第86話 再び湿地帯へ
都を出発してから、馬車と徒歩を乗り継ぎ、半日ほどで目的地へと辿り着いた。
そこは一面に湿り気を帯びた大地が広がる湿地帯だった。
ナカムラにとっては、初めて依頼を受け、冒険者として本格的に歩き始めた土地でもある。
山脈から流れ下る大河が湿地の中央を貫き、その水は複雑に枝分かれしながら、大小無数の湖や沼を形作っている。湖同士は細い水路で繋がり、まるで血管のように大地全体を潤していた。
変わらぬその光景に、ナカムラだけが胸の奥で小さな懐かしさを覚える。
一方で、アルト、ローレンス、ライカの三人は、周囲を見渡しながら緊張を隠せずにいた。
「これが……湿地帯か……」
アルトが呟くと、ローレンスは遠くまで続く水面を見つめて息をのむ。
「すごいね。どこまで行っても終わりが見えない……」
「やっと、冒険らしくなってきたな」
ライカはそう言いながらも、足元のぬかるみを確かめるように慎重に歩いている。
三人は互いに距離を保ちつつ、湿った地面を踏みしめて進んでいく。
今回の依頼対象である瓦蟹は、土中よりも水辺を好む生き物だと事前に調べてある。
まずは、無理なく活動できる地形を探すことが最優先だった。
少し後ろを歩くナカムラは、三人の動きを黙って見守りながら、周囲の様子にも目を配っている。
懐かしさよりも優先すべきは、安全確認だ。湿地帯は一見静かでも、不意に牙を剥く場所であることを彼はよく知っていた。
しばらく進むと、草丈の低い場所が途切れ、視界の開けた水源へと出る。
泥に汚れた靴を気にしながら、三人は互いに目を合わせ、ここが探索の起点として使えるかを確認し合った。
時折、ナカムラの顔色をうかがうような視線が向けられるが、彼は無表情のまま何も言わない。
ヒントを与えないのもまた、教官の役目だった。
そんな沈黙の中、ローレンスが口を開く。
「水源は見つかったし……まずは足場のいい場所を確保しない?」
冒険の基本である安全確保を思い出した判断だった。
見知らぬ土地では、追う側であると同時に追われる側にもなりうる。拠点となる場所は必要不可欠だ。
アルトとライカも頷き、三人は少し高く乾いた地面へと移動する。
その途中、水辺に転がる石の多い場所を見つけ、木の枝を目印として突き立てておいた。
川の流れが見渡せ、足を取られにくい場所に腰を下ろすと、自然と息が漏れる。
思っていた以上に緊張と不慣れな地形に体力を削られていたようだ。
短い休憩の後、改めて捜索を開始する。
瓦蟹は夜行性だ。昼間に堂々と姿を現すことは考えにくい。
「まずは罠を仕掛けて、それから隠れてそうな場所を探そう」
アルトの言葉に従い、死肉を餌にした籠罠を水辺へと設置していく。
「あ、小さい魚がいる」
水中を泳ぐ小魚や、エビのような生き物が目に入る。
生態系が成り立っている証拠に、三人の表情もわずかに明るくなる。
候補地をいくつか回った後は、草をかき分け、大きな石を慎重にずらしていく。
そのたびに、カエルやトカゲ、虫が飛び出し、ローレンスは思わず顔をしかめた。
そんな中、石の隙間から現れた蟹を、ライカが素早く掴み取る。
「……違うな、ちっちぇ」
丸みのある小型の蟹で、瓦蟹とは別種だった。
それでも、生物の痕跡を見つけられたことで、希望は確実に増していく。
水に足を浸すことにも少しずつ慣れ、三人の動きも次第に早くなっていった。
周囲を刈り払えば効率は上がるだろうが、それを良しとしないことも教えられている。
慣れない作業に、次第に疲労が表情に滲み始める。
「一度、最初の場所に戻って休もう」
アルトの提案に、二人も異論はなかった。
休憩を取りながら携行食を口にし、広大な湿地帯を見渡す。
「……ほんとに見つかるのか」
弱音を吐くアルトに、ライカは肩をすくめる。
「諦めんの早すぎ。これがもっとヤバい依頼だったら、走り回ってんだろ?」
ローレンスは空を見上げ、時間を計るように呟いた。
「罠、いつ頃確認する?」
「まだ早い気がするな」
「じゃあ、もう一回探してからだな」
意見はまとまり、三人は再び湿地へと足を踏み入れる。
水辺の捜索は体温を奪い、集中力も削られる。
休みながらでなければ長時間はもたない。
一回目から順調に終わる冒険など、そう多くはない。
三人はそれを肌で感じながら、それでも歩みを止めず、目的の瓦蟹を探し続けていった。
時間だけが、静かに、確実に過ぎていった。




