第八話『借り』
十一月下旬。幾重にも淡雪が町に降り注ぎ、景色は粉砂糖を辺りに振り撒いてしまったかのように道中まで白さが姿を見せ始めていた。
マフラーと手袋は必需品なまだらな白銀の世界の中には所々に赤いツバキの花が咲き誇っている。
人肌で暖められ続けて開花した赤はより一層鮮やかな輝きで咲き誇っていた。
壊れ物のように扱われるそのさまは、さながら命の危うさを思わせる。ひとたび指先で愛でるだけで融解する尊い命の結晶は次第に世界を染め上げていく。
純白な雪の肌が赤く、赤く……。
一面が薄紅の花園。
幸福なんて戯言はこの世から一番遠い。
神聖な光景。
命というお盆から零れた一滴の種から生まれたツバキによる神秘の造形美。
その、世にも不気味なツバキの美しさは町中を凍てつかせた。
少しずつ……少しずつ…………染め上げて。
……また一つ、真っ赤なツバキが咲いた。
その赤の美しさに魅入られた青年が花園に包まれてほくそ笑む。
――さあて、次は何処にこの花を咲かせようか
「みんな知っているとは思うが、最近このヨモギ町内で暴力事件が多発している。犯人は未だ捕まっていないし、くれぐれもお前ら、寄り道はするなよ」
いつものSHR、いつもの顔触れ。町の賑わいも、相変わらず。そんな中で唯一、異変が起きたと言えばそう、ヨモギ町に居座る不良グループの構成員共が相次いで潰されているということ。
この一週間にヨモギ町内で九件連続起きた、一度に十人近くが被害に会う暴力事件。常習性に伴い、被害者のほとんどが病院送りであるという凶悪性。
当然、警察が全力で犯人を捜索しているが、どうやら被害者の誰もが挙って事件の供述を一切せず、結局一つも証拠が見つかっていないらしいと風のうわさで耳にした。犯人の足取りや服装はおろか、背格好すら情報が入ってこない。
警察はもはや当てにならぬと町民の大多数は夜間の外出を自重し、完全な保守に走った。事件の起こった地域の近辺に置かれる学校は部活動を控え、出来るだけ速やかに生徒を帰路につかせるようにと町が働きかけている。これでもう、警察は目撃証言を得られないだろう。
俺は重苦しい小笠原の言葉を鼻で笑い、隣で真面目に座っている青翔に話しかけた。
「バスケ部今日は?」
「今日も休み。やになっちゃうねーこういうの」
「そうだなー……。ま、今日も一緒に帰ろうぜ」
「いいけど朱連、君確か……甘露寺先生に放課後来るように言われてなかった?」
「え?……いつ、だっけ? 言われてた?」
「授業中。何度も居眠りしてたから」
そう言われてみれば……と、ついさっきまでの地獄な国語の授業を思い起こす。ほぼ無に等しいその時間の記憶の断片に、何時になく険しい表情の甘露寺の顔が浮かび上がり、酷い寒気に襲われた。あいつのぬかしていた言葉の一つ一つが頭の中に呼び起こされる。
「あーヤバい……最悪だ」
「あの先生、怒らせたら怖そうだし行った方が良いよ」
「うん……よく知ってる」
あいつの顔を見ることだけでも尻込みしてしまうが、行かなかったら行かなかったで恐ろしい。非常に面倒臭いこと極まりないが、どうせ行くしか道はないだろうな。
そう自分で妥協しているにも関わらず、俺のお邪魔をしてくる奴がいた。
……小笠原だ。
「おし、それじゃあ上西は後で先生の所へ来るように」
先生のありがたきお言葉の終わりに不意を突かれた俺は思わず伏せていた顔を起き上がらせる。
「は? な、なんで?」
「いいから行っとこう。あっちも怒らせたら厄介だ。待っていてあげるから、生徒指導室にだけは送還されないでね……」
「……あぁ。あいつの方にその気がなければな」
そう言って小笠原の丸々太った顔を睨みつけた。
どうか俺の運勢がいい日であることを願いながら、俺はSHRが終わってすぐに小笠原の陣取る教卓へと近づいた。背後からじりじりとにじり寄り、最大限の距離でおずおずと話しかける。
「小笠原……先生。すんません、何の用っすか?」
「あぁ上西。ちょっとこっちこい」
そう言って手招きされ、俺は成す術もなくなり数歩だけ近づいた。小笠原は身の固まる俺の肩をガッシリと掴み、教室の隅の方まで連れて行く。角の方に体を向けさせ、顔を傍まで寄せてくる。何かを俺から聞き出そうとしているようだ。
「……生徒指導室は懲り懲りっすよ」
「そうじゃあない。……いやな、例の暴力事件なんだがー……被害者はみんな不良らしい。どっかの誰かに喧嘩を仕掛けてボコボコにされているにしても怪我の程度から見て危険だからな」
「俺もその不良みたいに、ボコボコにされないように大人しくしてろと……。はいはい、分かりました分かりました。良い子にしてますよ、せーんせ」
そう捲し立てるように話してその場から一目散に逃げようと目論んでいたが、肩の縛りは外れたりはしなかった。一段階低い、脅しかけるかのような声で囁かれる。
「お前が例の暴行魔だったりは、しないよな?」
「は?……え? あー、先生……それは…………」
小笠原の珍しく本気な目に何も言えなかった。
小笠原が厄介な理由は、ただのバカな熱血教師じゃなくて、無駄に勘が良いということ。何度となくこういった事件で俺は疑われている。こういった目は五月から始まり、現在も継続中だ。
確かその時も連続で暴行事件が起きていたが、どうやらそれは不良組織の縄張り争いだったらしい。はっきり言えば見当違いだったのだが、その時の疑いがまだ晴れていないのだろうか?
なんとも言えない空気が掃除で慌ただしい教室の隅で漂う。どんなにこのことを否定しても小笠原には通用しない、でも違うとしか言えない。
俺がどう答えようかと迷っているだけで疑いが濃くなりそうな気がして汗が滲む。
「……上西、どうかしたか?」
「あ……いえ」
低く唸り、追いつめる。
なんか言わないと……。嘘でいいから何か。どうしよう、どうしよう……。
「オガちゃんせんせ、上西に話があるんですが今いいですか?」
「甘露寺先生……」
急に訪れた救世主なのか微妙な甘露寺が持ち前の笑顔を浮かべて小笠原の肩を叩く。甘露寺が薄目を開けて俺の顔色を伺い、片手はすでに俺の右手首を掴んでいた。
「あー……すんません、小笠原先生。俺……」
とりあえずは助かったが、この前門の虎後門の狼のような状況で一体どちらを取るべきなのだろうかと悩む。少しの吟味の後、俺が甘露寺の方に流れようかと口を開くと、肩の重みが抜け、小笠原は俺たちに背中を向けていた。
「気にするな。さっきのはほんの冗談だ。俺の生徒がそんなことするわけないからな」
そう残して小笠原は教室を去る。その様子がどこかよそよそしく思えたが、今の俺にはそんなこと気にする余裕はない。
甘露寺……こいつをどうしようか。
すでに右手首の拘束で逃れる術を物理的に無くしてしまった俺は、仕方なく視界に映る甘露寺を凝視した。
何処を見ても完璧な笑顔がより一層こいつの恐ろしさを際立たせている気がした。真顔の方がまだましだと思う。
「上西君、ちょっと荷物持ちをしてもらおうか」
完成された笑みの前ではどんな要求も通らない。
俺はただその言葉に頷いているしかなかった。
甘露寺と資料室への道。互いに何も言葉を交わさずにただ歩く。そして角を曲がって誰もいない荒んだ廊下に辿り着くと、隣から壮大なため息声が吐き出された。
「はぁー……朱連ちゃん、君って子は……」
「なんだよ、文句あるか」
いつも子ども扱いの甘露寺を鋭利な視線で刺す。
そんな目をものとも感じず、甘露寺は俺の頭に手の平を乗せて自分の方へと引き寄せた。
「オガちゃんに目を付けられていたなら言ってよ~。僕ならすぐ何とかしてあげられたのに」
いつの間にか腰に回された手とうなじを撫でる指先。ぬるい物体が蠢く感触にゾワッと全身の毛が粟立った気がした。
その場の状況に文句の一つでも言おうかと迷ったが、そうするよりも先に手が出ていた。甘露寺の体を押し返して服を掴んだまま距離をとると、視線を廊下の隅へと向ける。しばらく無言を貫いたが、静寂で重々しい空気に負けてぽつぽつと呟き始めた。
「……んなことしたら、またお前に借り作んなきゃなんねぇだろ」
「ふーん……借りねぇ」
舐め回すように挑発的な言葉を投げられる。そんな言葉なんて聞こえなかったと意識を他所に置いて顔をできるだけ逸らした。視界の隅に長い人差し指の腹が見えたかと思えば、その指が輪郭をなぞる。熱い吐息が耳元に吹きかけられて身体がビクッと縮こまった。
「じゃあ、さっき助けたのも借りだから」
ヌメッと纏わり付くような言葉が流れてくる。
思いがけない宣言にさすがに無視もできずに掴みかかった。
「借りじゃない! 別にお前に頼んだりなんて俺……!」
「分かってない」
冷たく突き放す声が俺と甘露寺だけの廊下の中で響いた。その声により脳への伝達は全てログアウトされ、何もかもを奪い去る。
そっと力を緩め、掴んでいた服を放しゆっくりと後ずさる。何か言い返さなければと口を開くが、喉の奥が震えているだけだった。
コツン……と一つ、靴底が地面に当たった音が鳴り響く。
微笑みを浮かべる甘露寺の顔がすぐそこにあった。
「分かってないねー……朱連ちゃん。君は僕に指図できるご身分なのかな?」
「そ、れは……」
ビー玉のように綺麗で権威的な目が俺を覗き込む。
その目に圧されて言葉を詰まらせた。
そんな俺に甘露寺はさらに畳み掛けてくる。
「僕が一度借りだと言えば、ぜーんぶ借り。君に否定権はもうない。分かった?」
「は……はい」
それしか言えない、その言葉以外を許さない。無言の圧力。
この言葉を待っていたかのように甘露寺は頷き、満足げに言った。
「いい子だ」
俯く俺の頭をいい子いい子するように撫でて、甘露寺はまた歩き出す。その後ろを沈黙と共に遅れてついていった。次に紡がれる言葉に怯えながら。
しばらく歩いて、二人だけの足音しか聞こえなくなった時、甘露寺がまた声を上げた。重く伸し掛かるような、そんな言葉だった。
「小笠原については、早いところで手を打とう。あれは邪魔だ、僕まで怪しまれている。……朱連、とりあえず、もう目立つことは出来ないよ。僕だって君を庇うのも今で精一杯なんだ。これ以上……」
俺は甘露寺のそんな声を耳にするのは、前から嫌いだった。純粋な悍ましさを感じずにはいられない。その時だけは喉が言うことを聞いてくれた。
「わかりました。……教職員様の営業時間外に飛び出て労働基準法を犯さないよう気をつけます」
「あぁ……そうしてくれたら有難いよ」
ちょうどそこで、資料室の入り口が見えた。やっとのことで辿り着いた資料室の古臭く渇いた扉を開ける。渡されたファイルの山に一々理由を求める気も失せて、淡々と運びの作業に打ち込んだ。
甘露寺も時には何か言いたげな素振りこそ見せたが、口の中で含んで飲みこんでしまったらしい。結果、何も言葉を交わすことなく、最後の荷物をこれまた誰も使わない一階のカラ教室に運び込み終える。
サヨナラすら残さずに去ろうと思ったが、なんとなく、これだけは言わないと言われっぱなしで気が済まないと感じ、乾燥して閉じきった唇を開いた。出来る限りの全てで力強く言い切る。
「いつかはちゃんと……今までの借りは返す。必ず」
その言葉に甘露寺がどう思って、どんな表情をしているのか、俺には分からない。扉の鏡に映った自分のちんけな顔を見る事が、自分の精一杯だった。
甘露寺の返しを意識の外側に押し込んで、ありったけの力で扉をこじ開ける。それでも微かに聞こえた声に身体が小刻みに震えているのを感じつつ、扉を……閉めた。
灰色に伸びる廊下の先を見つめ、千鳥足で歩き始める。
――勿論だよ
聞きたくなかった言葉を何度も頭の中で半強制的にリピート再生しながら、長く果てしない廊下の先へ、先へと歩く。
――……君にはそれに一生をかけてもらわないと
一年の何処かの教室に辿り着くことが自分の限界だった。
ドアを開けて中へ雪崩れこんで倒れると、頭の中の声が反響して、より大きくなって聞こえる。
――借りたものは返さなきゃ、
――大変なことのなっちゃうものね
――ねぇ、朱連ちゃん?
去る間際に届いた俺の名を呼ぶ声に、自分の中の全てが抜き取られていく錯覚を覚えていた。
全てを止めて、目を閉じる。
何も考えない、昔みたいに……ロボットになりたかった。
――いいかい、朱連
――僕は君にいろんなものを貸してあげる
あの時……震える足を思わず止めてしまいそうになるほどに、あの男はいろんなものを俺に与えた。喜びも悲しみも、楽しさも辛さも、恐怖も絶望も。
そのおかげで俺は、人生を初めて『楽しい』と感じられるようになった。
でも……
――だけどね、
所詮は、全て借り物……。
――借りた物は、返さないといけないんだよ
あの男がひとたび望めば、俺の感情の全ては抜き取られてしまうのだろうか。
――だから、
また0に還されるのか。
――きっと返してね?
俺の感情は誰のものだろう。あの男に貰って借りたものなら、いつかは返すことになるのか。
――大丈夫だよ、朱連
そんなのは……嫌だ、返したくなんてない。
今が、凄く楽しいと思えるから。
だから奪わないでくれ、まだダメだ……。
――お兄ちゃんと、ずっと一緒にいれば、
――僕のものになれば、
――それは一生、君のもの……
失いたくない。これからも、この先も。
でも、そうしたら本当に、俺は一生をかけてあの男に寄り添わないと、あの男のものにならないと、俺は俺じゃなくなるのかな。
嫌だ、嫌だな……。俺は、俺のままでありたい。俺だけのものに……なりたい。
――僕だけの……
どうして?
――いい子になってね
どうしてだろう。
――ねぇ、朱連ちゃん?
どうしてこんな事になったんだろう……。
頬に、生温かな温もりが……流れていく。
あの時はただ幸せだったのに、
大好きだったのに、
なんで今はこんな、
こんなにもアナタのこと、
大っ嫌いなっちゃったんだろう――?
……起きて。
――誰
……ねぇ起きて。
――あったかいね、キミ
……こんな所で寝ちゃダメだよ。
――大丈夫
……風邪ひいちゃうよ?
――大丈夫だってば
……あ、ちょっと……!
――だってキミの手、
…………もう。
――すっごくあったかいもの……
夢心地に包まれながら、ぐっすりと眠れる。
ここは心地が良い。
温もりに身を委ねながら、なんとなく懐かしく思いながら、俺は全てを忘れ、赤ん坊のように眠った。




