第十八話『暗黒』
【過激な表現アリ】
俺が商店街の南口ゲートの下にたどり着いたころにはもう、ヨモギ町を照らす光は道端にぶら下がった街頭だけになっていた。
道なりをほんの少しだけ、ぼんやり照らす。それがたとえその程度の代物だろうが、目先を明るく染めてくれる存在は大切だ。
それらの維持すらままならない、この粗末の悪いヨモギ町南方面にはつくづく反吐が出る。正直、夜間ここに足を運ぶのは気が引けた。
そこかしこに広がるゴミの山を見れば、やはりこんな場所を根城にしている奴らの民度の低さと言うものが露呈して分かるというものだ。
もし、こんな場所に志緒を連れ込んでいるのだとしたら……俺はどうしたものだろうか。とりあえず殴るだろう。
翼の迎えが訪れるのをただ悶々と待ち続けながら、特別意識せずとも片膝を揺らしている自分に気づいた。
やっぱり、待つのは苦手だな……。
俺は深い溜息を漏らすとなんとはなしに空を仰いだ。
接触が悪いのか、ゲートに唯一灯った電灯が、ちかちかと不安定に瞬いていた。不規則に点灯するそれはなんとも気味が悪い。
俺はそっと、そこから目を逸らした。
量を増していく細雪の粉が、再び俯いた俺の視界を染め上げていく。薄らがかる足元の雪が、砂のように纏わりついていた。
俺の身体を真正面で襲い抜けて、背中越しで浮遊する巻き風が、その砂を吹き飛ばしていく。
紅色に靡くあたたかみに頬を覆い隠せば、赤褐色に錆びた髪が激しく舞い上がった。
視界を狭め、身体を小さく丸める。俺は組んだ両腕にぎゅぅっと力をこめた。
何処か、遠いところから、靴が固く濡れたアスファルトを叩く音がたまに通り過ぎるのを聞き取りながら、俺は未だに、ここにいる。
電灯はもう切れてしまったのか、俺の視界はすっかりと闇色に染まっていた。
けれども、おぼろげな月光が雲の間を抜け、白雪はそれを照り返して、自分の足元だけはどうにか見ることができる。
強さを増していく陰風が、己の世界へと引きずり込まんと俺を揺らした。
俺はそれに攫われてしまわぬようにとゲートの柱に身体を密着させる。そうして精一杯に体を縮こませた。
――本当に、来るのか。翼……。
そんな不安が、あまりにも静かな心の中でひたすら揺れ動く。
もし、翼が俺のことに愛想が尽きて嘘をついていたとしたら、俺はどうしたらいいんだろう。
青翔を見つけたのが嘘だったら、どうしよう。
心配は時間と共に募る一方だ。
実際、どれだけの時間がここで過ぎていたのか、俺には分からない。
ただ俺だけには、この一瞬がもしや永久ではないだろうかと思えるだけの時間を見送ってきたつもりだ。
それはそれは長い時の流れの中で、俺は静かに息をはく。
これも何度目の気晴らしだろうか。
そう思いながらも俺はもう一度、今度は肺の空気いっぱいに吐いてみた。
浮かぶ真っ白な霧が広がり視界から溶けて晴れた後、真っ黒な靴二足が、向かい合っていた。
一つはもちろん俺自身の靴。それじゃあ、もう一つは……?
もしやと思い、ゆっくりと顔を上げればそこに、真っ黒なフードを深く被った男が、佇んで、いる。
フードの、男。
「――おまっ!」
思いがけない男の登場に思わず声をあげてしまいそうになると、素早く俺はそいつに口を塞がれてしまった。
フードの影から覗く唇に中指を当てて男は、僅かに開いた口元から、息を歯の隙間に吹き付けた音を漏らす。
続いて、語りかけるかのような声色で男は言う。
「静かに。……俺、翼だから」
――翼?
「ん、んんっ……?」
確かに、声はそんな感じがしないでもない。
いやでも…………は?
何度か目を凝らして目前の男が被るフードの中身を見通そうとするがまあ不可能で、顔が見えない以上、俺は微妙な顔をするしかなかった。
声の時点で既に翼なのに違いがないのだが、それでも状況を素直に呑み込められない。
そんな俺に男は痺れでも切らせたのか乱暴にもフードを脱ぎ捨てた。
はらりと落ちたフードの向こう。
そこには俺が良く知る友人、見紛うことなき翼だった。
一瞬天にも見えたが、強風の為だろう、眼鏡をコンタクトにしているだけのことだ。
男を翼であると俺が認めたのを感じたのか、翼はせっかちにも早口で言った。
「これから廃工場に向かう。俺はそこに最後まで着いていけない。だから中に入るかどうかは朱連が決めて。いい?」
俺は翼に口を抑えつけられたままだったので、ただ黙って二三度頷くしかなかった。
それを確認して、翼は俺から塞いでいた手を外すと、すぐさま踵を返して商店街を抜けた先に伸びるさらなる暗い道に向かって歩き出す。
そちらへ足を向かわせることに少し怖気づきながらも、俺は翼の踏んでいく雪跡を追いはじめることにした。
いくつかの交差点を通り抜けるごとに減っていく民家、増える木々。
アスファルトの地面はいつしか土の上に敷かれた雪に変わっていた。
生え伸びる天然林の中には、昔に起きた大不況のあおりのせいでなのか、使われなくなった工場や廃墟の姿が現れだした。
随所で点在する建物は、どれ一つとして現在まで使われてはいない。それなのに解体すらしていないのはここがあまりにも忘れられた地であるからだろうか。
どの建物にも窓ガラスは当たり前のように無く、なんらかの影響で破壊されたコンクリートの下には小さなプレートのような破片が無数に落ちて溢れていた。
そんな一際物静かなヨモギ町の辺地はただの不良の格好な溜まり場。
誰にも邪魔されず、周囲の目を気にしなくていい。
ヨモギ町の治安が悪くなった原因の一端を担っている、腐った場所だ。
こういう場所を通ることは、あまり得意じゃない。それに……なんにせよ暗くて不気味なんだよなぁ。
「なあ、翼……。いったいいつまで……」
「我慢して。もう少し」
「でも、俺……」
「朱連、大丈夫」
そんなこと言われても……。
そう言いたくて仕方がないが、俺はそれをグッと堪えた。
翼についていけば青翔に会えるんだし、翼は探すのを俺の代わりに頑張ってくれたんだから俺は我慢しない。
歩き始めてそう時間は経ってないにしろ、伸びる道の先に民家はもはやない。
街頭も当然のようになくて、背中越しに飛んでくる町の明かりだけが闇を和らげていた。
月はもう厚い雲の向こうに行ってしまったらしい。
そうして俺と翼はしばらく歩き続け、遂に目的地らしい場所まで辿り着いたようだ。
究極の町の僻地とも呼べる、茂った草木のカーテンで覆われた一際大きな廃工場。俺たちの登場を心待ちにしていたように見える。
思わずその工場のデカさや今にも崩れそうな外観に呆気にとられていた俺は、はたと足を止めた翼に気づくのが遅れて危うくぶつかりそうになった。
この工場が使われなくなって、もう何十年もの月日が経っていたのだろう。
今まで見てきた廃墟たちとは比べ物にならないほどにそこは崩れ果てていた。
正直言って不気味だ。幽霊が出そう。
俺は生唾を飲み、恐る恐る翼の背中に問う。
「ここに……いるのか?」
「発信機の反応は、間違いなくここで」
「……え?」
「ん」
そう言って翼が手に持っていたらしい何かの機械の液晶画面を俺に見せてきた。
このへん一帯の地図だろうか。それらしきものが画面に映し出されている。
画面の地図上で赤と青の点二つが絶えず点滅していた。
俺もよく知らないのだが、こういった物が発信機と言われるものなのだろうな。わざわざ疑うまでもないことだ。
んで、これを青翔につけていたと……翼が?
「発信機……。お、お前青翔になんてもんつけてだよ?!」
俺は、同い年であるはずの翼がこんな行動に出ていることに動揺しないわけがなかった。
どうしてこんなことをしているのか、こんな状況でも、どうしても問い詰めたくなる。
対して翼の方は、やっぱり至って平気そうだ。冷静にも二つの点滅する点に指を置き、そこを数度叩いている。
頭の整理も理解も終えられていない俺へ、翼は二個目の爆弾発言を持ち合わせていた。
翼は顔色一つ変えずにこう言う。
「この青が、青翔晴。んで、この赤が、朱連」
――この赤が、朱連?
「はあぁぁ?! ちょっ、待て翼! おれぇっ?!」
少し待て。
発信機に青翔と俺の居場所が現れているって言うことは、
俺はつまり、
翼に、
発信機を付けられていたってことなのかぁ!?
俺は翼の両肩に掴みかかってこれでもかと言う程に強く揺さぶり叫ぶ。
頭の中はすっかり真っ白だった。
「なぜ、いつ、どこで、なんのために!?」
俺に揺さぶられながらも、翼は額に汗を滲ませて途切れ途切れにも返答する。
「仕事の、効率化のっ、為に。学校にっ、いる時つけて。いつかはっ、忘れた。あと、離してっ。落ち着いて、朱連っ」
「――あっ」
翼が顔を苦痛にゆがませたのを見て、さすがにやり過ぎたことに気づき俺はすぐさまに翼から手を離した。
翼を離した後でもそれでも落ち着かない両の手を胸の前に、指先を弄んだ。
「……っていうか、あれ付けたの結構前のはずだったんだけど、もしかして今の今まで気づいてなかった?」
「……全然、少しも」
俺は遊ぶ指先と見つめながら渋くも答える。
そう言えば、上条とか翼に連絡したら、あいつら、俺が何処にいてもすぐに駆けつけてくれてたっけ……。
俺の大馬鹿野郎……。
毛ほどもその存在に気付けてなかったなんて、お笑いだ、ちくしょう。
よくよく考えて、上条ならそんぐらいのこと、やりかねない……。
「まあどうせ上条の指示だから、俺にとやかく言うのはなしだよ」
「やっぱりあいつなのかよっ……!」
俺は自分の考えが当たってしまった得も言えぬ喪失感や絶望に顔を両手で覆った。
俺、今までどんなところに行ってたっけ?
俺にプライバシーってもんはないのだろうか。
あいつに俺の行動四六時中見られていたなんて、もうこれから容易に外出られなくなったぞ。
どうしてくれよう、上条。とりあえずあとで殴る、決定。
「んでなあ翼、上条はどうして俺だけならまだしも、青翔にまで発信機なんてもんをつけたりしたんだよ?」
「俺が知るわけない」
はっきりそう言ったきり翼はまた目前の工場の方へと歩き出した。
俺がそれに慌ててついていくと、翼は独り言みたいに俺へ背を向けたまま言う。
「多分上条に聞いても教えてくれないよ。聞くだけ無駄」
「そうなのか……」
上条が俺以外の誰かにそんなことを指示する。
そんな不思議なこと、長年奴を知っている俺は首をかしげるしかなかった。
とりあえずこの問題は後回しとしよう。
除雪もされずに道のない雪道に足を埋まらせながら、俺たちはなんとかこの廃工場の付近に近づくことが出来た。
深い吐息を吐くようにして翼がつぶやく。
「……ここ」
辿り着いた工場の入り口。赤茶けて重厚そうな鉄の扉の前。
「後は、朱連が決めて」
先頭を切っていた翼はそう言って立ち止まるとすぐさまユータウン。
翼に合わせてその場で立ち止まっていた俺の横を通り過ぎていく。
翼の雪を踏みしめる足音が、何故だかどんどん離れていく。
元来た道を進もうとしている。翼が離れて、どんどん俺が一人になっていく。
そのことに気づき、あまりの心細さに、俺は語尾を震わせながら翼を呼んだ。
それを聞きつけた翼の足は時が止まったかのように動かなくなる。
数十メートル先の翼の表情は闇に覆われてしまっていた。
俺の耳にはただ、翼の声だけが届く。
「ここから先は、朱連一人。中に入るかどうかは自分で決めて。俺は上条とか……あと、いろいろやることあるから」
「それは、知ってんだけど……さ」
翼には翼の役割があるから、それは仕方がないことだ。知っている。
だけど、ここであまりにも急にそんなことを言われると……不安と恐怖でいっぱいになりそうなんだ。
こんなところでいきなり、取り残されたくない。
誰かの、翼の顔が、もう一度だけ見たい。
心の底から安心しておきたい。
「俺一人で、行くのか?……翼。か、懐中電灯とか、持ってないか?」
「携帯を使えばいい」
「いやでも電池が……」
「それは自分でがんばって。俺のは貸せないから」
「翼、オマエに少しは慈悲ってもん、ないのか……?」
「知らない。急いでる。じゃあね」
「あ、ちょっ、翼テメェ!…………つばさ……」
翼は本当に急いでいたのだろう。もう俺がどんなに名前を呼んだとしても、足を止める気配がなかった。
翼の足音があっという間に寒風に攫われて、もう俺の耳に届くことはなくなった。
素直に、もう一度だけお前の顔を見ておきたいだなんて、そんな恥ずかしいこと言えれば良かったんだけど……無理だったな。
俺は幸か不幸か、朝からほとんど使われていない携帯の画面をだし、翼の代わりに何度も両眼に光を植えつけた。
頭の中で何度も念じるように、「俺はだいじょうぶだ」と言って、最後に強く頷く。
意を決して工場の重たい扉を解き放てば、この世の全てを取り込んで飲みこんでしまいそうなほどの闇が待ち構えていた。
微かに分かる足元以外、眼前はベッタリと塗られた黒一色。
携帯の光も僅かばかりで心もとない。
それでも、折れそうな心に何度も俺は鞭を打つ。
青翔がここに……。もしかしたら、志緒もここにいるのかもしれない。
俺が行って、しっかりカタつけてやる。
俺がしでかしたことなのだから。
「しゃーない…………行くしかねぇな……」
俺は、闇から生えた無数のぬめった手が俺の四肢に巻きついていくのを感じながら、工場の中へと一歩ずつ進んでいった。
工場の内部は外観と似た感じで、だいぶ荒れ果てているようだ。
そこかしこに散らばった瓦礫は携帯の液晶から零れた明かりを闇の中でぼんやりと反射していた。
先ほど足元で乾いた音を鳴らしながら転がっていた筒状の物体は、缶ジュースかなにかであろう。
流れてきた隙間風に紙が捲れ上がる音がそこかしこからするに察するに、それらは雑誌のような類の物に思える。
それにしてもさっきからここは煙草臭くて嫌になる。
早く青翔を見つけて、こんな空間からおさらばしたいものだ。
とりあえず一階からしらみ潰しで探索していくしかなさそうだが…………。
俺は工場一階の、一際狭く生活感が出た部屋の中にいた。
それにしても、いくつかの空間に足を踏み入れてみて、缶ジュースや煙草の吸殻なんかを足で踏みしめたりはしたと言うのに、肝心の人が欠片もいないだなんて可笑しなことだ。
ここを根城にしていた不良どもがもう家路に着いてしまっているとも考えたが、それにしたってこんな極寒の地で、コートをここに投げ打ったまま帰るだろうか。
俺は吊り連ねられたコートのカーテンに一周目を通した。ざっと十人弱だ。
誰かが火でもつけていたのだろうか。部屋の中央に置かれた暖房器具の表面は微弱な熱をまだ保っていた。
必ずこの工場の何処かに、誰かがいる、それも大勢で。俺はそう確信した。
きっと青翔はそいつらに用があって来たに違いない。
恐らく俺のことで、志緒のことで。
ここには志緒がいる可能性が高い。一刻も早く、見つけなければならない。
俺はその思いで強く、足元で踏みつけていた鉄パイプを拾い上げ、握りしめた。
パイプに植えついた赤錆のざらつきが肌に馴染んで心地よく、俺の手に吸いついてくる。
俺の体温を全身に巡らせていくパイプを大きく一振り、風を軽く切り裂くと俺は工場の二階へと足を向かわせていった。
俺を総毛立たせる烈風に、紅色のマフラーが優しく靡いて、あたたかかった。
工場はどうやら四階建てらしい。
今さっき三階フロアまで一通りの目を通したところだ。
とは言っても部屋数はそこまで多くなかったから、一階の探査よりはさほど時間がかからなかったけど。
四階はどうやら特別な場所と言った感じだ。
他の階層と比べて道には瓦礫が無く、空き缶のゴミなんて一つも落ちていない。
ここに不良どもの頭がいると言った感じか。
行き届いた清潔感はここを薄汚れた廃工場であると感じさせない代物であった。
四階の部屋はたったの三つ。
二つは応接間として使われていたのか、革が切り裂かれた厳かなソファが二つ、対面して置かれていた。
二つの部屋はまったく同じといった雰囲気で、特に見応えはない。
それでは残っているのは廊下一番奥の部屋となるが、この工場の外見から言って部屋数が少なすぎることに違和感を覚えてしまうのは、俺の考え過ぎだろうか。
とりあえず中に入ってみないことには始まらないのだが。
ここが最後の部屋となり、誰かがいる可能性も高まってきて、俺はいよいよ左手に持っていたパイプを握る手に一層の力をこめた。
音を立てないようにと慎重に扉を押して、中の様子を僅か数センチの隙間から覗き込む。
暗くて、まだよく見ることができない。
もうほんのちょっとだけ押し開く。
劣化して変形した木の扉だったせいか、重圧な軋みが上から聞こえた。
まだ見えない。
隙間から見える景色はほとんど真っ黒だ。
扉に体重を掛けながらもうちょっとだけ踏み出そうとすると、不意に扉が開け放たれて俺は傾けた身体でそのまま地面に倒れ込む。不思議と痛みは少ない。
変にぶよぶよで丸みを帯びた物体の上にいるようで、俺はそこに手をついて何とか立ち上がった。
最後の部屋は赤かった。
本当に真っ赤なわけではなくて、奥の方で光る赤い電球の明かりがそう見せているのだろう。
その赤を背にした二人の男の影が壁の方まですーっと伸びている。
両者ともこちらを見ているのに、影のせいで表情までは計り知れない。
その光景に思わず俺の背筋にぞくりと何かが這い上がった。
たじろいで足を一歩だけ後ろに伸ばせば靴の底がなにやら柔らかい塊に触れる。
嫌な予感がして己の足元をよく見れば、至るところで血を流した人間が無造作に転がっていた。
俺はその中の一人の手を踏みつけていたのだ。
俺はどう言うわけかそれが恐ろしくなってしまって、引き返そうと急いで扉の方へ後戻りしてみたが時は既に遅かった。
オレンジ色のパーカーを目深に、赤く尖らせた歯を露出して、口角をひん曲げながら笑う小柄な男が、閉じられた扉の前に立っている。
何処かで見たことがある、そんな風貌や雰囲気に、まるで小学校高学年の体格であるはずの男を突破することでさえ、尻込みしてしまった。
男はぱっくりと真っ赤な口の中を開口すると大袈裟に口をゆっくり動かして言葉を発した。
「ドぉこイくの? オにぃちャァん?」
壊れた言葉を発する玩具の人形のようにちぐはぐに千切れて繋がれたような言葉。
言葉のイントネーションも不安定で、聞いていて落ち着かない声だ。
俺がこの男に会ったのは、間違いなくこれで十回目。
いよいよこの男を突き飛ばして外に逃げ出すことが難しくなってきた気がする。
小柄な男は続けて話しはじめた。
「ココまで来て帰っちゃうなんて、そんなモッタイナイこと言わないでよ。カレみたく、ゆっくりするとイイよ」
カレ……?
そう言えばもう一人の男がこの部屋にいたような気がする。
俺は前の男に警戒しながらそっと後ろの方へ視線を向けた。
すると刃物のように細く尖った視線と俺のとが対峙した。
黄色くくすみきった長い前髪を耳の方へ流す変わった髪形。耳元のピアスが鈍く光っていた。
「せい、しょう……?」
それは間違いなく、青翔晴、だった。
顔つきは全く違っていたとしても、着ている服や髪形がまさしく青翔のそれ。
俺の言葉に青翔と思わしき男は苦虫を噛み潰したかのように顔を歪めた。
「おい。二度とその口で、ソイツの名前を呼ぶんじゃねぇ……不愉快だ」
低くドスの利いた声で言う男は頻りに眉間に皺を寄せる。
自分が青翔じゃないとでも言いたいのだろうか。
そんなこと関係ない、この男はどう見たって青翔なんだ。中身はどうであれ、俺が探していた青翔なんだ。
俺は、今度は慎重に、確認するようにもう一度だけ言ってみることにした。
「テメェの身体は……青翔なのか? どうなんだ?」
『青翔』という単語に過剰に反応しているようだ。
青翔が多重人格者だということを考えれば、こいつも青翔のもう一人と言ったところなのだろうか。
青翔と思しき男は眉間の皺をより一層深く刻ませ、眉間の青筋を走らせながら大袈裟な舌打ちをした。
「聞け。これだけは……もう、二度と言わねぇ。
俺はソイツだがソイツじゃない。俺はゴウであって、ソイツじゃない。
俺は誰にも支配されないし、俺は俺だ。
だからそんな奴俺は知らないし知りたくもない。
命が惜しくなきゃ、もう俺をソイツで呼ぶな」
ソイツは青翔のことで、ゴウと言う名を持つ青翔晴の人格の一つ。
そういった形でこいつをとらえれてみることにしよう。
これ以上深く聞き出そうにも、どうやらこいつは俺と似て気性が荒いらしい。
突っつけば暴れ出すかも知れないし、もうやめておこう。
「アぁ、そうだァ――」
いきなり口を挟んできたのは小柄な男。
いつの間にか小柄な男は一際立派な彫刻が施された机の上に足を投げ出して、豪華な革張り椅子に座っていた。ひじ掛けに片肘をついて、ふてぶてしくも手の甲の上に頬を乗せている。
フードから覗く、細められた眼が赤く卑しく光った。
「キミからもその子に言ってあげてよ。茶木志緒さんはもう、ココにいないって、さァ」
――茶木志緒……だと?
俺はその名前にいても立ってもいられず、机の前まで歩み出ると男の胸ぐらを掴みかかってそのまま持ち上げた。小柄で小学校高学年程度の身体を持ち上げることは、今の自分ならとても簡単だった。
男は苦しがる様子もなく、逆に可笑しく声をあげて小さく笑っていた。
それが俺の神経を逆なでしていく。
俺は力の限りで男に向かって叫んだ。
「おいテメェ! いまっ、なんて言いやがったぁ?! もういないって、そりゃぁどういう意味だ!!」
「言葉のマンマ。サッキはいて、イマはいないって、そんだけ」
「今は……何処にいる。言え」
「キミもその子みたいに聞き分けがワルイなぁ。
だーからァ、もうアレのことはオレの知ったこっちゃないってワケ。
だから早く手ぇ離せよ。鬱陶しいんだよ」
突然腕のちょうど血が通う場所に、四つの鋭い痛み。
傷つけることに迷いがない、強い圧迫を感じて俺は慌てて手の力を緩めたが、男の笑みは一層色濃く増していくばかりで力を手放す様子がない。
嫌な予感がして、何とかそいつを薙ぎ払おうとするが男はがんとして俺を離そうとしない。
男の妙に舐めるような視線が俺の頬に纏わりつく。真っ赤な舌が蛇のように粘つく唾液を垂らしながら淫猥に動き回っていた。
右腕の方で謎の痺れが湧き上がってきた、本格的にダメだと思った。
その男の顔が一瞬で後ろへズレて消えたかと思うと、俺の顔面の横を銀色の閃光が瞬時にとおり過ぎる。
それに遅れて俺の体を一瞬にして強張らせるほどの疾風が、俺のほんの鼻先を抜けていった。
――ガンッッ!
と、まるでこの場で爆弾が作動したかのような音が、俺の右隣の壁から割って入ってきた。
耳の鼓膜を痛いぐらいに揺さぶったその音を探ろうと、俺は頭を右方向へまわす。
なにか、固くて細い金属が、槍のように木の壁に突き刺さった。
赤の光を受けて鈍く光るのは、俺がここに持ってきた、鉄パイプ。
今度は左を見てみる。
パイプが発射された出発点にはゴウが、ポケットに手を突っ込んで、涼しそうな顔をしながら立っていた。
下手したらあの男や俺に当たってどちらかが死んだかもしれないというのに、そいつはそれが分かっていてもどこ吹く風といった様子だった。
ゴウはふふっと鼻を鳴らし、笑うのを堪えるようにして俺に言ってきた。
「きぃつけなぁ。あのぶっ壊れに力で敵おうなんて、夢ででさえ思うんじゃねぇぞ、上西朱連」
ゴウは俺を助けたつもりなのだろうか。
そうだとしても、俺は何も言えなかった。
言えず筈がなかった。
ここはもう、俺が知っているような平和な世界じゃない。
何処までも可笑しい奴らが二人もいる。
その事実が、俺の指先一つでさえ、体を動かす行為を押さえつけていた。
動かしたら死ぬんじゃないかとさえ思う。
消えていた男が机の向こう側からひょっこりと顔を出して立ち上がった。
先ほど身に降りかかった危険には大した動じず、呑気に体に着いた埃を払っている。
「アーぁ。あっぶなァ~い。ホントにこの子はワルイ子だなぁ。当たったらシンジャウじゃないかぁ」
「手前が死んでくれれば世間は万々歳だろうなぁ、志波よぉ……」
志波と呼ばれた男はおどけるように両手でワザとらしく泣いたふりをして笑った。そうしてそのまま話し続ける。
「そんなホントのこと言われても僕困っちゃうなァー。っていうかさー、キミらもう帰ってくんない? 俺、これからここのボスとオ話したくてねぇ」
「あ? 手前が頭じゃなかったのかよ」
ゴウが俺の気持ちを代弁してくれた。
俺も全く同じようなことを思っていたのだ。
この工場には似つかわしくない豪華な設備を我が物顔で粗末に扱う志波と言う男が、てっきり不良グループの頭だとばかり……。
その俺たちの反応に志波は憐れむような、それでいて嘲笑うように笑うと肩を竦めた。
「俺はっ、ボスにカネ貰って、雇われてここにいるだけ。じゃなきゃー、こーんなトコに二週間なんてとてもとても、ふふっ……。
今日でもうガマンの限界だから、もう~ウラギルつもりだったの。報酬っ、たーんまりくすねてサぁ」
そう志波は何がそんなに面白いのか分からないが、たまに吹き出しそうにしながら明るく言ってのける。
とりあえず俺たちと戦うつもりはないらしい。
志波が壁に突き刺さった鉄パイプを引き抜いたときはさすがに緊張したが、それの先を俺たちに向けることはなかった。
志波は入り口近くまでゆったりと王様のように歩くとその場に倒れていた男の傷口を必要にパイプで突っつき始める。
動けないだけで意識はあるのか、遊ばれている男は痛そうに身をよじり唸った。
志波はそれに頬を高揚とさせると、ベロッと赤く長い舌で舌なめずりを繰り返す。
「だ、か、ら。今日は君たちとヤりあうつもりはないの。
俺の目的はボス……こいつらのせいでマンマと逃げられちゃったんだけどねぇ!
……足止め、ゼーンゼン楽しめなかったから、ゴウ君と遊んでたけど、そろそろ行かないとボス、ニゲチゃうかラ……。
だから、もうバイバイ――マタネ、上西先輩」
最後に俺へと好色の目を向け、意地悪く顔を歪めまくると、甲高い奇声を発しながら志波はそこから駆けて何処かに行ってしまった。
志波の声が遠くなっていくのを確かめて、俺はガクッと膝を曲げてその場に座り込んだ。
嵐が通り過ぎたとはまさにこのことだろうか。
俺はキツク張られた弦が拍子で全て切れたかのように、身体中の力が抜け落ちていたことに気づいた。
横にいたゴウは荒く髪を掻き毟って近くの壁を一発蹴りつける。
その衝撃でパイプが突き刺さってできた穴から破片はぱらぱら落ちた。
「ったく、結局あの女の居場所を吐かねぇで行きやがった……あの野郎ぉ」
「――あ……そう、だな……」
志緒、まだ見つけてなかったっけ……。
「おい……なーに魂抜け落ちましたみてぇな面してやがんだよ。立ちやがれ。しけた面しやがって、情けねぇ」
そう言ってゴウは力の入らない俺の右腕を掴んで引っ張り上げた。
俺もそれに応えようとしてみるが、脚が生まれたての小鹿のように震えていて満足に立ち上がれない。
「ごめ、ち……から、入んない」
「なっ、てんめぇ……。腰を抜かしたなんて言ったら承知しねぇぞおいっ!……あーもう知るか、俺は帰るからな」
「……お、おい待て! それはダメだ!」
背を向けてドアの方へと歩き出したゴウに遅れて俺は急いでゴウの足首に何とか掴みかかって動きを封じた。
ゴウの方は俺の手を邪魔くさそうな表情で見下ろしながらも仕方がなさそうに立ち止まる。
「んだよ……」
「一人では、絶対に帰らせない……。青翔には、俺が……」
続きの言葉を言おうとした俺の喉を誰かのぬくもりが包んだ。
マフラー越しに締め付けられる首筋の圧縮に息が詰まる。
「俺を! 二度とその名前で呼ぶんじゃねぇ!」
額に大粒の汗を噴き出しながら叫ぶ、ゴウのかっぴらいた目には俺の目が大きく映っている。
目と鼻の先に叩きつけられる怒号に、俺は苦しみのくぐもった呻き声をあげるしかなかった。
力の加減を忘れているのか、増していく力で徐々に意識が朦朧としていく。
「俺はゴウだ! 青翔なんかじゃない! あいつらじゃない! 俺だ!
俺を見ろ、俺だ! 上西朱連、俺のことを――!」
苦しいよ、青翔……。
その言葉が、青翔に届いているのかは、分からなかった。
薄くベールがかった意識の外側で青翔の声が遠く響いて聞こえた。
必死に何かを訴えようとしている青翔の表情を、俺はただ眺め続ける。
そしてついに、青翔は糸が切られた操り人形のように俺の上で崩れ落ちて動かなくなった。
力から解放された後でも、景色は薄ら白い。
白い向こう側に、一つの微笑みが溢れている。
目じりに刻まれたほくろを見て、俺は安心して、そのまま意識から少しずつ指を離していった。
――なんでも、お兄ちゃんに任せればいい
そんな言葉を思い出しながら、俺は目を閉じていく。
紅のマフラー、頭を撫でる指先、全身を包む温もり。そのすべてが俺の幸せだった。
そんな気がする。




