第三十一話『有難う』
(っ……眩しい)
瞼の隙間に差し込む眩い光にぎゅっと目を瞑った。手で日差しを遮る。
その時に自分が今まで寝ていたことに気づいた。
あれ、いま何時だろう。あぁそうだ、みんなのご飯作らないと。起きよう……。
普段通りの寝ぼけた思考でのっそり体を起こすと、そこはベッドではなくソファの上だった。
昨日脱いでそのままだったコートを布団代わりにしていたらしく、身体にかかっている。
「……しまった」
ぼりぼり頭を掻いて呟く。
もう時計の短針は十と十一の間で止まっている。とっくに朝飯の時間は過ぎ、完全に寝坊だった。
寝過ぎて逆に眠たい。
そんな眠気をかき消そうと眼を擦り、大きな背伸びと欠伸を一つする。
立ち上がろうとソファから足を下ろした。するとむにゅとした、フローリングや絨毯とも似つかない反発が足裏に返ってきた。
その感覚に一気に眠気が覚め、ぎょっとして下を覗くと、ソファの横で青翔が寝ていた。
俺と違って掛け布団の一つもしていない。それなのにこんな幸せそうに大イビキ掻いて、ヨダレ垂らして寝ていられるのは偏につけっぱなしの暖房器具のおかげだろう。
俺は青翔に気を付けながら立ち上がると、コートを毛布の代わりにかけてやった。
「――やっと起きたんだ」
「!……まさるか」
上から降ってくる声に反射的に身構えたら、二階の吹き抜けの手すりから覗く勝の表情が伺えた。
「なんだよー、そんなおっかない顔しちゃってさ」
「あぁいや、別に」
「……いまそっちに行くよ」
その言葉の後にぱたぱたと軽い足取りが俺の元へと近づき降りてくる。
ちんまりとした存在が俺のことを見上げていた。寝間着姿のままなので、危うく中学生どころか小学校高学年程度の済ましたガキに見える。
「いま……なんか凄く失礼なこと思ったよね」
なぜバレたし。
「いやー別にぃ~」
「…………ま、いいや。昨日の片付けはちゃんとしといたよ。余ったのは冷蔵庫ね」
「お、よくやったな。偉い」
と勝の見た目の幼さに調子に乗って頭を撫でてみる。
そしたら案の定それがヤツの琴線に触れ、手首を勝に強い力で掴まれ睨まれた。
「……子ども扱いしないでくれない?」
「いやいや、してないって」
「おい。調子のんなよ――――殺すぞ」
「ご、ごめんなさいっ……!」
童顔ながら、勝がマジギレした時に見せる表情と声色の凄みたるもの右に出るものはないことは緑川と俺の承知の事実。
それだけでも十分怖いのに、そこに右手首への容赦ない握力が混ざり合い、俺は半分涙目になった。
さすが俺の中で怒らせたり敵に回したりしてはいけない人間ランキングぶっちぎりの一位だ。
俺が謝った後も勝は俺のことをジッと見つめて話してくれない。
そろそろ真面目に逃亡しようかと思った矢先、パッと手首の力抜けて解放される。
勝はさっきまで怒っていたはずなのになんだか変に楽しそうだった。一体全体なんなのだろうこいつは。
そして次に勝はなんの可愛さアピールなのか、両手を合わせて上目づかいでこちらを見て言った。
「あとさー、ちょっと用事頼まれてくれない?」
「え、なに」
特にお前のテンションの変わりようが何なんだ。
「参考書買って来て!」
「えー……今日は外に出る気分じゃない」
「そこをなんとか、ね?」
起きてすぐの俺にわざわざ話しかけてきた理由はそれかと合点がいってため息をつく。
「お釣りはー?」
「もちろんあげる」
「……分かったよ」
少しは人を使わず自分で行けよ。いつもこうじゃないか。
そう思いながらも結局はお駄賃欲しさに了承してしまう俺。実家の金をあまり使いたくないからって、友達の金を……というのも変なのかもしれないが。
「んじゃよろしく!」
何時の間に取り出した、というか最初から俺に任せる気満々だったのだろう。勝は数千円を俺に渡すと自室へとんぼ返りしていった。
一人で(厳密に言えば爆睡している青翔もいるのだが)リビングにお金を持って佇む。
なんだか突然発生した嵐が過ぎ去った気分になった。
視線をふと大きな横引き窓に移す。スノードムのごとく雪が舞いたっていた。
(ホワイトクリスマス……か)
鬱陶しい程に綺麗だった。
日差しを反射させて銀色に輝く雪が眩しくて目を瞑った。
「…………」
いま気づいたのだが、緑川がいない。
だけどそんなの当たり前だった。理由は考えなくても分かる。
するとそこに吹き抜けの二階から言葉が降ってきた。
「そうだ、緑川は出掛けたよ。何時に帰るかは分からないってさ」
最後にバタンと扉を閉じる音で終わった。
分かり切ったことをわざわざ言うんじゃねぇよ。
そんな言葉の代わりに「ふーん」と、なんてこともないように、誰に聞かせるわけでもないのに鼻を鳴らした。
相手が親友。
そのことは俺の中で、その彼女が好きと言う感情がありながらも、ある程度は受け止めていた。
しかしこの日はまた特別で、何時にも増して息苦しいほどの切なさを感じる。
青翔のやかましいイビキすら耳に入らないほどの物思いに耽った結果、ゲームでもしないといけないという焦燥感に行きつく。
俺は紙幣を掌の中にぐしゃりと握り込んでポケットにねじ込む。
ついでにカーテンも閉めてしまった。
しかしとうに昼を過ぎたと言うのにこの男ときたらよく眠るものだ。俺がゲームを始めて数時間も経つというのにイビキの一つさえ止まる気配がないのだから呆れる。
起きたら(荷物持ちのために)買い物に付き合わせようと思っていたのだが、計画が狂った。
しょうがなしに一人で行くことを決め、青翔の布団代わりのコートにそっと手を掛けた。
「っ……!」
こいつ、離さない。
あの後いくら呼びかけても蹴飛ばしても起きなかったので青翔のコートを拝借し外に出たのだが、サイズが合ってなくてぶかぶかだった。
被ったフードのファーの毛が首元に巻き付いてきて、暑苦しいったらありゃしない。
今日は雪がチラつく程度の見事な晴れ模様で、マフラーをつけてこなくて本当に正解だった。
外気温に触れ凍える部位とは対照的に、服の中の肌はほんのり汗が滲んでいた。
勝の参考書を買うため。
その程度の目的のために外に出て、近場の古本屋よりも数キロ遠い駅前の本屋までわざわざ行かなくてはならない。
それに何が悲しくてカップルなんてこの時期に見ないといけないのか。
加えて勝の注文した本はかなり分厚い。重い。
そして鬱陶しいのはデコボコで足を取る氷の道。
転ぶと痛いし、だから気を使って歩かないといけないし。時間がかかる。
(お使い、断っときゃ良かった)
「はぁ……」
「あの、すみません。少しお時間を……」
「!?」
懐かしいような、聞きなれているような。
胸の鈴をざわめかせる、そんな特別な声に惹かれるように、俺はぱたりと足を止めた。
「あ……あの、青翔晴さんですよね、同じクラスの……」
「えっ?」
俺は驚いて振り向いた。
すると志緒も俺の顔を見るや否や、相手が俺だと気づき目をまん丸に開いて両手で口を覆っていた。
「志緒……」
俺が手を伸ばすと、志緒は慌てて逃げ出す。
走ると滑るから危ないと言おうとした矢先、志緒は転んで尻餅をついた。
タイミングが良すぎて、可笑しくて笑ってしまった。
「おい、だいじょうぶか」
「す、すみませ……」
志緒の腕を掴んで立つのを手伝ってやる。
志緒はぱたぱたと服に着いた雪を払った。
「えっと、青翔に何か用だったか?」
「……緑川さんと、はぐれてそれで……もしかしたら、見かけているかもしれないと思って……」
「そっか」
伏し目がちにそう言う志緒。たぶん居心地が悪いのだろう。俺といるから。
だから俺はワザと明るく言った。
「しっかし緑川のヤロウ、彼女を一人にさせるなんてサイテーだな~」
「は、はい……まぁ」
「っと……」
ダメだ。なんか上手くいかない。気まずい。
せめて話題を変えよう。
「つか、よく俺が着てるの青翔のコートだって分かったな」
「えっ!?……あ、あの、たまたま覚えていまして……!」
「そ、そうなのか?」
何故か慌てて説明する志緒に違和感があったが、それが何処からきて何なのか分からず、疑問は俺の気のせいにしておいた。
「あ、あの。私もう行きますね」
「え……いや、その……。俺も緑川探すの手伝ってやるよ。だって……」
だって――――もっと君と一緒に居たいから
「――……です、よね?」
「えっ……」
本当はそんなこと言ってはいけないから、言わないつもりだったのに。
志緒に俺が思わず口走ってしまいそうだった言葉をまさに言われて、顔がカーッと熱くなる。
「昔……ちょうど一年前のクリスマスに、貴方が私に言いましたよね」
覚えていたのか。
俺は顔を上げて彼女を見た。どこか苦しそうだった。
「離れたくない。だって、もっと君と一緒に居たいから、って」
「……言ったな」
あぁそうさ。言ったさ俺は。別れてほしいと言った彼女にすがって、情けなく。
彼女が何よりも大事で惚れこんでいて、その時の俺は彼女なしでは生きていけないんじゃないかと思っていたぐらいだったから、それはもう必死だった。
そこまで深刻ではないにせよ、そんな情けなさを未だに俺は隠し持っている。
今でも女々しく、なんてことなさそうに振舞っても、本当は彼女が好きでたまらない。
そんな俺に彼女は、いまみたく苦しそうに顔をしかめて、泣きそうになりながら下を向いて。
「……ごめんなさい。私、貴方の期待に応えられない。私じゃ、貴方を不幸にしてしまうから……そんなの、耐えられないから……。あの時言った気持ちは今も変わりません。私のこと、どうか忘れてください」
最後に彼女は深々と頭を下げた。何も悪いことはしていないのに。誰も彼女を責めたりなんてしていないのに。
彼女はいつもそうやって、世界中の責任全てが自分にあるかのよう振舞うのだ。
そしてそんな彼女を目の当たりにして俺は、何があっても、
「うん、分かったよ」
笑った。
あの時も、心は今にでも泣き出しそうだったのに、なぜか笑っていた。
女の前で泣くなんてかっこ悪いからとか、まして強がりたかったわけでもない。
自分でもよく分からなかったけれど、それが彼女が俺にもたらす魔法みたいなものなのだと思う。
「こんな私を好きになってくれて、嬉しかったです。本当に、有難うございます」
「……こちらこそ」
こんなうす汚い不良少年の俺なんかに優しくしてくれて、希望をくれて、恋を教えてくれて、裏切らないでいてくれて、
「ありがとう」
ハウスに戻り参考書をテーブルの上に置くと、椅子にすとんと腰を下ろした。
あの後、一度も振り返ることなく俺の前から去っていった彼女を思い出し、頬杖をついた。
(こんな私、ね……。俺には勿体ないぐらいにいい女だったけどな)
奥ゆかしく献身的で、清楚でちっこく可愛くて、でも芯はちゃんとしていて、俺のタイプど真ん中。綺麗な瞳をしていた。
そして自分を卑下してしまう性格は変わってない。
少しは自信持てよ。学園一のイケメンと付き合えているつーのに……。
(まあそういうダメなところも、俺は好きなんだけれども)
これから先も一生、俺の心の中にはきっと彼女がいるだろう。たとえ他の人を好きになっても、綺麗なまま。
だけどそれは未練とかじゃなくて、きっとただの初恋の淡い思い出として。
だから、少しは前を向いてみようか。
もうちょっとだけ、人を好きになってみてもいいかもしれない。
昼間なのにあまりにも暗いリビングを照らすように、俺はカーテンを再び開けなおした。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなざいごめんなさっ……。ごめっ、なさぃ……」
今日、あの時、私が下した本当に最後の決別の言葉の責任を、私が抱え込むには大きすぎた。
もう彼に会えない。
会わなくていい。
すごく悲しくて、すごく安心した。
死にたいぐらい後悔して、何物にも代えがたい達成感を得た。
自分は正しい。間違ってない。
これが私のしてしまった選択の代償なのだと。
これでいいのと自分に言い聞かせる。
悔しいぐらいに涙が出た。胸が苦しい。
自分が嫌過ぎてえずきそうだ。
顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き腫らす私の頭が、優しく撫でられる。
懐かしい彼がそこにいる気がした。




