第十七話『だいじょうぶ』
翼との電話が切れた。
誰との通信からも遮断された携帯を握りしめて数時間。
俺はソファに寝そべりながら、特段寝るということもなく、単にそこで項垂れていた。
夕暮れはそっと終わりを告げ、明かりをつけていないリビングを月明かりの影が薄いカーテン越しに照らしていた。斜光が俺の顔面を掠れて視界を明るくさせる。
カーテンを閉めておかなくて正解だった。
空から零れては散っていく粉雪の幻想的な景色を視界に映しながら俺はそう思った。
闇が濃くなるに連れ、閑静な住宅街はその極みを増してきている。同時にそれが俺自身が認識している時の忙しさを薄めさせた。
それでも携帯を握っている俺の両手は、いくら経とうが汗を滲ませたまま頻りに動かされていた。
翼ならどうにかしてくれると信じてはいるものの、電話を切った後から感じる胸騒ぎが、いつまで経っても鳴り止まらないんだ。
そのことを意識すれば自然と身体がムズムズする。ジッとしている時間がとても惜しいと感じられた。
それでもここに俺が止まるのは、勝との会話が頭のどこかにこびりついて離れないからだ。
俺が何か行動を起こそうかと模索するたび、勝の言葉が俺の頭の中に呼び起こされ、思考の妨げをする。
結果、何も出来ず、そうやってかれこれ数時間。
行動を起こすか、勝との約束を貫き通すか。その二つの境界線の間を、俺は今になってもまだ彷徨っていた。
勝から本当の気持ちを聞き出してやりたいと、俺は少しむきになっていたのかもしれない。やはりあの時約束をするべきではなかったんじゃ……。
そんな余計な気持ちが湧き上ってしまう自分が憎い。
モヤモヤの塊を両手に抱えたまま俺は大して重くもない瞼を持ち上げ、何とはなしに天井に取り付けられたシーリングファンを見つめる。
柔らかく回り続けるフォンの羽の動きを追っていると、なんだか不思議に意識がぼんやりとはしていく。
一時的な安静は瞼の裏に広がっている気がした。
だけれども自分はやはりあと一歩を踏み越えることが出来なかった。
寝てしまえば煮え切らない自分を忘れてしまえると思っていたのに、疲労は身体中を雁字搦めする癖にその程度の御慈悲すら俺に与えてくださることはない。
時の流れを聞く能力すら失せ、幾多の粛然が俺の横を通り過ぎていった。
水面を漂う海草のような存在の不確かさ。全身を孤独が蝕み、成す術なしに永遠の無力へと陥っていく。
唯一俺が縋れるものは手に握っている一つの携帯電話の、たった一つの通知。
「……翼」
俺は交差していた指に祈りを込め、切願を握りしめた。
その時、玄関の方から、今までの森閑の世界を壊す音が、鳴り響いた。
――青翔か?!
「だっ……――っぅ!」
身体を反射的に起き上がらせると、全身を切り裂かれるような痛みに見舞われる。俺はそれに堪らずソファの上に倒れ伏した。
すると急にリビングの明かりが点灯し、リビングの闇が一瞬で光に支配される。
一転した景観に驚いて、俺は目を強く瞑った。俺はそれから目を何度か薄く開いては閉じ、少しずつ光を受け入れていく。どうにか開眼できた俺の視界に映りこんできたのは、ウェーブがかった茶色くて長い髪をした、俺の親友だった。
コートにマフラー、頭でさえ雪を被った状態をそのままに、緑川は俺のもとへ歩み寄ってくる。
頭の中を真っ白に、俺は勢い任せでその場から逃亡しようとソファから立ち上がって足を踏み出したが、数歩もしない内に駆け巡る激痛の波で、儚く床の上で悶えてしまった。
そうこうしている内に、俯き気味な俺の視界に緑川の脚が通り過ぎていく。気配はすぐそこにあった。
俺は緑川の気配に背を向けると、落ちていた座布団の生地に顔を埋めさせた。
絶対に顔を合わせたくない。
俺は沈黙を貫いた。
こうしていれば緑川は俺の心情を察してくれるんじゃないか、放ってくれるんじゃないか、そう思っていた。
だけども緑川は俺の気持ちを無視して、まだ俺に近づこうとしてくる。
心の隅で震えている俺にまた、触れてこようとしてくる。
右肩に感じる指先の感触は、棘を刺すかのように熱かった
「しゅれ――」
「緑川」
「……なに、朱連?」
「一人に……俺を、一人に……」
『一人にさせてくれないか』
そういった形を口で描くものの、声がそれに伴われることはなかった。
この言葉を本当に形にしてしまうことが、自分にはどうしてか、恐ろしい。
俺はもう、全部が全部、自分のことも、分からなくなった。
緑川と顔を合わせたくないはずだったのに、ここにいてて欲しいという気持ちの矛盾。
誰との連絡も途絶えた携帯を握ったまま、孤独に苛まれるたった数時間。
俺はずっと誰かが恋しかった。
誰か、何も言わなくてもいいから、傍にいて欲しかった。
今さらながら、俺はやはり独りでいることが、とても苦しい。
……思えば自分は子供の頃から独りが嫌いだった。そして嫌いだったからこそ自分はあの頃、進んで孤独を選んでいたのだろう。
だってあの頃の俺はもう既に、アホみたいにつるんでいたクラスメイト達のことが嫌いだったんだ。
誰かが傍にいる温かささえ知らなければ、孤独は知り得られない。それを与えようとする物は、毒。
俺は周りにいる人間を全て自分の敵とさえ認識していた。
そうして誰かとも関わらずの、小学校生活。
俺は真っ白なベッドの上で、無邪気に校庭ではしゃぐ同級生たちの姿をよく見ていたものだ。
もしかしたら当時自分は、それが恨めしかったのかもしれない。
たまに何とも言えない衝動が胸に走ってはカーテンを閉め切り、布団で懸命に耳を抑えてうずくまっていた過去が、俺にはある。
……あの二人は、そんな俺を良くも悪くも変えてくれた。手を差し伸べ、だいじょうぶと何時も微笑んでくれた。
俺はその時やっと、人の温もりを思い出した。あれから少しだけ、素直になれた。
一度手にしたこの温かさを、また誰かに返してしまうのは、俺にはもう耐えられない。
俺は座布団を握り震える腕に力を籠めて、身体を無理に縮こませた。
気がつけば懐かしい響きのする、俺が初めて呼んだ友達のあだ名を、俺は口走っていた。
「けん……」
「――れん、だいじょうぶ。何も言わなくていいんだよ。昔から言ってるだろ。僕はずっと、れんのそばにいてあげるからねって。だから、だいじょうぶ」
そう言うと緑川は俺の背中に自身の背中をくっつけて黙り込んでしまった。
体いっぱいに、涙腺を震わせるほどの衝動が溢れてくる。俺は唇をきつく締め、こっそり頷いた。
温かな安らぎは、まだ俺の手の中にあった。
緑川はやっぱり、いつも通りに微笑んでいるだろう。
あれから何分ほど経っただろうか。
穏やかな静寂が流れていたリビングに階段の板をゆったりと踏みしめる足音が降りてきた。
そちらの方へ目線を向けるとそこにはダボダボの服に身を包み眼鏡をかけた勝がいた。どうやらさっきまで勉強をしていたらしい。
勝は服の袖で目を擦り、大きく口を開けた欠伸を一つした。眠たいのだろうか、勝の声は心なしかぼやけている。
「あぁ、お帰り緑川。っていうか、二人して何しているの?」
「ん。しーっ……」
勝の問いに、緑川は笑みを込めた子供のような声で答えた。
そんな緑川の態度に勝は怪訝そうに眼を細めると俺たちを――主に俺の顔を――見つめる。数秒後、やっと勝はフイッと顔をよそに向けた。
「まあ、別にどうでもいいけどね」
勝はそう吐き捨て、何やらキッチンの方へ行くと棚を漁り始めた。勝は自分には少々高すぎる棚へと体をいっぱいに伸びあがらせ、どうにか腕を突っ込んでいる。
割れ物がその棚に入っていることを知っている俺にはそんな勝の行動は気が気じゃなかった。
何度か休憩を挟んだ末に目的の物をどうにか手に取れたのか、勝はようやく棚から手を引っこ抜いた。
勝の手には真っ白な電子ケトル。勝はそれに水を注いで電源をいれたらしい。
そう言えば時計の針はもう真夜中を指していた。もしかしたら勝は夜食を食べに来たのかもしれない。
そう思っていると勝はケトルがお湯を沸かしている合間にカップラーメンを数個取り出していた。
……何個食べるつもりだ?
そんなお間抜けなことを考えながら勝の行動を観察していたら、不意に持ち上がった勝の視線と、俺のとが合致してしまった。
俺が慌てて目を逸らすと勝のいる方から少し小馬鹿にしたような溜息が聞こえてくる。
「二人とも、夕食はまだ食べてないのかい?……なんなら俺がご馳走してあげるから、先にテーブルについてな」
あぁ、なんだそういうことか。
「なんでカップ麺ごときでそこまで得意げになれるんだよ。お湯しか淹れてねぇくせに」
そうは言ってみたものの、昼からまともに物を食べていない俺の胃は殆ど空っぽだった。
常識的に考えて、食べるしかない。
俺は床に伏していた自分の身体をゆっくりと二つの腕で持ち上げた。床へと押さえつけられていた右の方の肩に張るような痛みが走る。
俺がそれに思わず苦い顔をすると、その様子を認めた緑川が慌てて俺の身体を支えてきた。
「体、動かしてもいいの?」
俺はあえてその質問にあえて答えず、緑川には一度自分から離れてもらう。再度、慎重に二の腕に力を掛けると、何とか体を自力で起き上がらせることに成功した。
どうやら全身を覆っていた激痛は時間と共に薄らいできているらしい。
「寝違えたみたいなもんだ、たいしたことない。心配はいらねぇ……」
「良かった」
緑川はそう言うと何故か俺の頭を撫でた。
俺がそれに言及しようとしたが、既に緑川はテレビの前にあるガラステーブルのところまで移動していた。
もうすぐ出来上がるのだろう。勝もお盆上に乗せられた三つのカップ麺をガラステーブルの上に置いている。
明らかに俺を待っている状況に仕方がなく、俺は膝で床の上を滑るようにしてテーブルについた。
お湯を淹れて数分待つと、勝がすぐさま食べる準備を終わらせてこちらに視線を投げかけた。
戸惑いながらも俺が「いただきます」と言うと、それに遅れて二人も一斉にそう言う。
それが毎日の日常と全く同じ光景だと分かると、自分の心の緊張が安らげられていることにも気づかされた。
普段はあまり好きではない筈の味が、不思議と染みていった。
食事が一段落して、珍しく勝がその後片付けを率先してやってくれた。
それにあやかって俺と緑川はだらだらと漫画を読みながらテレビを見る。
緑川は知らないが、俺自身は翼からの連絡が来るまでどうしても寝る気はなれなかった。熱は落ち着いたらしく、まあ大丈夫だろう。
片づけが終われば自然と自室に戻るかのように思われた勝が、予想外にも俺の横へとちょこんと座った。
一本一本が綺麗な金髪をした勝の頭頂を眺めていると、勝は不意に顔を上げてきた。
眼力のある目と俺の目が合ってしまって俺はすぐさま顔を逸らす。
「ねえ、そう言えば朱連、あの後翼から連絡は来たのかい?」
「え、翼……? いや、別に何も……」
「ふぅん……」
そう呟いて勝は、たまに新聞を読むたびにしている渋い顔をまた浮かべ、黙りこくってしまった。
何か勝が気に掛けるようなことでもあったのだろうか。あまり接点のない奴らの心配を、勝がしているように見て取れないのだが。
まあ……勝は演技が下手だから、聞いたらすぐ分かるだろう。
「勝、どうかしたのか?」
「え? いやぁ、まだ彼が見つけられていないなんて心配だなぁって」
「ん? あ、あぁ、そうだな」
あれ、本当にそれだけ?
珍しく勝が素でそういうことを言ったように見えて、嘘を吐くだろうと高を括っていた俺は、多少なりともそれに困惑してしまった。
勝が誰かを単に心配している。特に、あまり親しくない相手に、だなんて珍しい。そんな急に何故だろうか?
そこに、俺のこの困惑や疑問をも打ち消すかのような、何処からか電話の着信音が鳴り響きだした。
遅れてそのことに勝も気づいたのか、ピクリと片眉を上げる。
「――ん? 誰かの携帯鳴ってない?」
「あー……俺じゃないよー」
漫画に意識を向けながら緑川は気だるげにそう言う。その言葉を受けて勝は俺の目を強く見るときっぱりと言い捨てた。
「一応言っとくけど、俺のでもないからね」
「……あ、じゃあ俺の携帯か。んと……緑川、あれ取って。そこ、ソファの上のやつ」
「はいはーい」
緑川は漫画から片時も目を離さずに、背もたれにしていたソファへ手を伸ばす。緑川は手を何度か探らせ、携帯を見つけ出すと、ぞんざいにもそれを俺に渡した。
「もうちょっと丁寧に扱えよな、緑川。携帯も漫画もな」
と、一応釘を刺してはみたが緑川はやはり視線を変えず曖昧に頷くだけだった。
まあいい。どうせ聞きやしないだろう。そんでぇ……こんな時間に一体誰が…………翼?
翼から電話が来たってことは、もしかしなくても、青翔が見つかったんだよな……?
俺は心臓が緊迫で大きく脈打っているのを感じながら、ゆっくりと通話ボタンに指を押し込む。一旦息を深く吸ってから電話に対応した。
「――もしもし。翼か?」
『うん。あいつは発見した。場所は後で案内する。とりあえずは商店街南区ゲート下で待つ』
「え、あっ……」
『それじゃ、待っている』
早口で捲し立てるかのような翼の言葉の羅列に、俺は追いつくことが出来なかった。
何か言っておこうかと思うより先に、翼との通話はブッツリと切られてしまっていた。
俺はそのあっという間にぽかんと口を開け、携帯を見つめた。
「朱連、大丈夫? 酷い間抜け面だよ?」
「え、あっ、はい?」
緑川に何か言われたと思い、俺はそれに何とか反応して緑川の方を向いた。
「いやぁ、朱連がボーっとしてるから大丈夫かなぁって」
「あ、あぁ……大丈夫だ」
翼につべこべ言うよりも先に青翔のことだな。とりあえず、商店街の南区のゲート下まで行けばいいんだっけ……。
呆気のない一報通行な会話の中でも理解した事柄を俺は何度も頭の中で確認する。
翼の支持通りに動くとすれば、俺は今からハウスを抜け出さなくちゃいけないんだけど……。
俺はチラッと、横で俺に寄り添っている勝の方に視線を泳がせた。
数時間前に聞いた勝の言葉は、まだ俺の頭の中から離れていない。
これから勝との約束を破ることに躊躇いを感じずにはいられなかった。
でも、志緒が心配だった俺だけの為に他人を巻き込んでしまった以上、俺もけじめをつけなくちゃならない。
俺は意を決して生唾を飲み込んだ。
「あのな、勝。青翔が見つかったって、翼が……。それで俺――」
「――迎えに行きたい、と?」
俺の言葉を抑圧するような声で遮り、下から刺さる視線を向けた勝に俺は思わずたじろいだ。
俺の予想以上に怒ってらっしゃる模様……。
「まあ……そういうことで」
俺が小さく絞る様に言うと勝はそれに対して無言の視線を突きつける。そんな態度が一番俺を困らせることを分かっている癖に。
「あの、行ってもいいか?」
「それを俺に聞くのかい? 行ってほしくないに決まっているだろ、もちろん」
「あ、あぁそうだな、すまん……。勝、お前との約束を破るつもりはないんだがその……」
口ごもる俺の心情を勝は察していたのか、急に立ち上がるとすたすた階段の方へと向かう。怒って自室に戻るかと思われた勝は階段に上る手前で動きを止めて口を開いた。
「別に……好きにすればいいだろう。俺が言っていたのはあくまで個人的な意見だし、君が俺の意向に完璧に従う必要なんて絶対にないんだから」
「勝、あのなぁ――」
俺が何とか勝をなだめようと口を開くのを制止するように、勝は俺を睨みつけた。勝は大袈裟な足音で階段をのぼり、吹き抜けからまた声が降らせる。
「朱連。……次怪我なんてしたら、承知しないから」
勝はそれだけを俺に命令すると、ハウス全部を揺らさん限りの音を立てて自室のドアを閉めてきってしまった。
残された俺は、仕方がなしに重い腰を上げた。勝の言葉を胸に刻み付けながら俺は玄関でコートを着込んでいく。
案の定ついて来た緑川は必要に俺の身体の痛みについて心配してくれていた。
「身体は動かしても大丈夫なの? タクシーぐらいなら呼べるけど……」
「タクシーは使えない。たとえ無理でも歩くさ」
「何かあったら電話してね。あぁ、あと勝のことは気にしないでよ。俺からなだめておいてあげるから」
「……あぁ、そうだな。頼む」
「いつもは、あんなに感情的にならないのにねぇ……」
「あぁ……」
勝とのことは心残りではあったが、今は青翔のことを優先すべきだ。あんなに不安定な精神なのに、あいつを放っておけるわけがない。
俺は一時的に勝の言葉を遥かな奈落の底に落とし込んで忘れてしまうことにした。
もちろん怪我をしない命令は聞き入れたが。
携帯と財布だけをコートのポケットに入れ、準備を済ませた俺はさっさとドアノブを握りしめる。
「んじゃあ行って――」
「あぁ、待って朱連」
「ん……?」
緑川に呼ばれて俺が後ろを振り返ると、一瞬首元に風が通り抜けたと感じた次には耳までもを覆う温もりが巻かさっていた。
「はい」
「――え?」
俺は見開いた目で緑川の方を凝視した。紅色の毛が視界に入り込んでいる。それに触れてみればどこか懐かしい、柔らかな触感があった。
「マフラーだよ。ちゃんとつけていてね。外は寒いから。……だいじょうぶ、頑張って」
「う、うん……」
「じゃあ、行ってらっしゃい」
そう言って歯を見せながら浮かべた笑みに、いつだかの面影が霞む。
一瞬だけそのピントが合うかと思えたが、背筋を撫でられるような悪寒と頭痛に全てがかき消されてしまった。
それがちょっとだけ俺をモヤモヤとした思いにさせたが、あまり気にする必要もないだろう。
もう一度気を取り直して俺はドアノブを握っている手に力を込め、前に押し込んだ。
隙間から溢れ出す外の冷気に俺は身体を浸す。扉を閉める間際で緑川に「行ってきます」と言葉を残しておいた。
外には確かに冷気があったが、寒くは決してなかった。
多分、マフラーのおかげ。




