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第十一話『弱虫』

 今日は珍しく普段は使わない国語の教科書が必要らしい、さっき勝に教えてもらった。それと頭に巻いている包帯は取っておかないと変な誤解をされると言われたので外した。

 肝心の教科書なのだが、必要以上の物を持ち込まない俺のロッカーには当たり前のようそれがおらず、隣に見せてもらうにも生憎相手はいない。

 ならば翼か天あたりに貸してもらえばいいと考え、現在俺は昼休みの暇つぶしがてらにB組の教室を訪れていた。

 冷気の漂った廊下で屯するよりか、大勢で暖房の機能した教室で暖をとる方がよっぽど有意義だ。そんなちょっとした熱気さえ感じる教室の端っこに、集団から少しだけ距離を置いて外の世界を眺める翼がいた。明らかに周りの雰囲気からは切り離されている。

 完全に自分の中に入り浸ってしまっている翼にそっと一言声をかけてやった。

「つばさ」

「…………? あぁ、朱連」

「邪魔して悪いな。一人の方が良かったか?」

「ううん。俺、朱連に用があったし、手間が省けた」

「俺も」

「とりあえず来てくれる?」

「ん? いいけど、なんか話しか?」

「……とりあえず、資料室に」

 資料室……。初めは存在すら希薄だったと言うのに、今となってはその単語を聞くだけで鬱蒼うっそうとした気持ちになってしまうのは何故だろう。

 一種の拒絶反応に苛まれながらも俺は無言で頷くと翼の後ろを追いかけた。二人で人気のない廊下を歩くと靴音がやけに響いて聞こえる。

 物静かにゆったりと自分のペースで歩く翼の背中は不可思議なものに映る。まるで翼だけこの情景に後から貼り付けられたかのような……それを悪く表現すればまさに、孤立。

 そんな翼の歩みに追いつくと横に並び、資料室まで辿り着く、ほんの少しの時を過ごした。


 人の訪れることが殆どない資料室の暖房は当たり前に切られていた。廊下よりも明白に感じられる冬の寒さに震えながら翼の歩く通りに歩く。資料室の一番奥まった暗がりには埃を被った灰色の机が無造作に置かれていた。

 翼はその古びた机の引き出しにしまわれた新聞を取り出すと、そこそこ大きな記事の紙面を眼前に突きだしてきた。その迫力に少しだけ後ずさる。俺は遠慮がちにそれを受け取った。

「……んで、話ってこれの事か?」

「そう。それは今朝の新聞、見た?」

「いや……」

 新聞なんてものはハウスでは取っていない。勝がたまに買って読めば小難しいことを言うことはあるが、政治や地域ニュースなんてもの、俺には興味のないことだ。久しぶりに見る大量の文字列に顔をしかめながらも過大に書かれた見出しに目を移す。

 『10度目の連続暴力事件 ついに犯人特定か!?』

 ……そう書かれていた。

 開けた口から、呼吸が出来ない。新聞を握る手の力が増して無残な音が鳴る。冷やかな汗が輪郭をなぞって落ちていく。なんとか息をのみこんだ。

 あまりの事態に見開いた目で翼を見つめる。翼は目を閉じて頷くだけだった。

 しばしの絶望にくれ、はっとなり、信じがたい記事へ視線を戻した。紙が小刻みに揺れて見にくいが、それでも文章の終わりまで一語一句逃さず読み尽くす。

 よほど手汗が酷かったらしい。読み終わった紙面を放り投げた際に、俺が握っていた場所には深いシワと共にシミが出来ていた。

 事件の詳細までしっかり頭で噛んで飲みこめば、俺はひとまずの安心に吐息を吐いた。

 すっかり余裕を取り戻した俺は、清々しいほどの感想を素知らぬ顔で言い放つ。

「酷い事件だな。廃工場で……二十人弱か」

「その十回目の連続暴力事件。この十回目だけ、犯人の証拠が見つかった。……何があった?」

 俺の悪事について、その実態を知る人間は数人存在する。だが翼はそういう奴らとは違う、協力者の立場だ。上条や星野先生がそうであるように、俺がしでかした揉め事の対処をしてくれている。

 どうやって翼がそいつらと関係を持ち始め、何が目的かはあえて触れていない。反発を買うと困るのは俺だからだ。

 翼の責めるような視線が俺に向けられていた。顔を伏せてゆるゆると頭を横に振る。

「……この十回目に関しては、心当たりがない」

「やっぱり、身に覚えないよね。良かった」

「ったく、面倒な事態だな。模倣犯か? 誰なんだよこれ」

 俺は髪を乱雑に掻き上げてぐしゃっと握りしめた。今まで出会ったことのない異例の問題に直面して、どうするべきか判断つかない。

 模倣犯だとして、二十人弱の人数を相手にすることについては行き過ぎている感が否めない。

 それに多くの手がかりを残してしまっている。捕まれば当り前だが今までの事件との関係性も問われるだろう。自分の首を更に絞めるような真似を、普通するだろうか。何を考えている?

「模倣犯の心当たりは?」

「……ねぇよ」

 まあ……模倣犯が誰だったにせよ、俺には得なことしかない。あの記事の言う通り、犯人の証拠が見つかったとして、それは間違いなく俺に繋がらないからだ。

 書かれていた事件は昨日の深夜に起きたらしいが、そんな時間帯に外出した覚えはないし、喧嘩をする時は必ずそのことを協力者の誰かに知らせる規定があった。昨日、俺が起こした一件で生まれた証拠が残されている筈がない。

 今のところの実害は発生しないと判断した俺は、これ以上模倣犯の引き起こした事件について考えることを止め、話題を切り替えた。

「あいつ……上条は、何か言っていたか?」

「この事件と朱連との事実関係を確認してくるように言われた。それと昨日の件は全て消し去った……そう聞いた」

 つまり、翼の用って言うのは遠回しに上条の用件及び報告だったというわけか。

 上条の野郎、自分が相手なら初めから俺が言うことを聞かないと分かっていて翼を寄こしたな。

「悪いな翼。あんな奴のパシリしてくれて」

「別に。俺もあの人も、お互いを利用するだけ利用するだけ。あの人なら確実に朱連を守れるから」

 あんな奴に守られていることは少し不服だが、賛同の意も込めて俺は鼻を鳴らした。

「あと最後に一つだけ。これは俺らが全員で話し合って決めたこと、言わば命令。それは暫くの組織を相手にした喧嘩を禁止すること」

 突然の宣言に俺は頭の中が真っ白に塗り替えられた。滲む焦り。俺は納得が出来るわけもなく声をあげた。

「は、はぁ?! ふざけんなよ、お前らも知ってんだろ。あと少しであいつらを確実に潰せるんだぞ!? そしたら……」

「朱連」

 はっきり、静止の言葉が行き届いた。真っ直ぐに突きつけられる目の鋭さ。それに応える形で俺は続きの言葉を飲みこむ。

「これは個人的な話だけど……」

 翼は小さく吐息をついて目を閉じた。眉間に皺を寄せながら考え込んでいたようだが、ついに覚悟を決めたのかぽつぽつと呟き始めた。

「最近……天と新が教室にいないのは知っているだろう。すごく、変だ。……俺は、新がこの騒動の根本を引き起こしたと推測している。そして、今回もまた然り。この十回目の暴力事件は、罠かもしれない」

「なっ……?!」

 新が、俺をめようとしているって……そう言いたいのか、翼は?

 何故を考えるよりも、自分の腹で怒気が沸き立つ方が早かった。それに全て覆われそうになりながらも、少しの理性で踏みとどまる。

 今にでも胸ぐらを掴みかかってしまいそうな右腕を押さえつけ、俺は慎重に問いかけた。

「……新が、何でそんな事をする必要があるんだよ」

 いくらなんでも友人である新に対して、自分たちを陥れようとしているなんて考え、俺は認められない。

 翼を責める気持ちで理由を追究した強い言葉は、余りにも単純な言葉で片付けられた。

「新がそういう奴だから」

「なんでんなこと!」

 約一年の月日で互いを知り合った新に対してのあまりに冷酷な言葉に俺は語気を荒げて反発する。

 気がつけばネクタイを掴んで翼を引き寄せてしまっていた。

 無感情の瞳の奥をいくら睨みつけようが、翼の端的な言葉の無慈悲さが変わることはない。

「俺は前にも言ったよ、あいつは友達じゃない。だからそんな目でも平気で見られる。そのことを、朱連がまた忘れていただけ」

「また……また、忘れた?」

 翼の氷のように冷たい目線が俺に向けられている。そんな翼は初めてだった。

 状況の理解できない俺はただ困惑したまま固まってしまった。

「俺の言葉なんて、いちいち気にしなくてもいいよ。どうせ……また忘れるだろう」

 細められた瞳から溢れる非難の眼差し。

 怒りや、憎しみや、悲しみや……いっぱいいっぱいの感情の詰まった痛烈な言葉。頭が殴りつけられるような衝撃が走った。ぐらぐらと視界が揺れる錯覚さえ覚える。

 力なくネクタイを手放して机に腰かけた。

 俺は、俺は何を忘れている? どうして、翼はあんな目で俺を見る? 怖い、何でだ、翼、どうしてだ……。

「俺、俺はっ…………」

 頭の奥につっかえた何かが出てきそうで、吐き気を催すめまい。大きく脈打つ心臓の拍に合わせて右腕が唸りだす。細く鋭く、頭の脳髄を貫かれるような痛みが走る。

 あと少しで分かりそうで……でも、それを知ってしまうことによって、全部出てしまいそうだった。

 身体がぶるっと縮こまる。目の前が真っ暗になるぐらいの恐怖に塗りつぶされていた。

 もう、もう無理だ……限界だ。

 突っかかりを、吐き気を必死で抑えこんで、最後には……全て飲み込んでしまった。乱れた呼吸を繰り返していく内に、苦しみは何処かに消え去った。

 俺を見下ろす翼の声がとても遠くにあり、それはしっかりと聞き取ることができる。

「……とにかく、これだけは忘れないで聞いて。新は敵だ。天は……分からない。昨日なんて夜中に帰って来たし、やっぱり変だ。とにかく二人には気を付けて。それと、目立ったことは決してしないこと。警察も事件の証拠を手に入れたことによって勢いが増してきた」

 翼のあくまで事務的な言葉の並びに一抹の心寂しさを覚えた。ゆっくりと顔をあげて翼の温厚な瞳が再びそこにあるか、確認しようと視線を上げたその時、

――あいつは友達じゃない

 不意に頭の中にあの言葉が思い起こされた。

 そして、こんな思いが胸の奥にチラついたのだ、もし翼も同じように俺のことを思っていたら……と。

 瞬間に俺の全身は不安で覆い尽くされた。一つの憶測は好き勝手に物事を創造していき、瞳に残る翼の冷えた目が全てを崩していく。

 そうなってしまえばもう俺は翼の目を見ることが恐ろしくなり、顔を伏せてしまった。

 ……だけど俺は何処かで信じていた。翼はやっぱり、俺の友人であるということを。

 そのなけなしの希望を片手に、俺は少ない唾を飲みこんで口を開いた。

「……なあ」

 寒さなんて感じられないぐらいに身体に熱が蔓延はびこっている。胸の奥から感じる震えが声に反映されていた。

「どうかした?」

 無感情な声が上から降ってくる。

「俺たちさ……友達、なんだよな……」

 ……胸が詰まるような沈黙が、その答えだった。

 翼は新聞を拾い上げればそのまま扉の方へ歩き始める。

「つばさっ……!」

 すがるような気持ちで名前を呼ぶと、翼がこちらを向いてくれた。一筋の光が見えた気がして、心がもちあがる。

 待っていた翼の声は、相変わらず冷たい機械のようだった。

「朱連がそう思うなら……そうなのかもしれないね」

 ドアが軋んだ悲鳴を漏らしながら閉じられ、翼は資料室から去った。

 あんな……他人任せで、救いようのない言葉なら、初めから友達じゃないと言われた方が……どれだけ、良かっただろうか。

 分厚い扉が、俺たちの間を隔てて立ち尽くしていた。


 俺が自らの意志でこの狭苦しい天井の景色を見に来ることは最近減っていた。

 一人になりたい時の保健室はやっぱり、落ち着く。

 俺は長い息を吐ききり、体を反対側の向きへと転がした。決して寝心地が良いわけではない柔らかい心地に瞼を閉じる。

 自分でも眠れるような心の状態じゃないと分かってはいるが、こうしてじっとすれば何時か意識がフッと途切れる瞬間が来てくれるのではないかと思う。

 未だに治まらない火照りに逃れようと身体をよじる。冷えた腕で額を覆い、やっぱり目を開けてしまった。

「はぁ……」

 俺が溜息をしたタイミングを見計らってか、不意打ちにカーテンが開かれて眩しさが訪れる。赤い眼鏡のレンズ越しに優しげな瞳を投げかけられた。

「眠れないのかしら?」

「星野先生……」

「また何かあったの?」

 どう頑張ろうが今の自分は眠れないと悟った俺はゆっくりと起き上がり、掠れた声で返答した。

「えぇ……まあ」

 身体がだるいし、力も入らない。ボーっと惚けてしまうが眠気は全くない

 煮え切らない。自分の身体も、心も。翼と話してから……ずっとこんな感じだ。

――どうせ……『また』忘れるだろう

 また、忘れる……。

「……なあ、星野先生。俺、昔から……物忘れ、激しかったかな」

 少しだけ自嘲を混ぜて、俺は薄く笑いそう聞いてみた。星野先生はにっこりと微笑む。

「そうね……記憶力は良かったわよ。都合の悪いことを忘れるのも上手だったけど」

「都合の、悪いこと……」

「えぇ……」

 あぁ、きっとそうなんだろうな。俺は、本当に逃げるのが得意だ。自分だって思う。他人の心と向き合うことは、どうしても出来ない。だから……俺は昨日も、青翔から逃げたんだ。

 絶え絶えな笑い声を漏らしながら俺は額をおさえた。握りしめたシーツに深い皺が刻まれる。翼との記憶を無理やり引き出し、無残にも笑う。

 翼のことも、今まで逃げていたんだ。忘れられた相手が傷つくと分かっているのに。それすら忘れて、自分本位に……。そりゃあ、嫌われるよな……。

 自分の弱さに嫌気がさそうが、そこから抜け出すことの出来ない、俺は本当の弱虫だ。救いようがねぇ、本当に俺って奴は……。

「朱連」

 自暴自棄に陥った俺に先生がゆったりと包み込むような温かさで俺の名前を呼ぶ。

「は、い……なんですか」

「貴方は、子供よ」

「…………はい」

 優しげな口調で放たれた先生の言葉は、俺の胸の奥底を抉るナイフのような鋭利さを持っていた。

 両膝を抱えて、白い腕時計に爪を立て握りしめる。唇を握りしめ、溢れ出す声を必死に押し殺した。

 我が儘な子供だってこと……分かっています。分かっているんですよ、先生。

 だけど、どうしようも無いじゃないですか。もう俺は、裏切られるのは嫌なんです。

 だから、だから忘れることにしたんです。裏切られたことさえ、気づかないように。嫌なことも、それと全部一緒です。見たくない現実と向き合うなんて、俺には出来ません。

 やっぱり、俺みたいな野郎は、ずぅっと独りで、目を瞑って生きていくべきでしょうか……。

 そうすれば、傷なんて……一生つかないのに……。


 その日、放課後の時間が訪れるまで俺は寝ることもできず、たった一人でずっと座っていた。

 ようやく家に帰ろうと思えた頃には、すっかり窓の外は真っ暗だった。

 俺は星野先生に一言声を掛けて教室へ向かう。

 もうみんな下校してしまったのだろうか。廊下にも教室にも、玄関ででさえ俺は一人だった。

 その時ずっと、自分の隣に空白が生まれている気がした。

 誰かが、ココに来てくれるような……「遅れてごめんね」と笑いながら謝って、俺にありのまま接してくれるアイツが、今にでも来てくれると……頭の何処かで、思ってしまった。

 そんなこと、ありえないのに。

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