予定
僕はあまりの悪夢に目が覚めた。
朝日が青いカーテンの向こうから、うっすらと僕の部屋を明るくしていた。
汗が肌と寝着をくっつけている。気持ち悪いことこの上ない。
いつも通りにカーテンを開けた。一面真っ白だ。夜の間に静かに積もった雪は、朝の清々しい日の光を反射してキラキラと輝いている。僕はその眩しい光を浴びることで、嫌な気持ちをリフレッシュさせようとしたのだ。
それで大抵の夢を忘れることができる。覚えていたとしても、悪い夢だったという事実くらいだ。
……でも、憶えている。
このとき、この夢は正夢なのだと知った。
今日から三学期が始まるというのに、憂鬱な気持ちを抱えて過ごさなければならなくなった。
僕は、知りもしない一人の少女を助けて死ぬ。
それが夢の内容だった。
僕は度々、予知夢を見る。その夢は何故かハッキリと憶えているのだ。自分自身のことかもしれないし、他の人のことかもしれない。僕が空き缶を踏んで転んだり、友達が喧嘩したりなど様々だ。そして近いうち、二週間以内には必ず起こった。だけどそれを回避することは、十四年間一度も叶わなかった。その情景は憶えているのに変える事ができなかったのだ。
今日見た夢も近い内に現実になるだろう。だけど今回は今までとはレベルが違う。全力でそれを回避しようと決めた。彼女を見殺しにするということだ。僕はきっとその罪に苛まれながら生きていくことになるだろうけど、僕だって死にたくはない。名も知らない少女には申し訳ないが、見殺しにすることを決めた。僕は知らない少女を助けるような善人ではないのだ。そこまで聖人君子ではない。
憂鬱な気持ちを切り替えることができずに登校した。
見殺しにすると決めたが、それは人を殺すのと同じだ。果たして僕の精神は耐え切ってくれるのだろうか。
そんなこんなで始業式が終わり、これからホームルーム。今日はこれで終わり。家でまだ読み終わっていない本をじっくり読むとしよう。
僕の隣に何故だか空席があった。元々隣には誰もいなかったが机は置いていなかった。
それになんだか教室が騒がしい。前の席のクラスメイトに訊くと、どうやら転入生が紹介されるようだ。ということは、ここはその子の席か。冬休み前はそんな話は一言もなかったのに。先生の怠慢だ、と勝手に決めつけた。
先生の合図で教室の扉が開き、転入生が入ってくる。
皆が皆、転入生を見ようとして背筋を伸ばす。僕は背が高くないし、一番後ろの席だから、そういうことをされると全く前が見えなくなってしまう。転入生はどうやら女の子のようだ。クラスメイトたちのせいで顔は見えないが、肩までかかった髪は見ることができた。未だに顔は見えない。僕はここで彼女を見ることを諦めた。どうせ隣に来るのだ。
僕まで届いた声は可愛いと思った。
自己紹介もそこそこに彼女が隣にやってきた。彼女はよろしくの一言と共に、僕に優しく微笑んだ。
その瞬間、僕は生まれて初めて恋をした。
一目惚れ。そんなものあるわけがないと思っていたことが我が身を襲った。静かな清流を想起させる彼女に僕は目を奪われた。
そして理解した。僕は彼女を守って死ぬということを。
彼女は僕が想像していた通り、物静かだった。けれどクラスメイトとはすぐに仲良くなり、時折見せる笑顔が僕の胸を焦がした。
僕は席が隣ということもあり、彼女とすぐに打ち解けることができた。お互いのことも話すようにもなり、夢の話になった。ここでの夢は将来の夢の方だ。
彼女は作家になりたいそうだ。すでにいくつか書き上げてあるという。僕は小説を読むのは好きだから、読ませてもらおうと頼んだが、頬を赤くして恥ずかしいからダメ、と断られてしまった。その時の彼女は特別可愛かった。
逆に僕の夢も訊かれたが、特になりたいものはない、と答えた。
本当になりたいものなんてなかった。大人になるにつれて自然にできるものだろうと思っていたのだ。それに近い内に僕は彼女を守って死ぬのだ。将来のことを考えても仕方がなかった。
彼女が転入してから一週間が過ぎた。
特に変わったことは起きていない。予知夢もあれ以来見ていない。
僕の寿命は残り最長一週間。その間、何をして過ごそうか。
これまでの一週間は母の手伝いを積極的にした。父は単身赴任で家にはいない。母は最初こそ驚いていたが、すぐに笑って喜んでくれた。家では本ばかり読んで、半引き篭もりだったから仕方ないのかもしれない。これでも育ててくれたことに感謝しているんです。
そして今日も母の手伝いをする。
今日は買い物だ。どうやらドレッシングが切れていたらしい。どれでも好きなのを買ってきていいと言われ、お金を渡された。
……どれでもいいが正直一番困る。
スーパーに行きドレッシングが並ぶ棚の前に立つ。さてどれにしようか。青じそ、和風、中華、ゴマ、シーザー、イタリアン、フレンチ、ゆず、摩り下ろし大根、明太子。
……明太子?
無難に青じそを手に取った。
スーパーを出るとまだ日差しが高い。これなら寄り道しても大丈夫そうだ。
僕は行きつけの本屋によることにした。
ドレッシングが入ったレジ袋をぶら下げての本屋は、中々シュールなものがある。
中は見慣れた店員さんばかりだ。新しいバイトの人が入ればすぐにわかる。そのくらい僕はここの常連だった。でも個人店ではないから、たとえ僕の顔を覚えている人がいても、レジの人くらいだろう。
一日かそこらで読みきれる本を物色。もちろんシリーズ化していないものだ。だって、この世に未練はあまり残したくないから。
時間帯が時間帯のためレジが混んでいた。レジが空くまでもっと本を見ようか迷ったが、今は冬。日が出ている時間は短い。物色を諦めて最後尾へ並んだ。
直後、後ろから声をかけられた。
振り向くとあの彼女がいた。
僕は喜びのあまり声を上げてしまい、そのせいで他のお客の視線が集めてしまう。
僕と彼女は二人して顔を赤くして縮こまった。一瞬の注目が過ぎ去り、僕は彼女に謝ると、笑って許してくれた。
彼女は新しいノートを買いに来たようだ。なんでも今、小説をノートに書いているそうだが、そのノートが終わってしまったらしい。
僕は再度その小説を読ませてもらえるように頼んだが、やはり断られてしまった。
うーむ、逝く前には読みたいものだ。
帰り道が途中まで同じようなのでそこまで彼女と一緒することになった。うん、親孝行と寄り道はしてみるものだ。
彼女との会話は思っていたより弾んだ。好きな作家が同じというところを起点に話が広がって行ったのだ。その中で僕は、いつの間にか今まで誰にも話したことがなかった予知夢のことを話していた。もちろん、最期の夢のことは話していない。彼女は驚きこそしたが、信じてくれた。
楽しい時ほど早く終わってしまうのは本当らしい。彼女と僕の別れ道となる交差点はもうすぐだ。この幸せな一時をもっと味わっていたいと、心からそう思った。
とうとう交差点に差し掛かかってしまった。僕たちは別れの挨拶を済ませたてお互いに背を向けた。
その時だ。クラクションが鳴り響いたのは。
僕は理解した。ああ、今日だったのか、と。
僕は轢かれてしまうだろう彼女を助けるべく、後ろへ跳んだ。
幼いときから今までの記憶が再生され、時間がゆっくりと流れる。
どうやら、死ぬ間際になると全てがスローに感じるのも本当らしい。
だけど逆に僕が突き飛ばされた。
想定外過ぎる。ここで僕が彼女を助けるはずだ。あの夢は今ではない? いや、そんなはずはない。僕が突き飛ばされるという以外は全てあの夢と同じだ。ならば何が違うのか。夢と違うこと。あの夢との相違点。
彼女が僕を突き飛ばしたこと。
僕は突き飛ばされながら彼女を見た。彼女は笑っていた。どうしようもなく美しく笑っていた。今まで見たどんな笑顔よりも儚くて綺麗だった。
そんな彼女の笑顔を一台の車が僕の目の前で撥ね飛ばした。
事故から一ヶ月が経った。あの事故から僕は予知夢を見ることはなかった。もう見ることがないのかもしれない。
幸い彼女は一命をとりとめた。だけど意識不明の重体で未だ目を覚まさない。
車に撥ねられ、アスファルトに叩きつけられた彼女は、頭から血を流してぐったりと倒れていた。僕は彼女に近づいたが何をどうしていいか全く分からなかった。すると偶然そこに居合わせたお兄さんが駆け寄ってきて彼女の容態を確認した。そしてお兄さんが彼女の心肺停止を告げた。
僕の頭の中は真っ白になった。僕の代わりに彼女が死んだ。僕が死ぬはずだったのに。
途方に暮れているとお兄さんの強い叱咤が飛んできた。それで目が覚めた僕にお兄さんは、自分が心臓マッサージをするから僕に人工呼吸をするように言った。この時、僕は彼女を助けようと言う一心だったため、唇を重ねると言う行為に羞恥心を覚えなかった。後から、どっと襲ってきたけど。
僕は知識だけの人工呼吸を精一杯やった。お兄さんもがんばってくれた。
どのくらい続けたかわからない。でも、その甲斐あって彼女は息を吹き返したのだ。
丁度その時、誰かが呼んでくれた救急車が着き、彼女を病院へと運んで行った。僕とお兄さんも彼女が運ばれた病院へ急行した。
僕はあれから毎日ここへ通っている。僕の命を助けてくれたからというのもあるが、一番の理由はやっぱり彼女のことが好きだからだ。
彼女の怪我は既に完治していた。怪我はそれほど大きくなく、打ち所が悪かったと医師は彼女の両親に説明したそうだ。
彼女の両親とはこの病院で会った。会った時は僕も親御さんも事態に混乱していて、会話が成り立たなかった。そこにあの心臓マッサージを施してくれたお兄さんが上手く状況を落ち着かせて、親御さんに事故の顛末を話してくれた。
僕は正直、恨まれるのを覚悟していた。だって彼女の重体を引き換えに僕が無事でいるのだから。
お兄さんの話が終わると、親御さんの二人ともが何故か僕に頭を下げた。頭を下げなくてはいけないのは僕だ。僕は慌てて頭を下げて謝った。
一ヶ月経った今でも親御さんとの間にわだかまりがあるが仕方ない。娘が目を覚まさないのに、僕が無事でいるのはおかしいのだ。
それでも僕は彼女の元に通い続ける。その日にあったことを話し続ける。
テレビで見たことがあるのだ。意識不明の患者が懸命の看護で目を覚ますのを。テレビではそれを愛の力 だと称していが、正直恥ずかしくなった。まだ中学生の僕には早過ぎる気がする。でも、それで彼女が目を覚ましてくれたら本当に嬉しい。
今日も僕は彼女に見たこと、体験したこと、思ったことを赤裸々に話し続けた。
今日は二月十四日、バレンタイン。学校中がそういう雰囲気だった。チョコを渡した人、渡せなかった人。貰えた人、貰えなかった人。僕は一つ貰えなくて残念だったよ、と。
そして今日も話し終える。
僕はこのあと、ただ目を伏せて何もしない。じっと彼女と空間を共有する。
静かな幸せの時間。僕はいつもこうやって、残りの時間を過ごす。今日も長くそうしていた。
僕は名前を呼ばれて目を覚ました。知らぬ間に眠ってしまったらしい。
看護師さんか親御さんだろう。
目を開け、辺りを見ると彼女以外誰もいなかった。なら気のせいだろうか。
もう一度名前を呼ばれた。
ああ、良かった。
良く見たら彼女は半身を起こしていた。
そんなことにも気づかないなんて。
彼女は以前と変わらない笑顔を僕にくれた。
そして彼女は言った。
ね。運命なんて変えちゃえばいいんだよ。
と。僕は目を見開いて驚いた。彼女に最後の予知夢のことは一言も話していなかった。でも彼女は、それをまるで知っていたかのように言ったのだ。
僕の頬に何か熱いものが伝った。僕がそれを涙だと知るにはしばらく時間が掛かった。
そして僕はいつの間にか彼女の胸を借りて、泣いていたのだった。
僕は知る由もなかった。
彼女の旧いノートに、この事故の全ての顛末が書かれていた、など。