ほんの少しの目の位置で
短編です。さらっと読んでいただけたら幸いです。いきなりジャンルがホラーから日常系に変わります。
やった!ついに成功した!私はようやくあの牢獄から抜け出したのだ!多少荒っぽく強引な手段だったが、脱走時には文字通り空を飛ぶ思いがしたものだ。今まで脱走に費やした無限ともいえる時間を思い出す。喜びのあまり泣きそうになるが、涙は流れない。代わりに赤く充血した瞳を何度も擦った。
そう、私は自由を手に入れた——筈だった。
牢屋を後にした私はすぐさま薄汚い廊下を走り出した。窓から差し込む月明かりは私の頭にびっしり生えた真っ白な毛をきらきら照らす。扉はこの監獄の管理人達がずぼらなお陰で全て開いていた。確かにここまでは順調だったのだ。しかし部屋から部屋を全速力で横切り、やっと建物の外へと続く扉の前まで来た所で、私は最悪の敵と出会ってしまったのだ。
「そいつ」は暗闇の中で荒い息を吐き、ナイフの様に光る瞳をぎらつかせていた。開ききった瞳孔には明らかな殺意が宿っていた。私はそいつと目が合った瞬間、全身が総毛立ち、思わずその場に立ちすくんでしまった。
そいつは牢獄に入れられる前、私の仲間を大量に惨殺した気違いグループの一員だった。その上やつらは殺しだけでなく、私の仲間の死体を生のままむさぼり食っていたのだ。まったくもって正気の沙汰ではない。この牢獄に入ってから手に入れた唯一の幸福と言えば奴らの姿を見なくなったこと位だったというのに。ああ、この畜生の一族はどこまでも私たちの邪魔をする!
そんな悲嘆に暮れている私へ向かって、そいつは迷わず飛びかかってきた。私は全神経を集中させすぐさま右に飛び退き、なんとか攻撃を避けた。だがダメだ、このままここにいては殺されてしまう!今のは奇跡的に回避出来たが、しかし二度目は無いだろう。攻撃を避けたせいで、さっきまで目の前にあった出口から遠ざかってしまった。出口へ向かって駆け出したら最後、背中からやられて天国行きだ。
生と死の境界線がゆらぐ。得体の知れない違和感が喉からこみ上げてくる。私は毒薬の様な不安をこらえつつ、周囲を見渡した。
この部屋には東西南北それぞれの壁に一つずつ扉が設置されていた。外へと続くのは北の扉。しかし、現在西側にいる私にはあまりに遠い。じりじりとそいつは距離をつめて来る。西の扉は開いているか確認しようと目を逸らした刹那、そいつは足下を蹴って飛びかかってきた!咄嗟に視界の隅に見える西の扉に飛び込んだ。背後から扉に頭をぶつけた音が響いた。私は後ろを振り返らずに明かりの無い廊下を走った。
しばらくすると観音開きになった鉄製の扉が見えてきた。隙間から死臭がする。私はすぐさま悟った。この扉の向こうにあるのは「死刑室」なのだ。監獄に閉じ込められた私たちの最後を飾る世界。あっけにとられていると、遠くからあの血に餓えた息づかいが聞こえきた。ああ、もうここまでやつはやってきたのか!しかし、周囲には死刑室以外逃げ道が無い。強いストレスを感じながら、藁にもすがる気持ちで死刑室の扉の中へ滑り込む。獣の様な速さでそいつも後から入り込んで来る。
部屋の中に充満する濃密な血の匂い。ツンとした得体の知れない薬品の匂いも混じっている。死刑室の中にもまた檻が存在していて、その内側には瀕死の状態の同類が横たわっていた。それらは私の近い将来、なるであろう姿だった。この逃げ道のない死の運命から逃れようと、必死にここまでやってきたのに!私は運命から逃げる様に死刑室の廊下を走り抜けた。背後から興奮しきったそいつの声が響いてくる。いやだ、いやだ、死にたくない!恐怖のあまり距離感も判らないままがむしゃらに走る。何でもいい、私を助けてくれ!そう願った先にあったのは——。
闇に浮かぶ、真っ白な部屋の壁だった。私はその場に棒立ちになる。次の瞬間、私の小さな体はそいつの爪に引き裂かれ、蹂躙され、目の前の壁に赤い叫びをまき散らした。
次の日の朝、学校にいち早く着いた学生がいつものように生物研究室に入ると、ラット用のケージが地面に転がっているのを発見した。どうやら昨日の夜中、棚の上に置いてあるうちの一つが落下して、中にいたラットが逃げ出してしまったようだ。学生はため息をついてゲージをもとの場所へ戻し、密かに飼っている猫の餌をあげに研究室の奥に消えた。