第十五話『執念』
【NL要素・過激な表現アリ】
志緒が去り、玄関の扉が重たく閉じられた時、ようやっと俺は、その場から動く気になれた。
俺はリビングにまで戻ると、ソファに自暴自棄気味に座り込んだ。腰を深く、両足を投げ出してだらりとそこに項垂れる。
そうしたら、手に握ったままのシャツの存在に今さらながら気づいた。
白い生地に滲みしみ込んだ、血糊の乾いた跡。ぬめりとした肌触りが左手に溢れている。
見れば自分の手の平にははっきりと、弧を描いた赤黒さが数個刻まれていた。爪の先についた血液が卑しくてかる。
これを握りしめて、あの瞳で、俺を見ていた。分厚い壁越しに話しかけられたかのような、孤独感を俺に与えながら。
俺を断絶した志緒の叫び、言葉の一つ一つ。その時の映像が脳裏に焼き付いて離れないでいる。記憶の一片でさえ、振り払えない。
くそっ! これさなけりゃ、俺は……ちくしょうっ!
俺は持っていたシャツを黒いテレビの液晶目掛けて無造作に投げつけた。
プラスチックのボタンが液晶にぶつかる。簡素な音を立てながら落下。柔らかな絨毯の上に広がった。
忙しく揺すられる足先を睨みつけながら、両膝に腕を置いて前髪を掻き上げる。
発熱してきた、頭が熱い。数滴の汗が流れ落ちた。
あいつさえ、ここに現れなければ……。そうしたら最悪でも、志緒にばれたりなんて……。
青翔に対する怒りや恨みの感情が、頭の中を黒く塗りつぶす。
シワが寄せられた眉間。視界を完全に向こうから遮断した。髪を握りしめた両腕が震え、さらに力がこもった指の隙間に引き抜かれた毛が、小汚い色の赤毛が絡みつく。下唇に突き立てた上下の歯が食い込み、鉄の滲む味がした。
身体に、俺を支配するかのような衝動が覆い被さってくる。視界も何もかもを真っ黒に浸食してくる。
今――目の前に映るものを……何でもいい、とにかく俺は、壊したい。
そんな、いつもの破壊衝動だった。
あっと言う間に、それが俺の頭の中を支配していく。完全に意識がそちらに呑まれてしまいそうになったとき、不意に俺の手を誰かが握った。
その時、ブチッ、と……何かが切れた。
…………違う。青翔を責めるなんて、そんなの、間違いだ。
自分が咎められるのが怖くて、だから誰かを責め立ててしまいたくて……でも、そんなことはしちゃいけない。
青翔を、友達を責めちゃ、そんなの絶対ダメだ。全部、事の発端を起こしてしまった、俺自身の責任。
……それに、今こうやって二の足を踏んでいる暇なんて、本当はないはずなんだ。
志緒に何か、本当に伝えたかったことを伝えないと、この先一生、俺は後悔する。
そのチャンスは多分、今しかない。ほとぼりが冷めてからじゃダメなんだ、この時しかない。
……分かっている。そんなことは分かりきっている。分かっているからなおさら、自分が何をするべきなのかが分からない。
何を伝えればいい。どんな面して会えばいい。俺の伝えたいことっていったい、何なんだ……。
そうやって、いつも悩んだ振りをしやがって。
怖いから動けない、でも自分は汚れたくない。だから何かと理由をつけてそれを誤魔化そうとする。ワンパターン。相変わらず、あの時からなに一つ、進歩しない野郎だ。
「あ、は……はははっ……」
壊れた機械のように、俺の声は震えながら笑った。
何も面白いことはない。だけどもしかすれば、自分が滑稽に思えたのかもしれない。
本当に俺、どうかしている。
そっと、手に籠めていた力を抜くとだんだん、俺の手を握る温もりを感じられた。うっすらと目を開けてみればウェーブがかった茶色い髪の毛が映る。
「けん……じ?」
「…………大丈夫、朱連?」
「さー……どうだろう」
そっと温もりが手から離れた。不思議な安堵感に包まれ、俺は垂れていた頭を天井に望ませて、深い息を肺から全て吐ききる。
頭で渦巻いていたものが薄らと、安らかに消えていった。次に鼻から目一杯に空気を吸えば、積もっていた負の感情は解けてしまう。
顔には手から溢れた血が薄く乗っかっていて、そこをなぞれば指先に冷えた自分だけの血液が付着した。
もう俺の手元には、なーんも……。唯一失いたくなかった者は、欠片も残っちゃいない。全て、元あるべき場所に。
あの子から、借りることができた幸福は全て返された。もし残されたものがあるのだとすれば、それは計り知れない、単純な虚しさの塊だ。
こんな俺にはもう、失えるものが一つもない。そんな俺だからこそ…………
「朱連、本当に大丈夫かい?」
緑川は俺を引き寄せると、間近に困り顔を見せてきた。
目鼻立ちの整った顔の作りだとか、俺に対しての気遣いだとか、いろんなところ……。やっぱり、お前にだけは敵わない。
「緑、川……」
情けないほど小さく枯れた声をかき消すかのように、緑川は途端に俺の左手を奪い去った。開かれた手の平に残る傷を食い入るように見つめている。
「……なにこの左手。また、怪我なんかして! ちょっと待って、今救急箱…………うん?」
何処かに行こうとする緑川の服の裾を持ち、引き留める。
「朱連……」
ソファに座る俺に視線を合わせるように、緑川はしゃがみ込むと俺に近づいた。そして不思議そうに顔を傾かせて俺を見つめてくる。
「何かあった?」
低く囁く、優しげな声に押されて、俺はなんとか自分が言えることを何とか言葉にする。
頭の中が空っぽで、論理だとか、筋道立ててだとか何もなくて。途切れ途切れの、とても簡単な言葉だった。
「なあ、緑川。あの……志緒、さ…………」
「志緒の、はなし?」
一瞬で目の色を変えた緑川が眉を寄せながら変わらず俺を見る。
言い辛いけど……ゆっくりと息を吸い、緑川の目を見ながら吐き出すようにして言った。
「……そうだ」
「志緒は……さっき、なにも言わずに出て行ってたよ。二人で何かあったんだよね」
「うん……すごく、傷つけたと思う」
「それでー……朱連はどうしたいの?」
俺が言いたいことを分かっているのか、緑川は話の方向をこちらに向けてくれている。
言わないと。緑川はちゃんと聞いてくれるから、俺は……ちゃんと伝えないと。
まばたき数回、息を吸いながら、俺は言い聞かせた。相手は緑川だ、気を張るな、いつも通りでいい。緑川になら、俺の全てを知ってもらっても、構わないのだから。
「俺…………今、最後でいいから、志緒に会いたい。緑川……会わせてもらっても、いいか?」
「なに、それ」
俺の言葉を聞いて緑川は吹きだしたかのように無邪気な笑みを零した。そうやってひとしきり笑えば、朗らかな表情を浮かべ、情けない顔した俺を愛おしげに見つめてくる。そして俺を引き寄せ、包み込むかのように抱きしめ、頭をぽんぽんと叩いた。
「俺は朱連のやることの邪魔なんてしないよ。朱連がしたいようにすればいい。たとえば……あの子を今から追っかけることも。俺は気にしない」
「緑川……」
緑川が自然に俺の身体を離すと両手で俺の頬を包む。親指で俺の頬を撫でるとゆったりと目を細めた。
「さて……俺が許してあげたって言うのに、まだなにか不安なことでもあるって顔してない?」
「うっ……うるせっ」
心の中に隠し持っていた思いをこうも簡単に見抜かれると、いよいよ俺も我慢の限界だった。
俺に触れてくる緑川の手から逃れるようにして俺は立ち上がるとコートを取りに玄関へ向かう。
ついてきた緑川なんてお構いなしにコートを着込むと紅色のマフラーを首に巻きつける。
靴を履いて玄関のドアと対面した時やっと、俺はおもむろに口を開いた。
「俺……裏切ってないよな、お前のこと……」
「当たり前だろ」
即答で返した緑川の言葉に俺は思わず振り返る。俺を見据える真っ直ぐ強い瞳と視線が交差した。
「君は僕を裏切らない、僕も君を裏切らない。親友だからね。……そうだろ、朱連」
「健二……」
俺はマフラーで口元を隠して小さく頷く。
親友って言ってくれたことが、これまたどうしょうもなく嬉しかった。
「んじゃ、もう行きなよ。せいぜいぶつかってくればいいさ。無理はしないでね」
「あ、あぁ……」
ドアノブに手を置き玄関のドアを開くと一歩外に出た。そしてふと、足を止める。
数秒考えた末に、俺は去り際にハウスの中、緑川を見た。自然と、笑みが現れている。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい」
緑川は、本当の笑顔で手を振り、俺を見送った。
今なら間に合うかもしれない。志緒が駅に着くより前に、俺が走れば間に合うかもしれない。
足で地面を踏み潰すたびに弾け飛ぶ氷水が足を凍てつかせようが、体がどんなに重かろうが、ここで志緒に会えないことに比べればどうでもいいことだ。
自分が風邪をひいていたこととか、右腕の調子が悪かったことだとか、自分をいたわれなんて、関係ない。
駅近くに張り巡らされた路地裏への入り口。視界の隅に幾度となく似たような光景が映りこむ。
何本目の路地を通り過ぎただろうか。ある路地の影に人が立っていたことを、数秒遅れて俺は気づいた。すぐに急停止、走っていた先を戻って心当たりの路地裏の光景に喰らいついた。
そこに、人の一人、誰もいなかった。
人違いだったか、果ては俺の勘違いだったか。
落胆を抱きながら、俺は気を落ち着かせようと深く深呼吸をした。焦るなと心の中で何度も唱えては言い聞かせる。
「そ……、けん……さ……!」
今、志緒の声……? いや、気のせいか。冷静さを欠いていているだけだ、聞き間違い……だよな?
声は二つ隣の路地の奥から聞こえている感じがする。それに心なしか、緑川の名前が呼ばれていたような……。
やっぱり気になる。確認するぐらいは……いいよな。
思い切って二つ隣りの暗い路地の先へと足を進めると、人が一人いる気配がした。
……携帯、ボタンを操作している音、呼吸は一人分。やっぱり誰かいる、間違いない。
――志緒なのか……?
音の発信源は路地を抜けた先にある細い道路かららしく、一人の小柄な女の後姿が路地から覗けた。それは、見紛うことなき……。
「志緒!」
「あ……」
俺が名前を叫ぶと同時に女が振り返り、まん丸く目を見開いた志緒の表情が現れた。
「し、しおり……やっと、見つけた…………!」
「朱連さん……」
気持ちの高鳴る俺とは逆で、志緒の方は困惑とした表情で俺を見つめている。胸元で握っていた携帯電話に視線を落とすとそれを強く握り、固く口をつぐんだ。
その様子を見てこれから自分が言わんとすることが、志緒の迷惑になりはしないかと思えた。
むずむずとする気持ちを抑えようと髪を掻き上げて視線を他所にずらす。そうやって数秒、俺は何とか口を開けた。伝えたい、その一心で。
「俺……お前にどうしても伝えたいことがあったんだ。ごめんな」
「わ、私、そのっ……!」
……頼むから、そんな困った顔しないでくれ。大事なことがどんどん話しにくくなる。
……こうなっちまえばもう言ったもん勝ちだ。ダラダラ長い前置きするよか、単刀直入の方が分かりやすいだろう。
あぁ、いざ面と向かって言うとなると手汗が……。
俺は何度か汗ばんだ手を開いては閉じ、口から息を吸ったと同時に強く握りしめた。
「……やっぱ、迷惑か? 俺がお前のこと、好きだって言ったら」
「っ……! そ、れは、私、なんて言えば…………」
寒さの影響か、単に恥ずかしかっただけなのか。志緒は頬を真っ赤に染めれば、顔を深く俯かせて表情を隠した。決定的な決断を下さずに、くちごもるだけ。
「あー……無理にして何か言おうとしないでいい。勝手に追ってきたのは俺だ、答える必要はないから。だけど言わせてくれ。お前に、聞いてもらいたい」
ここまできちまったら、言うしかないだろ。言わないとダメなんだよ。分かってくれ、志緒……。
お前を困らせたくなんてない。だけど、俺がお前と本当の意味で決別するためには、もうこれしかないんだ。迷惑をかけてごめんな。
「この前は……あんなこと言って、お前を突き放したけど、俺はやっぱり……お前が好きだ。初めて会った時からずっとな。
今なら、なんつーか……お前の事、本当の意味で守れるかもしれない……なんて思う。根拠ないけど、おこがましいことだろうけど、そう思うんだ。
……ほんとごめんな、彼氏持ちのお前に、こんなこと言って、困らせてさ。お前にはもうちゃんと、守ってくれる奴がいるのにな」
「朱連さん…………いいんです、私は……あの、私…………」
気のせいか、うわずった声で話す志緒の紅潮の頬は、何時にも増して色気があった。顔を上げた志緒の目、大きく潤む瞳が、一瞬にして見開かれる。
「! う、後ろっ! 危ない!」」
「え……? なっ、あぐぅっ!」
俺が振り返ったと同時、自分の身に、何かが起きた。
なんだ、いったい何が?! 呼吸が苦しいっ。ミシミシって、首元が窮屈で……、頭がくらくらしていて、目の前は真っ黒だ。
首を、絞められている……? 誰だ、一体どいつだ!?
薄目に映る幻想のような、黒の光景。刹那に交わった闇のような瞳に、身体中の全体温が奪われた。
――殺される。こいつに、ころされる……。
「かはっ……! う、くっ……!」
がむしゃらに首元に襲う締め付けを外そうと暴れるがそうはいかなかった。
何時もみたいに相手を屈服させるための時間も余裕もない。苦し紛れの抵抗は無意味。
なんだよ、俺が何をした。どうして俺はこいつに殺されそうになっている。こんな時に、なんで、急にこんな……。
霞んだ視界に、志緒が俺からそいつを引き剥がそうとしている様子が見えた。何かを叫んでいるような気がする。
……もしかして、泣いているのか? 泣くなよ、ばか……。
半ば諦めの感情が俺の片隅に芽吹いていた。
呼吸が苦しくなるにつれて、脳みその中に巡る酸素が減るにつれて、黒と白の境界線があやふやに、ふやけていくような感じがした。漂っている、何処かを漂っている。ぐちゃぐちゃで、訳が分からず、俺は誰だろうか。
死ぬのか、俺……? このまま、死ぬ?
「だ、れ……がっ…………おま……な、んが、にっ……!」
……俺はなぁ、死ぬなんて、そんなの御免こうむるぞ。誰が死ぬか。こんなところで死ぬわけねぇだろ、俺がよぉ!
俺の首を抑え込んで離さない腕を掴むと爪を立て、渾身の力をこめる。限界を超えた右腕の悲鳴は遥か遠くに追いやった。
浮遊感を覚える意識とは別に、皮膚を裂いて肉の、細胞の内部へと押し入っていく指の感覚はハッキリと分かっていた。
苦しいのか、痛いのか。そいつの怯んだ腕の力を感じ、不意を突いて脇腹への一撃をお見舞いしてやった。手ごたえは浅い。
横へと飛びのいたそいつはゆったりと立ち上がると目深にかぶった長くて黒いロングコートをなびかせ俺の動向をうかがってきやがる。隙を見せれば襲いかからん勢いだ。
対する俺って野郎は喉に受けていた圧迫感に咳き込んでいた。ったく、生きた心地がしなかったぜ、畜生。
「っ……てんめぇ、よくも俺を……」
湧き上る怒りに任せて黒いコートの男に掴みかかろうとしたところ、思わぬところで止めが入った。
目を移すとそこには俺のコートを掴んで地面に座り込んだ志緒がいた。
……志緒、その手を離せ。俺は殺されかけたんだ。黙って立ち去れとでも、言うつもりか、テメェは。
「離せ」
「いやです……」
「離せ!」
「いやです!」
そう強く叫ぶと志緒は俺のコートを掴んだまま、弱々しく立ち上がった。
「逃げましょう、お願いです、朱連さん! お願いだから、早くここから……」
なにこいつ、泣きそうになってんだろ。俺に任せればこんな野郎、あっという間に一捻りも二捻りもしてやれるのに。
俺が志緒の方に気を取られていると、黒いコートの男が目前に迫っていた。
横にいた志緒を弾き飛ばせば、襲いかかってきたのは折り曲げた膝の一撃だった。腹の中心に綺麗に当たったその蹴りに、俺の体は大きく屈折してそのまま膝を立てて崩れ落ちる。
息つく暇もなく顔面を横に蹴りつけられ、俺は無残にもアスファルトに倒れ込む。
そんな俺にさらなる追い打ちを掛けようと近づく気配を感じる。俺を見下す薄汚い靴底を、俺は眺めていた。
転がる、地面を転がっている。
腹が刺すように痛い、頬がじりじりと疼いた。
身体中、何処も彼処も、痛覚が浮き出ては激しく踊る。
汚い血が地面を擦った。
なんだ、これ……。
倒れ伏した俺にあいつの両の手が襲い掛かる。その手は右腕を掴みかかってくる。何事かと思った時にはもう遅い。
二つの手は加減を知らず、俺の腕を雑巾でも絞るかのようにしてひん曲げてきた。
骨の歪んだ軋みを受け、声にならない叫びが漏れる。開けっ放しの口から次第に、水滴が滴り落ちていた。
可笑しい、こんなに冷たい汗が流れるだなんて。こんなに痛いだなんて。
……俺は知らない、何も知りたくねぇ。
……どうすればいい。こいつに『勝つ』ためには、俺はどうする。
俺がどうしてこの男、俺の右腕を狙った。どうして俺が右腕を怪我していることを知っている。
考えろ、分かるだろそんぐらい。俺が腕を悪くした理由は…………。
黒いコートの男、なにか持っている。
長くて、銀色の固そうな、カランと音を立てるもの。…………バット? あぁ、そう、バットだ。あの時、俺の右腕を壊した、あれだ。
――こいつ、あの時のキチガイ野郎か。
あの時、圧倒的な速さと力に翻弄された、その記憶が頭をよぎり、俺は初めて本当の焦りを覚えた。
もしかして……『勝てない』? この俺が、負けるのか……?
あの時……俺はこいつから逃げた。今にもこいつに両腕を壊されそうだった時、俺を助けてくれた奴がいて、そいつは…………。
銀色の鉛が風を切って振り上げられていた。
フードから再び覗いた黒い瞳が細く、昂る。
落下地点は、俺の頭蓋骨。
迷いもなく、降ろされた。
暗い、真っ暗だ。見えない、見たくない。痛くない、死んだからだ、よく分からないけれど。死んだから痛くないんだ。本当に俺、死んじゃった……のか?
――これが、死?……あっけねぇの。まあ、それがいいんだろう。
「何時までもそこに寝そべっていられると邪魔なんだけど」
…………え?
何もなかったはずの暗闇に言葉が反響した。思わぬ出来事にたまらず俺は声をあげる。
「だ、れ?」
今、声がしたか? つーか俺。いま喋ったか? 死人に口無しだとか、良く聞くけど……それは間違いだってこと?
「誰?……俺。……あんた、アホなこと考えてないで目を開けて。早く立ちな」
俺? 俺って誰だ、聞き覚えのある声だけど……。俺、死んだんじゃないのか? え、違う……?
目を開けられる、立つことができる。死人には許されない、生の特権。俺はそれを持っているのか? じゃあ俺って……。
「はぁ……あんた、生きてるから。安心して」
「……い、生きて、る?」
その言葉を聞いて恐る恐る目を開けると光が溢れて眩しかった。発光する背景を背に青翔が、人形とも思える無感情な瞳が、俺を見下す。
俺は大きく息を吸う、そして吐いた。
晴れ渡った空はやっぱり青い。そうだ、これがいつも通りの景色。俺はやっぱり、死んでいなかった。
「立って」
「え。いや、まてっ……俺、怪我して……」
俺の言葉を聞かず、唐突に青翔はしゃがむと脇に手を通して強引に俺を持ち上げようとする。
急なこと過ぎて頭の整理が追いつかない。青翔の行動に体を合わせることが出来なかった。
上へと釣り上げられる力が大きくて肩の関節が痛む。痛むのはもちろんそこだけじゃない。
「い、いたいって……」
「知らない」
俺の言葉を聞かずに、青翔が容赦なく二の腕を引っ張り上げる。こんなの拷問だ。
どうせ、俺が何を言おうとこいつの性格じゃ、話をまともに聞きやしないだろうな……。
行為を止めさせるのを諦めた俺は、歯を食いしばると青翔の服の裾を掴みかかった。何とか片足を地面に踏んばらせ、立ち上がろうとする。がたがた震えた足が、今にも折れてしまいそうな気がした。
「っでぇ……! くっそ……」
無理のせいで体のあちこちから痛みが走る。青翔にしがみ付きながらも立ち上がった俺は、もう肩で息をしてしまうほどになっていた。
頭の中に沸々と浮かぶ青翔への怒りをどうも抑えきれず、一度そいつの胸を拳で叩く。
「いっでぇって言ってんだろうがっ、無理やりすんじゃねぇ!」
「それは俺にかんけーない。早く行くよ」
そう言って青翔は俺から離れると、俺を無視してスタスタと背を向けて歩き出した。
こんな疲労困憊しきった状態の俺を、いったい何処に向かわせるつもりなんだろうか。気遣いってものがねぇのか、こいつ。
「行くって……何処に」
「ハウス。あんた、自分が狙われてるのを知っているなら大人しくしてなよ。いちおー病人でしょ?」
「……テメェには関係ない。つーか、なんで青翔がここにいるんだ」
青翔はその言葉に足を止めると、しばらく黙り込んだ。振り返ると鋭い視線をこちらの方を向け、不機嫌そうに山の字にした口を開く。
「……近くを散歩してたら、女に助けてほしいとせがまれた。うるさくてかなわないから、来てやった。んであんたを助けた。襲っていた奴は逃げた。これでいいでしょ?」
暗にこれ以上聞くなと言われている気がして、俺は深く探ることをやめて頷いた。
「早く来て」という青翔の言葉に押され、なんとか足を進める。自然と片脚を引きずってしまう、捻ってしまったのかもしれない。
俺が通ってきた路地を抜けようとする青翔の後を遅れながらついていく。建物の壁に身体を預けながら青翔の背中を見つめて歩く。
……それにしてもこの青翔、腹立つ。少しは俺の身体を労わってくれ。
そういえば……こいつが言っていた、『せがんできた女』。おそらく志緒だな。俺の為に応援を呼んでくれたんだろう。でも、志緒……見かけないな。
「なあ、あの女……無事なのか?」
「だれ」
「お前に助けてってせがんだ女だよ」
「あぁ、そんな奴どーでもいいから、知らないよ」
「どうでもいい、だと?」
青翔の言葉が気に障った俺の不快感がそいつにも伝わったのか、青翔はゆったりとこちらへと振り返った。
「俺にその子は他人。あんたの方は知らないけど……。俺はそいつに特別な感情を持ち合わせたこともない。そんなことで怒るのは筋違いだよ」
「……別に怒ってない。むしゃくしゃしてんだよ」
あの空気も読めないキチガイ野郎のせいで、腹の中が煮えたぎりドロドロしていた。そのせいで青翔の些細な発言にも敏感に反応してしまうのだろう。
「あんま気にするな、俺のことは」
「そう」と呟くと青翔は壁に寄り掛かって腕を組んだ。俺が青翔のもとまで辿り着くと、不意に思わぬことを口にしはじめた。
「……なんか不満があるなら言えば」
「不満……?」
まさか、気を使ってくれているのか?
今もやはり鉄に掘られた顔のように表情をピクリとも変えないが、心なしか発する言葉は柔らかい。
青翔の質問になんて答えてやるべきか分からず頭を掻く。
不満はない、もちろん気にしていることはある。さっきはどーでもいいで片付けられたけど、やっぱりあいつの存在が頭から離れない。
「不満っつーか、心配だ……」
「なにが」
「あの、志緒のこと。俺に何も言わずにいなくなっちまうなんてあいつらしくない。何かあったんじゃないかって、思って」
「……つまり、そいつを探せばいいんだ」
「いや、ただ気がかりってだけで……」
「そ。じゃああんたは先にハウスに戻れいい。俺、散歩が好きだから、ついでに探す」
そうやって去ろうとした青翔の腕に俺はしがみつくと必死に止めた。
「い、いや! いいんだ青翔、待て! どうしてもというなら俺も一緒に……!」
こちらを振り向いた青翔のぎらつく視線に俺はハッとなり、ゆっくりと手を離した。
なんで俺、こんなにマジになって青翔を止めてんだろ。青翔は志緒の安全を確認してくれるって言っているのに。
俯いていた俺の耳に青翔の大きなため息の声が入り込んだ。
「あんたびょーにんでケガ人。寝ないと死ぬ。俺は普通に大丈夫」
「いや、でも悪いし……。きっと大丈夫だ、うん、志緒はきっと。今はやっぱ物騒だし、お前も危険になっちまうから探しに行かなくてもいい……」
「違う」
はっきりと青翔に自分の何かを否定されたかと思えば真正面に青翔の顔が迫っていた。俺は顎を指で上げられ、空虚な瞳の光を受け止める。
どこか寂しげに流れる時間。目と鼻の先、互いの息遣いが聞こえている。耳に囁きかけるかのような声が響く。
「あんた、俺があの女と会うのを嫌がってる。本当は自分が探したいから……好きだから」
「あ……」
「ほんとは、自分があいつのひーろーでいたい。俺に悪いなんて、心配だなんて、思ってない……違う?」
青翔にはっきり違うと言えない俺は、その言葉を肯定しているのと同じだった。
初めて、俺は青翔に対して明確な恐怖を抱いた。
こいつの目を見るのは怖い、俺の知らない俺の醜い本心を探り出してくるようで。だけど、俺はどうしてか、その虚ろな瞳から顔を背けないでいた。あの目に、自然と目がいってしまう。
ついに青翔はふいっと顔をよそに向けると俺から離れた。路地から駅の前を通る大きな通りまで一歩踏み出ると、こちらへ向き直った。
「でも……残念。俺の最優先事項はあんただから。あんたは意地でもハウスに連れて帰る。あんたがどんなにごねても」
青翔がこちらへと手を伸ばし、触れたのは紅のマフラー。それを奪い去ると晒された首筋。未だに締め付けられた感覚が残る首。そこに触れた指先が移動してうなじを撫でる。
……分からない、こいつ、なにをする気だ?
「――おやすみ、朱連」
その声は実に愛おしげに思え、小さな衝撃が体に響き渡る。
意識を現実に繋ぎとめていた糸は容易く、プッツリとほつれ切れた。




