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第二十六話『二人の温度』

 自室の片づけが一段落つき、朱連は廊下へ出た。壁越しからでも確かに聞こえていた男の奇声が、さらにはっきりと響いている。手で両耳を塞ぎ、内心またかと思いながらリビングへと向かった。

 リビングにはテレビを前にソファに座る二人の男、青翔と緑川がいた。どちらとも朱連の存在に気づくことなく、コントローラーを手にギャーギャーと罵倒を喚き散らしている。

 朱連は二人の背後に音もなく近づき、双方の首に腕を巻きつけがっちりと捕らえる。

 と同時に、二つのコントローラーが床へ落ちた。二人はなにやら自分たちがとんでもない魔物に捕らえられているような、背後の気迫を感じて硬直する。

 朱連はそのまま、二人の耳元でボソッと呟いた。

「……るせぇ」

「しゅれ、……あ、はい。すみません、でした」

「え。う、うーんと朱連、あの、ごめん」

 首の肉に触れている指先の力をグッと込め、朱連は続ける。

「次騒いだら、首でも折ろっか」

 「今度遊ぼうか」というような、適当で軽い口ぶりで言う朱連に、二人は命の危機すら感じ、血の気がサーッと引いた。まともに朱連の顔を見て話しをすることが出来ず、ただ声だけ震えている。

「そ、それだけはどうか……ご容赦お願い致します」

「痛いの嫌いなんだ、うん、俺さ。……だからもうしないので許してくださいすみませんでした」

 朱連は鼻で「ん~……」と呑気そうな音を出しながら、汗が滲んでいる二人の顔色を窺う。しばらくすると二カッと爽快に笑えば、「ならいい」と言ってようやく二人から離れた。

だが青翔と緑川は朱連の腕が巻き付いていた首周りに妙な名残を感じ、身震いを起こす。

「――んで、騒いでいた原因は?」

 突然の朱連の質問に、二人はまだ残っていた恐怖感で身体を大きくビクつかせた。そして互いに顔を見合わせ、目でなにかしらの会話をした後に、バツの悪そうな顔をして俯き黙り込む。

「――あれ」

 朱連の横から突然ニュと現れた勝が指差したのは、ポーズ中の格闘ゲームのテレビ画面だった。

「ん? ただのゲーム画面だろ……」

 すると二人は予測すらしてなかった勝の行動に焦ったのか、同じタイミングで素早く振り向く。

「ちょっ、勝! 良いよ言わなくても!」

「な、何でもないんだよ朱連。そ、そうだ、ご飯! そろそろご飯作ってよ、ね?」

 明らかに何かを隠そうとする二人の言動に、朱連はいぶかしげに目を細める。そして話の続きを勝にうながした。

「えー……っと、緑川に容赦なく負かされてムキになった青翔が再挑戦して、でもやーっぱ勝てなくてー。青翔がぐちぐち文句言い始めて、終いには互いの悪口の言い合いに発展したんだよね」

「そうか、それで奇声が……」

 その話を聞いて納得した朱連は右手で顔を覆った。そしてそう言えばこの前の喧嘩の内容もそんな理由だった気がしてならない。

「あー……ちょ、ちょい待ちな。ごめん、お前らって何歳? 俺と同い年だっけ? いやまさかね、違うよな、小学生で合ってる……」

「もーやめてよ勝! これじゃあ朱連の僕への好感度が下がるだろ!」

「いや、元からゼロだし。あー……つーか小学生って……。君のせいだ。君がぐちぐち文句言うから……」

 青翔は喚き、緑川は項垂れ、二人してソファに顔をうずめる。

 そんな二人に勝は優しく声をかけた。

「ほら、もう分かったでしょ? 二人とももっと大人の対応を身に付けてさ……」

「だって僕嫌い。このナルシスト毛玉ゲーマー」

「俺だって嫌いだよ。こんな変態ホモ男」

 ナチュラルに互いを悪く言い合う二人の状態に、朱連も勝も完全にお手上げ状態になる。特別大きなため息と脱力感。

「ダメだ。相性が悪すぎる」

「動作は一致しているから根は仲良いと思うんだけど、妙に突っかかるんだよね、この二人」

「たぶん悪い方向に慣れたんだろうな」

「水と油って言うのかね? こういうのってよほどの状況下じゃない限り絶対に良くなんないし……」

 すると急に青翔がソファにうずめていた顔を上げる。

「ちなみにどっちが水かな」

「そこを気にするな……」

 次に緑川が顔を上げ、意地悪に笑う。

「君が油じゃない? いっつも朱連にべたべたしていて気持ち悪いし」

 ゆらっと青翔が起き上がると、それにつられて緑川も上体を起こし対峙した。

「お前こそ。高慢で我が儘で自分大好きで強引な面倒くせぇ奴のくせに何を……」

「あー……はい、そこまでー」

 朱連が見てられず声を掛けたが、二人には聞こえていないようだった。二人の間の空気がますます絶対零度に近づいていく。

「だいたいねぇ、僕は朱連が好きなんだよ。好きな人といて何が悪いって言うんだい。それなのに君はすぐ横槍を入れるんだね」

「親友が好きでもない奴に言い寄られて困っているから助ける。別に普通のことだよ」

「へー。困ってる。言ったんだ、そんなこと、朱連が、君に」

「人に迷惑かけている自覚ないんだ、へーかわいそー」

 いつの間にかきつい目つきに変わった青翔が緑川に睨みを利かす。

「髪毟んぞ、毛玉」

「やってみれば。ただしその、無駄に長い前髪とはおさらばさせてやるから」

 青翔はギラギラした歯で嗤い、緑川は穏やかな微笑を浮かべ、二人は制止……そして息のつかぬ間に絶妙なタイミングで双方は互いの髪を鷲掴みしていた。

「あちゃー……ごめん」

「何も言うまい……。とりあえず止めねーとな……」

 心を決め、朱連はため息を吐くと両腕の袖を捲る。そしてそのまま取っ組み合いを始めた青翔と緑川の元へ向かいそして……。




 リビングの絨毯の上で伸びる大の男子高校生の二人の背中を見下しながら、勝は思わずポツリと呟いた。

「死んでる」

「あたりめーだろ。気ぃ失うようにしたんだから」

 朱連は両手の平を払うと、おもむろに勝の頭を掴んだ。

「ん?……あいだだだッ」

 そして勝をそのまま台所まで引きずると、適当な椅子に座らせ、自分は朝ごはんの準備を始めた。

「いって……ちょっと、無言で何するのさ」

「あーすまんすまん。話、したくてな。それとお前の頭掴みやすいし」

 身長差的問題なのはあえて口に出さないでおいたのだが、勝はそれを察したのか明らかに不機嫌な顔をしている。

「……そりゃどうも」

「いやーマジですまんな。んでさ、どんなもんだ、青翔の奴。相変わらずカップラーメンしか食ってねぇのか」

「そんなの、俺に聞かなくても分かりきっていることじゃん」

 そう言われ朱連は真新しいカラのカップ麺の容器が二つ捨てられたゴミ箱を見る。まあたしかにと思い、頭を掻いて苦笑いを浮かべた。

「ま、まあな。それでな俺、勝に頼みが……」

「――嫌だね」

 ぱしゃりと、言い終わる前に勝はそう言い切った。

 朱連は思わず手を止めて勝に向き直る。

「僕に、青翔の病気の治療の手助けを欲しいっていうお願いなら、断るよ」

 細い金の髪の隙間から覗く青みがかった目が光り、朱連の目を射抜いた。

「やっぱ青翔の病気のこと気づいて……」

「逆に俺が気づかないと思う?……まあいいや。俺は君と違って、人に献身的に何かする気なんて毛頭ない。だから頼みごとなら他を当たってくれ」

 自分の考えていたことをズバリ当てられ、拒否されて。朱連は何を言えばいいのかしばらく迷った。とりあえず何か言わなければと焦る。

「だって、さ、お前……青翔と仲良いじゃん。お前ぐらいしか頼む人が……」

「あぁそう。傍から見たらそう映るのか。俺は特別ないけど」

 朱連は勝がとてつもなく冷めた顔をしているのを見て、どきっとした。その言葉はなんだが、朱連と勝との関係をも体現しているような気がする。

 ただその空間にたまたま一緒にいて、ただ話しているだけの関係、と。

 思わず卵を握っていた手に力を込めた。

 そして朱連の感じていたことは、勝の中でも間違いではなかったりする。

 俯いた朱連は、ジッと勝を見て、心を落ち着かせると呟いた。

「お前のそういうとこが、嫌いだ」

「ふーん……へー。そーだったんだ」

 至極どうでもいいと言った物言い。さらに続けて、

「俺、別にお前から好かれたいなんて思ったことないから」

 朱連は再び台所の方へと身体を向けた。

 初めから勝には、友達同士であるといった確証を持ていたわけじゃない。

 自身の事は話さず、上辺だけの付き合いの多い勝。自分ももしやと思っていた。

 でも前に自分の身体を心配してくれていた勝を見て、上辺だけじゃないと信じていた。

 だけど今はあの時の勝すら、疑いたくなる。もしかしたら、ただ気が向いたから、あんなことを言ったのかもしれないと。

 ぐしゃりと、ボウルの縁に叩き付けた卵が割れた。

 何時もの調子で聞かされた冷たい言葉。

 朱連は菜箸でボウルの中の卵の黄身をぐしゃりと潰した。

「……朱連? どうした。手、止まってる」

「別に」

 「ふーん」と鼻を鳴らして勝はそっと朱連へ近づいた。さっきまで座っていた椅子を引きずって。朱連の真後ろまで来ると椅子に乗り上げる。

 そして卵をかき混ぜている手を制止させ、空いている方の手で朱連を自分へと引き寄せた。

「なっ……!」

 朱連の手の中から菜箸がすり抜けボウルの中へ落ちる。

 今自分の身体を引き寄せているのは青翔じゃなくて、勝? どうして、と、混乱と疑問が、何度もぐるぐる朱連の頭の中で廻る。

「ごめんね、気を悪くした? 大丈夫、僕にとって朱連は大切だよ」

「えっ、あ……」

「だから機嫌なおして。ね?」

 低くささやく勝はちょうど耳元辺りで喋っている。息遣いが髪を揺らし、耳にこしょばゆい。

「は、離せよ勝」

 朱連は腕をどかそうとしたが、前に包丁があることもあり強くは振り払えない。

 そのことを分かって勝は遠慮なく耳元で話す。

「朱連が機嫌なおしてくれるまで離さない」

「俺は、俺はもういいって……」

「許してくれる?」

「許す……許すよ。だ、だからもう離せ。暑苦しい、んだよ……」

 勝と妙な雰囲気になっているのを感じて朱連は思わず赤面しながら言った。耳元に届く吐息が早く消えて欲しかった。

 すると勝の気配が耳元から消える。そして勝は「ぷっ」と吹きだした。

「え?……勝?」

 なんで急に笑い出したんだと聞こうとしたら、急に笑い出した勝の声に全てがかき消された。

 涙が出るぐらいに勝は笑い、一通り笑い終えるとひーひー言いながら目に出た涙を拭う。

 朱連は普段見ない勝の激しい感情の露出にぽかーんとしていた。

「いやー朱連をからかうのって楽しいね。そんなに顔真っ赤にされたら。ふふふ……また苛めたくなるよねーホント」

 朱連はようやく自分がからかわれていたことに気づくとゲンコツで勝のことを思いっきり殴った。ゴヅンっととてもいい音が鳴った。

「いった! 暴力はんたーい!」

「うっせぇクソ餓鬼!!」

「そんなに面白い反応する方が悪いんだよ! つか、そんなんじゃ今日のデートやってけないね」

 突然一番思い出したくないことを指摘され、朱連はまたもや顔に熱が戻る。

「でっ……! い、いやっ別にあんな奴に俺がそんな……。な、なに馬鹿なこと言ってんだよ!」

 耳まで真っ赤にさせて言い返す朱連に勝はまた盛大に笑いだす。すると突然勝は後頭部を誰かに掴まれた。

「つーかさ、説明して欲しいんだけど。……デートって、なに」

 ドスの利いた声で唸るように言うのは気絶から戻ってきた緑川だった。緑川は勝を朱連から引っぺがすと、片腕で勝を高く抱え上げた。

「あ、やべ」

 さすがの勝でもこうなれば身動きがどれなくなる。微かに汗が滲んだ。

「勝。俺そのこと聞いてないんだけど。君ワザと黙ってたね。ちょっとおいで」

「あ、あははは……。嫌だな緑川、そんなんじゃないって。ただ忘れていただけでね……」

「うん、そうなんだ。でも困るなー勝。冗談は俺の機嫌がいい日にしてくれないと」

「……おたっしゃでー」

 朱連はもちろん止めることなく、緑川に連行されていく勝を見送った。一応心の中で合掌もしてやったし、それでいいだろうと。

 そしてまた台所の方へ向き直り、料理を再開する。


 しばらくして今度はまた別の誰かに抱き着かれた。

「だーれだ」

 それは当然のように青翔だった。

 朱連は条件反射並みのスピードで包丁を取り出す。

「早く離さねぇと、関節部分から指全部ちょん切るかもしれねぇな」

「あー……キャッチアンドリリース~」

 そう陽気に言って青翔は恐る恐る抱きしめていた腕を離した。そんな彼の顔はあっと言う間に冷や汗まみれになっている。そして朱連の舌打ちが聞こえたものなら、そのまま三メートルほど瞬時に後ずさった。

 すると朱連はくるっと青翔の方へと振り返る。

 青翔はギクッとしたが、よく見れば朱連は出来たての朝ごはんが乗せられたトレーを持っている。無意識にも胸を撫で下ろした。

「さーて、飯食お」

「あ、あの……ねぇ朱連」

「ん?」

「それ食べたらすぐ行かない? その、街に……」

「あ、あぁ……うん。分かった……」

 これからデートに行く。

 そのことを二人は思い出して、形容し難いほどに心がざわつくのを感じていた。




 朱連はあんなにゆっくり食べたはずだったのに、あっという間にこの時が来てしまった事を嘆き、目に手をあてる。

 もうコートもリュックも背負っていて、トイレももう何度も行っている。もうこれ以上の時間稼ぎは出来なかった。

 目の前にはたぎるやる気を放出させている青翔がいることが、指の隙間から窺えた。

「準備はできた? さ、早く行こう!」

「あ、あぁ……うおっ! おいそんな急ぐなよ! 引っ張んなー!」

 朱連の言葉も聞かずして、青翔は朱連の右手をガッシリ掴んでハウスから元気よく飛び出した。握り合った二つの手は熱を持ち、汗ばんでいた。目的地の駅は、もうすぐそこに。




 緑川と勝がリビングに降りてくると、もうそこには誰もいなかった。緑川はそれを見て荒々しく舌打ちをする。

「全く。新や志緒と話している隙にもう行かれた」

「だ、だねー……」

 勝は明らかに機嫌の悪い緑川に、内心冷や汗かきまくりで、当たり障りもなく答える。

 緑川は少し考えた後に、コートを二つ取り出すと片方を勝へ投げつけた。

「え、外、行くの?」

「当たり前。早く着なよ」

「別に心配しなくても朱連だし何も……」

 精一杯の作り笑顔で言う勝の顎を緑川は掴み、それ以上の言葉を止めさせた。

「コートを着ろ」

 その言葉は黙れと言ったのと同じように感じ、勝は無言で二回ほど頷く。緑川の手から解放されると、すぐさまコートを着込んだ。

 緑川は誰かとの電話を済ませると、深緑のマフラーをつけて玄関のドアを開ける。そして二人は、駅へと向かっていった。


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