中編 光と影
私は走った…
とにかく無我夢中で走り続けた。
私のバックを両手で抱えた女の子に追いつこうと必死だった。
しかし、懸命に走ろうとするが思うように身体が言う事を聞いてくれない。
ちょ…っ、なんでこんな重いのよ着物って!!
しかも足が前に出ないじゃないのー!!
まるで何キロもあるバックを背中に抱えて走っている様だった。
雑踏の中街を行き交う人々は、みんな私を振り返る。そりゃそうだ、真っ赤な派手な着物に身を包んだ少女が髪を振り乱し走っているのだから。
とにかく追いつかなきゃ…
パスポートなくなっちゃたら日本に帰れなくなるじゃん!!
しかし、一心不乱に走り続ける私に急に不安と恐怖が襲ってきた。
パスポートが盗まれたから…!?イヤ…違う…
何これ…私は今どこを走っているの!?
まだほんの数分も走っていないうち、街並みががらっと変わったのだ。ハリウッド映画で見たような、洗練された大都会だったはずの香港の街並みが消えたのだ。
そして、急に雑居と腐敗がただようなんとも言えない薄汚い景色に変わっていたのだ。
超がつくほどの高層ビルの代わりに、一体何十年前に建てられたかも分からないほど古ぼけた、今にも色あせた壁面が崩てきそうなボロアパート。
まるでファッション誌から飛出してきたような、オシャレな人々で優雅に賑わうカフェの代わりに、ツーンと香辛料の臭いが鼻につく屋台が立ち並ぶ街には、とにかく寒さをしのげればというような服を着た人々でごちゃごちゃに溢れかえり密集していた。
怖い…今私はどこにいるの…!?ここはどこ…!?
こんなの香港じゃない!!
だって、香港はアジアでもいち早く資本主義を取り入れ発展した大都市じゃなかったの!?
今まで感じた事もないような恐怖と不安に包まれながらも、女の子が入った路地裏を入ってゆくと…
―――!?
身体の奥から胃液がこみ上げ嘔吐しそうになる。
なにこの腐敗臭!?
今まで見た事のないような光景が目に飛び込んでくる。
壁面が少し崩れ落ち、コンクリートの中からは鉄筋がむき出しになっているアパート。
そのアパートの前に、数十人の子供たちと何人かの大人の女性たちが敷き詰められたダンボールの上に、黄ばんだ毛布に包まり生活していたのだ。
そしてその真ん中の方には、さっき私のバックを盗んだ女の子が仲間の子供たちと私のピンクのファーのバックを囲みキャッキャッ言いながら騒いでいた。
「チャー」
「チャー」
その路地裏の住人たちは、戻ってきた女の子にみんなで声をかけていた。
「チャー」
その少女もまんべんの笑みを浮かべ住人たちに挨拶をしている様だった。
「私のバックを返して」
私は震える身体を押さえながら声を振り絞った。
にぎやかだった路地裏は一瞬静まり返り…
直後殺気立った。
まるで獲物を狙う獣のような目に変わったかと思うと…
気がつけば、私の足元は数十人の子供たちに囲まれていた。
「ワンダラー」
「ワンダラー」
子供たちはさっきの女の子と同じような愛らしい笑顔を浮かべ私の着物の裾を引っ張った。
何なのよ!この子たち。
やめてよ…そんな汚い手で私の着物を触らないで
私は気が狂いそうになる。
「ここへ何しに来た!!帰りなさいお嬢さん!!ここはあんたが来るような所じゃない!!」
何を言っているのか分からなかった路地裏に急に懐かしい日本の言葉が聞こえた。
しかしその声は憎悪と怒りに満ちた声だった。
しかし、ここまで来た以上は私も後には引けない。
「ちょっ…何言ってんのよ!!何しに来たったてねぇ…そのバックを返してもらいに来たのよ!!早く私のバック返して!!」
「あのバックはあの子のもんじゃ!!」
その声の主…ここの住人の中でも一番年配であろうと思われる白髪の老人が私に近づいてきた。体中に襲う恐怖は頂点に達し身動きひとつ取れなくなる。口の中はカラカラに乾き、私の身体は小刻みに震えだす。
「お願い…返して…お願い…私のパスポートだけでもいいから…」
声にならない声を発し、気がつけばその場に倒れ泣きくずれていた。
涙でぼやけた視界に、その老人が女の子に話しかけているのが見える。
おそらく中国の言葉だろう…意味の分からない言葉で二人は話し込んでいる。
二人の話しが終わった後、その女の子はしぶしぶ私のバックから私のパスポートを取り出した。
しかし、女の子はおもむろに私のパスポート開いたかと思うと、とたんに不服そうだったさっきまでの表情とはうって変わり、急に愛らしい笑顔になった。そして、しゃがみこむ私の前に突然小走りに走ってきたかと思うと、私の顔写真が写っているパスポートの面を差し出しこう言った。
「SACHIKO」
SACHIKO!?幸子。そうよ私の名前は幸子。だから何!?
早くパスポート返してよ。そして一刻も早くここから出たいんだから。
しかしその少女は私に握手を求めるように、手を差し出し無邪気な笑顔で嬉しそうに話して来る。
「My Name is SACHIKO」
「ははは…どうやらお嬢さんはコイツと同じ名前らしいなぁ。久しぶりにコイツの嬉しそうな笑顔を見たよ。握手してやってくれないか!?」
さっきの白髪の老人が言う。
へっ…キミも
「さちこ」
って言うんだぁ!?
はは…ははははは…
その女の子の嬉しそうな笑顔と、突拍子もない突然の事実が、さっきまでの恐怖を消し去り、なんだか笑いがこみ上げてきた。
はは…ははははは…
私たちは手を握り合い二人で笑った。
その光景が微笑ましかったのだろうか、さっきまで殺気立っていた路地裏は急に住人たちの暖かい笑い声に包まれた。
パスポートを返してもらい、私は帰ろうとも思ったのだが、打ち解けたついでにさっきから気になっていた事を聞こうと思った。
そう…単なる興味と好奇心だけで…
ここはどこなんだろう!?
そして一体この子供たちは何…!?日本の言葉を自在に操るあなたは何者…!?
しかし私はすぐに後悔した。
それを聞いた事ではなく…
単なる好奇心で彼女たちの生活をひもといてしまった自分にだ。
軽い気持ちで聞いた私は自分を何度もたしなめた。
目を背けたくなるような事実…
しかし目を背けてはいけない事実がここにある…
ここは、両親がいないストリートチルドレンの集まる場所だったのだ。
学校へも行けず、ただ明日を向えるためだけにその日を生きる子供たち。
そして、
「さちこ」
という少女も含め、大半の子供たちは生まれるべくして生まれた訳ではない子供たち。
そう…子供たちは父親の顔を知らない…
そして母親は…
―――娼婦たち
イギリス支配の資本主義経済により急激な成長を遂げた香港は、中国への返還という、これもまた急激な経済体制の変化という数奇な運命をたどった。その結果、歴史は目を覆いたくなるような影の部分を生み出してしまったのだ。富める者はとめどなく富み、貧しき者は血を吐き土を舐めてまで生きてゆくしかないほど貧しき生活をしいられる。
日本では考えられないほどの貧富の差。
急激な経済成長を続ける香港に魅力を感じ、世界中の人々が成功を夢見て香港に集まった。
そして、事実彼らは成功し財を成した。
しかしその影では、成功者たちに群がるようにアジア諸国の貧しい国の女性たちは香港に娼婦として出稼ぎにきていたのだ。
―――生きるために生きる道
それは、成功者たちになけなしのお金で自分の身体を売るしかない道。
ここの路地裏にいる子供たちは、そのように娼婦として生きていた女性たちが望むべき事なく生み落とした子供たち…
そして、身体を売り続け弱り果てた娼婦たちの多くは、数年前のSARSによりその若き命の幕を閉じていった…
「さちこ」
の母親も、SARSにより命を終えた娼婦の一人。未来も希望も…明日への夢さえない毎日に、間違いであっても生まれた子供につけた名前。
日本の文化に憧れ、日本語教師を目指していたが、数奇な歴史の渦に巻き込まれ、娼婦としてしか生きてゆくことができなくなった彼女が付けた名前。
―――幸子
せめても生まれてくる子供だけは自分と同じ運命を辿って欲しくはなかったんだろう。
幸せに生きて欲しかったんだろう。
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日
二人で過ごした日々…
明日さえ分からぬ生活の中、父親が誰かも分からない
「幸子」
を彼女は愛し抜いた。
「幸子」
がいるから夢も未来も見えない暗闇の中でも明日だけを信じて生きてゆけた。そんなわが子を愛する気持ちで
「上を向いて歩こう」
を毎日幸子に歌っていたんだろう。
明日の生活も分からないにも関わらず、この路地裏からいつか陽のあたる場所へと夢見て、身体を売り続けた娼婦たち…
そして、それにより仕方なく生み落とされた子供たち…
この路地裏には国籍もなにもない小さな命が増え続けた…
そしてこの路地裏で生きてゆくには、老いとともに身体が蝕まれて売れなくなった娼婦たちの変わりに、まだ身体を売れない幼き子供たちが、お金を持っていそうな観光客から、バックを盗むしか生きてゆくすべがなかったのだ。
「ワンダラー」
彼女たちの愛らしい笑顔は、たった1ドルのお金を恵んでもらうための、生きてゆくすべだったのだ…
本当は、涙も枯れ果て笑顔なんて作る事すらできないはずなのに、たった1ドル貰うために、悲しみを心の奥に隠して天使のように微笑む子供たち…
幸子…
幸子…
私は
「幸子」
を抱きしめ、ボロボロに泣き崩れた。私の腕の中の小さな身体から、精一杯生きてゆこうとする
「命」
の温もりが伝わってくる。
ごめんなさい…
ごめんなさい…
すすけた彼女の頬に、涙に濡れた私の頬をすりつけて…出てくる言葉はなぜかそれだった…
「もぅいいだろう…お嬢さん…。最初に言った通り、ここはお嬢さんが来るべきところではない…。早くそのパスポートを持って帰りなさい。」
その白髪の老人は悲哀に満ちた眼差しで、私に声をかける。
この老人もまた歴史の渦に巻き込まれた一人。
中国語と英語と日本語を自在に使いこなすその老人は、小さな旅行業を営んでいた。
しかし激しく揺れ動く経済の波に潰され、彼女たちとともに路地裏の生活へと強いたげられたのだ。
「帰りたくない!!」
なぜかとっさに出た言葉がそれだった。
さっきまで、早く出たくてしょうがなかった路地裏を、今はどうしようもなく出てゆきたくない。
この子供たちを置いて、私だけホテルの暖かい部屋には帰りたくない。
私がここに残ったとしても、何もできない…何も変わらない…
だけど…
だけど…
帰りたくない…
老人は私の肩をたたいた…
そして、私の心をみすかしたような眼差しで優しく語りかける。
「みんなそうじゃ…。テレビや映画で我々のような生活が流れると、みんな哀れみる…。みんな何か出来ないかと考えるじゃろう。しかし、それは無理だ。あなた達には何もできない。ただ我々を哀れみ、自分の中にあった人間的な感情に刹那に酔いしれるだけじゃ…
そして、また何事もなかったかのように、日常が始まり、我々の事など忘れさられてゆく。
ワシらは、他人に何も望んではおらぬ。
自分たちの力で生きてゆくしかないのじゃ」
私は心が痛くなった。
確かにその通りかもしれない。子供たちの事を目の当たりにして、
「何かしてあげたい」
という人間的な感情が自分にもあった事を確認し、酔いしれてるだけなのかもしれない。
―――確かに
私には何もできない…
だけど…
だけど…
帰りたくはない…
ただ…泣き続けるしかないない無力な私だった。




