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第三十三話『好き』


 のっそり起き上がるとそこはリビングの絨毯の上。

 ガラステーブルを挟んで向こう側には青翔が寝ていた。

 頭が重い。鈍痛がする。

 そう言えば俺はなにをしていたっけ。どうしてここで寝ているんだろう。いつぐらいに寝てしまったのだろう。しかもこんなところで……。

 時刻はもう十一時半だった。

 もう遅い。寝なくては。

 そういえばまだ寝てるんだなと隣に目をやると、薄ら目を開けた青翔と視線が合った。

(っ! お、起きてた……)

 起きているとは思ってもみなかったので軽く驚いた。


 青翔はカラカラに乾いた声で呟く。

「お腹、すいた……」

 それは俺に向けての言葉ではないようだ。

 目線はあちらこちらに浮遊し、まるで上の空といった恍けた顔をしている。

 随分疲れている様子で、ふらふらとテーブルに手をつけながら立ち上がった。そのままよろよろ、何処へ行くかと思えば台所に立ち寄るなり冷蔵庫を開け中を探り始めた。

 食事をするつもりなのだろうか。

 だがそこには奴が唯一受け付けているインスタント食品の類はない。どの青翔かすら分からないのでなんと声をかけるべきか。

 何もできず遠巻きに青翔の様子を伺った。

 そういえばテレビで前に、寝ながら食べてしまう病気があると聞いた。洗剤や卵の殻でも無意識に食べてしまうこともあると聞いていたので、まさかと内心焦った。


 もしそうだとしたら、俺が止めるほかあるまい。

 迅速に行動が出来るよう青翔に近づいた。

 青翔の手が止まる。野菜室でなにやら見つけたらしい。青翔は大きな皿を両手で持っている。そしてその上に大きな半円柱状の白い柔らかそうな塊がデカデカと存在していた。


「…………え?」

 それはケーキだった。昨日三人で食べた際に残って冷蔵庫に入れてあったもので間違いない。

 なぜ急に。あんなに人の手料理は嫌がっていただろうに。

 ドンッと、重量感のある音が食卓テーブルの上でした。


 呆気にとられたままでいると、青翔がチラっと細い目で俺のことを見る。

 時が止まったかのように思えたが、青翔の顔は一瞬にして明るい笑顔に変わった。

「ね、朱連。一緒に食べよ!」

 青翔の顔色は優れなかった。だけどその笑みはいつもの青翔だったから、俺は安心した。理由は分からないが、今は食べても大丈夫、どうやらそういうことなのだ。

 手渡されたフォークを受け取ると椅子に座る。青翔も同じく座った。


「……朱連?」

「あ、なに?」

「あの……ほら、あれ、あれしよ」

 青翔は俺に何かを催促している。だが『あれ』では何も伝わらない。

「あれ? みんなって食べる前って何か言うんじゃないの?」

「あー……あぁ、あれね。……いただきます」

 青翔は嬉しそうに表情を輝かせ俺に続いて「いただきます」と言った。

 律儀なものだ。わざわざこんな言葉を口にするなんて何年振りだろう。


 そして青翔がフォークを持つ。

 俺は正気を疑った。


 斬新、そういうべきだろうか。どちらかと言うと懐かしい、か。箸もまともに持てない子供もこういった持ち方をする気がした。

 正しくはないのだから、当然思う通りにものを口には運べない。だが青翔は少しの迷いを見せず、今にも食事に取りかかりそうだ。

 しかしふざけた様子はない。

 ……いったいどういうつもりだろうか。

 本人は大真面目なのだから恐らく正しい持ち方を知らないという見解が合っているだろう。家庭環境がどうしたとか、そんなことは今更言わないが、さすがに可哀相だと思った。


「なあ青翔」

 しかし高校生相手にフォークの持ち方を伝授させる人間って言うのも俺ぐらいじゃないだろうか。子供相手とは違って説明しにくいものだ。

 俺が言葉を探している間にも青翔が不思議そうな顔でこちらを伺っている。

「フォークはな、こう持つんだ、いいか」

 百聞は一見にしかずと言う。こういう時はジェスチャーに頼るのが一番だ。

 青翔は俺の持ち方を真似た。なんともたどたどしい。

「あぁうん。それ、それで食え」

「……あ、そっか」

 青翔は察しがいったのか恥ずかしそうに頭を掻いた。

「あー……あ、ありがとう、ね。なんて言ったらいいんだろ。あははは……」

 口調は詰まり気味で目は泳いでいた。笑っているのはただの取り繕いだ。


「……何かあったのか」


 青翔はその言葉を聞いた途端に表情を失くした。ボケッと俺のことを見ている。そして次には柔らかく自傷気味に微笑んだ。

「眠っている間に思うところっていうかなんていうか、色々あってさ」

「無理しなくていいんだぞ。飯とか」

「あ、いや……それはもう、辛くは、ないんだよ」

 『それは』の言葉の裏には、他に辛い事があるということ。青翔は迷ったように唇をぎゅっと真っ直ぐ結んで黙った。

 俺は青翔が話し始めるのを待つ。


 しばらくの静寂の末に青翔からため息が漏れた。

「あのさ、僕……いま、すごく寂しいんだ。僕の中から一人いなくなっちゃって。いなくなったっていうのは何と言うか、夢の中でなんだけど、さようならって言われて、それで…………ごめん、わけわかんないよね。うん、気にしないで……」

 青翔はかぶりを振る。

「やっぱ下手くそだな、僕。…………そうだな、もうこれ以上迷惑かけちゃ、ダメだよな」

 まるで独り言だった。

 しかし一人いなくなった。どういうことだろう、分からない。


「あのさ……」

 青翔に真剣な視線を向けられる。

 それでピンと背中が真っ直ぐに伸びた。

 青翔は清々しく諦め気味に笑った。


「今まで、ありがとうね」


 そして出てきたのは思いがけない一言のお礼の言葉だった。


「僕のことは、自分の中で何とかする。自分が可笑しいってことは前からよく知ってたし。ずっと逃げてきたけど、僕が普通の人として生活できるように頑張ることにした。だからもう心配しないで」

「え、え……!? つまり、その……」

「ここから出てくよ。ここにいても朱連が困るし、その方が自分のためにもなるよね」


 出ていくなんてそんな馬鹿なこと。家に帰って今更何になると言う。また虐げられるだけだ。地獄だ。そうだ、親なんてロクな奴がいない。どんなにここの奴らが嫌になっても、親なんかよりは何倍もマシだ。

「…………本気で言ってんのか」

「うん。親ともちゃんと、話してみたい」

「そうなんだ……」


 俺はこいつの何でもないからその決断に意見する権限はない。もともと青翔も話す必要はない。なのに俺に話したのは「がんばれ」とでも言ってほしいのだろう。

 青翔の望むようなことを言ってやればいいのに俺は指一本動かせなくて、今にも崩れ落ちそうな心境に立たされていた。

 青翔は俺の代わりに話し続けた。


「昔の僕は頭にあるのは楽しいことだけで、遭遇するのもそれだけ。だから記憶が飛んでいてもさほど気にしてなかった。けど人を好きになって初めて困った。記憶が飛んで次に会った時に絶交してたらどうしようとか。楽しいのが過ぎる度に酷く不安だった。初めて何とかしたいって思ったよ。……こんなの、普通じゃないんだから、治すって大変なんだろうね。……でも、なんとかなるよ」


 目は口ほどにものをいう。青翔は笑っていても、本質は震えていた。

「寂しいとか、思わないか」

 俺は未練がましく言った。

「うん、離れるのは嫌だよ。でもこのままも苦しいから、我慢しないと」

「あぁ。そっかぁ……」


 いなくなってしまうのか、本当に。

 あんなに俺のこと必要としてくれてたのに、またそうやって、みんな、俺を置いていくのか。また価値のない自分に成り下がるのか。

 やっぱり自分は誰にだっていらないのだろうか。

 ああ寂しい。ああ虚しい。


「お前は、立派な人間だな」

 俺とは大違いで。

「頑張れよ……」







「――……ねぇ、朱連」

「あ?」


 妙に明るく聞こえる青翔の声にイラッときた。

 俺は所詮足踏みして立ち止まるだけの人間。

 こいつは次の足を出せる人間。

 こんなにも住む世界が違う。もう放っておいてくれればいいのに。


「僕……――」


 俺は青翔の言葉に耳を疑った。恍けた声が漏れる。

 今度ははっきりそういったのが分かった。


「僕やっぱり、朱連がいないとダメだ」

 青翔は静かに目を瞑って言った。

「君がいないと生きていけない。怖くて不安だ。親になんて会いたくない。だからここに残る」

「…………」

 どんな酷い猿芝居だ。俺は笑いたくなった。

 さっきと言ってたこととまるっきり違うだろ。いったいどうして急にそんな馬鹿なことを…………。


「…………俺の、ためか……?」


 同情されたのか、俺、青翔に。


「――んなの、俺は頼んでないだろっ……!そんなに可哀相に見えたのかよ!? お前のしたいようにすればいいだろ、同情なんていらねぇよ!」

「……違うよ」

「っ! このっ……!」

 殴りたくなった、青翔を。

 同情されるのも、そんなことで自分の決断を無駄にしようとしていることも、どちらとも許せなくて。

 頭の中で理性がストップを掛けた。

 殴ってはダメだと気づいて、握った拳をどうしてやろうかと悩んだ。悩んで、どうしようもなく拳を疼かせたまま、俺は言葉を零した。


「……じゃあ、なんだよ」

「自分のため。君が苦しんでるかどうか不安になるぐらいなら、自分が多少変なままだろうが構わない」

「……お前、自分の言ってること分かってんのか。それでもし将来潰したら、どうすんだよ」

「分かってる。僕は可笑しい。もうそれでいいよ。君を苦しませるよりはマシだ」

「っ……」


 やめてくれ。そんな綺麗な目をしないでくれ。俺はこんな汚れきってるのに。

 今度はそんな歴然とした人間性の差を思い知らされて、もっと深く惨めな心情が広がる。

 沈む心が口走っていた言葉はいたずらに青翔を追いつめるだけだった。


「俺なんかよりも何倍もいい奴がいる。お前のこともっと理解してくれて、お前の望んだことちゃんとしてくれる奴が、いる」

「僕にとって大事なのは自分の願いを聞いてくれる都合のいい相手じゃない。僕の大切な人が幸せでいてくれる、それだけだ」

「俺はお前の思ってるような、優しい奴じゃない。価値のない最低な人間だ」

「そうだとしても変わらない」

「俺なんて……」

「ううん。それでも好きだ」


 気がつけば横にいた青翔に腕を引かれ、その匂いに体が包まれる。


「離せ」

「君が必要だ。だから君には僕に必要とされる価値がある。僕がいるから。僕がずっと。それで……それでいいだろ、朱連」

「うるせぇ!」

 拳で力任せに青翔の胸を叩いた。


「そんな分かったような口きくな! あっきれるほど嫌な奴だよお前は! なんでそんな真っ直ぐになれるんだよ、馬っ鹿じゃねぇの!? 俺なんて放っとけよ、どっか行けよ! テメェみたいに頭も顔も良かったら相手なんていくらでもいるだろ! 女だって! なんで俺なんだよ! なんでだよっ!」


 あーあ。言ってしまった。

 言ってなにになったんだろうな。青翔は傷ついただろうな。馬鹿だな俺は。

 いいや、もうこんな人間、このまま嫌われてしまえばいいのに……。


「そんなの、僕だって知らないよ」


 青翔は投げやりにそう呟くと抱きしめていた腕を離した。代わりにギリッと右手首を握り閉められ、ほどけず逃げられない。


「ダメだったか……君を好きになったら。男を好きになったらっ。そんなに理由が欲しいのか。好きの後付けなんて、いくらでも出来るだろ。君は優しい、明るい、可愛い、だから好き。……そんな陳腐な答えが欲しかっただけなら、僕はいくらだってくれてやるよ!」


 青翔はいつになく強く冷たい口調で俺を責め立てた。

 まるっきり予想していなかった。心のどこかで俺のことが好きな青翔が俺を否定するなんてありえないと甘いことを考えていた。驚きのあまり言葉を失った。


「だけどそうじゃない! この『好き』に説明なんてつけられない!……少なくとも僕はそうだ。悪いのか、それで。それは『好き』じゃないってことか」


 何も言い返せないぐらいに、頭が真っ白になる。人を本気で怒らせてしまったと身体が震えた。こんなに怖いものだなんて知らなかった。

 だから、いっそう次に青翔が優しく言った言葉に、俺の心が揺れ動いたのだ。


「好きだ。たとえ間違ってても、僕にはただそれだけなんだ。だから、その一つだけ信じて、傍にいさせてくれ」


 こんな男に好かれてしまった自分が嫌いになる。俺が男であってすまないと思う。こんなに一途に愛せるのにあくまで一方通行なんて、世はえらく残酷だ。

 俺はただ頷いた。

 もう青翔の覚悟は固まったのだ。自分でどうできるわけでもあるまい。

 代わりに、これからもちゃんと、傍にいてやろうか。




 青翔は俺に価値を与え、俺は青翔に安心を与える。そして恋人でも、友人でもない。奇妙な関係だ。そしてそんな生活はまた繰り返される。

 青翔の俺への愛は変だ。行き過ぎた愛は狂気に見えるだろう。

 こいつが本気になれば、俺なんかじゃ勝てるわけがない。決して牙を向けることはなくとも、傍に置くのは恐ろしいことだ。

 だけど同時に、その結果に満足している自分もまた、やはりどこか変なのだ。

 こんな変人同士なのだから、また仲良くやっていけるだろう。






 翌日の早朝、まだ日も昇らない時間。

「あぁ、おはよう緑川」

「朱連……昨日のことなんだけど……」

「昨日? なんのことだ?」

「――……うん、なんでもないよ」

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