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第七話『決別』

【NL要素・暴力表現・社会批判を含む表現があります】

 この目にあの子の姿が映りこむだけで喜びに浸れていたはず……なのに。今は、自分の手元を見ることで精一杯なぐらいに重たい感情を抱えているのはなぜだ。

 いつもみたいにしないと志緒はきっと困るから、ずっと笑ってあげたかった。

 こんなみっともない面……。

 その時やっと、自分の傍らで小さな物音が立ったとことに気がついた。

 視線をずらすと、志緒が座っている、そんな足元だけ見えた。

「……朱連君」

「ど……どうかしたか、志緒。安心しろ、倒れたのはただの寝不足みたいなもんで……」

 声は……我ながら掠れていて、視線をワザと他所に向けて髪を触るその仕草に、無理に強がっていることなんてすぐ分かった。

 自分でさえ気づくことを志緒が分からないはずがないのに、なに馬鹿なことしてんだろ。

 困らせたくないからという気持ち以上に、ただ、格好つけていたいだけなのかもしれない。

「ありがとう」

「え……?」

 そんな俺の見栄に、あの子の澄み渡った飾り気のない単語はあまりにも綺麗だった。

 志緒は眉を寄せて微笑んでいた。

 今も、昔も、そんな顔も、大好きだった。

「まだ、お礼を言っていませんでしたね」

「あ、あぁ……。あんま……気にするな、よ」

「嬉しかったです……私のこと、守ってくれて。でも……もう、お願いです……お願いなんです……。もう、もう…………私に、関わらないで」

 志緒のココロがそう言ったんだ。すぐに悟った。

 昔から嘘なんて一つもついたことがないような奴だった。どんな時も志緒は嘘なんて言わなかった。いつも、志緒の言うことはなんでも信じてあげていた。信頼していた。

 だから、この言葉が志緒の、人生で初めての嘘であってほしかった。

 そんな願いは、ただの身勝手で……目の前で崩れ落ちる志緒、それが現実だった。

「私、私は…………それだけ、それだけをどうしても……っ!」

「しけた顔、してんな」

 雪の頬を軽く指でなぞってやると、しょぼくれた顔がピクッと動いた。

 そうだった……馬鹿だ、俺……。こんなに近くに大切なものがあったのに……何度も何度も……。こいつ独りにして、守ると言って喧嘩して、怪我して心配かけて……。大事なこいつの心、何一つ守れてなかった。

 相手のことを気にかけてやれるのはいつも俺じゃなくて、迷惑かけるのは俺で、本当の意味で愛してやれてなかったのは俺だけだ。

 守るってなんだよ。そんなの、俺みたいな奴じゃできないじゃねぇか。

 俺は守りたかったんじゃない、ただ……ただ俺は……自分勝手だったんだ。

「泣きたいならな、自分のことしっかり守ってくれる奴のところに行って泣いてやれよ。俺じゃダメだろ、俺じゃ……さ。俺じゃあ……もう、お前のことは守れないだろうが……」

 その顔が涙でどんなに悲痛に歪められていても、俺は、直視し続ける。笑ったり、目を逸らして見ないふりをしたり、そんなことしたくはない。

 これが最後なんだと自分に言い聞かせ、俺は絶対に、このトキを忘れない。

「っ……! しゅ、れんっ…………わ、わたじっ……!」

「……帰れよ。お前のいる場所はここじゃないだろうが」

 その言葉がどんなに残酷に人のココロを傷つける諸刃の剣だったとしても、全ての始末を着けるのは、必ず俺だ。

 これは……俺が言わなきゃ、そうじゃないと駄目だ。

 涙の一滴が頬を流れるのを見守る。志緒は自分の手でそれを拭い、急に立ち上がるとバッと頭を下げる。その後、志緒は走って俺の前から消えてしまった。保健室のドアが勢いよく閉じられる音がする。

 俺はその間ずっと、ただ外のよどんだ雲の行方を追っていた。

 そしてポツリと呟く。

「ほーんと、よく頭を下げる子だな」

「でも、いい子だったね」

「そうだな……」

 いい子だった……その言葉は予想以上に大きく俺の心の中にこだまする。

 俺はベッドから出ると大きく背伸びをする。大きな深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。

「さて……行くか」

「なにしに行くんだい?」

「ちょっくら……ケリ、着けに行くんだよ」

 俺は清々しく笑い飛ばした。


 駅の近くにある裏通りの道はあまりにも入り組んでいてまるで迷路のようだった。そして、その道の先には一般人では滅多に近づかない、ちょっとした空間がいくもある。そこはよく地元の不良たちが利用しているらしく、噂によれば危ない取引をしていることもあるとか。

 俺と青翔はそんな場所をしらみつぶしで回っていた。

 薄汚い壁に色々な字や絵がスプレーによって書き殴られた跡が残る細い道を通る。どこも俺が見た感じではいつも通り。ただの不良どもが集まっているだけだ。

 ここも違うならば次はあそこ……という感じで、俺の記憶が思い出せる限りに歩く。

「ねぇ、何処に向かっているの?」

「いいから黙っとけ。次、どこだっけ……」

「…………」

 いくら俺の記憶能力が良かったとしても、張り巡らされた道と空間の繋がりを完璧に暗記することは不可能だ。乏しい俺の記憶能力にもガタがついてきて、捜査にとどこおりを感じていると青翔が俺の傍から離れているのに気がついた。

 あいつ、足手まといにはならないから連れて行ってくれって俺に泣きついたくせに速攻でいなくなりやがって……。こんな場所で迷って不良といざこざでも起きたらさすがに助けにいけねぇぞ?

 その時、電話が鳴った。青翔からだ。

 なんだ、もう不良に絡まれたかと思い、呆れ半分、怒り半分で電話を取る。

「はい、俺だけど。お前今どこ」

「あぁ、朱連。ちょっとそこから真っ直ぐ歩いて、二本目の曲がり角で右に曲がってその後……」

「おーい待て待て。……おい、てめぇいきなり何言ってんだ」

「いいから、言う通りに動いて」

「……?」

 少し変な感じはしたが、たぶんそこに青翔がいるのだろうな。

 迷子のお迎えのつもりで青翔の言われた通りに歩くとそこには赤い照明に照らされた通路と奥に長い空間への入り口があった。もちろんそこには青翔がいた。

「なに、ここ」

「お探しの者どもはここにいるんじゃないかなって思ったんだけど?」

 俺は通話状態を切ると空間の中の様子をいぶかしげに見た。そこにはこの辺じゃ顔の通る不良どもがたむろっていた。そして女が二人、どちらも見覚えのある奴ら、そいつらが確かにいた。

 こりゃすげぇな……と素直に感心して俺は青翔の胸を手の甲で軽く叩いてやった。

「……鼻が利く犬だな、満点だよ」

「犬って言わない。んでー……どうするの?」

「青翔……火の粉ってーのはな、振り払っても振り払っても……元を断たねぇと、いくらでも、飛んでくるもんだ。俺はそれを……よく知っている」

 目を閉じ、流れてくる話し声に全神経を集中させる。聞き逃すことがないように慎重に、静寂な空気をなにひとつ汚すことをしないよう、暗がりに隠れてにじり寄る。

 一際目立つ活発的な声に含まれた俺と志緒の名前、復讐の二文字。

 まただ、また……あの時と同じ。

 守れば守ろうとするほど、傷は増えた。絶え間のない暴力の日常化。

 それでも今までは無意味じゃないと思っていた、志緒がいた。

 そんな俺には、もうなにもない。ここからは、本当に俺だけの問題、責任。

 俺は青翔にはそこで待っているように言うと、薄ら笑いを浮かべて空間の中に踏み入った。

 女二人は俺の顔を見ると騒ぎ始めた。その女、どちらとも今日会ったばかり。志緒と裏庭で仲良くしていた先輩の方々だった。

 女の説明を受けて周りにいた不良どもが俺の方へ敵意の目を向けた。リーダー格らしいチャラついた男が吠える。

「てめぇ! こんなところに何の用だぁ!?」

「青翔……。言ったよな、俺……。俺は……ケリを着けると」

 ……志緒。もうお前と俺は赤の他人だ、こんなの無意味な喧嘩だ。

 約束したな、もうこんな喧嘩なんてしないと。

 でも……、ごめんな。やっぱり俺、約束は守れない。

 いや、初めから守れるはずがなかったんだ。この喧嘩はお前を守る為だと自分に言い聞かせて、本当はずっと……俺の為だった。

 守りたかった……お前を、一生守ってやりたかった。

 これで最後だ、格好つけてきた今までの俺……弱虫の俺……。

 俺はお前に嫌われるのを怖がって、自分の強さに溺れていた、ただの馬鹿野郎だ。お前を使って自分を正当化しようとした、卑怯者だった。どんなに綺麗な建前を並べようが、俺は喧嘩を楽しんでいたあの頃と何一つ変わっていない。

「俺がここにきたのは――」

 喧嘩は楽しいと、俺は思っている。

 そんな俺でも、もしこの拳で最後にお前を守れたらいいな……そう思う。

 向かってくる男の腹に向けて鋭い回し蹴りを振りかざし、俺は強く言い放つ。

 頭の中で色々渦巻いていた感情の闇が完璧に一つの色へと変わっていた。

「――自分自身の過去にバカヤロウって言ってやるためだ」

 どうしても負ける気がしない、それは久しぶりの感覚だ。

 止めどもない自信が……ココロに満ちている。

 この背中に、守りたかった人の笑顔があるからだろうか……。


「はぁ……。あーあ、終わった終わったー……」

 事が済み、俺たちは路地から出ると不良に絡まれないようにすぐ近くの公園へ非難した。

 一向に光が差し込まない分厚い灰色の雲がこちらに押し寄せている。合間から零れたオレンジ色の光は黒ずんでいった。

 拳にはいまだに生々しく、人を殴った時の感覚が染みついていた。痛みと寒さでうずいている手をポッケトにしまう。俺はベンチに座り込んでいた青翔に声をかけた。

「すまねぇな、青翔。変なことにつき合わせちまって……。もう帰るか、な?」

「…………」

 青翔は無言だった。俺の喧嘩した光景がそんなにショッキングだったのだろうか。だとしたら悪いことをした。あの情景は意外と心臓に悪いのかもしれない。相手が武器持っていたからつい。

 とりあえず今は何を言おうが無駄だろうし、ちゃんと駅までは送ってやろう。あの辺の不良に顔を覚えられて絡まれたら厄介だ。

「せいしょう……」

「朱連は、あれでいいの?」

「は?」

「君は……あんなんで、自分の気持ちを諦められたの?」

「……馬鹿野郎、諦めるもなにも…………もう、無駄なんだよ」

 苦笑いを浮かべて俺が言った言葉に青翔は激しく反応して俺の肩に掴みかかる。

「何が無駄なの!? 諦める意味が分からない!」

「……お前と俺との考えが合わない、それだけだ。俺はもう……いいんだ。志緒のことは諦める……」

 青翔はうれいを帯びた目で俺のことを見つめ、頬を、花びらを撫でるように指の腹をそっと這わせた。

 そして、思わずその目に魅入ってしまった自分がいる。

「なら、そんな……未練たらたらの顔しないでよ。しけた顔しているのは、君の方だ」

「っ……!!」

 心の核心を突かれた、まさにそんな気分。

 なにか、上手な言葉が思いつかない……。せめて、笑顔だけでも……と、貼り付けた。

「そーかな……まあ、俺にしちゃ、ちょっと情けねぇ面してるかも……」

 青翔は俺の言葉を遮るように強く俺を抱きすくめた。

 俺は驚いて青翔を引き剥がそうとしたが力が数段強い相手に抵抗は無意味だった。

 温かな体温が伝わってくる。心臓の鼓動が聞こえてきて、それは自分のと重なる。

 心地よい眠りにいざなわれそうだった。

「強がらないで、大丈夫。君も、あの時、泣くのを我慢しなくて良かったんだよ」

 青翔は俺の頭を撫でながら包み込むように優しくささやいてくる。その一つ一つの言葉が頭の中に反響した。

 身体の奥底から溢れ返る、今まで溜め込んだものが……零れてくる。

「なっ……。なんだよ、なんだよ……。ばかやろうぅ……。

 泣けるわけねぇだろ……。好きな奴の前で泣けるわけねぇだろ……小心者のこの俺がぁ!

 泣いちゃダメだって、今まで我慢して、ずっとずっと……。

 なのに、なんでこんなっ……こんなぁ……。ちくしょうぅ……ばか、ばかぁ……」

 涙が、涙が止まらねぇ……。

 なんで、なんでだよ……。

 こんな時に、俺……なんでいまさら泣いてるんだよ、ばかやろう……。

 止まれ、止まれっ……。止まって……くれ…………。

「友達の……僕の前では泣いていいよ。僕は、君から離れたりしないから」

 ブワッと……。全身をゾクゾクとしたものが駆け巡った。

 わなわなと身体が震え、足元がおぼつかなくなる。全身の力が抜けて、今にでも倒れそうだった。

 止めようとして溜めていた涙が溢れ出して視界を歪ませ、もう何もかもが見えない。

 せめて声だけは抑えようと胸に顔を押し付け、声を押し殺した。

「ふぅっ……うっ…………。ぢくしょ……う……! あ、ありが、とぅっ……!」

 俺が泣きやむまで、青翔は俺のことを抱きしめ、支えてくれた。


 青翔は俺から身体を離し、泣き疲れて酷い顔をした俺の頭を撫でて明るく笑いかけてきた。

「スッキリした?」

「……うん」

「かえろっか」

「あぁ、そうだな…………。な、なあ……」

「ん?」

 雲の隙間から差し込む光に照らされた青翔の顔。

 温かさを感じる、いつも俺を見守ってくれる強い瞳、自然に持ちあがる口角、俺にいつも優しさをくれた声、血管の浮き出でた、俺を抱きしめて撫でてくれた力強い二の腕。

 それがとても、頼もしく感じる。

 俺は髪を掻いて自分の表情を青翔に見せないようにしながら呟いた。

「…………まだ、もうちょっと……ここにいないか」

 俺の言葉に青翔は目を丸くし俺を茫然と見つめる。そして次にはクシャッとした笑みを浮かべて言ってくれた。

「いいよ」

 そう言って、頭を撫でてきた。

――青翔……いつも、隣にいてくれて

――ありがとう


 今にでも雪が降りそうで、不安定な曇天どんてんの空の下に緑川健二は一人、たたずんでいた。屋上のフェンスに身を任せてそれを軋ませながら、冬の風に身を晒しながら、彼は空の彼方を見つめている。

 遥か遠いところにいる自分の想い人にむけて揺れる、はかなげな瞳。

 深緑の長いマフラーが風に流されて高く舞っていた。

 遠くの方で立てつけの悪い乾いた木の板が開かれ、また閉じた。

 コツコツ……と音を立てながら彼に近づいてくる。緑川とは数メートル、侵入者は目一杯に白い息を吐きつくすと口を開いた。

「こんなとこで……感傷かんしょうにでも浸っているのか?」

「別に……。たまーにここに来たくなるから来ているだけさ」

 緑川は侵入者と顔を合わさず、また視線も交えることなく冷めきった声で返答する。

 その様子に侵入者は多少の苛立ちを表情に見せながら渋い顔をした。腕を組み、半分閉じられ青みがかった目で緑川のことを眺める。ジトッとした目つき。呆れ半分の言葉が流れた。

「そんで……朱連のところにはもう行ってやったの?」

「行ったよ、寝ていたけどね」

 緑川は歩きながら言った。そして近くに置いてあった何らかの装置に座る。やはり身体をのけ反らせて視線を空に向けた。ぽつぽつと、呟くように話す。

「んで……しばらくは隣にいたんだけど……。あぁ、でも……ここ、ここがいいな。朱連の横にいるより、今は、ここで……」

 侵入者は両手をポッケトにしまい、肩で風を切るように歩くと彼の横で立ち止まった。

 彼と同じく、その身を冷たい風の中に浸す。

 彼には背を向け、フェンスに手をかけて遠くに見える小さなビル群を見つめる。

「そうだ、茶木志緒が保健室に向かっているのを見たよ。……まあ、どんなことがあろうが余裕だろうね、いつも君は」

 そう言って目線を緑川に流す。

 緑川は薄ら笑みをその目鼻立ちが整った顔に浮かべ、柔らかに長い髪を掻き上げた。その髪が風になびいて広がる。吐息をつくかのように恍惚こうこつとした表情を浮かべて言葉を漏らした。

「……あれはね、絶対、余計なことなんてしないよ。俺からなにひとつ……奪えるわけがない。だってさ、あれの欲しいものは全部……俺の手の中にあるんだからね」

 確かな自信のもとに放たれた言葉に自分自身が心底泥酔(でいすい)してしまったかのようだった。緑川は肩を震わせながら虚空の空に笑い声を飛ばす。

 一方、その様子を唯一見ることを許された人物は蔑んだ目で緑川を見ていた。

 軽蔑の目をどんなに向けられようが緑川はそれを気にも留めない。笑みは変わらない。

「そんなことを言って、第三者の存在の可能性すら視野に入れない。愚かな君の最大の理解者として一つ忠告に似た予言でもしてあげようか」

「結構」

 笑いを消し去ってきっぱりと言い放った緑川の言葉は乾ききった空の中に響いた。

 緑川は目を閉じ、何かに思いを寄せながら子供が母親の腕の中で眠りにつくかのように柔らかく微笑んだ。そしてまた言葉を紡ぐ。

「誰も引き離せやしないよ。俺たちの繋がりは……誰にも切れない。あぁ、そうだ……もう誰にも……」

自惚うぬぼれ野郎……。人を縛り付けるのは君の得意分野だね」

 あくまで皮肉な言葉を返す理解者に緑川は顔をしかめる。彼は目を閉じたまま身体を起き上がらせると低いトーンで恨み言を言うように呟いた。

「……お前に、言われたくない。そうやって、自分でなんでも分かっているつもりなんだろう? なにが目的かは知らないが……高台から……俺を、人を見下すのは、楽しいか」

「目的、そうだねぇ……」

 人を小馬鹿にするように返し、答えを言い渋ると彼は歩き出した。大きな足音でその場の雰囲気を支配する。

 傍観者は屋上のさらに高い場所に立つと両腕を大きくひらく。自らの身を空に掲げると目を細め、口元をニヤリと釣り上げて不敵に笑うと緑川を見下した。

 風が彼の服を大きく音を立てさせてなびかせる。

「いい見晴らしだ……ここは」

 そうボソッと言い、鼻から深く息を吸う。胸や腹いっぱいに空気を溜め込み、彼はそれを声として見渡す限りに建物が並び立つ世界に放つ。

「この地球上に存在する生命体、人間と言う概念! ひとたびの宇宙のまたたきの合間に生まれ、愛され育ち、また人を愛し……汗水流して愛する者の為に家畜のように、馬車馬のごとくしいたげられる!……それってなんのため? 俺から言わせてもらえば、そんなの狂っているとしか言いようがない。人生は自分の為にあるんだよ、他人の為にあるんじゃない。……当り前じゃないか。なのに君たちは人を愛する。あやまちを犯す。自ら地獄の淵を彷徨い求める。そんなのさぁ……見てて滑稽じゃないか。そんな奴らを……こんな高いところから見下ろせる……見渡せる。ちっぽけな人類をね! これが楽しくなくて、何が楽しいと言えるんだい!?」

 傍観者は緑川のことを見ていた。返答を求めているわけではない。その目は実験対象のモルモットを眺める研究者とそう変わりない。誰にも曲げられない冷血が全身にしみ込んだ彼は、誰よりも純粋だった。

 緑川はそんな傍観者を眺め、悲しげに囁いた。

「気が狂っているのは……どっちだい」

「両方さ。人間の大半はキチガイの集まりなんだよ。だから今まで多くの自然を壊し汚染し、他の動物を殺し、ここまで生きてきた。欲望の集合体、そんな人類に生まれてきた俺は、最高に幸せ者だよ」

 そう言って高台から降りると先ほど入ってきたドアを開けた。

 しばらく思い悩んだ様子で立ち竦んだが目を一度強く瞑ると緑川の方を振り向く。

 その表情は風を受けて消えかかったともしびのように弱々しく、だからといって決して笑みを失くすことはなかった。

「もっと面白いことが起きそうだ……そんな予感がする。俺の勘はよく当たるから、君も気を付けなよ。大切なものは……傍に、割れ物のように扱わないと、愛想を……つかれちゃうから」

 その言葉を残し、ドアは閉じられた。

「君もほんと……大概だね」

 屋上にまた一人残された緑川はもう何も言わず、思い出に抱かれながら空を見つめた。


 独特のニオイが漂う病院に運ばれる青年たち。

 そんな惨事を遠目から眺めている男が二人いた。

「彼が、一度アクセル踏むとブレーキが踏めなくなるのは知ってたよ。でもさぁ……これでやっと遊べるようになるとは言え、ここまでされるのは正直予想外だったよ」

 ため息混じりで言う白い髪の男はがっくりと肩を落とした。

 手に持った携帯の画面には尽きることなく通知が届いては光る。

 その画面をげんなりした様子で男は見る。手で顔を覆って真っ白な天井を仰いだ。指の隙間から男の吐息が漏れる。

「ま……この件は上手いこと隠しといて。よろしくね……」

 横に立っていたもう一人の男はニッコリと笑って物腰柔らかくこうべを垂れた。

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