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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

堕落して、暗闇に消える。

作者: 薄口

 僕は暗い所が好きだった。何も目に入れなくて良いのが、僕の心を穏やかにさせてくれるからだ。

 明るい所で目に入る光景というのは、どれも等しく騒がしく、不快になるようなものばかりでいらいらする。

 その不快は堆積物となって、心の中にいつまでも留まるのだ。少しずつ埋まっていく。それがいっぱいになったとき、果たして、僕はどうなってしまうのだろうか。


 先日、それがいっぱいになった。あっけなかった。


 登校すると、下駄箱から上履きが放り出されていた。濡れていたのは恐らくトイレの水にでも浸けられたのだろう。

 すぐ横を通り過ぎた男子生徒が小声で「くせえ奴」と言ったのを覚えている。どんな顔をしていただろう。笑っていた気がする。はっきりとは覚えていない。

 それでも、別に不快になる事は無かった。それはそもそも、もう慣れている事だったから。

 

 その上履きは下駄箱に戻した。ゴミが詰まっていたのを全て掻き出して、それを捨ててから、ビチャビチャになっている上履きを舌の段に入れ、ここまで履いてきた靴を上の段に入れる。

 ちなみに、靴の色がカラフルなのは絵の具で汚されたからだ。履けなくなるほどの有様ではなかったから、そのまま使っていた。

 馬鹿かと思うかもしれない。でもそれは、僕に僅かに残った、幼稚な精一杯の反抗心だった。


 靴下のまま、階段を上がる。一段一段が足の裏を冷やす。心の喧騒までも押さえてくれる訳は無かったが、それでも少し落ち着いた。

 通り過ぎる生徒は僕の姿を見ると、大抵が笑い、蔑み、嫌悪する。もうずっと前だが、「邪魔だからどけ」と突き飛ばされたり、あるいは突き落とされたりした事もあったか。

 あの時は、結局どうなったんだっけ。確か、親を呼んだけれど――


 教室に着いた。傷の付いた扉は、猿の楽園の象徴。僕はそう感じていた。


 いつものように扉を開く。教室が一旦静かになる。そして、彼らの視線がこちらに向く。

 その目は、今思い出すととても怖い。

 嫌いな人間に向ける目ではない。

 例えるならば、虫の頭をもぎ取る時。

 足を引きちぎる時。

 胴体を引き裂く時。

 それに似ている。


 要するに、彼らは僕の事を、虫のように思っていた。虫かごの中に入れて、窮屈な中で、時々取り出して遊ぶような、そういう感じ。

 あるいはハムスターやメダカにも共通する。それらの扱いより待遇は悪いけれど、つまり僕はクラスの『所有物』、いじめられる『遊び道具』であった。


 僕の席は、案の定ひっくり返されていて、イスはその上に載せられ、教科書はそこら辺に散らばっていた。全てが表紙の文字を確認できないほどにいたずらされていたので、もはや教科書とは言わないのかも知れないが。

 彼らは「まだ来るのかよ」「いい加減居なくなってくれないかな」「クラスの迷惑」「くたばれ」と、口々に勝手な鳴き声をあげる。

 既に聞き飽きたそれを無視して、僕は自分の机まで行き、イスをどけ、机を元に戻した。そして、散らばった教科書を集める。数学の教科書を外に放り投げられた。授業が心配になったが、今日は無いことに気がついた。

 ぐちゃぐちゃの教科書『のようなもの』を全て机に押し込むと、奇抜なデザインをした(にされた)イスに座り、授業の開始を待った。


 誰とも話さない。誰も話しかけてこない。生徒だけでなく先生さえも、僕を嫌悪、あるいは無視している。

 皆、自分への報復を恐れているのだ。それだから、見て見ぬふりをする。

 「いじめられた方は嫌な思いをするから、いじめなんてしないように」。

 こういう先生は居る。それでも、それ以上は言わない。「◯◯くんに対しての嫌がらせや暴力を行う奴は、一度親に来てもらって話させてもらう」とは、絶対に言わない。


 いいや、それはよかった。それは、僕が恐れるケースの一つだった。「お前のせいで怒られた」と、八つ当たりされたらたまらない。


 この状況は、最悪ではない。いくらでも底はある。これは『これくらいで留まっている』と解釈するべきなのだ。波風を立てず、それをただ享受していれば、きっとそのままの環境が維持されるはずだと、そう思っていた。




 その後の状況は語る程でもない。いつものように、僕はいじめられただけ。何も変わらなかった。

 一時期の身体的暴力の連続に比べたら、むしろ軽くなったものだ。それは、彼らが成長したからではなく、単に『いじめること』に飽きただけだろう。

 それが登場した初めはちやほやされる。ハムスターしかり、メダカしかり。それでも、いつか彼らも興味を失われる。そうしたら、惰性で世話をされるのみなのだ。


 その帰り、僕はある光景を目にした。


 三、四人の男子生徒が、何かを囲んでいる。分からないが、生徒はそれを踏みつけたり、蹴っ飛ばしたりしていた。

 そして、誰かがまた蹴っ飛ばしたとき、その囲いから、物体が飛び出した。


 猫だ。


 真っ赤な。


 その瞬間、爆発した。


 飛びかかった。

 僕が急に角から飛び出してきたから、相手はぎょっとしていた。

 そいつの身体にしがみついた。

 首に噛み付いた。

 悲鳴が聞こえた。

 しかし鈍痛。

 やつに蹴られたのだ。

 仕返しとばかりに、目の前のそれをぶん殴る。


 その瞬間の奴の顔。

 二度と見たくない、悪魔の顔が、醜く歪んでいた。


 残りの男数人に引き剥がされた。僕は痛烈な、久しぶりの暴力を喰らう。

 そうなるはずだった。




 気がついたら、何処に居るのか分からない。

 薄暗い部屋。完全に暗くもなく、目に心地よい明るさもない。他人を嘲るような、中途半端な明るさだ。

 よく分からないが、寝かされているようだ。

 

 それも、拘束具を付けられて。


 ここは――





 『病院』に来てから、何週間か。

 未だに出してもらえない。何も話してもらえない。結局、僕が何をしたのかは分からない。

 それでも、大方想像はついた。……きっと、あの猫みたいに。僕は、彼らが猫にしたことと、同じことをしたのだろう。

 

 結局、僕も彼らと同じ猿だった。

 初めから分かってはいた。それでも、改めて言われると、あの程度の連中と同じレベルだと思うと、僕はどうしようもなく、恥ずかしいのだ。

 

 ここでは、いじめられることはない。喧騒を耳にすることもない。静かな場所だ。ずっとここに居ても良いと思った。


 先日、大きな男の人が来た。僕のした事について訊いてきた。見た目は優しそうだったが、その裏に、一種の軽蔑のような、別の生物を見るような目を持っているのに、気付いてしまった。

 初めて、僕は他人からの評価に絶望した。全くの初対面の人間にすらこう思われるほどに僕は歪んでしまったのかと、この時初めて気がついた。

 僕は、何も知らないと答えた。本当に何も知らなかった。覚えていなかった。もう、どうでも良かった。


 親は来ない。そういう人間だ。あいつらはきっと僕に苛立っているだろう。「くだらない問題を起こしやがって」と。

 ずっとそうだ。僕がいくら訴えても、あいつらは気にかけなかった。それでいて、学校に行きたくないと言うと、「馬鹿な事いってんじゃねえ」と怒鳴り散らす。

 朝、学校に行かないと見るや、蹴ったり、殴ったり、散々にやりたいことをした後、「行かないなら、これ以上の事をやってやる」と言うのだ。

 それに比べれば、同年代の奴らのいじめなんて、ちょっとしたイタズラ、友達同士のふざけあい程度に過ぎないものに思えるのだ。


 僕のいじめが始まったのもそもそも奴らのせいで、僕がいつもボロボロで汚いからだろう。「食べさせてもらってるだけでも感謝しろ」と、それ以上の事をさせてもらえない。

 服も最低限のものだけ。靴も、あの靴しか無かった。もう何年使っているだろう。サイズの合わない靴をかかとを潰して無理やり履いているような状況だ。

 

 そんな状況で、誰が仲良くしようと思うだろう。みんな、そんな奴には近寄らないに決まっている。このいじめは、そんな小学生の頃から始まったのだ。

 中学になって、制服になっても、「汚わらしい」という評価は消えなかった。顔ぶれは変わらないからだ。

 そのうち、制服も汚された。今度はクラスの奴に。そのまま帰ると、親に殴られた。「仕方なく買ってやったのに、もう汚したのか、親不孝が」。


 いつからか、僕は無感情になった。

 

 それは、僕が狂気を帯びた瞬間だったのかもしれない。




 自分への雑音に関して、僕は何も感じなくなった。けれど、他人が何かをけなすような、僕以外の何かを蔑むような、そんな雑音だけはどうしても許せなかった。

 今回は、全てそれが生み出した結果だ。


 残念ながら、それ以上の感覚はない。今では、あの猫に対する哀れみの気持ちも浮かんでこないし、殴った男子生徒の顔も覚えていない。なぜあんな事になったのか、それを行った当時の僕に聞いたって分からないだろう。

 

 何も無い部屋は、僕が自殺をしないようにしているようだ。今でも拘束具を付けられている。自由は無い。それでも、僕の心は今までの何よりも自由だった。

 

 消灯。暗くされた部屋の中、僕はずっと天井を眺めている。正確には、天井までに広がる暗闇だ。

 暗さに恐怖よりも安穏を感じる様になったのも、あの親のおかげだ。

 彼らが居ないとき、僕は部屋の明かりを点ける事を禁じられていた。電気代がもったいないという理由だ。

 最初は怖かった。だけれど、彼らが居ない訳だから、殴られる心配もない。八つ当たりを喰らう事もない。そうして、少しずつ暗闇が好きになった。


 ここの暗闇は、少し落ち着かない。それは、拘束具を付けられているからではない。空気の違いだ。

 自分の家で無くて、ただ一つ寂しいのは、その慣れ親しんだ暗闇に会えないことだ。

 

 それでも、いずれはここの暗闇にも慣れるだろう。

 そうしたら、あの家の事など、もう忘れてしまえる。いいや、あの厭わしい奴らの事も、全て忘れるつもりだ。


 しんとした中に、僕の声だけが聞こえた。


 「さようなら、お元気で」


 暗闇に呑み込まれるように、その言葉も、僕の意識も消え去った。

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