第71話 包丁を握る手から
今日は静かな冒険者ギルドの食堂。
朝の喧騒も落ち着き、窓から差し込む陽光がテーブルの縁を照らしている。
その中に、一定のリズムで響く音がひとつ──。
トントントン……。
まな板に包丁が落ちるたび、細やかな水滴が飛び散る。
その音だけが、広い厨房の中に澄んで響いていた。
ナカムラは、黙々と手元を見つめていた。
水槽から取り出したのは、丸々と太った一匹のフグ。
透明な瞳が、かすかに光を反射している。
「うわっ、本当にやるんですねぇ……」
コリーが半歩下がりながら声を上げた。
彼の目線の先では、ナカムラがまな板の上にフグを置き、包丁の刃を静かに滑らせようとしている。
「まぁな。スキルで毒を見分けられるし、処理後の残留毒も分かる。一度、ちゃんとやってみたかったんだ」
ナカムラは苦笑いを浮かべ、刃先をフグの身に当てる。
ざりっ。
皮が裂け、包丁が肉を切り分けていく。輪切りにされた断面が、光を受けてきらりと光る。
まな板の上には、スキルによって結晶化した毒素が小さな宝石のように転がっていた。
それをさっと回収し、器にまとめる。
「ふむ、見た目もにおいも悪くないな。輪切りでも、これなら食えそうだ」
「……いや、そういう問題じゃなくて……」
「大丈夫だ。これ、賄い用にしか出さないから」
ナカムラは軽く笑いながら鉄鍋を取り出した。
火を入れ、油を薄く引く。鍋肌がじわじわと熱を帯び、金属の表面が鈍く光りはじめた。
そこへ輪切りのフグを静かに置く。
ジュウウゥッ。
瞬間、鉄と海の香りがぶつかり合う。
白い湯気がゆらゆらと立ち上がり、空気が一気に香ばしく変わる。
表面が弾け、わずかに脂がにじむ。木べらで身の端を押すと、ぷるんと反発。
中まで火を通しすぎぬよう、慎重に時間を計る。
塩をひとつまみ。
パチッ。
小さな音と共に、塩が弾ける。
その瞬間、香りがふわりと広がり、鉄鍋の熱気と混ざり合って鼻をくすぐった。
仕上げに柑橘を搾る。
果汁が滴り、蒸気と共に爽やかな香りが広がる。
「はい、リン。試してみな」
「うん、ありがとう」
リンはテーブルに座り、ナイフとフォークを手に取った。
ナカムラの作ったフグのステーキを、静かに切り分ける。
外は香ばしく、中はわずかに半透明。
ナイフが通るたびに、ふるりと震える弾力。
一口食べれば、海の旨みが口の中いっぱいに広がった。
「おいしい……」
「リンちゃん、抵抗ないんですねぇ……毒魚ですよ、これ」
コリーも恐る恐る口に運ぶ。
「うっ……美味しい……! 悔しいけど美味しいです!」
「だから言ったろう、大丈夫だって」
ナカムラは笑いながら自分の分を皿に取る。
食感の違い、塩の加減、そして柑橘の香りの余韻、たしかに旨いが……。
「真似されても困るからな……」
そう呟きながらもう一切れを口に入れた時、食堂の扉が開く音がした。
「ほう、いい匂いだな」
ギルド長だった。
白髪交じりの髪を整え、書類を片手に持ったまま入ってくる。
「評判がいいと聞いたよ。ご一緒しても構わないか?」
「もちろん。毒魚の輪切りステーキですが、食べます?」
「死なないように頼むよ」
笑いながら席に着くギルド長。
すぐにもう一枚、ナカムラがフグを焼き始めた。
鉄鍋が再び鳴り、香ばしい音が食堂に満ちる。
四人での静かな食事。
その空気の中、ギルド長が口を開いた。
「冒険者達の悩みを料理で解決する──最初に聞いた時は何を言っているのかと思った。だが、今は分かる。必要なことなんだな」
「まぁ、結果的にそうなっただけですよ」
ナカムラは肩をすくめて笑った。
ギルド長はしばし黙り込み、皿の上のステーキをひと口味わう。そして、穏やかに問いかけた。
「今の冒険者ギルドを、どう思う?」
「そうですね……少し人が減った気がします。でも、新しい顔も増えて、雰囲気は悪くないですよ」
「その通りだ。だが……問題はその“新しい顔”の方にある」
ギルド長の声が少し低くなる。
「今、冒険者の流出が続いている。隣国の“砂の国”では大規模な遺跡が発見された。報酬は桁違いだ。腕の立つ者ほど、皆向こうへ流れていく」
「なるほど……」
「そうだ。相対的に経験年数の少ない冒険者が多くなった」
ナカムラは、ギルド長の言葉の裏を読み取る。おそらく依頼の前触れだった。
「で、俺に何をさせたいんです?」
「話が早くて助かる」
ギルド長は微笑み、懐から一枚の書類を取り出した。
「“冒険者養成コース”を立ち上げる。基礎訓練から実戦指導、そして心構えまで。君達に、そこの教官として入ってもらいたい」
「……え?」
コリーが口を開けたまま固まる。
リンもフォークを口に入れたまま、首をかしげる。
「俺が……教える?」
「生き物の生態と毒の扱いや作戦に長けた者、優秀な治癒師、屈強な戦士。冒険者に必要な知識と技術を教えるには十分なパーティだ、違うか?」
ギルド長の声には、静かな確信があった。
「食堂で悩みを聞き、解決してきたその経験も──教育の一環として生きるはずだ」
ナカムラは、皿の上のステーキを見下ろした。柑橘の香りが、まだほんのりと残っている。この世界で「生きる」ことを伝える側になるのだ。
「……まぁ、面白そうではありますね」
「決まりだな」
ギルド長は満足げに立ち上がる。その背中を見送りながら、ナカムラはため息をついた。
「やれやれ、また料理から少し忙しくなるな……」
コリーが肩をすくめ、リンがくすりと笑う。
「でも、ナカムラさんらしいですよ」
そう言われて、ナカムラもつい笑ってしまった。
包丁を握る手から教鞭を振るう手へ──。
おっさん達の物語は、まだまだ終わりそうになかった。




