『悪役令嬢にいじめられたと言え』と命じられた侍女、断罪の夜会で本当のことを話しました
大広間の扉の前で、お嬢様は私の左の袖口をつまんだ。
手袋越しの指が、布の上から腕の内側を押す。そこにはまだ六日前の痣が残っていて、押されるたびに鈍く痛んだ。私は声を出す代わりに息を止めた。
「ちゃんと残っているわね」
お嬢様は満足そうに言い、袖を元どおりに整えた。今夜のために誂えた長袖の上着は、私の給金のふた月分ほどもする。汚したら弁償だと、着せられたときに言われた。
「明日のお昼には、あの家へ荷車が行くのよ。でも、あなたが今夜上手にできたら、取り消してあげる。分かっているわね、ミナ」
「はい、お嬢様」
返事はいつも、考えるより先に口から出る。
「それから、泣きたくなったら泣いていいのよ。そのほうが殿下はお喜びになるわ」
お嬢様は扉番に名前を告げる前に、私の頬を軽くつまんだ。
懐には二枚の紙が入っていた。一枚は男爵家の家令様の名前で出された退去の通知の写しで、母と弟が住む借家を、夜会の翌日までに空けるよう書いてある。もう一枚は母の便りだ。通知が届く前に書かれたもので、繕いの仕事が増えたこと、弟が背比べの柱に新しい線を引いたことが、いつもの細い字で並んでいる。最後の行には、あの子があなたの次の帰りのために胡桃を取ってあります、とあった。三つだけ、だそうだ。弟は数えるのが好きなのだ。
通知はもう母の手元にも届いている。何と書いて返せばいいのか、私は今日まで決められなかった。
扉が開くと、光と音楽が押し寄せてきた。広間の奥では、王宮の侍従長様が衛兵や給仕に低い声で指図をしている。男爵家の若い従僕が、お嬢様の外套を腕に掛けて壁際に控えた。その少し先には裁縫箱を提げた年配の女の人がいて、衣装の綻びに備えているのだと分かった。王宮の衣装係の、ハンナさんだ。
私は目を伏せた。今夜はお嬢様の言うとおりに話す。そうすれば家は残る。それ以上のことは、何も考えないようにしていた。
曲が途切れた。
「エレオノーラ。それから、リリア嬢の侍女ミナ。前へ出よ」
王太子殿下の声が、広間の真ん中で響いた。
殿下の前に立つと、ずらりと並んだ人の顔が見えた。その中から、まっすぐな背中の令嬢が一人で進み出て、私から三歩ほど離れて止まった。公爵令嬢エレオノーラ様だ。銀糸の入った紺のドレスは飾りが少なく、表情も同じくらい飾り気がない。
「エレオノーラ。私は今夜、そなたとの婚約を破棄する」
ざわめきが波のように広がって、すぐに静まった。エレオノーラ様の眉は、少しも動かなかった。殿下は一枚の紙を掲げた。
「理由はこれだ。六日前、王宮の茶会が終わったあと、片づけのため一人で残っていたこの侍女を、そなたはつかんで押した。それにより侍女の左腕には傷ができ、袖口が裂けた。侍女本人の署名がある」
紙の下のほうに、私の名前がある。字が震えて、少し右へ傾いた私の名前が。
二日前の夜、お嬢様の部屋の机で書いた名前だ。書き終えると、お嬢様は紙を持ち上げてインクに息を吹きかけ、よくできました、と言った。字を覚えたての子どもを褒めるような声だった。
「かわいそうに、ミナ。もう隠さなくていいのよ」
お嬢様が私の隣に立ち、労わるような声で左の袖をまくり上げた。肘の下に、黄色く濁った指の形の痣が四つ並んでいる。誰かが小さく息を呑んだ。
袖をつかむ指の力が、あの日と同じだった。
六日前、茶会の準備室で、お嬢様は王宮の茶器を一客落として割った。そして私を振り向き、あなたの不注意ね、お給金から引いておくわ、と言った。そこへ準備の確認に来たエレオノーラ様が、床の破片を見てから静かに言ったのだ。
「割ったのはあなたでしょう、リリア嬢。わたくしは見ていました」
それだけ言って、エレオノーラ様は出ていった。そのあと控室に呼ばれた私は、今と同じ場所をつかまれた。爪が布越しに食いこみ、押されてよろけた拍子に、袖口の縫い目が裂ける音がした。あの音を、私はまだ覚えている。
「わたくしは、その侍女に触れておりません」
エレオノーラ様の声で、私は広間へ引き戻された。
「茶会の後、わたくしは確かに会場に残っておりました。けれど、その侍女には指一本――」
「もうよい。言い逃れは聞かぬ。ミナ、恐れることはない。この女にやられたのだな。そうだろう」
「殿下」
エレオノーラ様が、殿下ではなく私を見たまま言った。
「答えを口に入れてやるのはおやめください。本人の言葉で話させてください」
殿下は一瞬だけ顔をしかめ、紙の署名を指で叩いた。
「では聞く。この署名はおまえのものか」
「……はい。私の、名前です」
それは本当だった。私が自分の手で書いた。
「それで十分だ。衛兵、公爵令嬢を別室へ連れていけ。監視をつけよ」
二人の衛兵が進み出た。エレオノーラ様は逃げも叫びもしなかった。ただ、衛兵の大きな手がその左腕へ伸びていくのが見えた。
私がつかまれたのと、同じ場所だった。
私の名前が書かれた紙のせいで、何もしていない人が、今から連れていかれる。
「待ってください」
自分の声だと、すぐには分からなかった。衛兵の手が、エレオノーラ様の袖に触れる手前で止まった。
「署名は、私のです。でも、書いてあることは嘘です」
誰も何も言わなかった。音楽はとうに止んでいて、どこかで扇の骨が鳴る音だけがした。殿下は眉を寄せたまま私を見下ろし、エレオノーラ様は振り返らず、まわりの人たちは私から少しずつ離れていくように見えた。広間の床の真ん中に、私だけが置き去りにされたようだった。
「ミナ」
お嬢様が私の名前を呼んだ。叱るときより、ずっと柔らかい声だった。毎朝、髪を梳けと言われるときの声だ。
はい、お嬢様、と喉まで出かかった。
明日のお昼に、荷車が来る。母は針箱を抱えて、弟は胡桃の袋を握って、家の前に立つことになる。
それでも、衛兵の手はまだあの袖のすぐそばにあった。
「腕をつかんだのは、エレオノーラ様ではありません」
一度、息が止まった。
「……リリア様です」
どこかで誰かが声を上げかけたが、殿下の声がそれをかき消した。
「何を言い出す。金をもらったのか。公爵家に何を約束された」
「そうですわ、殿下。この子はきっと、誰かに言い含められているのです。かわいそうに」
お嬢様が殿下の腕に手を添えて言った。
「いただいていません。お金は、何も」
それ以上、うまく言えなかった。誰かを説き伏せる言葉なんて、私は一つも持っていない。私に何かを約束してくれる人など、今夜この広間には一人もいなかった。
「衛兵、連行はしばし待て」
低い声がして、侍従長様が人垣の間から進み出た。殿下に一礼してから、衛兵に下がるよう手で示す。
「殿下、侍女の申し立てが変わりました。このまま別室へお移しする前に、内容を確かめさせていただきます」
「侍従長、これは私の――」
「確かめるだけでございます。どちらに理があるとも、まだ申しておりません」
侍従長様はちらりと私を見たが、その顔からは何も読み取れなかった。助けてもらえるのか、嘘つきとして裁かれるのか、私には分からなかった。
衛兵は一歩下がったが、エレオノーラ様のそばを離れはしなかった。
お嬢様が殿下の手から訴え書きを取り、私の目の前に広げた。
「では、これは何? あなたが自分で名前を書いたのよ。どちらの話が本当なの」
「……今、話しているほうです」
お嬢様の指が、紙の端をくしゃりと握った。
侍従長様が私に向き直った。
「侍女。何があったのか、順に話しなさい」
「六日前の、茶会の前です。控室に呼ばれて、リリア様に腕をつかまれて、押されました。そのとき袖が裂けました。茶会の後ではありません。前です」
「それから」
「袖を直していただきに行きました。腕も、冷やしていただいて……」
そこで言葉が詰まった。あの人の名前を、私が勝手に出していいのだろうか。殿下の前で名前を出されたら、あの人がどうなるか分からない。
「誰にだ」
侍従長様が重ねて尋ねた。私は口を開けたまま、何も言えなかった。
「わたくしでございます」
壁際から声がした。裁縫箱を提げたハンナさんが、人の間を縫うようにして歩いてきて、私の隣で止まった。
「王宮衣装係の、ハンナと申します」
ハンナさんは殿下に深く頭を下げ、それから侍従長様のほうを向いた。裁縫箱の取っ手を握る指の節が、白くなっていた。
「六日前、茶会が始まる前に、この方が衣装室へみえました。袖口が裂けておりましたので、わたくしが縫いました。腕が赤く腫れておりましたので、水で冷やしました。縫っている途中で、茶会の始まりを知らせる鐘が鳴りました。まだ半分も縫えておりませんで、この方が、茶会に遅れてしまうと慌てておられたのを覚えております。それは確かでございます」
「茶会の前に、すでに傷があったと」
「はい。誰がつけた傷かは存じません。そこまでは見ておりません」
ハンナさんはそこで少し黙り、言いにくそうに続けた。
「どうなさったのかとお尋ねしましたら、事故です、とおっしゃいました。様子がおかしいとは思いましたが、わたくしはそれ以上お聞きしませんでした」
お嬢様が、小さく笑った。
「聞きまして? 事故だと言ったのよ、この子は。それが今度は私にやられた、ですって。都合しだいで話を変える子の言うことを、皆さま信じますの?」
いくつかの顔が、また私から離れたように見えた。ハンナさんが、何か言いたそうに私を見た。
「事故というのも、嘘でした」
私はハンナさんではなく、侍従長様に向かって言った。
「お嬢様にされたと言ったら、お暇を出されると思いました。お給金がなくなったら、家に送れなくなります。だから、事故だと言いました」
侍従長様は訴え書きを受け取り、しばらく黙って文面を読んでいた。
「訴え書きでは、傷も袖の裂け目も茶会の後にできたことになっている。衣装係の申し立てどおりなら、傷はそれより前からあったことになる」
紙から顔を上げ、侍従長様は殿下に向き直った。
「殿下。この傷を、書面のとおりの証拠として扱うことはできません」
殿下が何か言いかけたが、侍従長様はもう衛兵のほうを向いていた。
「侍女の話を遮らぬように。話している間、誰も侍女に触れてはならぬ。この場で証言した者に、後で手出しをすることも許さぬ。陛下より預かった王宮の中でのことだ」
衛兵が二人、私とお嬢様の間に立った。ハンナさんは、私の隣から動かなかった。
「署名をしたのは……」
誰にも聞かれていないのに、言葉が勝手に続いた。
「署名しなければ、母と弟を家から追い出すと言われたからです」
私は懐へ手を入れた。紙の角が指先に触れた。
取り出した通知を、私は侍従長様に差し出した。
「男爵家の家令様の名前で出されたものです。母と弟が住んでいる家を、明日までに空けるようにと書いてあります。家賃を遅らせたことは一度もありません。署名すれば取り消してやると、リリア様に言われました。今夜うまく話せたら取り消すと、さっきも扉の前で」
「借家をどうするかは、当家が決めることよ」
お嬢様の声が、少し早くなった。
「たまたま同じころに家を空けてもらう話があっただけ。今夜のこととは何の関係もないわ」
お嬢様はそう言いながら、通知ではなく殿下のほうを見ていた。殿下は何も答えなかった。
侍従長様は通知を灯りにかざし、家令様の印と日付を確かめた。広間の端で、記録官のペンが紙をこする音だけが続いていた。
「日付は二日前。訴え書きの日付と同じですな」
お嬢様は返事をしなかった。
「侍女。この通知を、誰から受け取った」
私は少し迷ってから、壁際を見た。
「あの方からです」
外套を腕に掛けた男爵家の従僕が、広間じゅうの視線を浴びて立ちすくんだ。私と同じ年ごろの、まだ顔に幼さの残る人だ。六日前、控室へ来るようにと私を呼びに来たのも、この人だった。
「前へ」
従僕は外套を抱えたまま、ぎこちなく歩いてきた。
「この通知を侍女に渡したのは、そなたか」
「……はい。私が、お渡ししました」
「その場で何か聞いたか」
従僕は口を閉じた。外套をつかむ腕に力が入って、毛皮の襟がゆがんだ。
「その者は何も知りませんわ」
お嬢様が、従僕より先に答えた。
「ただの使いですもの。言われたものを運んだだけ。ねえ、そうでしょう」
従僕の唇が動きかけて、また閉じた。
侍従長様が私を見た。
「侍女。そなたが脅されたとき、この者はそれを聞いていたか」
聞いていました、と言えば、きっと私の話は強くなる。母と弟の家も、早く戻ってくるかもしれない。
でも、私はそれを見ていなかった。
「分かりません」
お嬢様の眉が、ほんの少し上がった。
「通知を渡してくださったのは、この方です。そのあとお嬢様に言われて、この方は扉の外へ出ていきました。署名すれば取り消すと言われたのは、扉が閉まってからです。扉の外のことは、私には見えませんでした。聞こえていたかどうかは、私には分かりません」
侍従長様は何も言わず、従僕のほうへ向き直った。急かすでもなく、ただ待っていた。広間のどこかで、誰かの靴が床をこする音がした。
「……聞いておりました」
従僕の声はかすれていた。
「何を言うの」
「何も知らない、とおっしゃいましたが、違います」
従僕はお嬢様を見ずに言った。
「お嬢様に扉の外で待てと言われました。待っている間に中の声が聞こえました。署名すれば退去を取り消してやる、断れば母親も弟も夜会の次の日には道端だ、と。……聞いていて、私は何もしませんでした。仕事をなくすのが、怖かったので」
従僕は外套を抱えたまま、侍従長様に頭を下げた。顔を上げたとき、その目はどこも見ていなかった。
六日前、控室へ呼びに来たときも、この人は私の顔を見なかった。廊下を先に立って歩きながら、急いでください、とだけ言った。
殿下が一歩前へ出た。
「待て。それが本当なら、私も騙されたのだ。私はただ、この者の訴えを信じて――」
「署名をしたのは私です。それは私が悪いです」
殿下の言葉の途中で、私は言った。言ってしまってから、遮ったことに気づいて、もう一度言い直した。
「申し訳ありません。でも、殿下は今夜、署名が私のものかどうかだけをお聞きになりました。何があったのかを私がまだ話さないうちに、エレオノーラ様を連れていくようにおっしゃいました」
殿下は口を開いたまま、何も言わなかった。代わりにお嬢様のほうを見たが、お嬢様はその視線に気づかないふりをして扇を開いた。
「殿下」
エレオノーラ様が、殿下に向かって言った。
「婚約の解消はわたくしからもお願い申し上げます。わたくしはこの婚姻を望みません」
それ以上は何も言わず、エレオノーラ様は軽く膝を折った。
「本件の訴えと今夜の応答は、すべて陛下へご報告いたします」
侍従長様が、広間の端にいる記録官へ目を向けた。記録官はペンを握ったまま頷いた。
「証言した者は王宮が預かる。調べは改めて行う」
お嬢様の顔から、表情が消えた。それから、何事もなかったように扇を閉じた。
「……もう結構よ。ミナ、帰るわ。支度をして」
お嬢様は怒鳴らなかった。毎晩、夜会の終わりに言うのと同じ声だった。
「外套を」
足が動いた。
壁際ではなく、目の前に立つ従僕の腕へ、私は歩いていた。いつもなら、外套を受け取り、裏地を内に広げ、肩に掛ける高さに持ち上げる。お嬢様の後ろに回って襟を整え、留め金を掛ける。その順番を、私の手は目をつぶっていても覚えている。
「当家の使用人を連れて帰るだけよ。誰に断る必要があるの」
お嬢様が誰にともなく言った。殿下は答えず目を逸らした。
外套の毛皮の襟まで、あと指一本のところで、私の手は止まった。
この外套を取ったら、私は男爵家の馬車に乗る。明日もお嬢様の髪を梳いて、靴を磨いて、何もなかったように「はい」と言う。
私は手を下ろした。
「戻りません」
お嬢様が振り向いた。
「何ですって」
「戻りません。お嬢様のところには、もう」
声が震えたのは、最初の一言だけだった。
従僕は外套を腕に掛けたまま、その場に立っていた。差し出しもせず、下がりもせず、ただ私とお嬢様の間で待っていた。
「ミナ。あなた、自分が何を言っているか――」
お嬢様が私のほうへ一歩踏み出した。けれど、そのドレスの裾が私の靴に届くより先に、衛兵が一人、その前へ体を入れた。
「侍従長閣下のご命令です。証人へのお手出しはご遠慮ください」
お嬢様は衛兵の肩越しに私を見た。怒っているというより、急に言うことを聞かなくなった鋏を、どうしたものかと眺めているような目だった。私は今度は目を伏せなかった。
でも、私が戻らないと言っただけでは、何も片づいていない。明日のお昼に荷車が来ることは、少しも変わっていないのだ。
私は侍従長様に向き直った。
「お願いがあります」
「申してみよ」
「母と弟が、明日、あの家を出されます。今夜のうちに、二人を迎えに行っていただけないでしょうか。東の門を出て、馬車で一時間ほどの村です。粉ひき小屋を過ぎて、柳の木が二本ある角の、青い戸の家です。母は夜遅くまで繕い物をしているので、たぶん灯りがついています」
それから、もう一つだけ付け足した。
「弟は十一で、夜は早く寝ます。急に起こされたら、きっと怖がります。……できたら、乱暴にしないでいただけると」
「心得た。女の使いもつけよう」
侍従長様は頷き、すぐに近くの衛兵を呼んだ。
「王宮の使いを立てよ。護衛を二人つけて、今聞いた家へ向かわせる。母子を保護し、今夜のうちに連れてまいれ」
「公爵家の馬車を出させます」
エレオノーラ様が、侍従長様に言った。
「王宮の馬車よりも早く支度ができますし、王都の屋敷に二人の部屋も用意させます。しばらく、そこにいてもらえばいいでしょう」
「かたじけない。お借りいたします」
侍従長様は、まだ外套を抱えて立っている従僕を見た。
「その者も、今夜は男爵家へ戻さぬように。話を聞かねばならぬ。身の安全も、こちらで預かる」
従僕は外套を見下ろし、それを近くの給仕にそっと預けた。
気がつくと、知らない侍女が水の入った杯を私の手に持たせてくれていた。どこの家の人かも分からないその人は、何も言わずに頷いて、人垣の中へ戻っていった。杯の水は少しぬるく、一口飲むと、自分の喉がからからだったことが分かった。
*
通された別室には暖炉があって、大広間の音楽はもうほとんど聞こえなかった。
記録官に同じことをもう一度、今度はもっとゆっくり話した。終わると、部屋には私とエレオノーラ様だけが残った。ハンナさんは、私の肩に自分のショールを掛けてから衣装室へ戻っていった。
謝らなければならなかった。それは広間にいたときから分かっていた。
「エレオノーラ様。申し訳ありませんでした」
私は立ち上がって頭を下げた。
「私が名前を書いたせいで、エレオノーラ様は、大勢の前で……」
「ええ」
エレオノーラ様は、暖炉の火を見たまま言った。
「何もしていない罪で、大勢の前から連れていかれかけました。愉快なことではありません。今夜のことは、しばらく忘れられないと思います」
私は頭を上げられなかった。
「でも、あなたは止めました」
エレオノーラ様がこちらを向いた。
「言い直してくれて、ありがとう。顔を上げなさい。あなたの首が疲れます」
私が顔を上げると、エレオノーラ様はもう火のほうを見ていた。
お礼を言われる理由が、私にはよく分からなかった。私はただ、自分で書いた嘘を、自分で取り消しただけだ。
「あなたの家族は、何が好きなのですか」
しばらくして、エレオノーラ様が不意に聞いた。
「……弟は蜂蜜を塗った焼き菓子が好きです。母は甘いものより、塩の利いたもののほうが」
「そう」
エレオノーラ様はそれだけ言って、また黙った。
それから長い時間、私たちはほとんど話さなかった。侍従が二度、お茶を替えに来た。暖炉の薪が崩れるたびに、私は窓の外を見た。今ごろ馬車は東の門を出ただろうか。母は戸を叩く音に驚いただろうか。弟はもう寝ていただろうか。考えても仕方のないことばかり考えた。
肩のショールを膝に下ろすと、端が細かくかがってあるのが分かった。一か所だけ糸がゆるんでいて、私はそこを何度も指でなぞった。針があれば、すぐに直せるのに。
真夜中を過ぎたころ、窓の下に馬車の灯りが止まった。それから、廊下で足音がした。
扉が開くより先に、弟の声が聞こえた。
「姉ちゃん!」
寝間着の上に上着を引っかけただけの弟が、侍従の脇をすり抜けて飛びこんできて、私の腰にしがみついた。去年より、頭の位置が高くなっていた。
「姉ちゃん、馬車すごく速かったよ。馬が四頭もいた」
その後ろに、針箱を抱えた母が立っていた。急いで結い直したらしい髪が、片側だけほつれていた。
「何を持って出たらいいか分からなくて、これだけ持ってきてしまったの」
母は困ったように針箱を持ち上げてみせた。
「ミナ」
母は私の顔を見て、それから左の袖を見た。何か言いかけて、やめて、私の頬に手を当てた。
「顔を見せて。……ちゃんと、見せて」
そのとき初めて、私は泣いた。広間でも、別室でも出なかった涙が、母の手の中で止まらなくなった。弟は私の腰に顔を押しつけたまま、姉ちゃん泣いてる、と小さな声で言った。母は何も言わずに、私の背中を何度も撫でた。
エレオノーラ様はいつの間にか部屋を出ていた。
*
一か月後、侍従長様の名で私宛ての書状が届いた。
エレオノーラ様への訴えは、正式に取り下げられた。殿下は公の場で訂正と謝罪をなさり、外国との公務からは外されたという。婚約の解消も、正式に認められた。
リリア様は宮廷への出入りを禁じられた。そのうえで、公爵令嬢への偽りの訴えと、侍女に偽りの証言をさせようとしたことについて罪を問われ、有罪と決まった。私の腕の傷のことも調べの記録に残され、私への償いの中に含まれたと書かれていた。私自身は脅されて書いたこと、自分から言い直したことを考え合わせて、罪には問われないことになった。夜会のあと一人ずつ呼ばれて話した私たちの証言も、それぞれ確かめられたという。
男爵家は退去の通知を取り消したが、母と弟はあの家には戻らなかった。王都の外れに、日当たりのいい二間を借りた。引っ越しにかかったお金は男爵家が払うことになり、私たち家族に手出しをしないよう、男爵家にはお達しが出たという。
ハンナさんは今も衣装室にいる。従僕は、侍従長様が紹介した商家で働き始めたと聞いた。
この一か月、私は王宮の衣装室で、短いあいだの手伝いとして雇ってもらっていた。ちゃんとお給金の出る仕事だった。裾のほつれやボタン付けを任されて、ハンナさんがときどき仕上がりを裏返しては、黙って頷いた。
その日も、私は窓辺で外套の裏地を繕っていた。
「ミナ」
顔を上げると、衣装室の入り口にエレオノーラ様が立っていた。
「わたくしの家で働く気はありませんか」
私は針を持ったまま固まった。
「ハンナからあなたの繕いの腕を聞きました。うちの侍女頭が、手の確かな者を探しています。夜会のことへのお礼で言っているのではありません。仕事として、来てほしいのです」
「はい、ぜひ――」
言いかけて、私は口を閉じた。はい、と言うのは、いつも考えるより先だった。
「あの……お給金は、おいくらでしょうか。それと、お休みはいただけますか」
エレオノーラ様は少しも嫌な顔をしなかった。給金の額と、月の終わりに払われること、十日に一日の休みがあること、繕い物の材料は家で用意すること。一つずつ、帳面を読むように説明した。
「お休みの日は、家に帰ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
エレオノーラ様は真顔のまま答えた。
「わたくしまで一緒に帰る必要はないでしょう」
奥でハンナさんが、鼻から小さく息を漏らした。笑ったのだと分かるまで、少しかかった。
「返事は急ぎません。考えてから聞かせてください」
そう言って、エレオノーラ様は衣装室を出ていった。
針を持ち直しても、しばらく糸が通らなかった。私は頭の中で、さっき聞いた給金を三度数え直した。母への仕送りと、弟の靴と、自分の分。十日に一度、家に帰れる。
私はその晩、母に手紙を書いてから眠った。翌朝、公爵家へ使いを出して、お受けしますと伝えた。
初めての休日、私はお給金の一部を握って、王都の菓子屋に寄った。弟の好きな、蜂蜜を塗って焼いた丸い菓子を四つ買った。包みはまだ温かくて、胸に抱えて歩くと、王都の外れまでずっと蜂蜜の匂いがした。
新しい家の戸は、青くはない。けれど開けると、母が繕い物から顔を上げて、お帰り、と言った。
「姉ちゃん、待ってて」
弟は奥へ走っていき、小さな布袋を持って戻ってきた。
「これ。あの夜、袋に入れて持ってきたんだ。姉ちゃんが帰ってきたら食べるって決めてたから」
袋の中には胡桃が三つ入っていた。
弟が一つずつ殻を割り、私は菓子を半分に分けた。母は針を置いて、三人分のお茶を淹れた。胡桃は少し湿気ていたけれど、弟は得意そうに、まだ大丈夫だよ、と言った。
私たちは、菓子と胡桃を代わりばんこにかじった。
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