第六話『あの子』
【NL要素・過激な表現あり】
所々に穴の開いた鬱陶しいほど暗い廊下を気だるげに歩く。
昨日は夜中まで出歩いていたせいで頭と瞼が重くて仕方がない。
授業はもちろんサボるわけで、今はどこかサボるにはとっておきの場所を探している。確か昼ごろに大雨が来るって言われたから屋上はやめておこう。
歩き続けて約十分、着実に昼休みの終わりが近づいてくる。
……ここに入ってからまだ2ヶ月ぐらいしか経ってねぇからサボれる場所がよくわかんねぇな畜生。ヤバい、早めに場所見つけねぇと教師に見つかる。さすがに入学初日からほとんど授業をロクに出ないから目ぇつけられてるし……。
俺の持ち前の勘で探り出した人気のなさそうな廊下の曲がり角、その奥へと歩いていく。ここは蛍光灯の電気が切れたままで管理がしっかりしていないらしい。あまりに不気味だと生徒の間ではよく怪談話に用いられる廊下だ。
暗いから今まで来ようなんて思わなかったが、たまにはいいだろう。
気は進まないがゆっくりと埃くさい闇の先へと歩いていく。窓がなく、光の差し込まない校舎の端っこを見つけた。
体がだるいなぁ。あの角で早く寝たいのに…………うるさい奴らが占領していて使えねぇな。
俺は陰湿な光景をただ傍観していた。廊下の終わりの角に追いやられた奴を2人の女子が囲って逃がさないようにしている。
「いいから言う通りにしなさいよ。あたしの言うことが聞けないって?」
「わ、私……そんなこと、できません……」
「これはお願いじゃなくて、命令なの。また酷い目に会いたいのかしら?」
「いや…………嫌です、嫌です……」
なんだよこいつら、邪魔くさい。苛めならよそでやってくれねぇかな、迷惑だから。どうしようかなぁ……。あそこはもう使えねぇし……しかたねぇ、ここでいいや。
俺はその場に座って壁に寄りかかる。目を閉じ、頭の後ろで手を組み、寝る体制をつくって、その場の成り行きに耳を澄ました。
疲れていたからか、ゆったりと身体の力が抜けていく感覚が芽生え始めるが、耳に届く音のせいで徐々に神経が研ぎ澄まされてくる……ついに目を開けた。
反感を買ったのか、女二人の怒号が誰もいない廊下の終わりまで響いて聞こえる。耳障りな雑音に俺は怒りのまま立ち上がった。
俺はうるさいのが嫌いだ、邪魔されるのが嫌いだ。やっと眠れそうだったというのに……。
のっそりと女共の集まりに近づく。
存在を気づかれていないようなので、声をかけることにしよう。
「おい、うるせぇぞテメェら。……眠れねぇじゃねぇか」
強く言い放たれた言葉に反応して、2人の女が目に角を立たせて俺の方を振り向いた。どちらも校則を無視した派手な見た目をしている。両者は訝しげな目で俺のことを観察する。
背の高い高圧的な態度の女が腕を組みながら俺に近づいて、俺を見下ろしてきた。
「何あんた、あたしたちになんか用?」
なんだか……こいつの声、聞いているだけでイラッとするな、育ちが悪そう。
「だーからさー……うるせぇって言ってんだろが。猿みたいにキーキーキーキー……。金切り声、耳障り、睡眠妨害……。いや、マジでさぁ……消えてくれよ……」
俺がため息まじりに言った不満はケバい女の神経を逆撫でしたらしい。元々苛立っていたボス猿が髪の毛を逆立てる勢いで顔を強張らせていく。口をわなわなと開いた状態で震わせ、ドスの利いた声を出してくる。
「あぁ? あ、あたしが……猿? てめぇ誰に向かって……!」
「ま、待って!」
隣で今まで何も言わずに笑っていた女がハッとした顔で、怒りに任せて俺を殴ろうとした女の手を掴んで動きを止める。
「穂乃花、不味いよ……手を出したら……ダメっ!」
「はぁ?」
高いところで髪を結んだ美人な女が顔を引きつらせて俺を見つめている。居心地の悪いその視線は俺のことを知っている感じがした。
視線がウザったくて俺が女を睨むと、女は血の気が引いた顔をして高慢な女の背後に隠れた。
「ちょっ、なによナミ。急に隠れて……」
女は肩を抱いてしゃがみ込み、小刻みに震えていた。その視線はあちら、こちら……行き場もなく忙しく動き続けている。挙動不審な女の声は上手く聞き取ることが困難なぐらいに崩壊していた。
「そうだよ、間違いないよぉ……、あんな髪色の中学生他に見たことない……。あぁ、やっぱり、最近ここら辺の不良を潰しまくってる一年生だよ! 私の彼氏をやったのもこいつだぁ……!」
「は!?……あ、あんた、それマジなの。どうなのよ……」
どうなのと俺に聞かれても困るのだが……。
一応頭の中を巡らせて何か断片的なことでもいいから思い出そうとするが無駄だった、心当たりが多すぎる。素直に俺は諦めた。
「……殴った奴の顔なんて逐一覚えてられっかよ。誰だ、お前の彼氏って奴。特徴を言えば分かるかもなー」
「…………」
高慢ちきな女の鋭い視線の矛先が俺に向けられる。
その視線の意味が分からず、俺は無性にむかっ腹が立った。
俺が何かをしたわけでもないのになんで俺に敵意の視線を向けてくる、意味が分からん。
俺は一歩、視線の発信源に近づいて胸ぐらを掴みかかると低く唸るような声で問いかけた。
「なんだよ、俺に何か言いたいことでもあんのか?」
「今に見てなさいよ、あんたのその生意気な面を地べたに這いつくばらせてやるんだから」
「……自分に出来ないことを人にやらせる気だったのなら、よせよ。そのつもりなく、そう宣言したからには……、お前がここで俺を楽しませてくれるってことなんだろうな?」
俺は服を掴んだまま壁に女を押さえつけた。
背中にぶつかった衝撃に女は顔を歪ませ、俺を見上げて睨む。それは、ここで情けなく退散しようが、あくまで自分たちは俺に勝てると信じている顔。
面白い。こんなに威勢がいい狐なんだ、きっといい虎を連れてきてくれるだろう……。
俺は思わず口角が上がっていたことを感じ取ると服から手を放した。
もうこの女にも興味がない。勝手に何処にでも行って騒げばいい。どうせこいつら2人じゃ俺に喧嘩で勝てるわけじゃないんだから。
「早く消えろ」
俺は言葉を吐き捨てる。
「そして、お前の彼氏の所に行って俺をぶちのめしてくれるように頼めばいい」
「い……行くよ、ナミ」
「うん……」
威勢のいい女は座り込んでいた女の腕を乱暴に掴み、立つのを手伝ってやると尻尾を巻いてその場から去って行った。
望んでいた静寂が訪れ、俺は安心してその場で寝る体制をとる。
あぁ、清々した……これで眠れる。
「あの……」
また邪魔が入った。
俺は薄ら片目を開けると声のした方に視線を向ける。
そこにはまあそれなりに可愛くて大人しめの、でも幸が薄そうな女がいた。
そういえばいたかもしれない。影が薄すぎて気づかなかったけど。
俺は面倒くさくて、話しかけられても返答せずにまた寝に入ることにした。どうせすぐいなくなるだろうし。
「す、すみません、起きてください……」
今度は肩を揺さぶられた、また邪魔された。さっきのでやっと障害物が消えたかと思ったらまだいたのか。なんで安眠の邪魔をする奴らばかりに会うんだ俺は。
俺は跳ね起きて不機嫌な感情を溢れ出させながら女の方を見る。瞼が重いしもともと目つきが悪かったせいか、女は少し怖気づいているようだ。
ならそのまま悲鳴でもなんでも上げて去って行ってくれることを願った、が、そうはならなかった。
女は唇を強く結んで頭を深々と下げてきた、どうしたんだろう。急な女の行動に唖然としていると、女は突然頭を上げ、俺の目をしっかりと見てくる。
その目の美しさに思わず見入ってしまった。
そんな俺に透き通った声が入り込んでくる。
「助けてくれて……あ、ありがとうございますっ!」
「お……お、う」
誠実で真っ直ぐすぎるそのお礼に上手い返答が出来ず、その勢いに圧倒されてしまう。
思わず女から顔を逸らし、視線を泳がせた。珍しく自分の平然が崩されているのが分かる。
なんだ……この女は……。
「あの、上西君……」
「っ! な、何でお前俺の名前知ってんだよ!」
焦り過ぎて声が裏返ってしまった。
それによって振り向けた顔が羞恥に赤く染まるのを感じ、再び顔を背ける。
なんだが変な感じがする、心臓がバクバクしてて、緊張している……よく分からない。
「あの、私達……同じクラスなんだけど……」
「そ、そっか……」
クラスなんて殆ど顔を見せたりしないからなぁ……そりゃあ覚えてないわけだ。しっかりしろよ、馬鹿野郎、昔の俺……。
あれ、なんで俺……、今、昔の自分を責めているんだ? どうして後悔している、別にいいじゃないか、こんな女。別に知らなくても困らないのに。俺、どうかしてる、可笑しい……。
他人の名前を聞きたがるなんて、どうかしてる……。
「……なまえ」
「え?」
「名前、お前の名前。特別に覚えてやる、言ってみろ」
「私は、茶木志緒と……言います」
「……茶木、志緒……」
普段なら、人の名前なんて興味もないからろくに覚えたりなんてしないのに、俺が呟いた名前は自然と俺の頭に根強く残った。もう一生忘れはしないだろう、不思議とそう痛感する。
名前を呼ぶだけであったかく思えたのは何時ぶりだろうか。
もっと、この子の名前を呼びたいと思った。俺の名前も、呼んでほしいと。
本格的に、俺は可笑しくなった。
俺はあの子に顔を合わせず、小さく呟いた。本当に小さくて、消え入ってしまいそうだったけど、確かにその気持ちはあの子に届いた。
「なあ……お前、俺に守られてみないか」
「……え?」
「そんなしけた面して、みっともねぇ……似合わねぇよ。どうせ、誰も守ってくれねぇなら……俺に守らせてくれ」
「上西君……それは、どういう……」
「分かれよ……こっぱずかしいこと言わせんな」
俺は髪を掻き上げて視線を何処かに向ける。
参った、すごく参った。まさか、あの目に魅入られた、たったそれだけのことで……。
一目惚れなんてありえないと思っていたけど……全然、そういうのって……マジで、やばいじゃねぇか。結構ズッシリくるな、この感情……。
でもなんだが、嬉しい。ついさっき会ったばかりなのに、この子しか俺にはいないと思えてしまう。
俺は確かに人間なんだなぁ……そう思った。
困った顔をして俯き、あの子は暗めのトーンで話す。
「考え、させてください……。そんなに、急には私……答えを出せません、から」
「……あぁ」
分かっていた答えなのに、こんなにどっしりと重く感じてしまえる。悲しいと感じる。
「し、失礼……します」
あの子は立ち上がると一礼し、歩き出した。
去っていくあの子の後姿を見送りながら、ふんわりと温かいものに包まれるのを感じて俺は目を閉じた。
一目惚れ、初恋という感情に何故だか疑問だとか戸惑いは感じなかった。俺の中にはシンプルな気持ちがあればそれで良かった。
確かに、確かに俺は……この子が、志緒が好き。一生守りたい、守ってあげたい。
結局俺は眠ることが出来なかった。
天気予報の通りに雨が降っている。傘は持ってきたけれど下校する気が起きない。
ずっと学校に住めたら……家になんて帰りたくなかった。憂鬱だ、あの黒い雲と同じぐらい、俺は憂鬱だ。
その時、思いっきり背中を誰かに叩かれて、俺のフワフワしていた意識が引き締まった。
「ってぇ! な、なんだ、誰だ……!」
「はーい、俺だよ! 朱連を発見しました、翼隊長!」
「ん、そう」
「またテメェかよ天! いきなり何しやがるこの野郎!」
俺は天の腹をみぞおち目掛けて拳を突きだしたが、すんでのところで天にかわされる。冷や汗をかいた天は安心したようにヒューと息を吹いた。
「あっぶねー……。つーか朱連マジで暴力的すぎる。それ当たったら重症だからね、分かってる?」
「あぁ? 殴りたいときに殴って何が悪いんだ?」
「翼! 怖いよ、あいつ怖いよ! 将来暴力沙汰起こして絶対に警察にしょっ引かれるよ!」
「分かったから……。天も殴られるのを分かっているなら余計なことをしない」
「だって朱連がボーっとしてるから喝でも入れてあげようかなぁって思ったんだもん」
「それにしたらやけに物理的だったな、おい」
「テヘ」
「なにがテヘだ気持ち悪い」
隣のクラスのこいつら、天と翼はよく分からんが俺にやけに絡んでくる。接点なんて全くなかったのにある日から急に天が俺に付きまとい始め、あいつの弟だから必然的に翼もついて来て……。
俺の邪魔はしてこないから別に不満を持っているわけじゃない。やかましいけど何となく安心する空間だから壊そうとは思っていない。
「ねー早く帰ろうよー。午後から激しくなるらしいしさー」
「そうだね。朱連、傘は?」
「さすがに持ってきてるよ。はぁ……家、帰るのめんどくせぇ」
「あ、じゃあ俺たちの家に寄る? どうせ俺と翼しかいないからさ!」
「んー……そうだなぁ……」
確か翼が前に言っていたけれど、こいつらの家の奴らは片方が刃物とかを扱う職人業で、もう片方が普通の会社員で転勤族だったはず。どちらも家になんてほとんど帰らないから二人暮らし同然だとか……。かわいそうに。
「じゃあ寄るわ。雨なんていつかやむだろうし」
「お、じゃあ決まりだね! 良かったね、翼」
「別に……」
校舎を出て、俺は家に帰る前に天と翼の家に寄ることにした。防風林が近くにある大きな公園を通り抜けた先、駅の近くに家がある。
結局夜遅くまで俺たちは遊び、帰るときにはもう時計が9時を回っていた。まさか飯までご馳走になるなんて思わなかったし、意外と時間が早く過ぎたな。
「親御さんは心配してない?」
「……大丈夫だ。雨もやんだし問題ねぇ」
「気を付けてね、特に不良とかには! 朱連はいっつも喧嘩したがるんだから!」
「わーってるよ。今日は大人しく帰りますって。じゃあな」
「うん、また明日」
「またね!」
俺は二人に見送られて家を出た。
ジメジメとした感じはするが雨が上がって空気が綺麗になったからか、不思議と爽快感が流れている。
家までは徒歩で二十分ほどかかるがまあ連絡の必要はないな。別にそんなの求めていないだろうし。
防風林に沿って歩き、公園にさしかかった。大きく芝生がひかれ、規則正しく木々が並んでいる公園を横断する。
防風林にも繋がっている特に大きな木々の中に人影を見つけて思わずそちらへと視線をずらした。
こんな時間に人なんて珍しいなと思いながらそこを通り過ぎようとすると、その人は何処かで見覚えのある人物だった。
「……志緒?」
気がついたら全速力でその人影のある真っ暗な暗闇の中へと入っていた。
自然をそのままの形で残している不規則な木の配置は人を見つける妨げになった。暗くてよく見えないし気分が悪くなりそうだ。
早く見つけてあげたかった、こんなところに女が1人でいるだなんて危険すぎる。
3、4分の我慢の末に木に寄り掛かっている人影を見つけた。
すぐにでも声をかけようと思ったが、月光に照らされる濡れた頬を見て俺は言葉を失ってしまっていた。伸びていた手を引っ込め、無言でその様子を見つめる。
声も出さずに、黙って、磨き抜かれた彫刻のように美しい表情で涙を流していた。
美しく思えた。でも、何とかしないと……。ダメだ、何て言ってやれば……上手い言葉が思いつかない。俺は何もできていない。この子にかける言葉さえ見つからずに、傍にいてやろうともしていない……。
俺……とんだ意気地なしじゃねぇか、そんなのいい加減、卒業しろ。気まずい雰囲気が嫌だからって、なんでも逃げようとするな。守りたいって思ったのなら、フラれたことぐらい全部、忘れちまえ。俺は、この子を守りたいんだ。
俺はゆっくりと近づき、肩を叩いてやった。志緒はハッとした表情で俺の方を見ると、急いで涙を服の袖で拭こうとする。俺はその手を掴んで押さえた。
「なに我慢してんだよ。恥ずかしがるな、安心しろ。俺はお前の泣き顔を見て笑ったりしないから」
「な、なんでぇ……上西君、ここに……いるのっ……」
「たまたま……お前が泣いてたから。大丈夫か……?」
「! わ、私…………だ、いじょうぶっ……!」
溢れてくる涙を抑えきれずに零し、しゃっくりをあげながら志緒は泣いた。
思わずその身体を抱き締めて自分の胸の中にしまいこむ。折れそうなほど華奢な身体を大事に抱き、そっと頭を撫でてやる。
「独りで泣くなよ……俺が辛いじゃねぇか。そんなに寂しげに泣かれたら……守ってやりたくなる。フラれたのに、ますます好きになっちまいそうで怖いんだよ」
「ごめんなざぁ…………ひっ、く……! でも、涙がぁ……止まらないんっ……ですぅっ!」
「頼むから独りでは泣くなよ……。俺の前ではいいからな、泣いても」
俺の中で泣きじゃくる志緒を何度も撫でてやり、落ち着いてきたところで身体を離した。志緒の頭を手でポンポンと叩く。出来るだけの笑顔で、明るく俺は言った。
「泣いたらスッキリしたか? あんま溜め込み過ぎるなよ」
「ごめんなさい、上西君……」
「ごめんなさいじゃなくて、ありがとうの方が俺は好きだぜ」
「あの、では……ありがとうございました、上西君」
「あぁ……。んで、何があった」
「…………」
俺の問いに志緒は顔を背けて無言を貫いた。
どうしても言いたくなさそうな表情に大体の合点がつく。後方から聞こえる草木を踏みしめる音が何よりも証拠。
俺は袖をまくると持っていた鞄を適当に何処かへ放り投げた。
「ま……予想はついていたけど」
そこには息を切らせた厳つい男達と見覚えのある女二人がいた。
確かに、今日、志緒を苛めていたあの女共だ。周りにいるのはあいつが言っていた彼氏と、その仲間か……。
「虎の威を借る狐風情が……俺を差し置いて、志緒に手を出せるとでも思ったのかよ」
骨を軽く鳴らし、俺は月光の下にニヤリと薄気味悪く笑った。
「安心しろよ、志緒。お前は俺がちゃんと守ってやるからな」
どうしても負ける気がしない、それはいつものことだと言うのに……止めどもない自信が込み上げている。守るものが、あるからだろうか。
地面に情けなく残った、あの集団の中では特別パワフルな体つきをした男を蹴飛ばす。慌てふためき、背を向け去っていく男が最後だ。
再び俺と志緒、2人きりになる。
志緒……まだいたんだ。危ないのに……。
俺は切れた唇を軽く舐めて志緒の方へ向き直った。怯えて木の陰に隠れていた志緒がどことなく怒って見える。
「志緒、どうかしたか?」
「まずは、守ってくれてありがとうございます。それと……喧嘩は、暴力は、できるだけ、やめてください……お願いします」
強く訴えかける言葉は最後、涙に塗れていた。
俺のことを心配してくれていたのかな。だから逃げないで俺のこと見守っていてくれたのかな。
そう考えてしまえばもう、勝手に、嬉しくて……笑みが零れてしまう。
「心配してくれたのか?」
「当たり前です……あんな人数、いくら上西君が強かったとしても……」
「……分かったよ。じゃ、これからはお前の言う通りに喧嘩は控えるか。無意味な暴力はしないって約束する」
「本当ですか……?」
「お前のことが大切だからな、心配させたくない」
志緒はその言葉に目を輝かせて、また、泣きそうな顔して頭を下げた。
本当によく頭を下げる子だなと思う。
「ありがとうございますっ……! 私のこと、そんなに思っていただいて……」
「俺の勝手な片思いだから気にするなって。あぁ、それと安心しろよ? 別に借りを作ろうなんて思っちゃいない」
「私、その……上西君が守ってくれるかどうかの件……返答、まだしてないんですが……」
「あれ、そうだっけ?」
じゃあ俺ってまだフラれてないことなるのかな? それはなんか嬉しい。自然と口元が緩むのを抑えられない……。
既に笑っていたのに、あぁ……今どんなに幸せな顔をしているのだろうか。俺は口元を抑えた。
「もうちょっとだけ考えさせてください。……前向きに、検討します」
「あ…………ありがとう!」
内心、その言葉に希望の一筋が見え、溢れ出した、表現しにくい喜びに塗れた感情が口に出そうだった。
きっと今俺はすごく舞い上がっている。こんなに幸せだと思えないぐらい、身体中から何かが湧き上ってくる感覚を感じる。うずうずする、空も飛べそうな気がした。
「私の家はこの近くなので、もう大丈夫です。上西君も帰りは気を付けて」
「あぁ! またな、志緒!」
「はい。また明日!」
俺は志緒と別れた後、浮足立った状態で家まで向かった。頭の中が志緒のことでいっぱいだった。
だけど、家の前に着いた途端、そんな感情はどん底へと沈む。ドアを開けることへの煩わしさだけが気持ちを覆う。
頑丈な玄関のドアを開け、何も言わずに二階へと上る。
狭苦しくて居心地のいい屋根裏部屋の窓を開き、そこからあの子の家があるはずの公園側を見つめていると、隣の部屋から囁きかけるような声が届いてきた。
「おかりなさい、朱連さん」
俺はその声に振り向き、朗らかに微笑んだ。
「ただいま」
瞬間、俺の見えていた景色に亀裂が走り、全てがガラスのように砕け散った。辺りは真っ暗な空間。
そして思い出す。
――あぁそうか、これは夢なんだ……あれも、これもそれも、昔の、俺の…………。
砕けたガラスの破片がキラキラと光る。黒い闇に吸い込まれ、取り込まれていく。
その光が失われた途端に酷い激痛が身体中を襲った。生暖かいものが俺の身体の隅々を這い、そこから痛みを作り出す。
これは夢なんだと何度も頭でも声でも言うのに、理解しているのに、あまりにもリアルにその痛みは俺を包む。
脳内にたくさん、今まで自分が見てきた光景が、フラッシュバックしていく。
クリスマス、プレゼント、冷たい手。
あの子の泣き崩れる表情、落ちる粉雪に、テープレコーダー。
水、ベッド、紅色のマフラー……
痛み、悲しみ、そして裏切り――
――朱連、僕はね――
「――! やめろ、やめろ……嫌だ、嫌だ! 思い出すな、思い出すな、思い出すな! 思い出さなければ、全ていつも通りになる! 何も思い出すな! 忘れろ! 消えろ! うるさい! うるさい! 邪魔するな、俺の邪魔をするな! いつも通り、すべて取り繕えば、それで……それでいいんだよぉ!!」
痛みは止まることなく、襲ってくる。
映像は際限なく、流れてくる。
この世で最も直視したくないモノが流れてくる。
助けて、助けて……誰か、誰か……嫌だ、嫌だよ…………。独りは、裏切られるのは、嫌だ…………
そっと、俺の頭を誰かが撫でた。優しい手の平はあったかくて、心地のいい温もりに溢れていた。その温かさに俺は、身を委ねた。
不意に……その手が消えようとして、俺は躊躇なんてしていられずにその手を捕らえようと手を伸ばして、伸ばして、伸ばして――――捕まえた!
「しゅ、れん……起きたの?」
その手は、青翔の手だった。
「せいしょうっ…………」
「な、なんでそんなに泣きそうなの? うなされてたし……悪い夢でも見た? あぁ……よーしよし」
青翔は困った顔をしながらも俺を引き寄せ、胸で深く抱き締めて俺の頭を撫でた。その手はあったかかった。
「嫌な夢でも見ちゃった?」
「え……っと……あれ、待って…………いま思い出すから……。うっ! 頭、痛い……!」
頭に稲妻が走ったかのような激痛が突き刺さる。経験もしたことのないほどの強い痛みに顔が歪んだ。
「あぁ、もういい! 思い出さなくていいから……とりあえず落ち着いて、深呼吸!」
「う、ん……」
青翔の言われた通りに深呼吸を何回か繰り返すと徐々に頭の痛みが和らいでいった。
どうにも夢の内容を思い出そうとすると頭が痛い。思い出そうとしたら脳がそれを嫌がっている感じがする。
「もう大丈夫みたいだ……」
「そう」
青翔は俺から体を離すと頭をポンポンと叩いた。
なんだかそれが恥ずかしい。
周りを見渡すとそこは保健室のベッドの上だった。どうやってここに来たか、その経緯はすっかり分からない。
「君が倒れたって聞いてビックリした……。緑川が運んでくれたらしいし、感謝しなよ」
汗が首筋を伝っているのを拭いさる。額に拳を当ててベッドに倒れ込んだ。
「緑川が……。あぁ、そうなんだ、あのとき俺……教室で倒れたのか。なあ俺さ、うなされてたかな……?」
「あぁ、そうだよ。酷いうなされようだった。はいタオル」
「さんきゅ……」
青翔から真っ白で柔らかな洗い立てのタオルを受け取ると、それに顔を埋める。深く息を吐いてゴシゴシと汗を拭いた。
気持ちいいタオルだ。あぁ、なんかもう……身体中汗だらけで気持ちわりぃ。
「そうだ朱連、お客さんが来てるんだけど……会える?」
「客?……あぁ、別に構わねぇぞ。いったい誰が……」
青翔が閉じられていたカーテンを開けると、そこには今、一番俺が会いたくないと思える人物が立っていた。その人はいつもの困り顔で俺のことを見つめている。
「朱連君……」
いた。志緒が、そこにいた。




