第二十七話『出会う幸せ』
ホームから出ることさえ難儀なことこの上ない、大都市のちょうど中央に位置する駅に、朱連と青翔の二人は降り立った。
クリスマス間近。そんな時期的要因もあるのだろう。人の往来は途絶えることを知らず、無数の黒い頭がまるで濁流のように縦横無尽に蠢いていた。壁に置かれる美術品のディスプレイや視覚に凝ったデザインのポスターなどの物の類を楽しむほどの余裕は、そこにない。
日本はまだ夏ではない。十二月の中旬。季節は見紛うことなく冬なのだ。
だが今この駅には冬の肌寒さと同時に、着込んだ防寒具の内側で発熱する人肌の熱気が、密接する空間の中で練りに練られ、人々の額に汗を流させるに相応しいほどの蒸し暑さが生じて充満していた。これでは歩くことさえ気だるくて仕方がない。
二人は人の流れを掻き分け、掻き分け、やっとのことさで息をつける空間を見つけ、人ごみから抜け出した。
そこはかつて煙草を吸うためだけの場所で、改札口から少し離れた所にある。だが時代の流れで現在は灰皿が撤去されており、当たり前のことだが人はいない。
元々汗っかきな朱連の顔には薄く汗が現れていた。それをため息と共に服の袖で拭う。
「ひっさしぶりだぜこんなの。さすが都会だ。人が多いこと多いこと……」
「ほんと。噂には聞いてたんだけど、まさかこんなに人が多いなんてね……」
「なんだお前。通学で通ってたくせに、寄ったことねぇの?」
「寄り道、禁止されてたし」
「はー……そっか」
あの親じゃな、と朱連は心の中で軽く舌打ちをし、頭を軽く振って嫌な気分を追い払った。
「どこ行く? やっぱカラオケとかか」
「ダメ。僕歌下手」
「あマジで。意外。んじゃあまずー……漫画の最新刊買いに行くか」
「あ、もしかしてこの前アニメ化されたってやつ? 僕も続き気になってたんだけど」
「ん、決まり。じゃあ行くか」
朱連はポッケに手を突っ込み、手探りな記憶で地上への出口へ向かおうと歩き出す。少しすると突然、青翔が朱連の腕を掴んで引きとめた。
「そっちは、南出口方面、この時間帯ならタイムセールで混んでいるから回り道した方がいい」
「え、せ、青翔? ん、あれ?」
青翔の言葉の意味自体が分からないということではない。素直に言葉を呑み込むにはあまりに不自然、突っかかりがあった。
それを朱連が頭で処理をするよりも先に、青翔は朱連の腕を強引に引っ張った。そしてそのまま、さっきとは真逆の方向へと歩き始める。青翔は朱連の腕をがっしりと捕らえ、力強く人の流れに対して逆流していった。
最後に二人は、あまり人のこみ合わない、建物の中にひっそり隠れるかのように存在する出口から地上へ出た。
そこから外に出れば、肌は乾いた北風に襲われる。見上げれば首が痛くなるほどに高いビルの谷。そこから覗く、薄い水色の空は澄み渡っている。よく見ればちらちらと雪が降っていて、その影響で比較的空気は綺麗だった。
「わー……あんなデッカイ建物、間近で見るの初めて……かも」
「田舎もんみてぇなこと言うなよかっこわりぃ」
「だっていつもは山の上から見るだけで精一杯だったんだよ。僕、いつかここに来たいと思ってたんだー」
朱連は、そんなことを目を輝かせながら言う青翔のことをジッと見つめる。特段何もない。普通の青翔であった。
「……本屋、あっちだから。行くぞ」
朱連はそのまま道なりを歩き始めた。歩幅を大きく急ぎ目に。青翔が自分の隣に来ることがないように。それは朱連自身が落ち着くためであった。
一度も都会に来たはずのない、いわば初心者が、迷路のように入り組んだ広い駅で、どの時間帯にどの方面が混んでいるのかどうかなんて、そんなことは知る筈もない。
問題なのは、青翔がそのことをしっかりと把握して、迷うことなく自分をこの出口まで連れてきたこと。青翔は初心者のはずだったのにだ。
朱連が感じていた突っかかりはそれだった。
原因はつまり、青翔の人格が知らぬ間に変わっていたということだろう。
こんな街中で、だなんて、朱連にとってしてみれば冷や汗ものである。それに加え、青翔には当然のごとく自覚がないのだから、自制ができないのだから、なおタチが悪い。
一週間何も起きなかったからといってこれから先も何もないとは限らない。それはその一週間が一年であったとしてもだ。
人格の交代が切り替えスイッチのようなもので行われていると仮定して、その切り替わりが突発的に行われたとしたら、それはもういくら周囲が気を配ったところでどうすることも出来ない。
その際、ゴウのような暴力的な人格が出てきたら、何が起きるか、なんて知れたもんじゃないのである。
そんな青翔を何とかしてやりたいと思っている朱連には、そんな理不尽な事態は避けられない。そう、青翔といる限りは。
よほどの思い入れがない限り、誰もそんなお人好しなことはしない。周りが青翔から離れていくのが無情なことながらに自然。誰も不条理に傷つきたくはない。
(だけど、俺までそんなことしたら……青翔、また一人ぼっちになっちゃうんじゃ……)
朱連は一度振り返って、少し離れた人混みの中にいる青翔を見た。
目が合うと、青翔はまるで子供のように笑う。
朱連は心の中で舌打ちをすると、青翔を待ち、二人で再び並んで歩き出した。
手に取った本を、さっき買うと決めた本の上に。そしてまた本を置き、また本を、本を、本、本……。
「あ、あのー。ちょっと待ってくれる朱連。……そんなに買うの?」
そう言って青翔が指差した山は、おおよそ十冊ぐらいの紙媒体で構成されていた。そのどれもが大きさも厚さもジャンルもバラバラで、何一つとして統一性がない。
若干引き気味の青翔をよそに、朱連はきょとんとしている。
「別に普通じゃないのか」
「うーんとね……ちょうどそれで十冊目なんだけど。お金大丈夫? 足りる?」
「お前馬鹿か。俺がそんな考えなしに買うとでも思ってんのかよ」
そう言って朱連は手にした本をまた山の上に。さらなる高い山が築かれた。
「う……まあ確かに朱連、しっかりしてそうだけど」
「じゃあいいやん」
「僕が言いたいのは、そんなに一気に買っても読み切れないでしょってこと」
「分けて買いに行くの面倒じゃね」
「……朱連あれでしょ、たまに出かけてその日で一気に欲しいのまとめ買いしちゃうタイプ」
「……否定は、しないが」
「確かに面倒だけど、この本の量。持つの重いし、第一朱連の部屋の本棚、もう空きないよね」
「だから、リビングにわざわざ本棚置いてんだろ? お前もたまに読んでるんだし文句は言わせねぇぜ」
「う、うん……。あーあれ朱連のだったんだ……初耳。緑川にしちゃあ綺麗に使ってるなーとは思ってはいたんだけど」
「あいつはな、乱暴」
「部屋の本棚見てて思ったんだけど、本、すごい丁寧に扱うよね」
「当たり前だろ。俺はガキん時はほとんど本読んで時間潰したんだからな」
「……意外と文学少年?」
そう青翔に聞かれ、朱連ははたと手を止めた。目を落とし、指の先で軽く本の背表紙をなぞる。
「やることが他になかっただけだ。放課後使って遊ぶような相手が、いなかった」
「朱連……」
朱連は髪を撫でると、それを軽く笑い飛ばした。
「今は違うぞ。学校でもハウスに戻っても、ダチがいる。俺はいま、幸せもんだな」
「朱連……僕も、朱連と会えたから……」
と、青翔が言いかけたところ、朱連の腹のあたりを二本の腕が捕らえた。
「――はい、朱連ほかーく。任務完了しましたっ、翼隊長」
「良かったね」
「……うわっ!!」
朱連の後ろには顔、髪形がそっくりな双子、天と翼がいた。ちなみに服装は天が黒、翼が白で見事に対照的。
朱連はその登場に思わず大声を出してしまい、周囲から注目を浴びて恥ずかしくて縮こまった。
「おまえら、何時の間に……」
「ついさっき。翼が朱連見つけたって言って」
「朱連は遠目でも分かりやすい」
「あー……さいですか」
朱連はどうせ髪色のせいだとチラッと赤毛を見てすんと鼻を鳴らした。
「こほん。……と、とりあえず、会計済ませてくる」
さっき注目を集めてしまい気まずかったが、こんな所でだらだら話すわけにもいかない。朱連が本を買った後、四人は一階の書店コーナーにある休憩スペースに移ることにした。
四人はダブルのソファに座り向かい合う。壁は開放的にガラス窓で、外の街の風景が伺えた。
朱連はおそらく一週間以上は顔を合わせていない翼を見る。
「そーいや翼、風邪は?」
「見ての通り。平気」
とはいうものの、翼はマスクをしていた。大方天が過保護なせいだろうと朱連は一人納得する。
「そっか、良かったな」
翼は小さく頷く。すると次に朱連の隣にいた青翔の方へと目を移した。
天がその視線に気づき、青翔の傍に座席を移すと腕をぺちぺち叩きだした。そして何やら意味あり気にうーんと唸る。
「え……なに、これ?」
「天は気にしないで。……ウワサで聞いてたけど、あんたが青翔晴?」
「うん、そうだけどさ。……ウワサって?」
「知らないんだー。赤髪の不良に言い寄ってる男がいるってウワサ。これ、学園でも有名だと思ったんだけど?」
天がニヤァっと嫌な笑顔で朱連のことを見る。ウワサを聞いても青翔はどこ吹く風といった感じでのほほんとしていたが、朱連は嫌な汗が出てたまらなかった。
「ま、マジかっ……」
「あー……だから僕この前知らない三年にキモいとか言われたのか」
納得するように青翔はうんうんと頷く。
「おい青翔、そんなこと言われたならちゃんと俺に言え」
「ん?……すれ違いざまにボソッとね。でも僕の問題だしさ、朱連の手を煩わせたくなかったんだよ。大丈夫、ちゃんと話し合いで解決したから、もう言ってこないよ」
「あ……あぁ、そう」
どうやって話し合いに持ち込み解決したのか、朱連はそこをあえて口に出して聞かないことにした。
聞かずとも青翔の爽快そうな笑顔を見れば推測できる。そう、かつて自分の悪口を言ってきた男が、青翔の手によってどうなったのかを思い出せば。
「それで、そーんなウワサが絶えないお二方がご一緒とは……デートですかね?」
「でぇ…………ないないないないッ!!」
「いやいやちょっと待ってよ! そんな全力で否定しないでよ! え、これ傷つく! 精神が辛い!」
「違うっ。これはデートじゃないデートじゃない……!」
「あー良かった。まさか朱連がホモに目覚めてたら……どうしようかと思った」
「天……それ、とっても最悪な結末」
そう双子がクスッと笑った。
それに気づかないぐらいに朱連と青翔であれこれ言い合っている。
「別に男二人で遊ぶことはデートじゃないだろ」
「でも僕はそういうね、下心だってあるし、君もそれは知ってるわけだから、やっぱデートって言わない?」
「したごっ……違う、絶対に違うっ」
「……分かった。百歩譲ってこれがデートじゃないとして、僕は朱連のことちゃんと好きだから」
「……いやそれは、いらん」
「なぜにっ」
「あー……ね、ね。ちょっちいい? 二人ともデートはしてないんだよね?」
「あーそれは……」
「デートじゃありません」
「ちょっ」
すると急に天が朱連の腕をガシッと掴んだ。
「ん じゃ、一緒に遊ぼ」
「えっ」
「……あ?」
天の言葉は誘いと言うよりも、強制、と称した方が正しいと言えるだろう。威圧感があった。
朱連は青翔と天を交互に見つめ、戸惑い、青翔は静かに青筋を立て、双子は愉快に笑っていた。
そしてこの後、朱連は天に甘えに甘えられ、なくなく一緒に遊ぶ決意をしたのであった。
四人は揃ってゲームセンターに来ていた。
朱連は新機種のクレーンゲーム――景品はクマ――に闘志を燃やし、天と翼は揃ってリズムゲーム、青翔はガンシューティング。綺麗に四人の行動はバラバラだった。
そんなゲームセンターに、二人の男が呼ばれて訪れていた。緑川と勝。どちらとも走って来たのか、息が切れ切れである。
「ねえ、朱連から至急来るように頼まれたから、急いで来たのに、なんで、ゲーセン、なわけ?」
「たぶんね、そりゃあまた、クマ取ってくれーって、言われると、思うんだ」
「……また、か」
「ゲーセン、クレーンゲーム、緑川……それしかない」
緑川は息と整え、ゲームセンターの辺りを見回し朱連を探した。
すると手慣れた手つきでゲームを完遂し、銃を元の位置に戻す青年と視線がぶつかる。
「ん……? げぇっ!」
青年、もとい青翔は汚い感嘆詞を吐き、そろそろと二人に近づいた。
「て、手前ら……なんでこんな所に」
「別に。後を追っかけたとか、そんな君みたいなことはしてないから安心して」
「あ? 手前……殺すぞ」
「そう言うこと言っていると自分を安っぽく見せることになるけど、大丈夫?」
「手前ほど嘘っぽくはねぇから問題ねぇよ」
出会って早々喧嘩を売り買いし始めた二人を、勝はもう止める気が起きない。やれやれと肩を落とし、朱連を呼びに向かった。朱連を連れ、勝はまた二人のところに戻ってくる。
「おい緑川、グダグダやってないで手伝ってくれ」
朱連を見た途端に二人の機嫌がケロリと変わった。良くなったというよりは、今朝の事件を思い出して恐怖心から大人しくなったがのが正しい。
「朱連……。はいはい、今回はどれかな」
朱連は緑川を連れてクレーンゲームの機械が並ぶ奥の方へと向かう。
青翔は緑川がいるので追う気になれず、そのまま二人の背中を見つめるだけだった。
「なんだってあんな野郎なんかがここに……」
「あー……緑川ね、クレーンゲームの達人なんだ」
「それがどうした」
「ゲームの景品、クマなんだ。いつも朱連、取ってもらいたいからって……え、ってちょっと何処行くの」
「はぁ。あいつらの所だ……」。
そうふらりふらりと青翔は朱連の元まで向かった。朱連がお金を両買いしている所を捕らえ、動きを封じようとするが朱連も負けじと対抗する。
「な、なにすんだよ!」
「これ以上のクマは禁止します」
「んでだよ!」
「もう部屋に置き場所ないだろ」
「リビングに置くから良いんだよ!」
「嫌だわそんなプリティなリビング!」
「いーやーだ……離せぇこの野郎ぉ!」
「だーめーだって……!」
その様子を遠目から見て、勝は近くにあった休憩椅子に座り込んだ。多分そうかからないうちに店員が止めに入るだろう。その時は自分が間に入ってやらなければならないのかと思うと気が重くなる。
「俺のハウスにまともな人間はいないのか……」
「なんか面倒くさいことになってきたから逃げてきたよ」
と、てくてく厄介ごとを回避してきた緑川。どうやら二人を止める気なんて微塵もないようだ。
「あ、そう……」
しばらくは一人にさせてほしいと、勝は頭を抱えたのであった。
「結局青翔の負けか……」
勝はゲームセンターの袋に入れられたクマのぬいぐるみを眺めて言葉を零す。
結局あの後は勝の予期した通りの展開となり、青翔と朱連が店員に叱られた。そしてその騒ぎの間に緑川が袋一杯の景品を取ってきて、現在に至る。
「一応言っとくけど、リビングには置かないでよ」
と青翔が念を押す。
「わ、分かったよ。でも部屋はもう無理だしなぁ……。あそうだ天、翼、これまた頼むわ」
「はいはーい。お安い御用だね」
天が二つ返事を返し、翼が朱連からクマが一杯の景品の袋をとても自然に受け取った。
そしてそれを青翔が、なにやら恐ろしいものを見てしまったかのような怖い目で見る。
「まさか、今までそうして……」
「そう言えば天、いま何部屋埋まってるんだ」
「下の……手前の部屋まで。廊下から奥は無理。汚い」
「わーい、何故か眩暈が……」
「おい、大丈夫かー」
「朱連が、ね」
「……どういう意味だテメェ」
「いいから次、いこーよ、朱連」
お菓子がふんだんに入った袋を両手にぶら下げて緑川が言う。それはおそらく自分用の景品だろう。その量から言って、根こそぎ景品をさらっていったのが分かる。
「って、君らまだついて来るつもり? 帰ってよ!」
「なんで俺らが帰らなくちゃいけないんだい? 悪いけど君の命令は受けたくないな」
「……邪魔する気?」
「まあそう言うことになるね」
「……もういいよ、別にさ」
そう下を向き唇と尖らせた後、青翔はすっかり静かになった。なんかまずったなーと、朱連は思った。
ヨモギ町の日は落ちていた。雲のない空に白銀の月が浮かんでいる。銀色の草木が茂り、常緑樹と小川がわき道を塞ぐ一本道を、二人並んで歩いていた。
「……寒いな」
「そうだね」
特段、会話が弾むというわけでもなく。
ヨモギ町に戻ったあと、買い物をするからと緑川達と別れ、商店街で用事を済ませてきた。そして家までの道のりを、青翔の提案で少しだけ遠回りしつつ、歩いている。
雪が被ったベンチの側を通り過ぎた時、朱連がふと足を止めた。
「青翔、ちょっと休もう」
「……えっ?」
青翔は裏返った声を上げ、頬を赤く染めながら聞き返す。朱連はすでにベンチの雪をほろい、座っていた。青翔もおずおずと、一人分の距離を置いて座る。
「急に、どうしたの」
「別に。……さっき商店街で買ったコロッケ、食べたくなっただけ。……寒いし」
ぶっきらぼうに言い、袋からがさがさとコロッケを取り出すと口の中に頬張る。その様子を、青翔は感慨深げに見つめた。
「コロッケって、あったかい?」
「まぁな」
「へぇ……そうだったんだ」
「食うか」
「ごめん。……無理」
「……そうか」
少しずつ、考え事を噛み締めるかのように、朱連はコロッケを貪る。口の中にはいっぱいの、ほかほかなジャガイモがあったのだが、なんだかそれは味気ない気がした。味を堪能するよりも先に、なぜだか今は青翔に対する異様な申し訳なさだけがある。
そしてついに、呟いた。
「――ごめん」
「な、なにが」
朱連は咄嗟に答えられなかった。自分でも何に対しての謝罪の言葉なのかハッキリしてなかったからだ。とてもバツが悪い。だがどの道、一度口に出してしまった言葉は取り戻せない。何か他の、適当な事柄をくっつけることにした。
「あの…………デート、じゃ、なくしたこと」
「あ……いや、いーんだよ別に僕、気にしてないよ。楽しかったしさ……うん」
「……や、俺が悪かったな。すまん。だから……えっと、次はちゃんと……しよっ、か」
そう朱連はベンチから立つと笑った。恥ずかしさを誤魔化すために。
青翔は自身の口元が緩むのが止められなかった。目の前にいる自分の大好きな人を抱きしめたいと、それほどの衝動を受けるほどに可愛らしいと感じたから。
「朱連、僕言いそびれたことがあったんだ」
「ん?」
「僕は朱連と出会えたから、いま、世界一幸せなんだよってこと」
本当は抱き締めてあげたかったけれど、そんなことをしてしまったらこの人は真っ赤になって怒るだろうなと思い、そんなその人をまた愛おしいと思いながら、青翔は朱連の手をそっと握り、そのまま指先に唇と落とした。
それは本当に触れただけだったから、朱連はそれが現実かどうか判断できず、身体を硬直させる。
揺れる瞳で青翔のことを見た。
自分のことを見つめて笑う青翔。その周りに散る雪が月光でまるで宝石のように輝いている。くすんだ金の髪が、今日だけは黄金に見えた。すらっと伸びている指先も、触れた柔らかい唇も、長めの睫毛に囲まれた綺麗な瞳の色も、今だけ、朱連の目には特別に映る。
なんだか王子様みたいだと、恥ずかしながらに朱連は、そう感じてしまっていた。
天井から滴り落ちた水滴が、打ちっぱなしのコンクリートの床を濡らす。終わりが見えないほどの暗がりの廊下を水が満たす。ぺちゃん、ぺたん。音が渦を巻くように反響していた。
乾いた木の板の上に残る、濡れた足の裏の跡が、階段、廊下へと続いていく。足跡の終点を辿ればそこはリビングで、黒装束の青年と白衣を着たアルビノの中年男性が対峙していた。
青年は、目の敵と言わんばかりの眼光で男性を睨んでいた。瞳の、とても深いところから、憎悪の熱さを、まるで溶岩のように昂らせながら。
「――――!」
荒げた口調で虚勢を張った青年の言葉を、男性は煙草の煙を吐く程度で流す。
煙草のくすぶりを適当にテーブルの上で捻り消し、あいた手を白衣のポケットに入れた。
濁りのない、光そのもののように白い髪の毛から、二つの虚ろな赤い瞳が覗く。
男性が黙っている間に、何度も青年からは容赦のない言葉が発せられた。男性はそれを半ば諦めたように受け止めるだけ。
男性はついに呆れるように瞼を閉じ、風が流れるかのごとくすたすたと歩くと、青年の真横で止まり、一言だけ残した。
「――もう少し母さんと仲良くしなさい。いいね」
その言葉を聞いて、青年はわなわなと肩を震わせた。
次に青年が動いたときにはすでに男性は姿を消しており、代わりに男性が残したプレゼントだけがあった。
青年は獣のように空へと吠えた。男性に振るうことのできなかった自身の拳で、使い込んだバッドを握りしめるとそれを感情的に振り下ろす。
ぐちゃりと、熟れた果実が潰れたような音がして、水が飛び散った。
男性が部屋の電気をつけると、そこにはさきほどまで男性が対峙した青年と全く同じ顔の青年が眠っていた。色とりどりの、ふわふわな物体の海の中で、埋もれるように。
男性が青年の名を囁く。
青年の睫毛がほんの僅かに動いた。
男性は自分の赤ん坊を見つめる父親のような柔らかい顔をして、持ってきたオモチャをその部屋へ移動させる。
最後に青年の頬にキスを落とすと、男性は静かにその場から立ち去っていった。
青年は眠りの中、幸福に笑っていた。




