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前編  香港

赤い閃光が鮮やかに走る


どくん… どくん…


私の鼓動のリズムに合わせ


その閃光からは私の赤い命が流れ出る


静かだった…


何も音のない世界…


ただただシャワーから流れる水に合わさり


私の手首を走った鮮やかなまでの赤い閃光からは


私の命が流れ出る…


意識が朦朧としてくる…


これで何度目だろう…


真っ白になった静かな世界は次第に私の思考を止めてゆく


やっとこれで私は命を捨てる事が出来る…


イヤ…ただ生きている証が欲しかったんだ


命の幕を閉じるという事は


私が今まで生きていた証…


生きていた証…


生きていた…


無力なまでに…


ただ意味もなく…


生きていた…


証…









「幸子!!いつまでお風呂に入っているの!!飛行機の時間に遅れるわよ!!」


真っ白だった世界から不意に現実に戻される。

大ママ(祖母)の恐々しい声が、意識薄弱としていた私の心を現実に引き戻した。


声にならない声で返事をした後、私はお風呂場に流れた赤い命が見つからないように浴槽をシャワーで流した。そして脱衣所でさっとバスタオルを羽織り自分の部屋に戻った。


また幕を閉じれなかった…


左手首に残る数本の閃光の中の、さきほどできたばかりの真新しい少し赤くにじんだものただただ一人見つめる。


「タクシーが来たんだから早くしなさいって言ってるでしょ!!」


大ママの声は次第に怒り声になっていった。

私は自分の部屋で素早く着替えを済ませた後、左手首にサポーターを巻き大ママの待つ玄関へと急いだ。




成田空港へ向うタクシーの中、大ママはただ事務的にこの後のスケジュールを私に話すだけだった。年明けそうそうというのに、明日から邦楽の発表会があるのだ。しかも香港で。なんでも

「文化交流会」という事で、香港の学生たちの弾く胡弓と日本の学生である私の弾く琴で合奏をするのだ。日本の邦楽会でも著名な師範の孫娘という事だけで、どれだけ今まで私は大ママに振り回されてきたことだろうか?物心ついた頃から私は好きでもない琴や三弦を大ママから習わされ…いやそれだけではない!仕事仕事で養育を放棄したパパとママに代わり執拗なまでの教育に対する私への執着。


私は自由を感じた事がない。


私は大ママの単なる操り人形。


ただ…大ママの言うとおり生きてさえいればいいんだ。


でもそれは本当に生きてるって言うんだろうか…







「機内への刃物類の持込はできません。お持ちの方は必ずここでの破棄をお願いします。」


成田空港で香港行きJAL国際便へのチェッカーを通る前、私は自分のバックからそっとカッターナイフを取り出しコートのポケットへ入れた。

目を閉じチェッカーをくぐる。


ブザーは鳴らなかった。


ふぅ…


私はそっと胸をなでおろす。チェッカーを抜けた後、コートのポケットからもう一度カッターナイフをバックに忍ばせた。


これだけは絶対離せない…


いつからだろうか?

私はカッターナイフが手放せなくなってしまっていた。


だって私は操り人形。

ただ生きている証が欲しいんだ。








香港国際空港へ着いた私たちは空港から出ているMTR(地下鉄)でまず香港島側に渡った。

一概に香港といっても、香港とは九龍半島側と香港島側というように海を挟んで二つの島で成り立っている。私の発表会があるのは銅鑼湾という香港島側にある都市なので、まずは空港から九龍半島を通り抜け香港島側に渡らなければいけないのだ。

地下鉄と言っても、香港島側へ行くまでの間は地上を走る場面もあり、私は車内の窓から見る景色にあっけにとられてしまった。


ビルが今にも落ちてきそうなくらい高い…


超高層という言葉では表現しきれないくらい高いビルの脇をすり抜けるように走っていくMTRからみる景色は日本では見た事もないような景色なのだ。

香港ってこんなに大都市だったんだ…

言葉を失った私を横目に大ママが言う。

「香港は今は中国だけど昔はイギリス領だったのよ。」

えっ…

香港はイギリス領!?

なにそれ!?初めて知った。

異国の地へはじめて降り立った感動と驚きで私は少しテンションが高くなっていた。

「驚いたでしょ。香港はイギリス領だった事から、アジア諸国の中でもいち早くに資本主義経済として成長を進めていた国なのよ。」

大ママは説明してくれた。

成るほど…

どうりでアジアのイメージではない訳だ。

ただ言われるがままに学校と塾とお稽古ごとに追い立てられるちっぽけな毎日の中に生きていた私は、初めて見る世界の大きさに毎日感じていた憂鬱な気分が薄らいできた。



そして――

香港島側に着いた私たちはMTRを乗り換え銅鑼湾についに着いた。

ここは本当にアジアの国なのだろうか!?

洗練されきった街並みと、そびえたつ高層ビル群はまるでニューヨークにでもいるかのようなイメージだった。

駅から少し歩いたところに、タイムズスクエアというデパートがあり、明日はここのデパートの1階で発表会を行うのだ。このデパートは吹き抜けになっており、1階にある大きなイベントスペースからは最上階でショッピングに行き交う人がとてもよく見えた。

日本では考えられないくらいに都会的に洗練されたデパートの大きな大きな空間に包まれた私は身体が少し震えた…

今までさまざまなコンクールや演奏会で曲を発表して来て、発表会などというものに慣れきって少しクールになってた私だったが身体の芯から少しアツイものがこみ上げてきた。







――翌日

私は鮮やかに光り輝くような真っ赤な着物に身を包み、タイムズスクエアの舞台に立った。

イベントスペースには多くの人だかりができ、皆が私たちの演奏に熱心に耳を傾けてくれた。

「六段の調べ」

から始まり、新年ということで

「春の海」

を弾き、最後に坂本九さんの

「上を向いて歩こう」

を合奏するというプログラムだった。

演奏会はなぜか

「上を向いて歩こう」の時が一番盛り上がった。


なぜ日本の歌なのに…!?


一瞬とまどったが、


…!?そっか。


「上を向いて歩こう」は「SUKIYAKI」という曲で世界中に親しまれていたのを思い出した。演奏中確かに皆が英語で口々に口ずさんでいたのが聞こえた。



…!?あれ…


あの子…


さすがに3曲目ともなるともう慣れてきて回りを見渡せる余裕が出来た私は、一番前で体育座りをして楽しそうに「上を向いて歩こう」を口ずさんでいる小さな女の子を見つけた。

そう…「SUKIYAKI」ではなく「上を向いて歩こう」を口ずさんでいるのだ。

皆とは口の動きが全然違う。



うえをむいてあるこう…


なみだがこぼれないように…



確かにそのような日本語の口の動きになっているのだ。


日本人なのだろうか…!?


イヤそんなことはない。

なぜならば、もし日本の観光客ならばあのような格好では絶対で出歩かないはずだ。

そのおかっぱ頭の小さな女の子はTシャツとジーパン姿だったのだ。

香港は日本より少しは暖かいといっても1月にコートなしで出歩いてる人など目にはしない。

しかもそのTシャツもなぜか所々汚れが目立ち、まるで何日も同じものを着ているようにも思われた。


妙に印象的な女の子だった。






演奏会が終わった後、私はタイムズスクエアの外の広場にあるベンチに座りジュースを飲みながらくつろいでいた。

お気に入りのピンクのファーでできたバックを横に置き、両手をまっすぐ上に突き上げ大きく伸びをした。

なんだか、今までには味わった事のないような達成感を少し感じていたのだ。



パチパチパチ



ベンチでくつろいでいた私に向って誰かが拍手をしながら歩いてきた。



――さっきの女の子だ



その女の子は屈託のない笑みを浮かべた後、私の横にちょこんと座り歌い始めた。

上を向いて歩こう


涙がこぼれないように


思い出す春の日


二人で過ごした日々



なんとも言えない可愛らしい歌声に聞き入っていた私だったが…


えっ!?


あれ!?


「二人で過ごした日々」!?


そこは「一人ぼっちの夜」じゃなかったっけ!?

とにかく私はずっと気になっていた事を聞いた。


「キミ…日本人!?」


女の子は良く分からないような顔でこっちを見た後、また私に微笑んだ。

なんて可愛い笑顔をするんだろうこの子。

私は5歳か6歳くらいであろうその女の子が妙にいとおしく思えてきた。

すると女の子から


「日本人ですか!?」


ってカタコトの日本語で私に話しかけてきた。

なんだ!!その話し方を聞くとやっぱり日本人ではなく香港の子だったんだ。

それにしては「上を向いて歩こう」が上手に歌えるな。

私は感心しながら女の子に最高の笑顔を向け言った。




「Yes!!Japanese!」




…とその瞬間だった!!


ちょ…ウソでしょ…



女の子は私の横に置いてあった、私のお気に入りのピンクのファーでできたバックを手に取り走って行った。



『幸子。香港ではバックを身体から話してはいけません。』



大ママの言葉を思い出した。


って遅いよもう!!


私は自分のマヌケさを自嘲しながら女の子を追いかけた。


そのバック私のお気に入りだったんだからね!!ちくしょう!!


バック返せ!!キミ!!


ん!?イヤ…


バックどころの話じゃなぞ…


わ…私のパスポートも入ってるじゃん!!


事の重大さに気づいた私は、私の前を走ってゆく女の子を必死で追いかけるしかなかった。


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