第十三話 潮の記憶
潮の身体を包む光が、ゆっくりと収まっていく。
海色の瞳。
風に揺れる長い髪。
その姿は確かに潮だった。
だが同時に。
蒼真が知っている少女とは少し違って見えた。
「神……だったのか」
蒼真の声は思った以上に静かだった。
潮は困ったように笑う。
「うん」
「最初から?」
「最初から」
「ずっと?」
「ずっと」
陸が頭を抱える。
「待て待て待て」
「整理させろ」
「神様?」
「うん」
「本物?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ!」
そのやり取りに。
潮が少しだけ笑った。
いつもの笑顔だった。
けれど。
どこか無理をしているようにも見えた。
◇
海を割って立っていた女性神は、二人の様子を静かに見守っていた。
「紹介が遅れました」
女性は優雅に一礼する。
「私は瀬織」
「海の境界を守る者です」
蒼真は思わず頭を下げた。
神様に対する正しい礼儀が分からない。
とりあえず下げた。
「そんなに緊張しなくていいですよ」
瀬織は微笑む。
「あなたのお父上にも同じ顔をされました」
蒼真の胸が跳ねる。
「父さんも会ったのか」
「ええ」
瀬織は頷いた。
「三度ほど」
「最後に会った時は」
そこで言葉が止まる。
表情が曇る。
「……無理をしていました」
潮も黙る。
その沈黙だけで十分だった。
父は何か大きなものを背負っていた。
そして。
それを成し遂げる前に亡くなった。
◇
やがて瀬織は潮を見る。
「話してあげなさい」
「……」
「もう隠す必要はありません」
潮は海を見る。
遠く。
まだ見えないおのころ島の方角を。
「蒼真」
静かに口を開く。
「私ね」
「昔は名前が違ったんだ」
風が吹く。
蒼真は黙って聞く。
「ずっと昔」
「国が生まれた頃」
「イザナギ様とイザナミ様が天の沼矛を海へ下ろした」
日本神話。
父が読み聞かせてくれた話だ。
最初の島。
おのころ島。
「その時に生まれた海の流れがある」
「海の流れ?」
「うん」
「島と島を結び」
「命を運び」
「神々の声を届けた流れ」
潮は少し笑った。
「私はその流れから生まれた」
蒼真は言葉を失う。
人間が川の精霊を語るように。
神話がそのまま形になった存在。
「だから私は神様なんだ」
「瀬戸内海そのものの一部」
その言葉には。
長い時間の重みがあった。
◇
「じゃあ」
蒼真は尋ねる。
「どうして消えないんだ」
潮の表情が固まった。
瀬織も目を伏せる。
「神様は忘れられたら消えるんだろ」
「だったら」
「お前は……」
そこまで言って。
蒼真は気づく。
潮の目が揺れていた。
「私も消えるよ」
静かな声だった。
波の音に紛れそうなくらい。
「え?」
「ずっと少しずつ弱くなってる」
「神様の世界が壊れてるから」
蒼真の心臓が強く脈打つ。
「じゃあ」
「お前も……」
「うん」
潮は笑った。
いつものように。
明るく。
何でもないことみたいに。
「だから急いでる」
その笑顔が。
なぜだか痛かった。
◇
突然。
船が大きく揺れた。
「うおっ!」
陸が舵を握り直す。
海面が震えている。
鳴門の方向から。
巨大な圧力が押し寄せてきた。
瀬織の表情が変わる。
「まずい」
「何が」
「黄泉が近い」
空が暗くなる。
昼間なのに。
まるで夕暮れのように。
そして。
海の向こうに。
一つの巨大な影が見えた。
島だ。
間違いない。
だが普通の島ではない。
空へ伸びる巨木。
神々しい光。
山を覆う霧。
神話の時代そのままの姿。
蒼真は息を呑む。
「……おのころ島」
潮が小さく頷く。
その瞳には。
懐かしさと恐れが混じっていた。
「帰ってきた」
その呟きは。
まるで何千年もの旅人が故郷へ帰る時の声だった。
しかしその直後。
おのころ島の上空に。
黒い裂け目が現れる。
神社で見た亀裂よりも遥かに大きい。
空を引き裂く闇。
そこから何かが覗いていた。
蒼真は本能的に理解する。
あれは。
黄泉だ。
死者の国へ続く門が。
すでに開き始めている。




