第二十九話『取扱説明書』
「どうかなさいましたか」
トウジが不思議そうに小首を傾げ話す声に、俺ははっと意識を取り戻した。
「いや……。勉強の邪魔したな」
「お気になさらず。構いません。寛いでください」
そう手でどうぞと淡泊に促す。
俺はとりあえず適当に座ることにした。
トウジは細い目で俺のことを見つめた後に、金属製の机に椅子を回転させて向き直る。シャーペンの芯が紙の上を滑る音が聞こえた。
「どうかなされたんですか」
「えっ」
自分から何かを話すより先にトウジに言われ、俺はドキッと背筋を伸ばした。
「表情が何時もより固いようですが、きっと僕が何かしたのでしょうね」
「その…………お前つーより、俺がな」
と俺は両拳を何度も握り直しながら小さく言った。
ぎしっと軋む回転椅子のパイプ。深く腰かける背中はどことなく落ち込んでいるように見える。
「そうですか」
ほんの一言、それだけを呟いた。するとトウジはそれっきり黙り込む。時々手を止めながらゆったり字を書き込む筆圧が、心なしか強い。俺の空っぽな頭の中を右から左に駆けていく。
トウジは俺に失望しているのか。何も言わないけれど、きっと怒っているだろう。謝った方がいいだろうな。でもなんて言えば。そうじっと背中を見つめた。
「あの」
「っは、はい」
トウジは指で挟んだA4サイズの紙っぺらを俺に差し出す。俺が不審がる目で見たからか、トウジが言葉を付け加える。
「差し上げます。これ」
その言葉に、俺はワンテンポ以上遅れて受け取った。紙には三つの大まかな項目と、それに一文程度の短い説明文らしきものが添えられている。
「なんだこれ」
ことさらそれは突拍子のないものだったからか、思った以上に腑抜けた声が出た。
対してトウジは割と大真面目に答える。
「僕の取扱説明書だと思ってください」
取扱説明書だなんて可笑しな言い回しをするなといぶかしみながら、俺はリストに視線を泳がせる。本当に数文字だけの、端的な文章だった。
「接するときは基本的にそれだけ守ってくれればよろしいので。ですからその……一人にさせてください」
「あ、あぁうん、すまん。じゃあ」
俺は立ち上がると尻ポケットに渡されたメモをねじ込む。そしてトウジに急かされる形となって部屋を後にした。
そう言えば一番最初の項目から『部屋に入らないこと』と書かれていた。
そんな経緯で手に入れたメモ紙は、現在も俺の手元に健在だ。俺はポケットから折りたたまれたそれを取り出し開く。
リストの二項目目には『人の作った食事をとらせないこと』と、ご丁寧にも赤字で書いてあって、それはよほど大切なことなのだと思う。
そう考えた俺はそのあと思い直し、青翔が食事をとることに対して無理強いをさせずに今の今まで放置してきた。
青翔のインスタント食品しか口にしない爛れた食生活は相変わらずだったが、それは口出しをしてはいけないことなのだと、仕方がなしに目を瞑ることにした。
不満や心配がないわけでは勿論ない。だがそうすることによって俺と青翔の間に余計な摩擦は起きなくなり、幾分と過ごしやすかった。
そして俺は、これから先も青翔は人の作った料理を口にすることなく過ごすのだと考えるまでに至った。
……かと思えば、さっき自分であの男は人の作った代物を口にすると言い出したのだ。全く心理が読めない。
原因は知らないが、人の作ったものは食べられないはずじゃなかったのか? まさかお菓子は例外とか、そんな単純なことではないだろうな。
当然に浮かんだ疑問に頭を捻らせながら。まあ時間は刻々と迫るので、料理を作る他ない。
台所に立っていると、つけっぱなしのテレビからバラエティ番組の音声がBGMとなって流れてくる。
俺は別にくだらないトークを聞きたいわけじゃない。無音の空間で俺の料理の音だけが響くのは、何とはなしに虚しく思えたからだ。
俺の耳は人の声やら笑い声やらの情報を断片的に聞き続け、それとは別に手と頭は目の前の作業に集中している。耳に残るCMソングなんかを口ずさみながら、俺は着々とパーティーの準備を終わらせていくのだった。
普段は誰かの誕生日でしか作らないであろう手間な料理を長時間かけて仕上げていくと、時間はあっと言う間に過ぎていく。
作業開始の昼頃からのおよそ五、六時間の経過を俺が認識したのは、玄関口から響く緑川の声に気づいてからだった。
緑川の声を聞くだけで身体が強張る。
ああそうだ、緑川は志緒とデートしてきたのだ。分かり切っていることなのに、その事実が胸に重く伸し掛かる。
それでも一言ぐらい声を掛けようと振り返ると、ちょうどそこに緑川がいて、なにやら小さな紙袋を手にぶら下げていた。それは確かに、行きの時には持っていなかったもの。
その時はまだ心の準備が完全には出来ていなくて、俺はぐっと息を呑む。
ほんの少しの、だがとてつもなく居心地の悪いテンポを置いて、俺は声を絞り出した。
「お……おかえり」
緑川は俺の目を驚愕しながらぱっと見る。そして何時ものように上手に笑うと、
「――ただいま」
そうどこか遠慮がちに応えた。そしてそのまま、あの袋を持って自室へ戻っていった。
奴の足音が、階段の音が、ドアの音が。完全に消え去るまで俺はその場で指先一つ動かせなかった。
うまく笑えただろうか。
そう頬の筋肉を人差し指で引っ張ってみた。
普段の食事はもっぱら食卓テーブルでするのだが、なにかする日に限ってはテレビの前にある大きなガラステーブルを囲み、テレビを見つつ行われる。
やっていることは料理が豪華なだけの、ただの食事。……のはずなのに、俺は一向に台所から離れられずにいた。
「朱連、ソースの味悪いから作り直して」
「あの、それ三度目……」
「好きでもない味、食べ続けるの無理だし。あ、盛り付け、適当にしないでよ」
「朱連やっぱ下手くそだね。僕のやった通りにしたらいいよ」
「じゃあ代わりにやってくれ」
「うん、それは嫌」」
「料理は見て嗅いで食するのが常識だよ。そんなセンスで料理人になんてなれないからね」
「いやならねぇし」
このパーティーの本題は楽しむことなんかではなく、どうやら、いかに素晴らしき料理を俺に作らせるからしい。
左右交互にあれをこうしろどうしろと口を出され、ロクに飯を食う暇さえない。
クリスマスはいったいどちらに消えたのだろう。今だけでいいから帰ってきてほしい。
地獄の指導が始まって約一時間後に、やっと俺は二人から解放された。
味はたぶん当初から比べると明らかに良くなったのだろう。だが疲労のせいで舌の感覚がいまいち鈍くなっていた。
さっきまで鬼そのものだった奴ら二人は、打って変わって仲良くテレビなんかを見て楽しんでいる。それを尻目に俺は黙々と料理を口に運んだ。
今日一日の俺の行動範囲は台所の前だけだったが、それでも動き続けて腹が減っている。それといびられたストレス。とりあえず腹に何か蓄積しないとやっていけない。
やけになりながら食べていると、ふともう一つの騒がしさが足りないことを思い出し、物思いにふける。
青翔はいったい何しているのだろうか。俺は何かをするべきなのだろうか、と。
ものの数十秒を手を止めて考え、まとまったところでフォークを置いた。
(……会ったときに考えよう)
人の行動に対していくら対策を練ったところで、そんなものたかがしれている。こういう時はなんとかなるの精神で乗り越えよう。
だんだん腹も膨れてきたところで、そろそろ俺も緑川達に混ざろうか。どうせなら何かトランプゲームでもしようかと、自室にあるテーブルゲームの品々を物色するために俺は立ち上がった。
二階まで階段をのぼり切ったところで、全く予期せぬことが起きた。階段上がってすぐそこの青翔の部屋のドアが、俺の目の前で音を立てながら開く。そして、奴とばっちり目が合った。
「あ」
いくらなんでも、こんなに早く奴に会うだなんて思ってもいなかったので、無意識に声が出た。
「アンタか」
「あ、うん……」
「何してんの」
「物とか、取りに」
「ふぅん。そう」
奴はとりわけ興味のなさそうな応答をするとリビングへと下りていった。
俺は迷うことなく自室のタンスからトランプを取り出すと、奴の様子を見に行くことにした。
パーティーだなんだと言っても、それは罰ゲーム付きトランプゲーム大会と呼称しても何ら問題ない。
俺らは恒例通りババ抜きから始まり、七並べ大富豪ポーカー。とりあえず知っている遊びを片っ端からやっていった。
世間がやれクリスマスだと言ったところで、俺たちのこういうガキくさい根本は変わらないらしい。
「よし、ならこのポーカーで負けた奴がジュースの買い出し係ってことで」
「賛成ー」
「異議なし」
勝の提案に俺と緑川が賛同し、さっさと次のゲームの手筈を整える。
勝はさっきブラックジャックで一位をとったから、次は何のゲームをするか決められる。それと最下位への罰も。
勝はソファに寄しかかりながらスナック菓子を貪る。視線がボーっと宙を漂ったところで、いきなり目の焦点が合った。
「あーそうだ。青翔もやる?」
と、勝がぴしっと奴を指名した。
奴はテレビのクリスマススペシャル企画をぼうっと眺めていただけで、とびっきり暇そうである。
だけど普段のようならんらん笑顔で話題に乗ってくる様子もない。顔の向きだけこちらにずらしただけで、なんとなく生気がない。人形ではないだろうか。
「青翔、ルール分かんないんじゃない?」
緑川が優しげに勝を止める。
すると珍しく厳しい視線で勝が緑川を征した。
「俺は青翔に聞いているんだけども?」
「あーそうだっただね」
と苦く笑う。
緑川や勝も、奴の様子が違うことには勘付いていた。ただ緑川は奴から距離を置きたく感じているのに対して、勝はより近くに置こうとしている。
緑川の考えには俺も同意なので理解できる。黙って元の調子に戻るまで一人にしておく側だ。
だけど勝の真意は全く読めない。この状況をことさら楽しんでいるらしい。こういう時、俺は勝が異質だと感じる。
奴はけだるそうに立ち上がると、のっそり熊のように勝の横で胡坐をかいた。
「それで。何してんの」
「ポーカー」
と、カードを配りながら勝が答える。
「ルール分かる?」
「まあ」
「じゃあ一回役確認してみるか?」
「ん……」
首振り人形のごとく頷く。
勝の提案で罰ゲームなしのポーカーをすることになった。
勝は青翔の手札を見て、こういう時は降りろだの、はったりをかませだのをわざわざご教授している。
まあお罰なしなら適当でいいかと手を抜きながらのんびりプレイしていると、横にいた緑川が近づいてくる。こっそり俺に耳打ちをしてきた。
「なんかさ、喧嘩とかした?」
「誰とよ」
「青翔。変じゃん」
「元から変だろ。……喧嘩した記憶は今んとこない」
「ふうん。なんか嫌だなぁ。怖いなー」
「怖い?」
俺は恐らく緑川の口から初めて聞いたであろう言葉に思わず目を丸くさせて聞き返した。あの緑川が青翔を怖いと言うなんて、という驚きもある。
「そ。あの鉄仮面。面白くないなぁ」
「……お前の頭ん中は面白いか面白くないかの二択かよ」
「まーね」
「すんなり認めるな。……まぁ確かに、面白くはないかもな」」
本当はこんなことを思ったりするべきではない。それは、俺の持っている青翔の取扱説明書の最後の項目に、『人格で区別をしない』と書いてあるからだ。
だけど俺は今の青翔に現れている奴の人格が、緑川と同じくあまり得意ではなかった。
俺はどちらかといえば、素直な奴らとつるむ方が好きだ。
一般的にクールと分類されるような奴らの考えは分からなくて関わりづらい。
ちなみに翼は付き合いが長いから例外だ。
今の青翔は、筋肉一つにすらピクリとも感情を表さない。まるで鉄仮面をつけているかのような男。
俺にはドンピシャで苦手なタイプだ。
本心では、出来ることなら関わりたくない。どうせなら勝に全て任せてしまいたい。
「じゃあ次から本番。罰ゲームありだからね」
あまり良くない思考へ走っている脳を勝の声が揺らして現実へ戻す。
とりあえず余計なことを考えるのはやめておこう。俺は新たな手札を受け取ると、そちらの方に意識を集中することにした。
俺が思うに、ポーカーはただの運ゲーであると思う。こんなものに戦略があると言うのなら、それはどこまで確かな勝率を保証するのかと疑いたくもなる。
だが勝や緑川にいい手札ばかりが揃うところを目の当たりにすると、なんだかそう言うものの存在も、納得できるかもしれない。
あるいはそれを流れとでも言うのだろうか。
正直な話をすれば、さっきからこの二人しか勝っていない。細工でもしてあるのかと疑いたくなるほど、笑える格差だ。
「可笑しい。フルハウスでも負けるのはどう考えたって可笑しい」
「いやーだってフォーカードだしなー」
「これで負けるとか……。お前演技うめぇんだよ。完っ全に乗せられた」
「勝のはったりと強運には目を見張るものがあるよね」
「それがフラッシュで降りた奴の言葉?」
「ちょっとやな予感がして」
「思っていてもフルハウス降りは出来ない。無理」
「ま、運があっても生かせないんだね残念。じゃあドブは大人しく買い出し行っておいで」
「いや、ドブは俺じゃなくてあっち」
俺は後ろのソファでのうのうと脚を組んでいる奴の方を指差す。
「でもさ、飲み物重いと思うから朱連も一緒にゆーっくり行ってきてほしいな」
緑川が珍しくそんなことを提案する。たぶん、いや絶対、自分が今の青翔と顔を合わせたくないだけだ。
「……別に」
すると青翔が意外や意外にあっさりと賛同した。一人の方が楽だとでも言いそうなのに。
「付いてって構わないか?」
「子供じゃない。心配されなくても大丈夫だから。けど……どうしてもついて来るなら止めない」
「クーデレかよ。キモ」
と、ボソッと誰か呟いたかと思えば、何か巨大な物体が脇を通り過ぎ、テレビと観葉植物の間の壁にぶつかった。
それは普通の座布団だったのだが、気のせいか音や衝撃は鈍器のそれであった。
そしてすとんと座布団が自由落下し床に着地した。
右手首を軽く振って、奴はふと思い出した程度に呟く。
「手……滑った」
「うん、鼻先スレスレ。危なかったね」
「ワザとだから。外したのは」
「言われなくても分かってる」
青翔はワザと外したと言ったが、あれ間違いなく当てにきている。手心が一切入る余地もないほどの剛速球だった。
何がそこまで癪に障ったのか知らないが、あれは本気だろう。
そしてそれを緑川はしっかり避け、汗一つかかず、さらに言うと余裕と興奮の入り混じる笑顔を輝かせていた。
そして極めつけは緑川のこの一言である。
「やっぱり、君って面白いね」
そんな、見ているこっちが緊張してしまいそうなぐらいの見えない抗争が行われていた。
しばらく二人が無言で対峙した後、ふと青翔は俺の手を握ってきた。
「ん?」
「……なにボーっとしてるの。行くよ」
青翔に立つように促されて、俺はよく分からないまま、素直に立ち上がる。そして玄関まで腕を引っ張られた。
「…………ん?」
玄関から外に出て、急激な気温変化を認知してやっと、俺の思考回路が現状に追いついた。
寒い。冷凍庫の中に全身が浸かっているぐらいに、ただひたすらに、寒い。
「え、なに寒っ!? ちょっ、待て、コート! コートぉ!」
防寒着も着ずに氷点下の外気に触れるというのは勿論自殺行為。まして俺の服装は暖房のがんがん利いたハウスで油断しきっており、半そでであった。
俺は死に物狂いでハウスの暖気の中に駆け込む。ものの数秒とはいえ、身体の震えは止まらない。しどろもどろになりながら、急いでコートやマフラーを手に取り着込んでいく。
そんな俺の背中に青翔が呆れたように声をかけた。
「もういい?」
「ご、ごめん。準備できた……」
と青翔の方を改めて向き直ると。
「……お前は?」
「何が」
「いや、コートとか」
「別にいらないけど」
青翔の服はジーンズにダボダボのパーカーを着た、ただの部屋着だ。冬の寒さはおろか、秋でも通用しない代物。というのにこの男、さっきからケロッと平気そうだ。
別にいらない。その言葉の意味が理解できず一度黙ってから話し直す。
「ごめん。言ってることがよく……」
「……俺、何も感じないから」
思いがけずに言葉を被せてきた青翔は、あの鉄の表情を崩して、そう寂しそうに言う。
まずい。これは俺が踏みこんではいけない領域なんだ。それを一瞬で察して唾を飲む。
「あ、あぁそうか。えっとー……とりあえずコートだけでも着といてくれないか、一応」
「めんどい。けど、分かった」
と、青翔は先ほどの表情とは一転し、冷たい仮面のような表情に顔を戻した。そして壁にかけてあったコートを適当に手に取る。それは緑川のたが、まあいっか。
「ほら、行くよ」
青翔はコートを適当に羽織ると、さっさと玄関フードまで行ってしまう。
奴に急かされながら再度靴を履き、俺は後を追った。




