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第十話『平穏そうな空間』

【暴力表現あり】

 誰かに身体を揺さぶられる感覚に既視感を覚えながら俺は重く目を覚ます。右腕が妙にガタついており、力を入れることに一つの苦労が必要だった。上半身を起こしていつもより大きなベッドの周りを見渡す。そこかしこに物を無造作に置く、散らかり放題の荒れ模様。明らかに自分の部屋ではあるまい、ここは何処だ。

 状況の掴めない俺の鼻先にコーヒーの香りが突きつけられ、視線をそのまま上に向ければそこに緑川がいた。

「おはよ」

「……おはよう」

 とりあえず言われた挨拶を反射的に返す。しばし無言で見つめ合った後、我に返っておずおずと差し出されたコップへと手を伸ばした。丁度いい温度に冷まされたブラックコーヒーをすすり、一呼吸置く。コーヒーの波の渦を見つめながら、少しずつ頭の混乱と共に眠気を覚ましていった。次に見渡す限りのゲーム機器とカセットの山を眺めながら、コーヒーをついに飲み干す。

 身体中に巡る疲労の感覚に再度の夢へと招かれ揺れながら、眠気眼で数度のまばたき。

 やっと唯一自分が理解できた事象を、ぼやけ声に尋ねてみる。

「ココは……お前の部屋で、間違いないよな」

「そうだね」

 想定通りの返しだ。事態に頭が追いつかず、特別次の質問が思い当たらない。濡れたコップの底を眺めて放心する。

 本格的な寝ぼけが脳味噌に回っているようで、本来ならすぐさま気づくはずの疑問点の発見も、それは数分後の話だった。

「……なんでここは、俺の部屋じゃないんだ」

 我ながら日本語的に正しいとは思えない質問であると感じたが、わざわざ修正を加えるのも煩わしい。だらしなく背を丸めながらぼーっと項垂れる。

 昨日はたしか玄関で疲れて自暴自棄になったまま寝てしまった。気を利かせた緑川が部屋へ運んでくれたのだと思う、なぜか自分の部屋に。

「俺、朱連の部屋の鍵持ってないし」

「カバンの中」

「カバンなんて持ってなかったよ、朱連」

「……まじか」

 昨日の夜、俺は一体……何をしていたのだろうか。そういえば右腕の骨の軋みも、頭に大袈裟に巻かれた真っ白な包帯も、当たり前だが常に自分が持っているものではあるまい。

 何か荒事にでも巻き込まれてしまったのか。そうまるで他人事のように惚け続けていると、ぼやぼや記憶が蘇ってくる。

 へこんだ金属バットに血しぶき。鋼鉄の衝撃を振りかざした謎の人物の存在。俺に訴えかけるあいつの言葉。なんとなくだが、この事象の原因と全体像が自ずと掴めてきた。

 急に俺たちを狙ってきたアイツ、アレに逃げるに必死で身の回りの事は完全に疎かだった。額から流れ落ちた血液は地面に跡を残してしまったし、カバンは物陰にしまい切りで存在を忘れ去られている。

 この事実をのみこんでなるほどそういうことか、そう納得するのには数十分かかった。

「あの時か。なるほど……忘れてた」

「学校?」

「いやぁ、商店街のどっか」

「へぇ、まだあるかね」

「あー……」

 正気な話をすれば商店街の南方面は完全にシャッター街だ。人気も無ければ電球の交換でさえままならないほどに忘れ去られている。格好の不良の溜まり場だ。街の不良グループや暴走族なんかの組織はあの辺を根城にして、集会やなんかは近くの廃工場を利用しているらしい。

 ヨモギ町自体に長い歴史があるにせよ近代化は進んでいないし、治安はこの辺りじゃミナゴ町と並んで最悪だ。まず落し物が素直に見つけることができる地帯ではないだろう。

 つまり、今さらそこへ行ってカバンがまだあるかどうかは全く不公平な博打という事になる。

 俺は苦々しく呟いた。

「正直、あるとは思えんな」

「また大変な所に落し物をしたね。あの辺は近づくのも敬遠するよ。だって今も色んなグループで睨み合いの真っ最中じゃん」

「それもそうなんだよ」

 行儀のいいハクマ出身の不良坊っちゃまも地元でどんなに粋がろうが、結局ヨモギやミナゴに根城を置く大きな組織に流れ着く。不良の数に比例して組織数が多いし、ヨモギ町の南方面は常にグループ同士の啀み合いが絶えない。

 そんな南方面に行って変な事に巻き込まれたりしたらたまらない。たまたま殴った奴がここの古株組織の幹部さんだったりなんてしたら……目も当てられない。

 とにかくそんな組織に喧嘩を吹っかけるような自殺行為はしたくない。そいつらが本気で掛かってくればそれこそ数の暴力。

 半端ではない数の暴力に気圧されて、警察も無力に等しい始末なのだ。結果的に今の危うくとも平穏な生活を送れているのは、その筋の方々のお力添えがあるからだし。

「ヤクザ様のお仕事を増やしたくないなぁ」

「朱連は手が早いから本当に帰ってくる頃には冷たくなってそうで怖い」

「やめろ洒落にならん」

「まあでも、今って本当に緊張状態らしいね。この前の事件がまだ尾を引いているみたいで」

「この前の……あぁ、ハクマのボンボン同士がグループのリーダーだった奴のか」

 何か月か前、集会場所がたまたま同じ工場で鉢合わせした二つの大きな不良グループ同士で戦争が起きた。一方のリーダーが集団リンチの末に骨をかなりやられて病院送りの結果、精神を可笑しくしたという事件。

 事件自体も凄惨さを極めたが、その時のリーダー同士がハクマ出身である事は有名だ。

 何が悲しくてそうなったのだろう。親の脛を黙ってかじっていれば楽な人生だろうに。

 現在その事件の真実は都合が悪いのか揉み消されていて、今では既に都市伝説並みの扱いではあるが……これは確かな事実だ。

「そりゃリーダーがあんな目に合わされたらなぁ……」

「あの時からかな、他の組織も吹っ切れたかのように暴力事件を立て続けに起こして、みんな揃って警察の面倒になったのは」

「あぁ……そんなこと言われたら更に行く気無くしてきた」

 身体のだるさが何時にも増して重くなった気がする。

 正直に申せばカバンの中はノートはおろか、教科書すら無い、ほぼ空の状態。それでも俺がそれに失意の念を抱けるのは、中に財布が入っているからだ。

 ハウスでの食費や光熱費などの生活費は月単位で全員が規定額を出して、出された額でやりくりするように決められている。

 本来なら皆が協力して家事などの当番を割り当て、経済的な管理をするべきなのだろう。

 だがここの面子はどう頑張ろうが素直にまとまる性分ではない。そのことが入居時から明確だったので、初めから俺が管理している。その方が話は早い。

 だから俺が持ち歩いている財布にはいつ何時にスーパーの安売りがあるか分からないので、常に多額の金を入れている。

 つまりあの財布は何としてでも取り返す必要があるのだ。そうでなければ多大な迷惑を皆に掛けてしまう。そんなこと御免だ。

 事の深刻度を再認識して、ますます心が大きく沈み込む。両肩を落としたまま絨毯の柄の細部を見つめ、俺は力なく呟いた。

「どうしよう……」

「今からでもとりあえず見に行こうか?」

「いやでも……。あぁ、そうだなぁ……」

 雪や氷が足を取るし、早朝の冷え込みは馬鹿にできない。危険性や治安のことを考えてみても、十中八九カバンはないだろう。辛辣な結果は目に見えていた。

 俺だって行きたくはないが、原因が自分である以上、出来るだけの事をしてみるしかない。カバンが無かった時は、素直に頭を下げて謝ると腹に決めよう。

 そう決心して重い腰をあげるとコーヒーのコップを緑川に返した。

 緑川の無駄に着飾っていてサイズも合っていない服を借りて着込むと、適当に手櫛をしていく。

「飯は代わりに作ってくんね?」

「え、やだよ面倒臭い」

「お前俺より料理上手いだろ」

「ご飯なんて食べられればインスタントで良いよ別に」

 頑固にそう言われ、俺は呆れて肩を落とした。

「……あっそ。もういい、勝手にしろ」

 こいつ、凄く嫌がっているけどただ単にゲームをしたいだけだよな。

 緑川はいつも思うが目先の欲求には本当に弱い。止めろと言っても素直に止めた試しがなかった。何よりも自分の欲求重視のこいつに食事なんて生きていくうえでの事務的行動の一つにしか値しないのだろう。

 そう思えば将来俺がいなくなった時に、こいつは一人で大丈夫なのだろうかと心配になってくる。

「そうだ朱連、頭の怪我はもういい?」

 そう指摘された包帯ぐるぐる巻きの頭からの痛みは今のところ感じていない。頭をさすろうと上に伸ばした右腕の骨にある不協和音の方がはるかに問題アリのように思える。

 利き腕がやられているようで、随分と参ったことになった。右を諦め、左で頭を掻いて顔を歪ませる。

「頭よりか右腕が軋むんだよな。そんで頭の怪我はどれぐらいで治りそうだ?」

「頭部の切り傷からの出血は多いにしても傷が浅いから気にしなくても大丈夫。腕は分かんないや、後で診ようか」

「あぁ、頼んだわ」

 医学的な知識が豊富な緑川にはそれほどの頻度でもないが、怪我の手当てや面倒を見てもらっている。緑川自身が医者志望なわけでもないのにそんな知識、何処から拾ってくるのだろう。

 そんな緑川にこんな心配をされたのは今回が初めてのことだった。大層な外傷を受けたわけでもないし、怪我の酷さ、というより、怪我の場所の問題、だろう。

 この怪我がカバン探しの根本的な障壁にはなり得なかったので、大した重要視をせずに俺は部屋を去った。

 暖房の効いた過ごしやすい暖かな緑川の部屋とは対照的に、凍え死にそうなほど冷え切った暗黒の廊下。わざわざ電気を点け、氷のフローリングに素足をそろり……つま先のみをくっ付けて大股で歩き、階段まで到達した後に二段飛ばしで下りていく。

 玄関のタイルの上に制服が散乱している。どの服も赤黒さを滲ませ干からび、本来真っ白のシャツの襟首に至っては完全にそれで埋め尽くされていた。コートを着ていなかったせいでジャケットは悲劇的な状況で、当分は着られないだろう。

 血が固まった跡が残る制服を回収して洗面所にある、そういったもの専用の特別なカゴに投げ込んでおく。

 こんな時の為に制服の予備はあるものの、血の付いた服の始末は相変わらず骨が折れる。

 ため息を吐き切ると、最後に溜めた衣類から靴下を抜き出し、残りを洗濯機に投げ込む。何時もの作業の後にスイッチを入れた。

 晒されている足の素肌を防寒し、しっかりとコートを着て靴を履いて、玄関の鍵を開けて、ドアを開き…………拾って閉じる。靴を脱ぎ散らかすと階段を駆け上って緑川に部屋に逆戻りした。

 ゲーム画面を見つめていた緑川が思わずこちらにギョッとした視線を向けてくる。まだ雪が薄く掛かった肩掛けカバンを見せつければ、今度はきょとんとした顔で、ぱちくりとまぶたを動かす。

 俺がいま手にしているカバン。それは見紛う事なき俺のカバンであった。

「あれ……どうしたの、それ……?」

「カバン、ハウスの軒下に置いてあった」

「へー……良かったね…………え?」

 反応が毎回面白い緑川は放っておいて、とりあえずは財布の中身を確認する。

 ……記憶している限り、枚数も並びも変わっていない。誰にも盗られたりはしていなかった。

「良かったぁ……! 嗚呼、良かった!」

「う、うん。それにしても誰だろうね、こんなにも丁寧に届けてくれたの」

「……確かになー」

 感激に舞い上がりながらも、誰がこんな流暢にも届けてくださったのだろうかと思案してみる。そもそもハウスの在りかを知っている人であろうが、そんなものに心当たりはない。頭の中に、ぽっと一人の男の可能性が浮上した。

「あるとすれば……青翔かなぁ。昨日一緒に帰ったんだよ」

「で、昨夜の有り様を見る限り、下校途中にまたやらかしたと」

「……悪かったな」

「別に。朱連が好きなことを止めたりなんてしないよ。……それより朱連」

「なんだよ」

「そろそろ下に行きなよ。ご飯作る時間なくなるよ」

 そう言って見せつけられた時計には普段ならこんなトコで気ままに過ごしているにはありえない針の配置がなされている。

「…………あ……」

 だらしなく口をあんぐり開けて針の在り処を見つめること数十秒。正確な時間を理解できた俺は泣きそうな声で返答した。

「……はーい」


 遅刻さながらで教室に駆け込んだ俺は自分の席を見た途端に言葉を失った。衝撃で足がおぼつかない。のろのろと教室の隅へと近づくと、そこには二つの隣り合う空になった席が残されている。肩からカバンが落ちて柔らかく地面に激突し、空気が軽く抜ける。

「なっ……んで、おれ……」

 昨夜の路地裏、その暗がりで苦痛に歪んだ青翔の表情が思い出される。様子が可笑しいと分かっていた筈なのに……何も出来ずに逃げ出した自分を殴りたく思った。

 昨夜、俺が逃げた後、青翔に何かがあった。そんなこと明白だ。俺のせいで青翔は……いない。

 今朝、緑川と話した事件のことが頭によぎった。考えたくもない、嫌な想像が膨れ上がる。もし、もしも本当に事件に巻き込まれていたら……俺は、どうするだろう。今度こそ、逃げずに助けられるだろうか。……今はただ、願うのみだ。

 軋んだ椅子に座ると外の冷たい風景が窓越しに身体全体へ伝わっていく。

 隣に空いた穴が、考えていたよりもずっと大きく見えていた。

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