第五話『見ないでくれ』
あの日から幾日か過ぎているのにも関わらず、俺は未だにあの双子のどちらにも声をかけられずにいた。今日こそはと気を張ってクラスの覗きに行く日に限って奴らは姿をくらます。
正直なことを言うと、避けられている……という気がしないでもない。でも一応長い間やってきた仲だしそんなことがないことを願う。あくまで行き違いだと信じよう。
今日は思考を変えて校内を練り歩き、あいつらの捜索をしようと職員室の前を通り過ぎようとしたら目の前で扉が開いた。
教師ならとりあえず挨拶の一つぐらいはしておこうかと頭を軽く下げようとした、見覚えのある髪型、髪色、顔、泣きぼくろ、その全てを視界に受け止めるまでは。
「こ…………こんにちは、か、甘露寺……先生」
「あ、こんにちは朱連ちゃん、いいところに来たね」
「あのさぁ……気色悪いからその呼び方はやめてくんねぇか」
「教師に向かってその口のきき方は気を付けたほうがいいよ、僕は先生なんだからね」
そう言ってにんまりと笑うと甘露寺は何処からともなく紙の束を持ってくると俺にそれを押し付けてきた。慌ててそれを受け取るとズッシリと重力が伸し掛かってくる。
「なんすか、コレ」
「ちょっとした資料。3階の資料室の机の上に置いておいてね」
なんでこんなに当たり前のように言ってのけているんだろうかこいつは。
甘露寺は真っ直ぐな瞳で俺のことを見ている。その場の流れに対抗して、言葉を詰まらせながらもはっきりと俺は不満を口にする。
「俺、まだ何も言ってないんすけど」
鋭く射抜くような眼光を投げかけると、甘露寺は目を細めて蛇のような目つきで俺のことを見下ろしてきた。
嫌な汗が滲む。ヒンヤリとした手で背中を撫でられるような、背筋が凍る悪寒を感じた。
「やってくれるよね、朱連ちゃん。この前の件は見過ごしてあげたじゃない」
分かりやすく声のトーンを下げられ、威圧的な雰囲気を感じて思わず後ずさる。嫌なことをこんなところで引き合いに出され、俺は渋々承諾するしかなかった。
「それは……はい、分かりましたよ。持っていけばいいんでしょ、持っていけば」
「物分りのいい子に育ってくれて嬉しいよ」
「うるせぇ」
横を通り過ぎる際に頭を撫でられ、思わず反抗的な言葉を返す。気にしてなさそうなお気楽な背中を睨みつけた後、俺は仕方がなく3階の資料室に向かうことにした。
資料室と言えばあの人通りも少なくて、雰囲気も暗いから思わず学校の怪談にしたくなるような所か? あそこって何があるんだろう。
俺は端から学校の裏庭や屋上というサボりスポットしか興味なかったからこういった存在自体薄い場所には弱い。確か非常階段の近くだった気がする。
「ここであってたかな……」
老朽化のせいなのか、資料室のプレートの字が廃れすぎていてよく読めない。
これぐらいちゃんと管理しとけよ、そりゃあ殆ど人なんて入らないだろうけどさ。というかこの部屋の入り口だけ妙に古臭くないか?
改築だってしたことあるはずなのにここだけは昔のまま残されているような気がする。どういう手抜きだよ。
とりあえず資料室らしき部屋に入ろうとドアノブを回したが、鍵がかかっているようだ。びくともしない。ボロッちい貧相な見た目をしている割にしっかりと施錠はしてあるようだ。
可笑しいな、確かここが資料室だった気がするのだが……。
まずは邪魔くさい荷物を地面に置いて頭の整理をしようと窓から外の景色を見てみる。
ここからちょうど見える裏庭には先客がいるようだ。珍しく女子の団体客、あんな薄汚い陰気なサボり魔の天国になんの用だろうか。
なーんて、あそこで女一人取り囲んですることって言えば一つしかないんだろうけど。
どうせ資料室の鍵が独りでに開くことなんてありえないだろうし、紙束はここに置いておいて裏庭まで降りてみようか。もう甘露寺の言いつけなんて守りたくないし……。
なんならあの女共を追い返したらあそこで昼寝をしよう。確かここの非常階段は常に開いているはずだ。
思惑通りに開いたドアから外の空間へ踏み出す。微かな寒さを含んだ風を受け流して爽快に靴音を響かせながら階段を下っていった。耳に入る微かな話し声が次第にはっきり聞こえてくる。
今度はどんなアホみたいな理由で集っているのだろうと興味本位で流されてくる声に聞き入った。
呆れた声、優雅な声、高飛車な声、気が強そうなハキハキした声……どれも未だに言葉を発しないもう一人の女に向かって放たれる。
「あのね、いい加減にしてくれないかなぁ。私達、別にあなたが余計なことをしなかったらここまで言わないわよ」
「貴方の為を思って言ってるだけだから、警告よ、これは」
「これ以上緑川君の彼女面するつもりなら、私達三年が黙ってないから。そのつもりでね」
「アンタがあたし達の言うことを聞かないから悪いんだよ! 一年の分際で健二に取りいろうなんて百年早いってーの!」
また緑川か……。
こういった醜い争いはよく見かける。緑川と同学年の女子、特に自分たちより可愛くて気の弱い奴を狙った上級生のいびりは今じゃ当り前。
ただ、何度もこの戦争を見てきた俺には少し引っかかる事がある。こいつらの言葉、どこか焦りを感じるのは気のせいだろうか……? 彼女面という言葉にも引っかかる。
まさか……と頭の中に余計な考え、予感が紛れ込み、次第に足が速くなる。とにかく早く裏庭に向かわなければならない。
この目で確認するまで、勝手な判断で動くな。抑えろ、止まれ、止まれ……。
「…………」
「なによその目。なんか言いなさいよ!」
「っ……!」
一回り以上も体が小さい子が三年の女子に肩を強く押されて壁に押さえつけられた景色を見た瞬間、会話を聞いただけでも制止が利きそうじゃなかった感情の線がプッツリと切れた。
刹那――地面を抉り削られたような茶色い傷跡を芝生の上に残し、彼は動いていた。
あの子を押さえつける女の手首に噛み付くように掴みかかる。
一瞬の出来事だった。
周りの誰もが彼の存在をやっとその瞬間に初めて認める。遅れて手首の自由を奪われた女子が小さな悲鳴を漏らす。
その声が言わば起爆剤だった。
彼は手首を強引に引き寄せて捻りあげると困惑する女の目玉を凝視する。
彼には純粋な恐怖だけの色が見えた。小さく耳障りな悲鳴が遥か遠くで聞こえていた。
「なにしてんだよ……。こいつに、なにしてんだよ……。なあおい、言えよ正直に……苛めていましたってなぁ!」
「ち、ちが、私はただ警告を……」
「警告?……っは、ははっ…………はははははっ……! 今までのは先輩たちから下級生に向けての優しい警告ですかぁ? は? 頭可笑しいだろ、どうかしてる!」
その言葉の滑稽さに、可笑しさに、ケタケタと壊れてしまった人形のように笑う。
気味悪がった女たちが逃げようと二歩、三歩……後退していく……見逃すわけがない。
不意に表情から笑みを捨てると、地の底から這い寄ってくるような声を響かせた。
「逃げんなよ、逃げたらおめぇらただじゃ済まさねぇ。確実に潰してやる」
その命令にも似た警告は完全に女の動きを雁字搦めにしてしまう。普通ならただの脅しに過ぎないと思える言葉でさえ信じてしまう、圧倒的な説得力が彼の言葉にはあった。
当り前だ。彼はそれを本心で言っているのだから。今の彼の心の中にはどこまでもシンプルで単純な狂気の感情しかなかった。
「分かってんだろうな、分かって手を出したんだろうな。こいつに手を出したらどうなるか。なんなら心優しく俺が先輩方に実演を……」
そう言って彼は自身が握っていた手首の力を強める。
涙に混じった、生命の危機を感じる本能の悲鳴なんて彼の意識の全く外側にあった。
唯一届くのは自分の中にある破壊衝動の轟き、そして――
「朱連君……」
あの子の声。
一種の鎮静剤と呼べる鈴を転がすような声に呼び戻されて俺は握っていた手首を離した。
女たちは本能のままに走りその場から逃げていく。
その様子をしっかりと見た後に俺はあの子の方へ振り返る。相変わらず困った顔をして俺のことを見ていた。
「大丈夫か?」
「私なんかより、朱連君の方が心配です……」
「お前が苛められてたんだからこれぐらい当たり前だろ。まぁ、ちと脅しがきつ過ぎたかもな……やりすぎた、ごめん。ま、これからは気をつけろよ。じゃあな」
いち早くその場を去ろうとした。出来るだけ顔を見たくなかったから、ここに2人でいたくなかった。
そうだというのにあの子に呼び止められてしまえば歩みを止めるしかない。
あんなにか細くてすぐ折れてしまいそうな……守ってあげたくなる、あの声を聞いてしまえば当り前だ。
「もう、暴力は止めてください……。そうやって貴方は辛い目に会うのにいつも……見ていられないです……」
悲しそうな声を、本当に辛そうな声を、泣きそうな声で、赤の他人の俺に言わないでくれ。俺にもそれが伝染してしまいそうだった。だから出来るだけ声に力を込めて俺は強がる。
「……なら見ないでくれ。もう、俺を見ないでくれ。俺は、俺は…………」
俺が背を向けていた螺旋階段の方から大きな2つの足音が聞こえる。俺は続きを言うのをやめて背後を確認した。
さすがに見られたとしても困りはしないが、今更自分の言わんとしていたことに冷静になって初めて恥ずかしさが込み上げてくる。顔が熱いな、ちょっと……。
「あっれー、先客がいると思ったら朱連じゃん。久しぶりー!」
「ん? いいところ邪魔した……いや、それはないか。お久しぶりだね、茶木《 ちゃき》志緒さん」
「…………」
志緒は新に笑いかけられて無言で顔を逸らした。その場でモジモジとした後、俺に向かって一礼するとその場から駆けて行ってしまった。その後ろ姿を名残惜しげに眺めてしまう。
「あの子だれだっけ? 中学の頃に見かけたことが……確か、朱連と三年間同じクラスだったよね、見覚えある……」
「なんだ、天は知らないんだな。教えてあげようか、ねー……朱連くーん」
「新……」
俺は新の方を見ると顔を横に振った。やめてほしい、そういう意味だったのに新はやっぱり分かってくれない。顔は既に真実をバラす気満々だった。
根掘り葉掘りここで、俺の目の前で全てを明かされるぐらいなら……。
情けない顔を見せないように、2人に背を向ける。口の中はカラカラだった。磨り減った声で俺は言った。
「志緒は……あの子は、俺の中学時代、俺の……彼女だった。そして…………今は、緑川の彼女だ」
絞り出した声の勢いは少しずつ弱まり、最後には冬の風に奪われて空の彼方へ消えていった。
凍てつく風が深い沈黙に中に吹き荒れた。くすんだ空の彼方の果てを見ていた俺はゆったりと踵を返した。何も言えず、絶望に立ち竦む天と終始にこやかな新。その両者の間を歩き抜けた。
「じゃあな」
そう言って柔らかな草原を踏みしめて、再びそこは古臭い非常階段の始め。乾いた螺旋階段の鉄錆の臭いが漂う。階段の鳴き声ははっきりと耳に入り込み、空虚な世界でステップする。
やっとのことで開けた重たいドアの向こう側には陽気な天の相棒が座っていた。俺の顔色を見た途端に勢いよく立ち上がる。
「朱連……ごめん、疲れてるよね」
「翼……おいおい、お前が謝ってどうするんだよ。何してんだ、こんなところで」
「甘露寺先生に、資料室に運ぶ資料と鍵を渡された。朱連に渡し忘れたからついでにって」
「なんだよ……あいつにしては、良いことすんじゃねぇか」
「いいこと?」
「なんでもない……」
俺は翼に鍵を貰って鍵を開けると紙束を持ち上げて資料室に入る。部屋の一角にあるくたびれたアルミの机の上にそれを置くと軽く辺りを見まわした。薄ら埃が被ったファイルが所狭しと積まれたり本棚に置かれたり……。この資料は一体何だろうか。
「なあ翼、ここのファイル…………翼?」
俺が話しかけているのに翼は一向にこちらを向こうとしなかった。扉の前に佇んで俺へ背中を向ける。何か言いたいことでもあるのかと思って翼のことを待っていると、翼は小さく何かを呟いているようだった。
「な、なに? なんか言ったか翼、声が小さくて聞こえない……」
「これから先、新は…………新には、関わらない方がいい。あんな奴に、朱連が関わる必要はない」
「え、新……? あいつ、確かに腹立つ奴だけど俺は……」
嫌いじゃない、友達だろ、俺たち……と言おうとしたが、翼がそれを遮った。古く分厚いドアの板が軋む音がした。
「友達なんかじゃない! あんな奴、朱連に……あいつ……、あいつを、俺は……友達だなんて、一生思わないっ!」
ドアが再び軋む。翼は板に叩き付けていた手を力なくだらんと下ろした。深く息が吐かれる音がしたかと思えば翼はドアノブを握ってドアを開ける。足を一歩、外へ踏み出すと思い出したかのように振り返る。俺の方を真っ直ぐと見てはっきり断言した。
「俺は、警告したから。全てを、朱連に任せる」
俺は翼を呼び止めることもできず、翼の残していった言葉の意味を問い続けた。
頭の中に俺と翼と天……そして新、昔の光景が思い出される。4人揃って屋上で授業をサボったこと、テスト勉強で迷惑かけたこと、先生に悪戯して廊下を全速力で走って逃げた時のこと……。たくさん……まだある。
俺たち、友達じゃなかったのか? いっぱい、色々あったけど、喧嘩したけど……半年以上、4人で一緒にいたじゃないか。バカやって、笑ってたよな、楽しかったよな。全部、俺の気のせいだったのか。俺だけが馬鹿で、勘違いしてたのか、今までずっと、こんなに長い間。
グチャグチャになった思考の渦が俺を暗いところへ誘わんと手を差し出している。
その時、思った。
全て、見なかったことに、なかったことにすればいいと――
クラスに帰ると珍しく1人で本を読んでいるアイツがいた。俺の方を見ると、とっておきの笑顔で迎え入れる。
「お帰り。待ってたよ、朱連」
――やめろ
「どうかした? 元気無さそうだけど」
――やめてくれ、緑川……今はおまえのことを、見たくないんだよ……
「本当に大丈夫、朱連?」
――頼む、俺を見ないでくれ……見ないで…………
頭の隅のものが雪崩を起こし始める。自分で自分がわからなくなる、漠然とした恐怖が俺の感情の波を支配していた。
それでも必死に、全て……なかったことに…………そうしてしまえば……いい。




