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第二十話『いらない子』

【虐待・傷の表現アリ】

 暗い。

 俺が何時から眠り、起きて、いま何時なのか、その辺についてはよく分からない。とりあえず自分は寝ていたらしい。

 蝋燭の微かな明かりがある分、左手首にはめ込まれた時計の針の在り処ぐらいは確認できそうなんでそれを覗き込んでみた。

「えーっとぉ…………三時……?」

 あれ、可笑しいな、もっと寝ていたと思ったんだけど……。この様子じゃせいぜい一時間も寝てないらしい。俺の中ではもう永遠ってぐらいぐっすりに寝ていた気がするんだけど。

 あ……それとなんか、身体が重いと言うか、違和感があると言うか……変な感じがした。

 試しに、ごろん、と寝返りをうってみる。

「んっ……い、たぁっ……!」

 そうしたら関節部の筋肉が痛んで、身体のそこかしこが軋んだ。

 とてもじゃないが、これではベッドから降りようとする気は起きないだろう。

 原因は身体の限界を無視して何度も無理に動かし続けた、昨日一連の行動だろうか。

 風邪をひきながらも一日中外で動き回れたりしたのは、いつものアレだったと考えていいだろう。

 俺は周りからたまにタフな奴だと言われることがある。

 体育の授業で何キロも走り終えた後でもすこぶる元気が余っていたり、何人も相手取った喧嘩をして、一向に体力が尽きることが無かったり。

 大概がそういう理由で。

 でも人間ってもんはそこまで都合がよくない。俺だって当然疲れて動けなくなることもある。

 それは継続して疲れを体に蓄積してみて、それが何時とも分からずに突然反発して全部まとめて返ってくるといった感じだ。

 まあだから、それが起きるまでの期間は疲労をほぼ感じないのだが……そいつが俺をタフと見せかける仕掛けだ。

 疲れの反発が起きる日の俺はまず、ほとんど一歩も歩けなくなる。動くなら、たまにトイレに行く時ぐらいだろうか。とにかく学校は休む。

 ちなみに、たいてい寝てれば反発も落ち着くからほんの一日辛抱すれば治る。

 とりあえず俺はこんな調子なんで、もう一眠り高じてみるしかなさそうだ。

 そう思い瞼を閉じてジッとした。そうすればいつかは寝てしまえるだろうと思って。


 まあ……そう思っていてもなかなか簡単に寝付けるものではない。

 この無音の空間に、ふと足音が現れると、あっと言う間に俺の意識がそちらへ持っていかれてしまう。

 星野先生か。はたまた甘露寺か。もしかしたら翼が甘露寺に呼び出されて廊下を歩いているのかもしれない。

 寝ること以外、俺には何もすることがなくて、なんとなくその足音を意識して追ってみる。

 それはちょうど俺がいる部屋の、扉があると思わしき場所で止まった。

 すると突然この部屋に、ガチャガチャ、という音が現れる。

 誰かが部屋のドアノブを捻っているようだが、鍵が掛かっているらしく、中には入って来られないみたいだ。

 それでそいつが諦めたかと思えば、なにやら再び金属同士がぶつかり合う、軽めの音が微かにし始めた。音に迷いの様子は無かった。

 この音、もしかしてとは思うが、まさかピッキングなんてことをしてるんじゃないだろうか。何だかそんな気がしてきた。

 そんな嫌な予感がして、俺はどうにかして身を隠そうとベッドの端へ身をよじってみる。それが本当に少しずつならば、耐えられる程度の痛みで済んだ。

 その間にもピッキングの音はやまない。

 もし本当にピッキングをされているとして、そんなの絶対にロクな奴じゃない。物盗りか俺が目的かはさておきだ。とりあえずは身を潜めなくては……。

(え、あ、ちょっ……!)

 焦りが身体に伝達したのだろうか。

 床に片脚をつけることに成功するとなぜか重心が下へ傾き、グラッと視界が揺れ、体が転がって、俺はベッドから叩き落されてしまった。

 その事実に気づいたのは背中いっぱいに痛みが広がってからである。

「~~っ!」

 声に出せない悲鳴でもだえながら、俺はベッド横の床の上で背中を反らせながら伸びあがった。そうすると関節部が更なる痛みを発信するもんだから、負の悪循環というものに迷い込み、罠にはまった虫のようにそこで暴れ倒す。

 そうこうしている内に、あのピッキングの音は鳴り止み、その代わりにドアノブがゆっくりと回される音がした。

「――!」

 全身が総毛立ち、思わず声を出しそうになって、俺は慌てて自分の口元を抑え息を殺した。

 靴音がして、何者かが近づいてくる。

 不明確な死への不安は痛みに勝ったらしくて、その時にはもう身体中の痛みを一時的に忘れていた。

 だからって下手に動くこともできず、俺はベッドの陰でひっそり身を屈めることしか出来なかった。こんな所にいたってすぐ見つかってしまうだろうけど。

(やべぇ、どうしよ……)

 相手が何を持っているかも分からないで戦うのは無謀もいいところだし、走って逃げ出したところで造りを知らないこの建物内じゃ簡単に捕まってしまうだろう。

 正直、頭の中では見つかってからどうなるか、っていうことしか考えられなかった。

 すると急にあの侵入者がベッドの掛け布団を乱暴にも剥ぎ取った。もぬけの殻のベッドを確認すると、他所へその布団を荒くぶん投げる音がした。

 行動からして、こいつがここに来たのは俺を探しているからだろう。

 足音は本当に、すぐ近くから響いていた。

(ダメだ。ぜってぇ逃げらんねぇ……)

 そんなことを酷く絶望的に、かつ冷静に理解して、俺はその場で小さく座りながらうずくまる。

 それから数秒も待たずしてあの侵入者の足音が俺のすぐ近くで止まった。

 ……いる、確かにいる。俺の目の前に。

 伏せていた顔をそっとあげると、刃物のように尖った目と、視線が合った。

 それに思わず救いのような、されども絶望に似た感情が湧き上がっていた。

「せいっ…………ゴウ、なのか」

 そう俺に呼ばれて、そいつは俺の顔を食い入るように見つめ黙秘した後、青翔晴の顔をした侵入者は不気味に、また満足げに笑った。

「……ああそうだ。会いたかったぜ。上西朱連」

 その返事を聞けて、身体の緊張は気づかぬ間にすーっと抜けた。

 未知の敵に比べれば、あの気性の荒いゴウでさえ救いに思えてしまう。完全には安心しきれないけどな。こいつ何かと怖いし。

 そんな俺の気持ちを気取られるのも面白くはないし、俺は精一杯の平常心を装ってゴウへ言葉を返す。

「んなの……無理矢理部屋に押し入りやがるほどの急用でもあったのかよ」

「あ? だーから、手前、言っただろ。お前に会いたかったって、なぁ?」

「――……は、はは。な、なんだよお前、本当にそれだけのために……」

 わざわざピッキングまでして俺の部屋に入り込んだのか?

「……あぁ」

 そうゴウは目を細め、口元の左端だけを上に釣り上げた嫌な笑い方をした。まさに、「それのどこが悪いんだ」といった様子で。

「まああと、しいて他の理由を挙げるとすればな……」

 なにやら勿体ぶりながらゴウは言ってしゃがみ込むと、突然俺の前髪を鷲掴みして上に引っ張ってきた。何故だか知らないが、俺の顔を自分の方へと顔を向き合わせてくる。

 あの嫌な笑い方は闇に入ると不気味さが増していた。背筋にぞくりと悪寒が走る。

 本当にこいつ、何を考えているのか分からない。

 毛根からピリピリと痛覚が蘇る。

 俺はそいつに眉を寄せながらゴウに対抗した。

「いってぇんだよ、禿るだろ」

「こんぐらいで禿るかよ、ボケ」

「……つーかテメェ、変に勿体ぶんじゃねぇよ。しいて言えばなんなんだよ。テメェ、実はなにしに来やがっ――んんっ……!」

(え、なんだっ!? 待て!)

 自分の身になにかがあったのだが、俺がそれを理解するよりも先に体がふわりと持ち上げられていた。

 気がつけばベッドの柔らかな感触が背中に戻り軋んだ。覆いかぶさっているのは間違いなくあのゴウで、そいつは猛獣のように己の歯をチラつかせて笑っていた。

「おま、おまえ……」

 俺の唇に、何かが押し付けられた。

 そのことを遅く理解して、俺は思わずそこを指先で軽く触れた。

 するとゴウに鼻の先同士がくっ付きそうなほどに顔を覗きこまれ、それがあまりにも間近なもんで思わず息を呑んだ。

(うわ……)

 こいつ……知ってはいたけど、やはり端整な顔立ちだ。鋭く敵意を放つにしては瞳が澄んで綺麗で、それを縁取る睫毛まつげの長いこと。

 同じ男として、こうも自分と違いが生まれるものか。正直言えば恨めしい。

 ……って、違う違う。そんなこと気にしている場合じゃない。男の顔に見とれてんじゃねぇよ。

(つ、つか、いま、息がかかるぐらい近いんですけど……マジで何事? なんか、恥ずかしい……)

 自分がいま、恥ずかしい状況にいる、そう分かればすぐさま頬に熱が上がってきた。

 なんてこともない呼吸音でさえ変に意識してしまうし、ゴウの視線がとても熱っぽく感じさえもした。目線をどう動かしてよいものだろうか。

「……――ふっ」

 そんな俺を見下していたゴウが急に失笑しだし、本当に鼻の先をくっ付けてきた。

「――っ!!」

 そのほんの少しの肌が触れた瞬間、身体の中心から瞬間的に熱が全身へ伝達されてくる。

 すぐそこの瞳から目が離せなくなった。

 心臓がバクバクしていた。

「なんだよ、どうかしたか。顔、真っ赤だぞ?」

「――な、なん、なんでもねぇよっ……!」

「そんなに……俺とのキスは良かったのか?」

「き、す……。キス…………したのか、さっき……」

「あぁそうだよ。なんだ? もっと分かりやすく、しっかりしてやってやんねぇと不満なのか?」

 そうゴウは妙に色気のある声で、優しく囁いてくるもんだから、自分らがとてもやらしいことをしているような感じがしてしまう。

 このまま行けばまんまとこいつのペースに引き込まれてしまいそうで、俺は慌ててゴウ押し返す。それでも互いの距離は大した変わらない。

「だ、だれが男の、き、き……キスだなんて、んなもんいるか! つか……おまえ、男相手に……いったい、なに考えて……」

 最後の方をごにょらせながらも訊いた問いに、ゴウはひどく表情を曇らせた。

「さあ……。なんだろうな。俺でも、わけわかんねぇんだよ」

 何故か悲しそうにゴウは呟くと、俺の体を脚で抑えたまま上体を起こした。

「あんな、上西朱連。俺は……一度だってあいつ自身に嘘はつかねぇ。それは俺があいつの憧れで、願いだからだ」

 そう言ったゴウは心なしか薄く切なく、微笑している気がした。

 そしてその時のゴウは何と言うか、大人びていると言うか、頼もしい存在であるといった印象を受けた。敵意を感じない、穏やかな瞳であったせいだろうか。

 どうしてあのゴウが、そんな憂いを帯びた表情をするのだろう。

 いつもの生意気さとは打って変わったゴウの態度に、俺は何と答えてやればいいのか分からなくなった。ただただゴウのことを食い入るように見つめるばかり。

 ゴウはそんな俺を見て、また一層の表情を曇らせる。

 そして何を思ったのか、ゴウは俺の上体を無理矢理起こさせるとそのまま自身の胸の中に俺を抱きすくめてきたのだ。

 ゴウの顔はもう見えなくなっていた。

「……いいんだ、さっきのことは気にするな。ただの戯言だ」

「ご、う……?」

「黙ってろ。……何もしねぇから、行かないでくれ――頼む」

「んなこと、言われても……あの、俺……おれ…………」

 そんな風にすがるようにゴウに言われてしまうと、嫌だとは言い辛い。いや、男に抱きしめられるのはやっぱ嫌なんだけど……。

 結局俺はそのまま目の前にあった肩口に顔を埋めて黙り込んでしまった。それが俺がゴウにしてやれる精一杯だと思えたから。

 それを合図にしたかのように、俺の背中に回していたゴウの腕の力が増す。

 身体中が痛いのに、ゴウの腕の力も強くて苦しいのに、なぜだかコイツの腕の中から逃げ出す気にならない。そういうことをしちゃいけない気がした。




 そのまま二、三分はしただろうか。

 気がつけばゴウの腕の力は弱まっていて、俺は試しに軽く声をかけてみた。

 するとゴウの身体が電流が流れたかのように一度大きく跳ねあがり、次に手のひらで探るように俺の背中をまさぐりだした。

 そしてポツリと呟く。

「…………朱連さん」

「――?」

 朱連……さん?

「朱連さん、なんですよね……?」

 え、もしかして……ゴウじゃ、なくなっている?

「ま、さか……。おい……青翔、なのか?」

「僕です……僕です、朱連さん。僕なんです……!」

「おい。だいじょうぶなのか……っぁ!」

 混乱しているらしい青翔の胸を押し返して自分から離そうとすると、逆に青翔の方から引き寄せられてしまった。それどころか抱きしめる力に遠慮がなくてすごく苦しい。

「行かないでっ……! ここに、ここにいてください。ここにいて。一緒に、一生、僕とこのまま……」

「青翔っ、いたいっ! 力入れ過ぎっ……苦しいって……!」

 俺の声は青翔に届いてはいなかった。

 青翔はただ頭を左右に振り乱す、泣きじゃくりながら。

「いやだ、いやだいやだ……。帰りたくない……ここから出たくない。あんなとこ、なんかに……。

 ――っ! お母様、お父様っ……! だめっ!……いやだ。この人を僕から取らないで、お願いします、から……」

(青翔……)

 青翔は、何かの幻聴か幻覚か、はたまた過去の記憶に囚われてしまっているのだろうか。

 しゃっくりと鼻すすりを繰り返しながら青翔は何度も母と父の名前を呼び、謝り、それを繰り返した。それはもはや病的だった。

「――朱連さん……。僕……僕、僕は、ボク、ぼく…………。貴方がいないと、生きていけないから、お願い……いかないで」

「――いい加減聴けよ青翔! 俺はどこにも行ったりしねぇ! 青翔――離せっ!!」

「――っ!」

 ここでやっと俺の叫びは青翔の世界に割って入れたみたいで、青翔の延々の言葉はピッタリ止まった。

 腕の力を弱めると震える手で俺のことをそっと離した青翔の目には恐怖の色しか存在していなかった。その目で俺を見ていた。

「僕、なんてことを……貴方に……。ごめんなさい……」

 俺は出来るだけ青翔の表情を見ないようにして言った。

「い、いいんだ、別に……もう」

「…………」

「…………」

 嫌な沈黙だ。

 この時間が長く続くほど口を開きづらくなるからと、俺は試しに「なあ」と声を上げてみた。ただ残念ながらそれ以上先の文章については考えてない。

「あー…………んっと、お前どうして……その、俺に会いになんて来たんだ……よ」

「あ……ごめんなさい。僕、最近のことは、ほとんど分からないんです。覚えてるのは、朱連さんと会った日、ぐらいで」

「あ、そうなのか……。すまん」

 ヤバい、完全にミスった。

 だけど意外なことに、これから先の話を青翔が繋いでくれた。

「いいんです、よく、あることですから。それであの、朱連さん」

「あ……なに? どうかしたか?」

「僕、朱連さんに迷惑いっぱいかけてしまって、ごめんなさいっ」

「え、いや……そんな、謝るなよ」

 だってお前、さっき最近のことは分からないって言ってたじゃねぇか。それなのに謝られても、そんなの違う気がするんだけど……。

 自分を責める青翔に何か言葉をかけてやりたがったが、青翔は自分のことで一杯いっぱいらしく、こちらの反応も気にせず話し始めた。

「僕、分かっていたのに……。僕じゃ色んな人を困らせるから、もう誰も頼ったり、信じたりしちゃダメなんだって。

 でも、それでも朱連さんのこと、信じたくて、貴方と一緒にいたいって思っちゃってそれで…………朱連さんの、役に立ちたかった……。

 でも僕、頑張ったけど、でもほんとうに、僕はお母様やお父様の仰る通りの役立たずだった……」

 そう青翔は目に涙を溜めて、でもそれを零さないようにと下唇を噛み締めてグッと堪えた。

 俺にはこいつの言っていることが理解できなかった、どうもそれが我慢ならなかったんだ。

 気がつけば俺は青翔の両腕を掴みにかかっていた。

「なぁ……おい、テメェなに言ってやがる……。お前が役立たずだなんて、そんなことを言いやがったのか、お前の親って言う野郎どもは。それ本当にお前の親なのかよっ!?」

 言葉を荒げながら言う俺に青翔は思いのほか食って掛かってきた。

「だって、だって! 実際そうなんですよ!僕じゃお母様の求める、お兄様の代わりになるような立派な息子になれないし、お父様の求めるような強い男なんかにもなれない。

 お前なんて産まなきゃ良かった、そしたらお前と違って立派な私達の息子は死なずにすんだ、この疫病神って、お母様は言うんです!

 お前なんか俺の息子じゃない、会社や周りの目があるから食わせてやっているが、どうせすぐ親子の縁なんぞ切ってやるって、お父様は拳を振り上げて言うんですっ!」

「――んだ、それ……」

 拳を振り上げた……父親?

 なんだ、それ。

 青翔が、父親に暴力を振るわれていたということなのか?

 でも、だって……父親って、母親って、家族ってさ……。

 思考が混濁する俺とは違い、青翔は平常心を取り戻すのが早かったらしい。

 息を整えると肝心なことを言うかのようにこう断言した。

「……はい。僕は、いらない子なんです」


「それに――」

 愕然がくぜんとする俺を無視して青翔はとにかく話し倒す。そうしないといけないかのように、落ち着かないかのように、救われないかのように。

「よりにもよってそんな僕は、朱連さんにまで迷惑を掛けてしまった。ただでさえ迷惑な存在なのに……分かっているのに。

 でも――僕が転校をして、自分でなんとか試行錯誤して作った居場所はそれで無駄になって、その時にはもう世界が全て枯れて見えて。

 だからもう、ここで死んでも誰も悲しんでくれないんだろうなって思って……転校してきたあの日、ホームで、線路を眺めて……」

 青翔は天井を仰ぎ見し、目を薄く細め乾いた声で続ける。

「貨物列車って――すごく速いんですよね。目の前を横切った時、時間が止まったように思えた。本当に、心臓が掴まれるぐらい、ドンって、はっきり。そんな衝撃を感じました。だから、これならもう、すぐなのかなーって……」

 青翔が今度は自分の目を見て、初めて笑った。それはそれは懐かしそうに。

「でも……不思議ですよね。転校してきた日の帰り、朱連さんが帰り際僕に『また明日』って言って、笑ってくれたことを思い出せたら……もう、死ねなくなっちゃいました。

 また明日、朱連さんに会おうって。

 もう少しだけ、この学校に僕の居場所が出来るか、確かめてからでも、僕が消えるのはそれからでも、遅くないって……。

 僕にとって、朱連さんとの思い出はあの一日分しかないけれど、だけど僕は……たったそれだけの思い出でも貴方が大事で、大切で。

 だから僕は、分かっていても貴方に迷惑を掛けてしまう。大切だからこそ、一緒にいたいと思えてしまうから」

 そこまで言い終わると青翔は俺の目を見据えながら、左手で俺の頬に触れ、右手では俺の左手を握った。

 どちらもいつものようにあたたかかった。

「そういえば朱連さん、言いましたよね。どうして俺のことをそんなにも信じられるのかって。

 ……似ているんですよね、朱連さんって僕と。

 たとえ朱連さんが分からなくたって、僕には分かるんです。どんなに頑張っても、隠しても隠しきれない、消えない、心の傷。貴方はそれを抱えながら生きている」

 そう言って青翔は、あろうことか俺の左手首の白い腕時計に触れてきたのだ。

「――! やめろ、触るなっ!」

 俺がその手を乱雑に払いのけたが、青翔はそれでも微笑んでいた。それは、なにもかもを知っている眼差しであった。

 次の瞬間、青翔が急に晒してきた自身の左手首には、赤黒くも生々しい、引っ掻いたのかかじったのか切りつけたのか、判別のつかない傷跡が広がっていた。

 何も言えなかった。

 それと同じような傷を、この左手首に刻み付けたことが、昔の俺にはあるのだから。

 俺は、今でも素肌の左手首を見るとあの時の情景が蘇りそうで見ることができない。白い腕時計は自分自身を律するためだけの物であった。他人に触れられることも嫌なぐらい、大切な俺の鎖だった。

「貴方だけじゃない、僕だって同じ。そのことをやはりどこかで僕は感じてた。そして朱連さんも……きっとそうだった」

 そう言って青翔はすまなそうに自身の左手首を服の袖に隠した。でもなんだか、顔はほころんでいた。

「僕、運命だと思いました。貴方に出会えたことも、貴方が僕と似ていることも、全部。

 そう考えてしまって僕は…………貴方のこと、もう自分じゃどうしようもないくらいに、好きに、なってしまいました。

 それだけじゃなくて……僕は、貴方ほど優しい人間を知らない。僕なんかよりもずっと、貴方は強くて優しくて……。だから、好きなんです。憧れてもいます。

 そんな朱連さんは大切な、僕の唯一の居場所なんです。たとえ自分じゃない誰かが朱連さんと笑っていて、僕はそれを知らなくても、僕は確かに朱連さんが好きなんです。大事なんです」

 青翔は俺の方へずいっと身を大胆にも乗り出してくる。困惑する俺を放っておいて、両頬はすでに青翔の手に包まれていた。

 また鼻同士がくっ付いてしまいそうなほどの距離まできてしまう。

 真っ直ぐ先の青翔の濡れた目はなまめかしさをまとって細められた。

「朱連さん、僕のさいごのお願いです。キスをしてもいいですか」

「っ…………あ、あのな……あの…………」

 言葉は真剣だった、迷いが一つもなかった。

 そして俺はそれ以上余計なことを言わずに瞼をそっと閉じた。

 決して、雰囲気に流されたわけじゃない。青翔の真剣な思いを汲んでの行為だ、これがさいごなら青翔の為に俺は我慢しよう。

「好きです、朱連さん」

 声はもう泣きそうで、今にでも消えてしまいそうな儚さで、さいごにそれだけを青翔は呟いた。

 俺の唇をほんの僅かな温もりが包み、ふとそれが消えると、何かが倒れ落ちた音がした。


「なっ、青翔……。おい、寝んなよ、おい……」

 青翔はどうやら俺の膝の上で眠ってしまったらしい。とてもぐっすり眠っているらしく、ちょっと揺さぶっただけじゃ起きないだろう。

 たぶん、青翔も色々無理してきたんだと思う。今回の志緒捜索の件だけじゃなくて、家のこととか、色々……。

 家のこと……。

「はーっ……ちくしょー……。この大馬鹿野郎が……。なーにが僕はいらない子だ。俺の話も少しは聞けよ、なぁ? 俺はな、テメェが大事だからテメェのために頑張ったんだぞ? それなのにテメェの方から自分はいらない子なんて、ありえねぇこと言うなよな……はぁ」

 さっきこいつが起きている間に言ってやれれば良かったけど、どうせ言ったって聞きやしないか……。

 だってお母様が、お父様が……って、言うだろうな。

 ……アイツの父親、青翔にしていたのかな、虐待。しかも話に聞く限り、父母両方グルときて、兄も死んじまっていんならあいつ、家の中じゃ味方なんて一人もいなかったんじゃないだろうか。

「あぁ! マジで腹立つ! 虐待って、マジでなんのためにすんだよ! 親って、家族って……一体なんなんだよ……」

 分からない、俺には到底理解不能だ。

 家族は温かいものだなんて、やっぱそんなの嘘なのかなぁ……。

 俺はちらっと青翔のほうを見た。そして規則正しく寝息を立てる青翔の頭を撫でてやる。そうすれば嬉しそうに微笑んだ。

「…………このままじゃこいつ、自分の家に戻らなくちゃならねぇよな」

(でも……そんなこと絶対にさせたくない)

「だけど、どうしてやればいいんだ……?」

「あ、みーつけた」

「え……?」

 意識が完全に自分の世界にいっていて、足音が近づいて来ていたことでさえ気づかなかった。

 ベッドのすぐそこにはいつの間にか甘露寺が佇んで笑っている。

「その青翔晴って子が逃げ出したって聞いたから探していたけど、まさか鍵をこじ開けてここに逃げられていたとは思わなかったよ。さあて青翔晴君、お部屋に戻ろうかぁ」

 甘露寺はぬっと手を伸ばして青翔のことを捕まえたかと思えば、あっという間に青翔に肩を貸す体制になっていた。

「ま、待てよ、甘露寺!」

「……ごめんね、朱連ちゃん。こればっかりは星野先生からのお言いつけだから。見つけ次第すぐさま部屋に連れ戻すようにってね。大丈夫。君もこの子も、もうすぐ退院できるよ」

 唇に人差し指を立てて、ワザとらしくウィンクまでして、甘露寺は青翔と共に闇の中に戻って行った。俺がそれを止めるわけにもいかず。

 すると唐突に甘露寺から質問を投げかけられた。

「そういえば朱連。御剣伊織みつるぎいおりって名前に、心当たりは?」

「え? それは……俺のハウスの管理人さんの名前、だけど」

「へぇ、そっかぁ……。ならもうぐっすり眠っても大丈夫だね。朱連ちゃんとそのいい子が君と安心して暮らせるように、僕が話をつけておいてあげる」

「え? ごめん、全然意味が分かんない」

 話を付けるって、うちの御剣さんと甘露寺がってことか?……それでどうして俺がぐっすり眠れるんだろう。

「ん? んーと……まあそのうち分かるよ。とりあえず僕からのプレゼントをお楽しみに。ちなみにこれの貸し、この前のキスで帳消しでいいよ。じゃね」

 最後に衝撃的な台詞を残して甘露寺は青翔をつれて完全な闇の中に紛れていった。

 一人残された俺は、甘露寺の言った言葉の意味を理解したくていっぱいだった。

「……この前の、キス……? 俺、いつ、あいつなんかと…………え、あっ……あ……」

(あああぁあぁぁっ……!)

 した、確かにした。忘れていたけど、あれは紛れもない、キスをしたときの感触だった!

「っ、くっ……俺、おれ……」

 これからの学校生活、どうしよう……。


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