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第十九話『忘れられた、とある人』

 真っ白で、ふかふかな保健室のパイプベッドの上。

 そこに座り、投げ出した両脚を上下交互に振りながら、揺れるカーテンの向こうを、少年は眺めていた。

 窓枠の向こうで青々と茂った芝生のさらに奥。白い塗装が剥がれて錆びたサッカーゴールの周りで土埃をあげながら遊ぶ子供らのやけに楽しそうな声。

 その姿と声を思い起こしながら、少年は一人だった。

 儚げに濡れた瞳を抱いて、底知れぬ物思いに沈んでいた、まさにあの少年時代の自分がいる。

 当時自分は、とんでもない、無意識の孤独感を抱きながら、この……本当の意味で『自分一人だけの席』に座っていた。

 そのことは自分の中でごくごく普通の、当たり前なことなもんで、寂しい……なんて単純なことでさえ、あの時は思えなかった。

 あくまで、あの時は。


 転機は、いつも突然現れるものだ。

 まず、ある日、学校の廊下ですれ違った年上の、目元にほくろのあるお兄さん。

 そいつは見るからに温和そうで、他の奴らとはちょっとばかし雰囲気が違っていた。

 あの時たぶん、自分は初めて人に対して興味がわいたんだと思う。

 そんなあの人が自分に話しかけてくれたのが嬉しくて……そいつは気がつけばあっという間に俺の心の中に入り込んできていた。

 それが、上条優太だった。

 彼は自分に優しかった、誰よりも。

 慈悲に溢れた笑みにまんまと身も心も絡めとられてあの頃の自分には、あの人がまさに全てだった。

 何時しか校庭から響く雑音は鼓膜に触れることなく通り過ぎた。

 学校のチャイムが、なによりも大好きで。あの人に会いたくて、待ち焦がれて、その為に自分は息をしているようなもので……。

 他の音なんかどうでもよくて、自分の耳に入ってくる音は、ほんの二つでよかった。

 いや。それが良かった。

 聴きたくもない声なんて、わざわざ聞く必要もない。

 そうあの人から教わったから、しばらくは、そう思っていた。


 そんな上条優太との出会いから数か月過ぎ、学校にある転校生が現れた。

 それこそが緑川健二であり、自分にとっては初めての友達、一生の親友であった。

 初め自分は知らなかったのだが、どうやらアイツと自分は同じクラスだったらしい。

 クラスにロクに顔も出さずに保健室で過ごす俺にどういった興味を持ったのかは知らないけれど、アイツは必要に自分へ声をかける、迷惑な奴だった。

 当初は乱雑に扱ってはいたものの、少しずつアイツの話し相手をしている内に何時の間にやら自分は、アイツが隣にいるのは当たり前なことで、それが心地よいことだと思うようになっていった

 そんなある日、アイツと自分が保健室のベッドで一緒に座っているとアイツは外を眺めながらポツリとつぶやいた。

「ねぇ、僕たち……友達、だよね?」

「とも、だち……?」

 当時、自分の中で友達と言う言葉は薄い理解の上で成り立っていて、そんなことを聞かれてもどう答えていいか分からなくて、非常に困惑したことを覚えている。

 そんな自分を見かねてか、アイツはこちらに困り顔で微笑むと、自分の手に自らの手を重ねて言ったんだ。

「うん、そう、友達。僕は朱連の、『友達第一号』」

 ……それから、俺たちの絆は『決定的』なものになった。

 卒業後の緑川の引っ越しで中学が分かれた後だって、中学生になって再会したときだって、俺の彼女がアイツの彼女になったときだって。

 俺は絶対に、絶対に、アイツを信じていた。

 親友だった。

 友達だから、親友だから、俺はアイツを裏切らないし、アイツも俺を裏切らないと、俺は盲目に、今だって、信じぬいている。

 多分俺より先にアイツが裏切ったとしても、そしてその後でも。

 俺はアイツの『親友』であり、確固たる信頼を置ける存在であるという認識を崩すことは、『不可能』であろう。


――チャイムがなった。

 ベッドに座っていた少年はその鐘の合図で生の輝きを取り戻し、すぐさま立ち上がった。

 今日は、どちらの声があの少年には聞こえるだろうか。

 心の奥底から自分を震え動かす笑みと、細められた目から零れる親睦しんぼくと、肌を撫であげる指先を、あの頃の自分に与えてくれるのは。

 校舎中に響き渡るチャイムの名残が消えぬ間に、不意に保健室のドアが開かれた。

 少年の自分は淡い期待を胸に、すぐさま音のする方へ視線を向けた。

 遠くでそれを傍観していた自分も、思わずそちらを向く。

 そこに目を向ければ溢れる光を背にして、真黒く縦に長い、どこか見覚えのある大人の影が、佇んでいた。

 それは明らかに、上条優太や緑川健二とはまったく異なる人物の影。

 黒く細長い棒のようなものが、コツンと白いタイルの上に乗せられる。

 そしてゆったりとこちらに入り込んできた大人の影。

 それへ駆け寄り、腰辺りに抱き着いた少年の頭を、影は真黒い手で優しく愛おしげに撫でる。

 この光景を、俺は……なんとなく知っていた。

「あなた、は……?」

 俺は震える手を伸ばして、影の方へ一歩、近づいた。

 俺に気づいて向けられた影の素顔。

 それは確かに俺の…………。

「お……!」

――目が覚めたかしら

 妙なクリアな声と共に、今まで目に映っていた光景が視界から遮断された。

「――さん、さ、ん……ん?」

 少々眩しい光が睫毛の隙間をくぐって入り込んでくる、この感覚。

 もしかして俺は、何か夢でも見ていた……?

 凝らして開いた目に映りこんできたのは、白い布が張られた天井だった。ここはどうやら、天窓付きのベッドの中らしい。

 何とはなしに俺は両腕を伸ばしてみた。そして手を握ったり閉じたりして、確かな現実の感覚を味わってみる。

 その腕をおろし、鼻と口元を両手で覆うと自然に欠伸が出た。

 ……嗚呼、さっきのは夢なんだな。なんの夢だったかは忘れたけれど。

 そうぼちぼち理解した俺は眠気眼ねむけまなこを擦りながら身体を起こした。辺りを見回してみると、薄暗がりの、赤い部屋に自分がいることがなんとなく分かる。

 右隣から紙が捲られる乾いた音がして、反射的に俺はそちらの方へ視線をぶつけた。

 すると、さも豪華そうな、ひじ掛けに獅子の彫刻が施された木製の椅子に、脚を組んで深く座り込んでいる女が目に映る。

 女の横に置かれている燭台しょくだいのおかげで、その容姿は確認することができた。

 裾の長い白衣を羽織り、中は白シャツに黒いネクタイ、下は黒スーツ姿の女であった。

 赤い眼鏡の縁から覗く目には深いしわが刻まれており、歳はおよそ四十代前半。

 手首に透けた血管が見え、日に日に肌の張りを失っていくのが分かる、黄ばんだ手が厚い本のページを捲っていく。

 しばらくはその女が誰なのか分からなかった。

 自分が寝起きであったり、この部屋が少々暗めで顔が丁度よく見えなかったせいもある。

 それでもよくよく考えてみれば、白衣を着て、赤い眼鏡の四十代女性と言えば、思当たる節は一人しかいない。

「あの、星野せんせー……ですか?」

 女は俺の言葉に反応してこちらを一瞥いちべつし、再び視線を本を読むことに戻し、最後に肯定のつもりか小さく頷いた。

 ……星野先生、なんだと思う。雰囲気がちょっとだけ怖いけど、たぶん。

 何も言葉を発しない、普段とは違う近づき難い大人の雰囲気に呑まれ、俺は思わず口を閉ざしてしまった。

 なんとなく、「いまは私の邪魔をしてはいけないよ」と、無言の圧を掛けられている気がする。

 そうだとしても、ここがどこなのかだとか、何があったのかだとか、そういう大切なことを確認したい……んだけど。

 俺はちらっと先生の方を見る。

 先生はやはり無言で、本を読むことに集中しているようだ。

 大切な疑問をどうにも口に出せない俺は、悪戯に流れる時間の波に従うしかなかった。

 先生には俺のことなんて目にも入らないかのように、それこそ夢中に書物を読み進め、次々とページは捲られていく。

 それの音を耳に入れながら、先生の都合が良くなるまで待とうと決めた俺に、突然先生からお声がかかった。それと同時に先生は本をぱたりと閉じてしまう。

「貴方のお友達のね……」

「……ともだち?」

 やっとのことで聞けた先生の声に俺は思いがけず浸ってしまっていた。

 それで俺の心で安心感と言語理解が上手く折り合いを付けられなくて、俺は思わず先生と同じことを聞き返してしまう。

 先生は膝の上で立てた本の背表紙をまるで腫物を扱うようにして指でなぞりながら言った。

「そう、青翔晴君」

 えらくその声は暗くゆっくりで、蝋燭ろうそくの炎でくっきり現れた皺から一層の疲労感が伺えた。

「いま、隣の部屋で休んでもらっているの。貴方に会いたいって、さっきまで私に懇願していて……でもそれもだいぶ、落ち着いてきたようだったから」

「そう、でしたか……」

 星野先生、会ったのか、青翔に……。

「――あの!……先生は、もう気づいているんですよね。青翔の……あのこと」

 あのことって言うのは、青翔の『多重人格』のことだ。

 俺の言葉に先生の表情の険しさが少しだけ増した気がする。

 勘ぐってた通りだ。先生も青翔のあのことに気づいている。もともと、勘が鋭い人なんだから、先生は。青翔がいくら誤魔化したってあれを隠せるわけがない。

 つぐんだ口元を遠慮がちに開き何かを言おうとするも、やはり何も言えずに言葉を詰まらせてしまう。そんな様子だった。

 それでも絞り出した言葉は、先生にしては弱気に思える。

「え、えぇ…………だいぶ前から、そんな予感は、していたわ。さっき会ったときにそれを確信して……」

「それはいつからなんですか、先生」

「貴方が、彼を保健室に連れてきたとき。確か……彼が転校したその日、だったわよね。貴方も薄々感じていたんじゃないの、彼の違和感」

 俺が感じていた違和感は、先生も同じだったんだな。あの時の青翔の目は、忘れられない。

「まあ……青翔が、人を信用してないんだなってことぐらいはなんとなく。先生はどうして分かったんですか、青翔のこと」

 俺の言葉に先生は強く目を瞑り、それから口をゆっくりと開いた。目尻の皺はとても深い。

「……見覚えが、あったもの」

「見覚え……」

 不意に持ち上がった先生の視線が俺の目を真っ直ぐに刺し貫いた。貫録かんろくのある、世の全てを知ったが故の汚くて容赦のない、鋭い視線に、俺は慌てて顔を逸らす。

 そんな俺の様子を見て、先生は語りかけるようにして俺に言ってきた。

「あの時の……彼の目。そっくりだったわね、昔のあなたに」

 そう言われて、俺はハッとして先生の方へ目を戻した。

 そこにはなんてことはない、赤い眼鏡の奥で、ただの優しげな二つの目が、俺の方を向いているだけ。

 自分はまた、深い思い込みに惑わされていたらしい。

 そのことを思い知らされバツが悪くなった俺は視線を泳がせると、髪を弄りながらゆっくり口を開いた。

「……そうかもしれません、自分自身の事なんで、何とも言えませんけれど。

 俺……あいつに自分と似たようなもの、感じるんです。自分でもよく、分からないけど」

 似ているって、なにが似ているんだろう。俺、青翔のこと、まだあんまり、なーんにも知らないのに。

 あいつのことで分かる事って言っても、多重人格者……って、ことぐらいで。

 あとは、特段深いことなんて、あいつの私生活なんて、俺は全くと言っていいほど知らないのに。

 俺と青翔の共通点だなんて、そんなもの、はっきりとは見いだせられない。

 それなのに、俺は青翔を放っておくことができずにいる。

 それは、無意識に自分が気づいているのだろう。俺と、青翔との繋がりを。

 やはり青翔晴も、俺にとって、特別な存在……なのかもしれない。

「ねえ、朱連君」

 前かがみになってまでも覗き込もうとする先生の目にぎくっとしたが、俺はなんとか「はい」と返事を返した。

「貴方は……青翔君のことを、どう思っているのかしら」

「……え?」

 唐突すぎる質問に俺は何て答えていいのか分からなくて、思わず一言聞き返した。

 先生はさらに前のめりに、深く、質問の切り口を突き立てていった。

「貴方が青翔君を気にかけているのは私も良く知っているの。……でも、それはいったい、何のためかしら」

 先生はそれから一呼吸を置きゆっくりと、探るように、決定的な二択を投げかけてきた。

「彼の為? それとも……自分の為?」

 なんの、為……?

――もちろん、『青翔の為』だ。

 こんな単純な二択で、正解なんて、世間一般的に決まっているというのに。

 それなのに俺は、それを言葉にすることに躊躇ためらいを感じてしまっていた。

 それは何故だろう。

 俺がその理由を考える間もなく先生が口を開いたのは、先ほどの問題提起からほんの一瞬が過ぎた後であったことと思える。

 先生の口元からすーっと空気が吸い上げられたことに気づくのと同時に、俺の耳には何者かが近づく足音が耳に入り込んできていた。

「私はね、朱連く――」

「――やあ」

 先生の言葉の途切れと同時に、暗闇の向こう側で扉が開き、聞き覚えのある声がこちらに投げかけられた。

 俺たちは音のした前方の方へ注意を向ける。

 黒光りした革靴が闇の中で一層に眩しかった。

 次第に近づく来訪者の靴音に伴い、燭台で燃え上がる赤い炎が徐々にその来訪者の姿を照らしていく。

 黒いスーツを着込み、小脇にコートを抱えた長身の来訪者は、特徴として目元にほくろがある、まさにあの男そのものだった。

 男は慈悲と、その他諸々の感情を交えた、俺にはとても美しいとは思えない微笑を、俺だけに向けて言った。

「ふふっ……。二人ともお揃いだね」

 男は、甘露寺優太こと、上条優太であった。




 甘露寺は俺のいるベッドのふちに深く座り込むとベッドの柵に腕を置いた。

 長い腕の先についた手の甲へ顎を置き、そこから俺へ刃のように尖った視線を送ってくる。

「か、甘露寺……どうして、ここに……」

「翼から連絡があって来たんだけど――今回は一体全体、何をしてくれたのかなぁ、朱連? 分かるよね、もう営業時間外なんだよ」

 言葉の節々から俺に対する怒りやら呆れやら……とにかく良いものとは思えない感情が露出していた。

 そう言えば、あまり派手なことをするなってこの前言われた気が……しないでもない。

 いやでも、俺が怒られる筋合いはないよな、うん。

「甘露寺、あの……。今回の件は、俺は別に……」

青翔晴せいしょうはる

 ぐずぐずな俺の言葉を遮るようにして星野先生が言葉を被せてきた。

 先生へと甘露寺の注目が逸れて幾分か心が軽くなる。

 と言うものの、交差し絡み合う二人の視線が、傍から見ている俺にはえらく好戦的なものに思えた。

「転校生よ、貴方も知っているでしょう?」

「…………あぁ……いた、かもねぇ。あー……青翔晴君? だったっけ、転校生の。

 つまりー、その転校生がこの町の、今まで朱連ちゃんにちょっかい出してきた不良組織を丸々潰してくれたと……」

 纏わりつくような甘露寺の言葉に先生は特別動じることなく「ええ」と頷いた。

 それどころか先生、口の端笑ってるし。いったいどういう関係なのだろうか、この二人は。

 しばらく俺を忘れて互いで無言の睨み合いをした後に甘露寺はふと立ち上がった。

「あぁ、そ。じゃあ今回の件、僕は関係ないね、さようなら」

 そうさらっと言いのけると甘露寺はそのまま扉のある闇の向こうへ消えてしまおうとする。

 なんだかよく分からないけれど、ここで甘露寺に帰られるのは何かヤバいかも……。

 俺は慌てて甘露寺を引き留めるべく身体を起こそうとしたが、突如、今まで経験したことのない程の痛みの電流が、俺の体の末端まで巡りぬけていった。

「がぁっ……!」

 喉から漏れる声にもならない醜い悲鳴で喘ぐ。それこそ本当に、指の先一本でも動かすことが出来なかった。

 自分の身体でいったい何が起こっているのか理解できない。

 そんな俺に先生が優しく諭してくる。

「いままで無理をし過ぎたのよ、貴方。だから、まだ身体を動かしちゃだめ。少なくとも一日は寝てなさい」

「まじっ、すか……」

 そんなこと言っている間に、甘露寺の姿はすっかりと闇に包まれてしまっている。

 ドアノブが捻られる音が不気味に響き、俺は咄嗟に叫んだ。

「ま、待てよ!」

 ほんの一瞬だけ、目があった。

 闇の中で瞬く眼光が、俺には見えた気がする。

「このままだと……青翔の奴、ヤバいんじゃないのか……?」

「んー……。うん」

 こちらが緊張感を持って織りなした言葉を、甘露寺は意図も容易くバッサリと、たったそれだけで切り捨てていった。

 青翔晴なんて人間、自分はまったく無関心であるという言い草である。

「多分ねぇ、このままだと彼、色んな人の厄介になっちゃうかもしれないね。やられた組織も、警察も、完全に黙れるほどお利口じゃないから」

 奴の姿が見ることが出来なくたって、届いてくる声の明るさから、俺は完璧に分かっていた。

 奴はこの状況でも笑っていられる。

 たとえ奴が教師と言う立場だとしても、一人の人間であっても。

 甘露寺は、俺が自分の言葉でどう動くのか、それを試そうとしている気がしてならない。

 選択肢は二つに一つ。

 俺が意地になれるか、俺がこいつの下にまた堕ちるか。

 まさに今、俺はこいつに掌握しょうあくされ、操り人形のそれのように、操られるための糸を巻きつけられている状況なのだ。

 結局のところ人生は、やはり誰かの手のひらの上で転げまわされ、弄ばれて、あざけり笑われて、それで全てなんだ。

 特別な力を持たない、俺たち子供は常に、汚い大人の手の中。

「甘露寺」

「うん? なぁに、朱連ちゃん?」

 腹が立つ。

 こんな奴の思惑にまんまとはまっていった今までの自分が。

 そして…………それから抜け出せない今の自分も。

「青翔を…………助けてくれ。たの、む」

 消え入りそうな語尾までまんまと聞きつけて甘露寺は、高級そうな革靴で明かりを反射させながら、悠々とこちらへ歩み寄ってくる。

 右頬に触れたのはもしかしたら手なのかもしれない。

 重く固く、閉ざした瞼の向こうを見ることは出来ないけど。

「ねぇ朱連ちゃん、この借りは大きいねぇ」

 吐息混じりの、耳元ですり寄ってくる声に身体が敏感に反応し、俺は反射的に縮こまった。腰の後ろ辺りから痺れるような疼きがうごめく。

「……るせぇ」

 誰かが鼻で俺を笑う。

 そしてそっと失せたわだかまりに俺は胸を撫で下ろして目を開けた。

 甘露寺はすでに星野先生と何やら話し込んでいる。

 こういった会話は聞かないほうが賢明だ。聞いても決していい気分にはなれない。

 俺は二人の会話が終わるまで、その雑音を意識の外側に追いやり、待つことにした。




 数分、過ぎただろうか。

 不気味に浮き上がる甘露寺の顔がこちらに向けられれば、それはやはり微笑んでいる。

 俺は視界の端でそれを受け止め、顔に出る感情を押さえつけながら、それをねめつけた。

「青翔晴の身の安全は僕が約束してあげるよ朱連ちゃん。良かったね、君のいい子を守れて。……みんな幸せだ」

「……御託ごたくは結構だ早く失せろ」

 甘露寺は俺の言葉を笑顔で受け流し余裕そうで、未だに自分のペースを崩そうとはしない。

「ねぇ。朱連は考えたことある? このまま借りが溜まれば、どうなるか」

「!……何が言いたい?」

 一瞬だけ、自分の動揺が目に映ったと思え、更に崩れそうだった身体を俺は何とか押しとめ、あえてゆっくりに言葉を甘露寺に返す。

「何が言いたい、だって……?」

 甘露寺はここに来て初めて表情を崩した。

 それは断じて甘露寺の圧倒的余裕が崩されたわけではなく、俺の不安定になりかけた気持ちの軸に追い打ちを掛けに来たのだ。きっとそうなのだ。

「そうかそれじゃあ……その時は頂こうか――」

 甘露寺が再び俺の肌に触れた。顎を掴まれ、真正面に甘露寺の茶色く鋭い視線に向かい合わせられる。

 敵意丸出しに剥いた俺の目でも、それでもなお愛おしそうに甘露寺は、俺を見つめていた。

(俺が嫌いだから……だから俺を苦しめたい訳じゃないだろうに、どうしてお前は……)

――かわいそうなやつ

 そう思った刹那、不意に触れた唇の柔らかみを感じて、俺はそれを無意識にも受け止めていた。

「――その時が来たら、朱連を、ちょうだい……ね?」

 そう一言だけ告げて、甘露寺は音もなく部屋を去っていった。

 取り残された俺は、なんだか変な感じがして、そっと唇に触れてみる。

 いま、なにかが、唇に触れた……。何が…………――――

「っ、くっ……!」

 頭が、急にっ……いたいっ……!

 たった数秒前の出来事のはずだ、思い出せるはずだ。思い出せる……。

「ひっ、あっ……! はぁっ……」

 思い出せるはずなのに。なのになのに……。

 その記憶に触れようとした瞬間、激しい、拒絶のような、脳味噌の中で電流が弾けとんだ痛みを感じた。

 視界には火花が舞い散り、ノイズがかった誰かの声が耳鳴りの中にあって、それは訴えるような、語りかけるようで、泣きそうな……酷くかすれていた。

――ぼ……はね、朱連――

――……だ、れん……き、だよ――

 誰の声だ、俺の名前を読んでいるこの声は、一体誰の……何を俺に伝えようと…………。

「もう、休みなさい」

 やけにクリアに聞こえた言葉にどうしてか、身体は素直にそれを聞き入れてすっと力を失くした。

 糸が切れた操り人形のようにしてその場に崩れ落ち、俺はどうしようもなく無気力になる。

「おやすみなさい。可愛い子よ」

 そう言われるがまま目を閉じれば、自分はなんの抵抗もなく、自然と安らぎへの中へと誘われていくのであった。

 

――結局あの声は、誰の声だったのであろう。

――甘露寺は俺に、なにをしたのであろう。

 もう自分ではどうしようもないくらい完全に、その答えを手元から失ってしまっていた。


――青翔に、会いたいなぁ……。


 最期になんとなくそう思いながら、俺は無意識の中へと、再び堕ちていった。


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