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第二十一話『不信』

 結局あの後、ひとり部屋に取り残された俺には眠る他なかった。

 そして俺が次に目を覚ました時には、すっかり窓から日差しが差し込む朝になっていた。

 瞼の裏で光る赤が目に痛い。

 そのあまりの眩しさに顔をしかめながら俺は起き上がった。特別それに苦労をかけることなく。

 どうやらこの前からの体中の痛みは寝ている間に和らいだようだ。

 それでも体には少々ダルさが残っているのだが、まあいいだろう。

 俺はベッドから降り、久しぶりに立ち上がった。大きく背伸びを一つしてみれば背骨の関節部から音が鳴る。ふと視線を動かすと、俺の目に小机の上に置いてある一冊の本が触れた。

 それはいかにも、高級、と言った雰囲気。この本一冊で相当な値を張りそうな気がした。

 古びた表紙に刻まれた金色のタイトルは日本語じゃなく、英語に似た言語のようだ。

 そんでもってこの本、すごく分厚い。本の角で人を殺せるぐらいに重そうだ。

 これおそらく、以前に星野先生がここで読んでいた本だな。あの後そのまま置いていったのだろう。

「あら、やっと起きたのね」

 本の内容がちょっと気になってそれに手を伸ばすと、そこにタイミングよく星野先生が現れた。片手には紅茶セットを持っている。

 俺は伸ばしている手をすぐさま引っ込ませて隠した。慌てて先生の方へと向き直る。

「あ、あぁ、はい。先生」

「もう立っても大丈夫なようね。さすが、丸一日熟睡していただけあるわ」

 そう言って先生は目を細め、控えめにくすくすと笑った。

 俺はそれがなんかでか恥ずかしくて、頬を掻いた。

「えーっと……丸一日、ですか? 俺、そんなに寝てましたっけ?」

「えぇ。甘露時さんと別れた後、ほんとうに死んじゃったみたいに。……まあいいんじゃない。寝る子は育つって言うから」

 先生はまだ顔を若干ほころばせながら、俺にアツアツの紅茶が入ったティーカップをどうぞと差し出す。

 磨き抜かれて真珠のように滑らかに光るティーカップを、俺は恐る恐る受け取った。

 これもし割ったら先生に殺されるかもなと考えながら、存分に息を吹きかけ冷ますと、それからそっと一口をいただいた。

(……あ、美味しい)

 俺はコーヒーより紅茶派ってぐらいで、紅茶のことについての知識はまだ乏しい。

 そんな俺でも分かる。この紅茶は香りや味からしてみて、市販のものとは格段に違う。

 高級な紅茶ってやつはこんな味がするんだな。あとはこれに合うケーキがあれば完璧…………。

「紅茶、美味しい?」

「……あ、あぁはい。マジでうまいっすよ、これ」

 思考が完全に明後日の方へ行っていたのを引き戻し、俺は少し食ってかかった感じで言った。

 美味しいっていうのはお世辞とか社交辞令とかじゃない。本気で美味い。今まで飲んだことないぐらいにだ。毎日飲んでも構わない。

 こんな茶、紅茶大好きイギリス人でも滅多に手を出せないってぐらいに高そうで、淹れ方もすごく上手だ。

 こういうのを俺みたいなのに出せるってことは、すげぇ金持ちの家にいま俺はいるんだろうな。そしてそいつは毎日こんな美味い茶を優雅に飲めるんだろう。

 嗚呼羨ましい、それはどんな奴だろう。……聞いてみようか。

「いやー……にしても先生。ここ、何処なんすか?」

 俺ができるだけ自然さを装うと、先生はしれっとした顔でこう即答してきた。

「ここ? 私の家」

「へー……ん? 先生の、ご自宅……?」

「えぇ」

 待てよ、と俺は部屋の中を見まわす。

 朝となり、部屋の中が明るくなって、初めて俺ははっきりとこの部屋の内装を意識した。

 広がる真っ赤でふかふかな絨毯。

 のびるシンプルな真紅の壁。

 そこに横に長めの大きな窓三つ。

 天窓付きでキングサイズの白いベッド。

 その横にある小机の上に、宝石が散りばめられた金の燭台しょくだいが置かれている。

 そしてそれのさらに横に、ひじ掛けの場所に獅子の彫刻がされた厳かな木製の椅子が陣取っている。

 たったいま午前七時を指し示して、存在感のある年代物の柱時計の音が鳴り響いた。

 この部屋のどれをとってもそれらには持ち主によって使い込まれた、独特の高級感が漂っている。

 一般的なサラリーマンが一部屋あたりに設ける金額は遥かに越えているだろうけど……。

「養護教員って所得いくら。……ですか?」

「ん?」

 もちろん、たかが養護教諭ではこのレベルの生活、というのは不可能な話だと思う。

 ……何かを裏でしているとかじゃない限り。

(そんなまさか……ね)

 俺の質問に普通の養護教諭である星野先生はきょとんとしてしばらく瞬きを繰り返す。

 先生は質問の意をしばらくして理解したのか、ハッとすると顔の前で手を横に振った。

「あ、あぁ。違う違う。私の夫ね、医院長なのよ、大病院の」

「……はぁ?」

「あ、その目、信じてない」

 そう言ってムッとした表情をすると俺の顔に向かって指を指す。

 ぶっちゃけそれはおちゃらけてやっているようにしか見えない。

 嘘が下手なのか。もしかして本気で言っているんじゃないだろうな。俺は内心で深くため息をついた。

「いや先生……信じろって言うほうがムリっすから。だってそんな……医院長ですよ? しかも大病院。んな金持ちと結婚してんならわざわざ働く必要なくないですか? 保健の先生って……」

「あぁ養護教員これ? 私の趣味よ」

 どんな趣味だ。

 本日二回目の特大なため息が発生した。理由を言えないのなら最初からそう言ってくれた方がいいのにと思いながら。

「……いいですよ先生。もうなーんも聞きません」

「私なんてつかないわよ。だからその呆れた顔を止めなさい。まあ、まだもう一つ理由があるんだけど……」

 俺は心の中でどうせこれも下手な嘘だろと思いながら、無言で先生の方へどうぞと手で合図を送った。

 先生は年甲斐もなく少し恥ずかしそうに頬を指で掻きながら話しだす。

「だって――私達長い付き合いじゃない。私にとってみればあなたは…………」

 そこで先生の言葉がいったん途切れ、一瞬俺の方を向きハッとした。そしてすぐさま言い直す。

「じゃなくて、今更あなたを放っておくことが私には出来ないのよ。特にあなたにはちょっと過保護すぎるお兄さんがいるから」

「ま、まあ……いますけど」

 一瞬先生が何かを言いかけたことも気になったけど、先生が甘露寺あんなのとのことをまだ気にしていたなんて知らなかった。それだったら、もっとなんとかしてほしいって言うか……。

 つか星野先生って、たしかに小学校のころ学校で保健室の先生をしていたけどさ。

 俺、先生とだけはある程度喋れていたけどさ。

 たかがそれだけだぞ?

 いくら俺が問題児で心配でも、さすがにここまで追いかけて俺の面倒見たりするもんじゃないだろ。

 ……なんか妙な話だ、腑に落ちない。

「そういうもん……すかねぇ」

「そーいうものなの。分かった?」

「……はーい」

 まあ、そういうこと、にしておこう。

 今のところは。

 どうせもうこれ以上は聞き出せないだろうし……。

 話が一段落し、飲み終わった紅茶のカップを先生に回収してもらった。

 先生は紅茶セットを適当な机の上に置く。そしてあの獅子の彫刻がされた椅子に深く座りこんだ。

 ライターから火を出す音がして、微かに煙草のにおいが鼻まで届いてくる。

 においの先の、先生の方を俺は向いた。

 すると先生の顔つきが、さっきとは打って変わって真剣なものになっていた。まとう雰囲気は『あの日の夜』と同じである。

「さて……朱連君、そろそろ本題に入るわ。知っての通り、青翔晴君の事よ」

 星野先生はあれでけっこう忙しい人だ。

 特別な理由もなしに、滅多に保健室から出ていることはないと聞いている。

 そんな先生が、俺に用もなしに来るわけないのだ。

 青翔が昨日俺に会いに来たこと。

 話すならその話だろうと思い、俺は心を落ち着かせてから、先生に改めて向き直ると慎重に口を開いた。

「はい。なんでしょうか」

「彼……昨夜来たでしょ、あなたのところに。その時、あなたになにか言ってなかった?」

「えっと……何か、ですか」

(それって例えば、俺のとこと大切だとか、好きとか、あとキスしたいだとか、えっと……)

 とにかくそんな変なことばかりが頭に浮かんでしまって、どうにも顔が熱くなる。

 それを悟らせないように俺は先生から少し顔をそらした。

「例えば、彼の家庭の事とか……」

「――え!?……え、あ。な、なんでもないです、すみません大きな声出して」

 言っていた。

 それは言っていたし深刻で、大切なことだったんだけど……。

 さすがにあの告白がインパクトがデカ過ぎててパッと出てこなかった……。

 そうだよな、まさか、男同士の恋愛事情なんて、先生が知るはずもない。

 そんなことしか思い出せなかった自分が恥ずかしくて、違う意味で顔が熱くなった。

 ……青翔の家庭の事か。先生に話してもいいのかな。

 ああいうこと、誰にでも知られても大丈夫な話でもないし。

 でも、あの星野先生なら……。

「あ、あの先生」

「なにかしら?」

「先生は、俺の時みたくその……力になってくれますか。青翔の力に……」

「……あなたはどう思う? 私のこと、信用に値するかどうか」

「そりゃあ――」

 もちろんです。

 そう言おうと思って先生の方に視線を向けたとき、ふと先生の目が気になりだした。

 いつもの先生、いつもの目。

 変わることがないと思っていたのに、俺はそれに違和感を抱いてしまった。

 それが何なのかは分からなかったけれど、そのとき俺は無意識に、俺の嫌いな類の大人のことを脳裏に浮かばせていた。

 そして不意打ちで感じてしまったこの違和感を、すぐには払拭ふっしょくできなかった。

 続けて出かけた言葉を思わず飲みこんでしまい、返答に間が生まれてしまう。

「……あ、俺……」

「…………そう。いいの気にしないで。別の話をしましょう」

 先生が俺から顔を逸らすと、表情には髪の毛がかかった。先生が何を思っていたのかは分からない。先生はそのまま口元だけを動かした。

「彼、あなたに非常に執着しているけれど、あなたはその事についてどう思っているのかしら」

 執着、って言い方もあながち間違いではない。青翔の重たい好意がそこまで行き着いたのだろう。好きな奴に会うために他人に懇願するほどのものだからな。

 青翔が俺のことを好きってことは……わざわざ掘り下げなくてもいいか。

 先生との間では、青翔が俺に依存しかけている、程度の話にしておこう。

「俺は別に、あいつは友達だし――」

「言い方を間違えたわ。彼の、あなただけへの好意を、あなたはどう考えている?」

 俺だけ、への好意……。

 その言葉を聞いて、俺はまさにギクッとした。

 まるで穏便へと逃げる俺の退路を断つように、先生は俺の言葉を遮った。

 先生はこの質問の答えを俺からしっかりと聞き出すつもりらしい。それぐらいの意志の強さがさっきの言葉にはあった。

 どうしてもその話をしたくなくて、俺は再び誤魔化しの作業に入る。

「なに言ってんですか先生。そんな言い方、まるで……」

「青翔晴が上西朱連に恋愛感情を抱いていることを誤魔化そうったって無駄よ」

 先生の明確な質問が俺の耳に深く突き刺さる。

 何時にも増して先生は攻撃的だ、もう逃げられない。

 そう理解すると、質問に答えなければならないという緊迫感で握り拳に汗が滲む。

 困惑のせいで言葉が見つからず、口の動きだけで、言葉は消えていた。

「それは…………分かりません」

 気がつけば自分は、とてもありきたりな回答で逃げていた。自分の中ではそれが仕方がないことだと言い聞かせながら。

「何がどう分からないの。同性だから?」

「そういうんじゃ、なくて……」

 同性を好きになることは悪いことじゃないと思ってはいた。好きにも色々あるにだから仕方がないのだと。

 でも、それがいざ自分ごとになると、やはり変な気がしてしまう。

 俺は同性愛者ではない。

 男から好きだと言われて、それを女に言われたのと同じように捕らえることはどうしても出来なかった。

 こいつは『男』なのに、同じ『男』の俺を好きになってしまう奴だと。

 ……こういうところがやはり自分のいけないところ、だろうか。

 でもどうであれ、俺は青翔のこと、恋愛感情としては好きじゃないと思う。

 一緒にいて楽しいが、安心するが、そんな目で見たことなんてない。

「自分があいつのことをそういう目では見られないことは確かなんです。ただ……」

「ただ?」

 もし、告白されたのが好きじゃない女相手なら、俺はちゃんと断れるだろう。

 でも友達の、ましてや青翔相手になると、簡単には決断を告げられない。まだ、俺はあいつを突き放せない。

「今のあいつには俺が必要なんですよ、多分。そう思ったら、言えないんです」

「でも、彼の誠心誠意の気持ちには、いつかは答えなくちゃならないでしょ?」

「誠心誠意……ね」

 俺の中に、ふとこんな考えが浮かんで拡張した。

 あいつは、俺とあいつが似ていて、それを運命だって思って好きになったと言っていた。

 それってつまり、俺じゃなくても好きになれたというわけだ。

 俺はただの仮で、それは本当の気持ちじゃなくて……。

 ――あぁ、どうせ俺は、本当には愛されてないんだ……。

 と、腹の中でその真っ黒いものが溜まり込んでいった。

「どうかしたの?」

 俺の考えはあっという間に一つでまとまった。

「あいつを支えてくれたのが俺だけだから……あいつは、俺のことを好きだと、錯覚した」

 俺が優しいだとか強いって言うのは、その思い込みを正当化させるための文句みたいなもんだ。

「きっとあれは、思い込みでしかない」

 青翔にとって、自分のことを支えてくれる存在は、非常に尊いのだろう。

 今までいっぱい色んな問題を誰にも言えずに生きたのだろう。

 そんな青翔の前に、ソイツがたまたまいた。

 ソイツが、青翔にたまたま優しくしてやった。

 そしてソイツが、たまたま青翔と似ていて、好きになった。

 これは全てたまたまだから、『ソイツ=俺』でなくても式は成り立つのだ。そうだ、それで正しい。

「あいつには、俺じゃなくてもよかった」

 青翔にはいま、俺の代わりがいないだけで、いたらそちらにでも行ける。

「誰かが自分を支えてくれているなら、俺じゃなくても好きになれたんだ。だから俺は……」

 だから俺は、その時に断るのだ。

 あいつの中のソイツが俺から他に成り代わる時に。

 それまで俺は何も言わず、俺が青翔を支えてやろう。

 恐らくそれは、自分に似ている青翔を救うという、自己救済の為のちっぽけな同情心で、今までの優しさも、本当は偽りなのだ。

 偽りだから……俺はこれから先も、

「信じない」




 煙草は先生の攻撃姿勢だった。

 先生はふかしていた煙草を指の間で掴み、含んだ煙を口から広げる。やはり表情は俺から隠しながら。

 俺の方は、煙草の嫌いなにおいに顔をしかめていた。

「それが――あんたの考えかい」

 そう煙が混じった言葉を呟いて、先生は吸い終わった煙草を灰皿の上に押し付けた。

「えぇ。そうですけど」

「あんたは本当に……いつでも自分が可愛いんだねぇ」

 また、煙草を箱から取り出す。そして慣れた手つきで火をつけ、鼻から息を吸った。

「……いったい、何をおっしゃりたいのか分かりません」

「そうさねぇ……」

 煙草の煙がまた吹き出された。

「見失ってんだよ、大事な事を。本当の事は、あんたが一番理解しているはずじゃないのかい?」

「……もっとはっきりとおっしゃってください」

「だーから……あいつがあんたを本当のとこどう思っているのか、分かってんだろ?」

 そう言って先生は火がついた煙草の先だけちょいと俺に突きつけてきた。

 部屋中が煙草臭い。

「信じていないと……俺の言っていることが分からない、ってわけじゃありませんよね?」

「あぁそうかい……。じゃあもうこの話は終わりだ」

 そう言って先生は立ち上がりついでに煙草の火のくすぶりを消すと、今度こそ煙草をやめてくれた。裾の長い白衣の白だけを先生は俺に見せる。

「じゃあ私はあんたを出勤ついでにハウスまで送ってやることになっているから、ついてきな」

「……青翔は、どうなりました」

「おや、信じていない相手のご心配もなさるのかな?」

 微かにこちらへ向ける先生の表情は俺をあざけるように笑っている。

 俺はそれにムカッときた。

「いい加減になさってください」

「……分かったよ。もう落ち着くわ。でも、これだけは忘れないことだね」

 先生はやっとのことで俺の方へ自身の表情を見せる。

 かかった前髪と赤い縁から覗く瞳は、まるで俺に口うるさく言う、嫌いな大人だった。

「あんたがなんと誤魔化そうたってこの世は変わらない。何時かはこんな甘い世界で生きてはいけなくなるわ。

 嫌なことなんて当たり前になる。幸せが感じられなくなることもある。だけど逃げたらおしまいなのよ。あんたは変わらなくちゃ。

 あんたはまだ子どもよ。傷ついてもまた立つ上がる力があるんだよ。

 少なくとも、今は青翔から逃げるのをやめることよ。彼は自分の気持ちから逃げなかったんだから。

 あんたが逃げて、幸せになれない人がいることを、もうそれを……分かってやりな」

 ……やかましい。

「んなこと……。あんたなんかに…………何がわかんだよ」

 嗚呼、これだから大人は嫌なんだ。

 いつも、偉そうに。

 俺の本当なんて、なにも知らないくせに。

「分からないわよ。何もね」

 そう返して先生は煙草から手を離し、「行きましょう」と煙草の臭いが消えない白衣をひるがえして部屋から出て行った。

 俺もその後を間を空けてついて行く。

 外に出て見てみれば、先生の家は嫌になるぐらい大きかった。庭も、噴水も、外壁も柵も、ぶっ壊したくなるぐらいに豪華で、見るのが嫌だった。

 先生の勤務用の中古車に乗り込んだら、そこからハウスへの行き先は長かった。車の中で寝てしまった俺は何も覚えていない。

 緑川と星野先生の話し声が聞こえたぐらいで。

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