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番外『生きるべし希望』

【過激・流血表現アリ】

 僕には六つ上の兄がいた。とっても優しくて、温かい、笑顔の綺麗な人。成績優秀だった僕の兄は父や母にとってはまさに宝物で、二人は手塩にかけて兄を育てた。

 そんな兄より劣っていた弟の僕は、二人の眼中に全くなかった。

 でも……僕はその状況に不満を抱いたことはない。

 僕はその倍以上に、兄から愛されていたから。

 僕は兄が大好きだった。

 僕はいつでも兄を追いかけ、慕い、愛し。兄の温もりを、与えられることのない母親の温もりと重ね合わせながら。空っぽな心を偽りで満たしてきた。


 そんな兄はたまに、僕の頭を撫でながら、自分を『最低な兄』だと言う。

 当時の僕にとっては兄が全てで、とても素晴らしい、神様のような存在だった。だからそんなことを言って自分を卑下する兄の気持ちなんて全く分からない。

 ただ、そんなことを言う兄の目は決まって、慈愛に包まれながら、それでいて苦しみに囚われていて、とても悔しそうだったのを、今でも覚えている。

 そして兄は、僕が小三の時に、僕を庇って、交通事故で死んだ。

 その日は、兄が第一希望の高校の合格が決まったほんの数日後。

 あの日あの時のことは、忘れられない。


 顔に飛び散った熱は、兄の血の熱さ。

 車とコンクリートの壁の小さな隙間から、どくどくとした血にまみれる腕を見当違いの方向に伸ばすのは、ついさっきまで僕の手を握っていた、あの力強い左腕。それはぽてりと、赤い水たまりの中へと落ちた。

 脳裏に焼きついた、兄の最期の瞬間。

 流れる情景は、一つ一つがコマ送りのように、鮮明に覚えている。

 僕は兄に突き飛ばされたおかげで大丈夫だったけれど、兄は逃げることが出来なかった。

 視界には兄と車がいて、車は兄へ向かって突進しようとしていた。

 兄は振り向き、僕を見て、満足そうに、悲しそうに笑った。


――愛しているよ、晴……


 それが兄の最期の言葉だった。

 僕の兄は、その時からいなくなった。


 母も父も、揃って僕を責め立てた。二人とも、酷く僕を憎んだ。

 そしてついに、手をあげた。

 僕がずっと持っていた、父と母に構われたかった願望は、無残な結果で叶われた。こんなものが欲しかったわけじゃなかったのに。

 毎日、生きていくことが辛かった。家では蔑まれ、外を歩けば近所から奇異の目で見られる。教師は腫物のように僕を扱うし、周りの餓鬼は残酷な好奇心で僕に近寄ってくる。兄の死で僕を弄るやつだっていた。

 何が楽しいんだよ。どうして笑うんだよ。僕が苦しんでいることを、どうして面白おかしく楽しめる。

 どうせ他人事ってか。おめでたい。人間っていうのは、素晴らしい思考回路の持ち主だ。

 僕はそんな奴らが周りにいるせいで、思い出したくない自分の傷をいじくられ続けた。

 兄への罪悪感と、人間への嫌悪感。それを常に感じて、自分が嫌になった。呼吸することすら苦痛に思った。

 一度、自分がこの世から消えてしまえばいいとまで考えた。だけどどうやって死ねばいいのか分からない。小さかった僕には死がとても巨大な渦のように思えて、怖かった。死ぬ勇気がなかった。

 だからせめて、僕は何も感じないように努めた。


――僕じゃない。


 殴られているのは僕じゃなくて、寂しいのは僕じゃなくて、愛されていないのは僕じゃなくて……。

 自分にたくさんの嘘をついて、自分の感情を抑圧して、全てを押し殺した。そうすればいくらかは、苦痛が減った。

 父や母に苛められているときは意識を飛ばせば大丈夫。

 ご飯が変に熱かったり冷たかったり不味かったりするなら、そんなことを認識する機能さえ起動させなければいい。

 塾にいる時はただ数式を解いていれば問題ない。

 クラスメイトに悪口を言われた時は何も考えずに拳を振るっちまえばいい。

 一人なんかじゃない。寂しいとき、困ったとき。僕の中にはみんながいてくれる。

 あぁそうだ、僕はその場その場にあった僕であればいいのだ。そうすれば少なくとも生きられる。兄に救われたともしびを消さずに済む。


 でもそれは本当に、退屈な人生だった。僕がはっきりと僕であれる時間はほとんどなかった。楽しいことも苦しいことも、一切ない。

 ふと気がつけば駅にいたり、また気がつけば自室でカミソリを握りながら寝ていたり。下手すれば平気に数カ月の月日が経っている。

 途切れ途切れの僕は、もう自分が夢の中にいるのか、現実にいるのか、死んでいるのか生きているのか。それすら分からなかった。


 ……だから、希望が欲しかった。

 もう一度、兄と共に過ごしたあの頃のように戻りたい。

 僕を包み込んでくれる、兄のように温かな人に巡り合いたい。

 生きる希望が、欲しい。

 それが僕の、最期の願いだった。

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