出しそうで、それに身体を呑まれてしまいそうで、それで構わないと思う自分がいる。
いや、本当は最初からそれで良かった。ただ……。俺は視界をズラして前方の青翔の背中を見つめ、懸念した。
少しの迷いはあったものの、時間は誰も待ってくれないのは知っている。答えはいつもシンプルだった。
俺は偽らなければならない、他の奴らと同じように。たとえコイツが他の奴らと違う存在であったとしても。俺は、信じちゃいけない。演技をしよう、芝居を打とう、いつも通りに。俺の為にも、青翔の為にも……それが一番いい。
そう思えば次第に汗が顎を撫でていた。強い言葉で焦りを装うと、数歩だけ後ろに下がる。
「畜生、またかよ!……青翔、悪いがお前は先に帰れ!」
「え……?」
「じゃあな! 夜道には気をつけろよ!」
ほんの一瞬の出来事、気がつけばフードの男は姿を眩ませていた。男の正体が気になるところだが、とりあえずそのことは一旦忘れよう。
俺は状況の呑み込めない青翔を一人残し、わき道に逸れて遊歩道の終りまで突っ走った。
走った先にある、灯りもつかない、シャッターの並ぶ廃れた商店街の南端まで辿り着くと携帯電話を取り出した。
メールの宛先欄に上条と書かれた液晶画面を眺めながら、最小限の記号を打っていく。最後の送信ボタンを押し終え、長いひと息をついた。
張り詰めた空気を肌で感じて身震いをし、肩で息をしながら懸命に周囲の音を拾う。路地から僅かに聞こえる音を察知して、大袈裟な息遣いで独り言と言う名の網を投げ出した。
「はぁ……はぁ、流石にまだこねぇか……。もう、何度目だぁ……? 飽きろよ……、いい加減、なぁ……」
目を瞑って近くのシャッターに豪快な音を立てて座り込む。
上から押さえつけられた砂利が地面と擦れ、布がコンクリートに引っ掻かれるのが向こうから聴こえる。まばらに鳴る呼吸音の演奏、小声で振られる指揮。カラン……と金属が転がったかと思えば風が空を切り、ごりっとアスファルトを踏みにじると共に獲物の大きな唸り声が上がった。
「――おらぁっ!!」
ここまで予想通り。
シナリオ通りに瞬時に手を頭の上に添え、衝撃を待つ。
「…………ん?」
一向に訪れない打撃に違和感を覚えた。今まではなかった狂いに、目を開け、自分と一番親しいはずの音源の方角を確認する。
そこには男が倒れていた。錆びた鉄のバールを握りしめ、口を大きく開けて唾液を垂れ流し、喉から声にならない音を出しながら。
その側に立つのは……想定外の、あの男。
「夜道には気をつけなよ……朱連。最近じゃ暴行事件も絶えないのに、一人歩きは危険だよ」
「……テメェも一人だろ、青翔」
「それもそうかもね」
俺の言葉にバツの悪そうな表情を浮かべて青翔は肩をすくめた。そして、長く細い霧を口から放出しながら引き締まった表情で辺りを窺う。四方八方に群がって俺逹を取り囲む人、ひと、ヒトに、青翔がどぎつい睨みを効かせた。
「さて朱連……これはどういう事か、説明されるまでは帰らせないよ」
「好き勝手いいやがってこの野郎……。勝手についてくんじゃねぇよ」
眉間に皺を寄せながら、粋がる青翔の後姿を眺めて不満を並べる。
「別に。たまたま帰り道が同じだったようだね」
「あ?……はぁ。せっかくの茶番も、全部……ムダになったじゃねぇか。どうしてくれるんだよ」
少しの悪態を心の中で吐きながら俺は身軽に立ちあがった。うなじに手を当て一度首をぐるりと回すと、足元に叩き伏せられているモノから武器を一つ拝借する。
とりあえず、バレてしまったものは仕方がない。もし、こいつせいで秘密が露見したりすることがないのなら……青翔のことも、アイツには黙っていよう。出来れば何も知らずに、ただの友達でいて欲しかったけれど……。
挨拶がてらに地面に転がるモノの脚に一撃を喰らわせた。咆哮の叫びに隠れて小さく青翔に声をかける。
「説明は……まずは事を片付けてからだ。青翔、てめぇは隠れていな」
「いくら何でも一人じゃ危険だよ。そうやって一人で何でもやりだしたらいつか……」
「部外者が、一々うるせぇ!……いいから黙って、ここで俺が戻ってくるのを待て」
文句の五月蝿い青翔を無理矢理物陰に押し込んでそう言い聞かせた。
先ほどの悲鳴で危機を覚えたか、何物かが警戒心を纏えてこちらの動向を窺うように迫り来る気配を感じる。その場にしゃがみ込んだままバールで地面を叩き、ワザとらしく居場所を知らせる。鈍くも高く周辺に浸透する音に、群れは容易に食いついてくる。餌に誘われるがまま、音のする方へとにじり寄るマヌケどもを暗闇に紛れながら眺め、乾燥した唇を舐めた。
壁越しに訴える青翔の言葉を聞き流しながら、俺は囲いの中央へ歩き出す。数十人もの人間の殺意を一身に受けながら、俺は挑発的に口を開いた。
「お前らが探している、上西朱連ってヤロウは俺だ。なんだっけ……てめぇら、俺を始末するつもりなんだっけか?……上等だ、狩ってやるよ。俺が、てめぇら全員……一匹残らず!」
手元のバールを高々に振り上げると、そのまま前方に控えていた武器を持つ野郎どもへと投げつけ、同時に俺は駆けた。勢いを持って回る凶器と共に集団へ突進する。最速の獲物となった男からバールを引き抜き、ついでにそいつからバットも頂くと、周辺の取り巻きの奴らを薙ぎ払っていく。勢いよく噴射する液体が、周囲を赤く染めた。
ほんの数秒の出来事に、誰もが声をあげられず呆気に取られている。戦意を喪失せずに襲い掛かる奴らは、俺に十分な時間を与え過ぎていた。頭の中に生まれた破壊へのプロセスが順調に組み合わさっていく。俺が最初に受け止めた衝撃が、奴らにとって最後の好機となった。俺は、力の限りに、暴力を振り上げる。
血潮にまみれた鉄が心地よい音色を響かせ、骨がバラバラに崩れる爽快さが快感を生む。身体に直に感じられる肉と骨のぶつかる感触が病み付きになる。喉を潤す豊潤な血が愛おしい。血みどろにまみれたカラダが、あったかい……。
他なんてどうだっていい。ヒトがどうであろうが関係ない。この感覚が堪らない……。
最高だ……。俺は……暴力が大好きで、大好きで……。
もう、ココからは、抜け出せない……――――
温もりを失った血液が身体中にへばりついてきて、寒い。体温を奪っていく金属の塊を片方だけ落とすと、乾いた接触音が鳴る。生々しく刻み付けられた拳への衝撃、肉を弾く音、骨のモロさ。笑えるほどに、何もない、虚無感。
白雪の上に指先から溢れ落ちた赤が広がり、見事に満開な花を咲かす。何処も彼処も、赤い花、花畑、花園……。その中心に佇み、花の種を生み出す塊の前にいる、俺は、恍惚の表情を浮かべ…………
「朱連……」
「――?! あ、あぁ……青翔、なんで……」
力強い右手首の拘束に、思わず掲げていたバールを落としてしまった。水たまりが広がる音がやけに澄み切って聞こえる。足元に転がる塊が転がって消えていく。
気がつけばもう、何もかもが、いない……。
まだ足りない。まだ、寒い……。
体温が奪われて、凍えていく感覚に身を震わせる。青翔へと向き直り、そのまま前に倒れこんだ。
「なんで、止めたんだよ。なん、で……」
「……見てられなかった。ダメだ、もう駄目だよ……」
小刻みに揺れる両腕で青翔の胸を押して立とうとするが力が出ず、上手くいかない。クラっと意識が遠くなりそうで、それに負けじと声を絞り出す。転がるバールの位置を確認した。
「嫌だ……。邪魔するな、俺の邪魔をするなら…………――?! 青翔!!」
青翔の肩越しにギラつく棒が振られたのが見えた。瞬時に青翔を引き倒すと体制の取れていない右手で渾身の力で振り下ろされた金属バットの衝撃を受け止める。片腕全部に伝染する鈍痛に怯みながらも何とか相手を引き離す。骨の軋む感覚が片腕に残っていた。
「っぅ……! 青翔、だいじょぶ、か?」
「朱連……!」
「俺は、大丈夫っ……! お前の方は、ケガ、ねぇよなぁ……?」
「僕の方は大丈夫だよ。それよりアイツは何処に…………なっ?!」
完全に迂闊だった。俺が青翔の方を見たほんの一瞬で、顔の見えないソイツは機敏な動きで再び俺たちに近づき、倒れている青翔の頭部を狙ってバッドを降り下ろそうとしていた。
「テメェ、いつの間に!!」
それを止めに入ろうとソイツに接近すると、思いがけず直角に曲がったバッドの軌道に対応できず、脆にその打撃を頭に叩きつけられた。何かが抉られた感覚と共に、ドロッと髪の間を抜けて何か生温かいものが流れ出していく。それを確かめるより先に、ソイツが俺に近づいて追い打ちをかけようと迫り来ていた。
逃げられない、やられる――!!
グラつく意識でそう判断し、両腕を交差させて衝撃に耐えようとすると、俺の体に重力が抜けてしまった感覚が起きていた。
「青翔!?」
青翔が俺を運びながら走り出していた。切羽詰まった横顔が間近に見える。
「逃げよう。これ以上ココにいたら本当に危険だ」
「それに関しては同意見なんだが……走れるから降ろせよ!」
「降ろす時間が勿体無い」
「逃げるにしてもこんなんじゃ逃げ切れねぇだろ!?」
「いいから黙ってて!!」
確かに男一人抱えて走るにしてはなかなかの走りっぷりなのだが、こんなのではあの素早い動きを見せたアイツには追いつかれてしまう。俺は心配になって顔を後方へと傾けた。
夜目は既に利いているから、難なくアイツの姿が見えるだろうと思っていたのに、いくら待とうがアイツは見つからない。驚くことに、アイツは後を追ってきたりはしていなかった。今の状況で追いかければ、確実に俺たち二人を潰せられたというのに。
この事実を急いで青翔にも伝えると、速やかに俺を地面に降ろしてもらう。場所はもうすでに賑わいのある商店街の始めまで来ていた。
「あぁ……屈辱だ。男にお姫様抱っこされるなんて……」
落胆の感情をどんより背負いながら俺は手で顔を覆って肩を落とした。無事だったことよりか、男の抱っこの方がなんぼも応えている。ここまで来ている間に知り合いに見られていないかが気掛かりでない……。
「そうじゃなくてさぁ、少しはアイツから逃げ切れたことを喜ぼうよ」
「そうだなぁ……。とりあえずー、路地に入るか。この状態じゃ怪しまれる」
俺は血の流れ出してくる頭部を押さえて近くの路地に青翔を引っ張って行く。ここまで来た過程を潔くきっぱりと忘れ、ハウスの方角へと足を進めながら会話を続けた。
「怪我は酷くない?」
「タフだし、金属バット程度じゃ問題ねぇよ。……あれが本気で来られたら正直、ヤバかったと思うがな」
もし、もしもあのまま青翔の頭にあの打撃が降り下ろされていたらと考えると、俺に当たっただけ、まだマシだったかもしれない。あれは下手しなくても当たれば即病院送りは免れないシロモノだ。
そう思うとあいつのキチガイじみた行動に寒気を覚えたが、ついさっきまで散々人を痛めつけてきた俺が言う義理も無かった。
「何だったんだろう、アイツ。遊歩道で見かけたパーカーの奴かな?」
「違うな。背丈が俺よりデカかった、別人だ。……あのヤロウ、今まで一度も嗅いだことのない、とびっきりのヤバさだった。アレは出来れば相手にしたくねぇ」
「朱連でも、負けると思う?」
そう言われて不意に足をピタリと止めて考えてみた。今まで喧嘩で負けたことのない俺が、急に自分が負けるかもしれないか聞かれてみても、正直ピンと来ない。確かにあの身のこなしは俺の目で追い切れてはいなかったが、いざ自分が負けるかと聞かれたら、負ける筈が無いと根拠もなしに思ってしまう。
歩く速度を速めてまた話し始めた。
「……まーさか。俺はぜってー負けねぇから」
「何で……そんなこと言い切れるの」
「俺が強いから」
「喧嘩は、何の為にやっているの?」
「俺の為に決まってんだろ」
「……楽しい?」
「もちろん」
「……朱連。ずっと思っていたけど、喧嘩はもう、やめた方がいいよ」
そう力なく青翔は言うと、急に歩みを止めた。つられて俺も立ち止まり周囲を見渡したが、さすがに誰かがここに来るとは考えづらい。少し込み入った立ち話でも問題ないだろう。
遅れて立ち止まった事によって生まれた青翔との距離感がどうにも歯痒かった。
街灯も光も遮断する路地裏には月桂だけが差し込み、不気味なほどに薄暗い。建物の影が掛かって表情は隠された。
「朱連のこと、自信過剰と言うつもりはないよ。でも、どんなに強くても、恐れられていても、寝首を掻こうとする奴は、いるよ。打ちのめせば、打ちのめすほど……増える」
青翔は一歩一歩を踏みしめて俺との距離を詰める。お互いの顔が識別できるようになると、あの真っ直ぐな瞳が見えた。
喧嘩はやめろ。なんて……そんな説教はいつでも聞いてきた。だから今さらそんなもの聞いたところで何とも思えないと決めつけていたのに、その目に気圧されて言葉を失い、戸惑う。次に待っていたのは、全てを悟ってしまっているような、青翔の言葉だった。
「君が、暴力事件の犯人だろう。もしもこんな事ずっと続けていたら、これから先も君を狙う奴は増えるよ。君は、独りになっちゃうんだよ、それでもいいの?」
俺が、犯人だという真実は……あの現場を見れば火を見るよりも明らかで、今日だけの惨事だったなんて言い訳は、出来ない。
そんな事よりも別のことに、俺の意識は持っていかれてしまった。あまりにも真剣な青翔の問いに俺の心を揺さぶられる。何とか返答しようと、弱々しくとも力づくに喉から声を出す。乾いた唇からは乾いた声しか出なかった。
「俺……は、それでいい……構わない」
青翔の悲痛の表情に目を背けたくなる。強く訴えかける瞳から、どうしても逃げたかった。俺の中の何かを変えようとする言葉を、もう聞きたくない。
それだというのに、青翔がまた俺に、近づいてくる。
「朱連……分かってほしい。暴力で何かを得ても、結局残るのは虚しさだけだよ」
青翔は温かい右手で柔らかく、俺の返り血混じりの冷えた左手を包む。その手を即座に払いのけると、俺は怖気づいて後ずさった。手や首元にへばりつき乾いた血が冷たく、頬を流れる生血が温かい。赤く染まった真っ白い腕時計を握りしめ、語気を荒げて俺は言い放つ。
「分かってんだよ、んなこと……! 分かるから……だからこそ、今更、誰か文句なんて、言われたくねぇんだよ。俺の気持ちなんて、お前にも、もう誰にも、理解なんてされたくねぇ! 俺がどうなろうが、お前には、関係ないだろうが!」
「関係、あるよ」
俺の言葉に即答した青翔の顔色は、どうしようもなく優れなくて、険しい顔に汗の粒をいくつも作っていた。
「僕は朱連とは他人だから、朱連の邪魔なんてしちゃいけないかもしれないけど……。朱連は大切な、僕のたった一人だから……僕は朱連を守りたい。傷ついて欲しくない。守りたかった、のに……今回みたいに、僕のために朱連が怪我なんてしたら、僕は……僕の気は、狂ってしまうんだよ!!」
青翔が酷く取り乱しながら俺にそう怒鳴ってきた。両肩をゆっくりと上下させて息を吐き、焦点の定まらない目がギョロリとこちらに向けられる。普段の優しさがあった分に、その豹変ぶりに衝撃を受けた。
言葉にならない声が何度も言いかけては止まり、結果的には何も伝えられず、冷や汗が背筋を伝っていく。
そんな中で……先に落ち着きを取り戻したのは、青翔の方だった。
顔を俯せながら切れの悪い言葉で呟く。
「ご……めん、怖がらせるつもりじゃ、なかったんだ。僕はただ……君が危険な目にあってしまったら、自分で自分を許せなくなるってことを、もう一度君に、伝えたかっただけだから」
優しげで頼りない青翔の声を聞いて、俺も一応の冷静は取り戻せたものの、このまま二人でいたらまた言い争いになるのは明白だ。
俺はそっと背を向け、地面を見つめたまま、何を言えばいいのかを淡々と考える。この状況から抜け出す為なら何でもよかった。
一歩、青翔から離れる。
「……先、帰るから。また今度、学校でな」
結局、最適な言葉が思い浮かばずに、俺は当たり障りにない言葉を使ってその場から逃げ出した。路地裏を一直線に走り、片腕が痺れても、流れる血が止まらなくても、腕を振って、振って、振って……俺は走る。やっと見えたハウスのドアから中へと転がり込んでしまった自分が、救いがたいほどにちっぽけに思えた。
誰かに触れられることを拒んだ心臓が、激しく脈打っている。
もう誰も、俺の後を追ってきたりはしていなかった。
凄惨な血に濡れた空間の中央に男と女の人影、辺りを忙しく動き回る数人の集団があった。男が携帯越しで誰かと会話をしている横で、女が紙に何かを書き連ねる。
「あぁ……そう。君はいつも手回しがいいね、有難いよ」
笑みを浮かべて男は携帯の通話ボタンを切り、丸まった自身の髪を掻き上げた。おぞましい現場を眺めながら疲れ切った吐息を零す。隣に視線をずらし、肘で女のことを小突く。 その合図に女は眼鏡をかけ直すと手に抱えた紙束を読んでいった。
「何もかもいつも通り。逃亡者も捕獲済みよ。……ただ」
「ただ?」
女はチラリと遠慮深そうに男の方に視線を流す。それが気に入らなかったのか、男は少しだけ苛立ちを含ませた声で続きを促す。その言葉に女は頷き、申し訳程度の小声で報告した。
「ある地点に、あの子の血痕が落ちていた……。そういう報告があったわ」
その言葉を受けて突然に男の顔色が変わる。女から紙を取り上げるとその内容を読んでいく。既に笑顔は跡形もなく崩されており、携帯を握る手の力が強すぎて、今にでも潰されてしまいそうなほどに揺れていた。何かに押し潰されたかのような声で女に、ゆっくりと訊いた。
「出血の跡は……もう、始末したのか」
「既に手配済み。順次済ませる……」
「他はいい! そこの証拠の処理が何よりも大切だ!」
静寂な空気に男の怒号が響き渡った。足の貧乏ゆすりが止まらない男は爪を噛みながら苦悩の表情を浮かべて思案し続ける。その様子を横目で見つめる女は眼鏡をかけ直すと小さく嘆息を吐く。胸ポケットに入れた携帯を取り出すと液晶を光らせて操作を始めた。
「分かったわ……総動員で事を抹消させてもらう。それで良いわよね?」
「あぁ、そうしてくれ」
「……上条さん、とりあえずは落ち着きなさいな。あの子が大事なのは分かるけれど冷静さを欠いたらなにも……」
「ねぇ……」
女の言葉を遮り、上条と呼ばれた俺は呆れるように吐き出した。
「黙って、僕の言うこと聞いていてくれないかな……星野先生?」
向けられる男の微笑みは狂気の色を見せ、優しげな声色が反対に絶対的権力を感じさせる。その圧倒的な支配力に、女は息を呑んで眼鏡を上げた。
「……えぇ」
女は口少なくそう返したきり、何も話さず作業を続け、上条もまた、携帯を忙しく弄りだす。
血みどろの情景が、確実にいつもの廃れ具合を取り戻しはじめていた。作意的に、巧妙に、計画的に、いつもの平和な景色が、創り出される。
気がつけば、この十回目の連続暴力事件は、この世から存在しないものとなっていた。




