第二十二話『知らぬが罪』
「おかえり、朱連」
玄関の扉が完全に閉じられると、緑川健二は両腕で抱きかかえていた幼馴染の彼にそう声をかけた。
どうやら彼は疲れているらしく、寝息を立ててぐっすりのようだ。規則的な寝息を立てるばかりで、何の反応も見せない。
その彼の様子に愛おしさを感じながら、緑川はそのまま彼を連れ自室へと向かった。
部屋に入ると彼を起こさないよう丁寧にベッドの上へと寝かせる。顔に掛かった赤い髪までもを整えてやると、上から掛け布団をかけてやった。
そして、彼を明け渡された際に養護教諭の星野からもらった、コートや財布などの所持品の類を彼の自室に置きに行く。部屋は散らかっていて、なにをどこに置けばいいのかさっぱり分からなかったので適当に机の上に全て置いておいた。
それから色々と用事を済ませて戻ってくれば、やっぱり自室のベッドの上には彼が眠っている。
そのことを知っている筈なのに、緑川はその姿を見ると、条件反射のように、心臓を鷲掴みにされるような罪悪感を感じてしまうのである。
ベッドで熟睡する彼は、紅のマフラーを手で捕まえたまま、掛け布団を抱き枕のように抱きしめながら丸まっている。
上西朱連自身では決して認めたことのない彼の女顔が、こういったリラックス状態では顕著に現れていた。
緑川は深呼吸をしてから枕元の傍の床に座り、ベッドに両肘をつけた。
すぐそこに、ちょうどこちらを向いて眠りこける彼の顔がある。
そして緑川はそれを見つめ続けた。
目に彼を映せば胸の中ではっきり分かる、堪えがたいほどに脈打つ激しい衝動。
その気持ちとは裏腹に、緑川の顔には徐々に柔らかな笑みが浮かんできた。
しかもそれは、いつものとは違う、特殊なものだった。
一度だけ、緑川が朱連にだけ見せた、目を薄く覗かせて、口の左端をより上げて弧を描く、左右非対称で不自然な笑みだった。
「ここにいたのか、緑川」
極めて冷静に感じられる声が、緑川の後ろの方から聞こえてきた。
緑川が振り返ると、見事な金色の髪をした、小柄な制服姿の少年がいた。胸を張り仁王立ちをする少年の姿は、その低身長に似合わずして王様のような威厳がある。まさしく望月勝であった。
緑川が振り返るとそのまま勝の顔をじっと、まるで見極めるようにして見ていた。かと思えば不意に立ち上がった。
「そんな君こそ、さっきまで姿が見えなかったけど……何処へ?」
学園一のチビであると認識している勝と、すらっと縦に長い高身長な緑川の差は大きかった。勝がたとえどんなに堂々としてみたところで、この身長の差は変えられない。
低身長なことが勝の一番のコンプレックスであった。と言うよりは、見上げ、見下されの形が嫌なのである。
周りには気にしてない素振りを演じてはいた。
意識をしているのがバレれば気遣うどころか、余計そのことに面白おかしくたかっていく。それが人間だと認識しているからだ。
……本当は今じゃ、自分の頭上の方から声が聞こえる、ほんのそれだけで、それがやはり勝には屈辱的に思える。
今回もまた見下される立場となり、勝はムッと、心の中だけでなった。その気持ちを消し去ろうと、勝はすぐに話し始める。
「屋根の上。あそこは誰もいないし見晴らしがいい」
「ああそう。……で、御剣は? やっとハウスに姿が見えたと思えばすぐ消えたけど」
そう言われればそんなことを、朝食時に緑川に話したかもしれないなと、勝はぼんやり思い起こした。御剣伊織についてはあらかた調べつくしていて今さら意識する必要がなかったからな、と。
「別に。なんてことはない、引っ越しの手続きをしていただけだよ」
勝はぶっきらぼうに答えると緑川の部屋を去り、廊下をすべるように歩きだした。
勝がちょいと振り返れば、緑川は朱連がしっかり寝ていることを確認して自室のドアを閉めていた。そうしてから勝の後を追ってくる。
心配性な奴だなと勝は呆れた。
「――御剣が引っ越しの電話を?」
「そう。部屋でそんな感じのことを電話していた」
勝はズボンのポケットの中に入っている盗聴器をいじくりながら、涼しい顔でそう言った。
そしてリビングに行くための階段の方へ、廊下を歩きだす。
「いま御剣さんはハクマ町の高級住宅街に立ち入っているみたいだよ。あそこは大手貿易会社の重要職の奴らが挙って住み着く場所なんだ。あぁちなみに、その貿易会社は世界でも有数の……」
「勝、その話はまた今度にして」
「……こほん」
すぐさま緑川に止めに入られ、勝は口に出そうとしていた言葉を直前でとどめる。しまったと思いながら、わざとらしく咳払いをした。
勝は気を取り直すとリビングへと階段を下りはじめる。
「そんで御剣さんは、その貿易会社に勤めている青翔義和の家に用向きがあったらしい」
勝の言った一つの単語に、緑川は眉を潜める。
「青翔…………あぁ、どこかで聞いたかと思えば、あの邪魔な転校生か。そいつが引っ越してくるってことか」
「確定じゃないが、そうなるだろうな」
勝は端的にそう答えた。自分にはあまり関わりのないことだったのでなおさら。
勝の思った通り、緑川の方は事情を察すればたちまちに面白くなさそうになった。
やっぱり単純な男だと思った。
リビングにつくと勝はすぐさまソファの中央を占領して偉そうに足を組む。
その勝の正面に立った緑川は深刻そうに顔を俯かせていた。
緑川は一人で百面相をしていたが、遂に一人では我慢できなかったのか口を開いた。
「でも……だからってなぜ急にそんなことを?」
勝は質問の内容を予測していたか、余裕に即答した。
「やつには朱連が必要。朱連にもやつが必要。御剣さんは朱連の為ならなんだってする。つまりはそういうこと」
緑川は勝の回答を聞いて、子供のように表情をまた曇らせる。
勝がその様子を黙って観察していると、緑川はついに自然と爪を噛み始めた。
そしてブツブツと独り言のように言う。
「それは……うん、少し……いやかなり、面倒なことなった……」
「面白いの間違いだろ?」
勝はニヤッと笑ってみせる。
「それは君みたいな傍観者か悪趣味なあいつらだけだ……」
それだけ言うと、緑川は独り言さえ言わないがまた黙り込んでしまった。
勝はそんな緑川の態度にやれやれといった様子で頭を掻いた。こんな様子じゃなにも始まらないと思ったのだろう、話題を変えた。
「っていうか緑川、そろそろ行かなくていいのか? 茶木志緒と学園近くの公園で午前七時四十五分頃に待ち合わせをしているじゃないか」
勝の言葉に緑川は一瞬不意を突かれたように目を丸くし、すぐに意味を理解すると苦笑いをしながら言った。
「……用もないのに俺の部屋まで盗聴しないでくれる?」
「用があったから盗聴していたんだよ、馬鹿だね」
「……君ほど俺の成績は悪くないはずだけど?」
「ちょっと。学年二位と学年一位の差は僅かじゃないか」
「あーそうだね。でも残念。君は俺に勝ったことないものね、永遠の二番手さん」
「君の性能が化け物なのが悪いんだよ」
「そりゃどうも」
ついむきになって話してみた二人の会話がそこで途切れた。
そうすれば緑川の表情が少しずつ険しくなっていく。またなにやら考え込んでしまった様子だ。
だが次にこの沈黙を破ったのは緑川本人だった。
「まあ……いいよ。志緒と会ってくるから、俺はもう行くね」
「ふーん……。城ノ内ともたまには会いなよ。健二は冷たくて寂しいって言ってたし」
「それは俺からじゃなくても向こうが勝手に来るからそれからで…………行ったそばからきたし」
タイミング良く緑川のポケットに入れていた携帯電話が揺れだす。電話をかけてきたのは城ノ内新だった。
緑川は通話ボタンを押すのに一瞬の躊躇いを見せてから、新との電話に応じた。
「――んで? なんて?」
緑川と城ノ内の電話が終わるとすぐに勝はそう問いかけた。
緑川は目をつぶりながら髪を掻くと、
「ちょっとどいて」
そうぶっきらぼうに言う。
勝が素直にソファの端へどいてやると、緑川は出来たペースどかっと大きく座った。
「新がさ、志緒を借りてるからごめんね、だってさ。まったく……自分勝手な奴だよ。こっちの都合も分かっちゃいない」
「それは随分前からよく知っているけどさ、俺が思うに、緑川も自分勝手さじゃ負けてないと思うよ」
緑川は視線を横にいる勝の方へじろりと向けた。そして再び視線を自分の足元に戻すと目を閉じる。すると息を深く吐き出しながら、緑川はソファの背もたれに上半身を投げだした。天井をぼんやりと見つめながら緑川は言う。
「……ま、中学の時は君にばかり面倒をかけっぱなしだったからね。俺も城ノ内も、十六夜も……」
片腕で両目を覆いつつ、緑川は口の左端だけ上げて可笑しそうに笑う。そして緑川は自分への言葉のように小さく「そう、色々と、ね」と呟いた。
ハウスの中では緑川の、声を堪えながらも鼻で小さく笑い続ける音だけが響いている。
勝はそんな緑川へ、人間を見るそれではなく、まるで小汚く餌を貪る家畜を見ているかのような、愛情の欠片もない冷やかな視線を送っていた。
「やっぱり、あの頃は自由気ままで楽しかったけど……今のほうがもっとずっと楽しいね。ねえ、君もきっと楽しいだろ、勝?」
その緑川の問いに、勝は極上の笑みで答える。その笑顔はとても純粋だった。
「そうだね、俺も楽しいよ」
室内を、妙に調子の良い、携帯越しに会話するおちゃらけた白髪の青年の声と、一定時間経過後に繰り返されるマウスのクリック音だけが支配している。
この、窓も大きく広い室内で、唯一光を発しているのは、液晶画面の強い明かりだけだった。
窓から差し込むはずの日光が、無造作に生え延びた木葉のカーテンに遮られているがために、この部屋へと届いていないのである。
それに加えてこの建物全体が、すでに電気の解約をしているので照明も使えない。
それ故この部屋は朝だというのに薄暗い。
そしてほんの数分の会話の末、白髪の青年、城ノ内新は携帯の通話状態を解除した。すると自然と自身の口から肺に溜め込んでいた息が一気に出てくる。
新はついさっきまで緑川と電話をしていた。苦手な相手との会話はこうも疲れるものなのかと、新は身をもって痛感する。
新は背後にある、黒皮の張った厳かなソファに倒れるように座りこんだ。ソファの皮は荒々しく切り裂かれており、白い綿がそこから溢れている。
新は両肘をソファの背もたれに乗っけると、頭をそのまま後ろへ反らせ、天井を仰いだ。そして大きな飴玉を舌で転がしながら視線をあっちゃこっちゃ遊ばせる。
「なあいっちゃん」
ソファの後ろの壁際には、膝の上にパソコンを置いて操作している十六夜一樹が座っていた。
十六夜の三白眼の目が、新の方をじいっと見つめ、
「いっちゃんはやめろ」
それだけを言い、またパソコンの画面へと戻される。
「んー……じゃあ一樹。茶木志緒ってあの後どうした? おまえまた相手が女だからって余計なこと言ったんじゃないだろうな」
「なにもない。俺は……女なんてもんには興味がないからな」
十六夜の発言に勝は振り返る。目を細め、疑うような視線で彼を見つめた。
対して十六夜の方は、目は液晶、片手はマウスをクリックすることに集中しているので気づけない。
新は仕方なく話題を変えることにした。
「……じゃあさ、いっちゃん。あんのクソ生意気なパーカー野郎の行方は……」
「オレならココだよ、白髪ジジイ」
部屋のドアを開け放つ音がして新たちが振り返れば、そこには小学校高学年程度の小柄な影がいた。
影は黒いパーカーのフードで口から上を隠している。覗く真っ赤な口だけを半月のようにニヤッとチラつかせていた。志波直人である。
「やあ、相変わらず悪趣味で気持ち悪い白髪だね」
その言葉に新は音を立てながら立ち上がった。
新は内臓のあたりから身体がカッと熱くなるのを感じた。興奮を理性で抑えこもうとして拳に力をこめるがあまりに腕がわななく。
感情的になってはいけないと理解すればなおさら自分の腹の中が収まらなくなる。
口の中で転がしていた飴玉が奥歯で押しつぶされ、欠片がはじけ飛んだ。
「おい、お前。次下手なこと言ったら、殺すぞ」
志波はフードで顔を隠していても分かるぐらいに顔を驚かせ、ぽつり呟いた。
「…………なんで、そんなマジなん?」
「――騒々しいな」
貴重にも荒く感情的になった新を見ていられなくなったのか、十六夜は珍しく会話に口を挟んでくる。
十六夜の目線は深く志波の見えない両目を貫いた。
「ここには用があった時以外近寄るなと言っておいたはずだ。俺たちは貴様なんぞと仲良くお喋りをする気はない」
十六夜の言葉に、志波は絶えず動かす身体を制止させ、ポケットに両手を突っ込んだまま黙り込む。そして数十秒後に「そう」とだけ言った。
十六夜が新に変わって「用件は?」と志波に続きを催促すると、志波は道化のような態度を改め、事務的に話し始める。
「引き受けた事柄の十件中八件を確実に果たした。それに見合う見返りを要求させてもらう」
「……果たせてないことはなんだ」
「俺のいた不良グループをほぼ壊滅状態にしたのは俺ではなくゴウだ。それとボスの方は俺じゃなくても他の奴が勝手に始末するようだから泳がせておいた」
「お前はその『他の奴』が誰だか分かるか」
「……一つだけ彼に特徴があるとすれば、黒いコート」
志波の言葉に十六夜は眼鏡をくいと上げて沈黙した。そして視線を新の方へと流す。
新は深刻そうに顔をしかめて、白髪の髪を何度も梳いていた。
そして二、三分の静寂の後、口を開いたのは新だった。
「…………もういいよ、帰りな。君も学校で忙しいだろうしね」
「そ。じゃアね」
最後には志波は口元にピエロのような笑みを浮かばせると元来た道へと帰って行った。
完全に志波の歩く音が聞こえなくなるまで、二人はただただ黙っていた。
そしてしばらくして、十六夜は深く息を吐く。
「俺に、あまり滅多なことをさせるべきじゃない」
「……ごめん。でも、あれはアイツが悪い」
「お前が気にし過ぎているだけだ。ただの冗談だと思えばいい」
「そう思えたら苦労しないね、たしかに」
新は困ったようにして笑うと、前髪を大きく掻き上げた。はらりと白髪の髪が流れるように落ちる。
新は話題を変えるため、先刻志波が発したことを十六夜に聞いてみることにした。
「でも大丈夫さ、もう忘れることにしたし。それよりいっちゃん、君さ、ゴウって誰だか知ってる?」
「聞いたことがある、風の噂の様な感じで、断片的だがな」
「へーどんなん?」
「……昔、この地域一帯の不良の半数以上を従わせていた不良の大ボスがそう名乗っていたらしい」
「昔ってことはー、今は違うってことかな?」
新の問いに十六夜は頷きだけで返す。
「……奴は、今まで好き勝手やっていた影響か、他の勢力によって集団リンチ、完璧に潰された。今の不良グループが昔に比べて少人数で散り散りなのは、まとめていたそいつがもういないかららしい」
「へー……もういないんだー王様」
新は歌うように呟くと、軽快にステップを踏むようにしながら一枚の窓に近づいた。新はゴミや手垢や乾いた血がつく、汚れた窓ガラスに手を合わせる。
「そりゃまた、いいこと聞いちゃった」
「何か、また思いついたのか?」
十六夜は少しだけ声を弾ませて聞くが、新は無視して自分の話をする。
「俺さ、実は知ってんだよねー……誰によって、王が滅ぼされちゃったか。その原因、元、発端……」
外には雪が降り始め、風を巻き起こし、音を立てる。吹雪は窓ガラスの向こうを真っ白に染め上げていった。
「朱連ちゃんって……かわいそうなんだよね。だって、自分の守りたいもの全部、自分の手で不幸にさせちゃうんだもの」
窓に残る血痕をなぞり、新は心の底から幸せそうにせせら笑う。
「ほーんと、かわいそー」
真っ黒な室内の中に、二つの黒い影が蠢く。
一つは立っていた。
もう一つはピクリとも動かず転がっていた。
金属音が地面へと転がり、空間は時の流れをせき止められたかのように制止する。
すると、水の溜まった場所を何者かが踏みつけた。水が盛大に散る。
何者かは、白い男だった。
裾の長い白衣、病気のように青白い肌、毛の根元から先まで真っ白な髪、循環する血液によって染め上げられた真っ赤な目。
それらは白い男と呼ぶに相応しい姿である。
黒い空間とは対照的な白い男は、直立不動の黒い影の方へと近づいた。
そして真水のように澄んで清らかな、幻想的とさえ思える優しげな声で白い男は言った。
「――来なさい、翼。お家に帰ろう」
黒い影は着込んでいた黒いコートを翻し、白い男の方へと振り返った。
そして愛情を込めてこう言う。
「はい――パパ」
黒い影、もとい黒いコートの男、もとい朝比奈翼は、白い男と共にこの黒い空間から立ち去った。
そして翌日、ある不良グループを仕切っていたボス格の男が重体で発見され、緊急に大病院へと運ばれたという。




