第2話 最初の1皿
「その“丸く膨らむ毒魚”、もし手に入るなら見せてもらえないか?」
カマヒは一瞬、何を言われたのかわからないという顔をした。だが、すぐに戸惑いの色が浮かんだ。
「見ても仕方ありませんよ。食べたら死ぬ魚。あいつのせいで若い者は出稼ぎに行くしかなくなり、この村は年寄りと満足に働けない人間だけになったんです。」
ナカムラは口元に笑みを浮かべ、懐から縮小コピーしてラミネートした免許証の写しを取り出した。免許取得の喜びの余り、常に懐に仕舞っていた。異世界の者には意味のない紙切れかもしれない。だが、自分の歩んできた道を示す証でもある。
「俺はこれを持ってる。丸く膨らむ毒魚…俺の地域では“フグ”と呼ばれているが、その調理を許された人間だけに与えられる免許だ。つまり、捌けるかもしれない。この村の未来を変えられるかもしれないんだ、まずは見せてくれ!」
自信を込めた言葉に、カマヒは大きく目を見開いた。しかし、すぐに顔を曇らせる。
「そんなことが……信じたい。しかし、何人も死んでいった姿を見ているから……」
「まずは俺が食う。数分待って大丈夫なら、あんたたちも食えばいい。なあに、知らない場所から来た人間が適当な事を言って、勝手に死んだって事にすればいい。まぁ、死体を埋める手間は、俺の身に着けてるものでも売り払ってもらえば手間賃にはなるだろ」
その覚悟にカマヒはしばらく沈黙した後に頷いた。
カマヒは外に出ていき、ほどなくして網にかかった魚を抱えて戻ってきた。それは確かに、ナカムラの知るフグだった。丸く膨らんだ体、鋭い目つき。まるで自分を拒絶するかのように大きく膨らみ震えている。
「こいつです。この魚は、網ですくえるほどいるのですが、こいつが群れになっているせいで、他の魚の数が減っているのです」
ナカムラは真剣な眼差しで魚を受け取った。懐かしさと同時に、妙な高揚感が込み上げる。
「まさかこんなところで、俺の夢を叶えることになるとは……台所を借りるぞ」
彼は木のまな板を見つけ、バックパックに入っていた、きちんと包丁ケースに入れ、鍵をしめて保管していた出刃包丁を取り出す。魚を置き、手際よく包丁を走らせる。頭を落とし、内臓を取り除く。
「すまない、何か毒物を捨てることが出来る入れ物をくれ。」
カマヒが木製の桶をそばに置く。猛毒を含む肝を的確に分け、廃棄用の桶に落とす。その光景に、一家が息を呑むのが背後から伝わってきた。
「なんと……迷いがない」
ナカムラは黙々と作業を続ける。
皮を剥ぎ、身を引き締めるように薄造りへ。透き通るような白身が花のように皿へ広がっていく。
完成したのは、見事な一皿のテッサだった。
木目の美しい木皿の上に、花弁のように薄く広げられたフグの刺身。透きとおる身が、木の温もりを背景にすると、まるで雪の結晶を並べたかのような清らかさを放っている。陶器の青ともガラスの透明とも違う、自然素材の深みがあるせいか、フグの白さがいっそう際立ち、目を奪われる。
「美しい、芸術品のような見栄え……しかし、この魚は」
彼らが不安がるのも無理は無い。だからこそ一番に食べる名誉を頂く。
まずは、指先で摘むように一枚持ち上げ、ほんのひとつまみの塩をのせて口へ。舌に触れた瞬間は驚くほど儚く、すぐに溶けてしまいそうなのに、奥から湧き上がるのはしっかりとした弾力。しなやかなシコシコ感が歯を返し、噛みしめるほどに旨みがじわりと広がりる。塩の粒がその旨味を引き立て、フグ本来の甘みを一層鮮明に映し出してくれる。
「うん、美味いぞ、どうする、俺が不調をきたすまで少し待つか?食べきってしまうかもしれないが……」
数秒もしくは数十秒、部屋の中に張り詰めた沈黙に包まれる。だが、ナカムラのあまりに美味しそうな食べ方と、常に感じている飢えから生じる食欲が不安に勝った。
恐る恐る手を伸ばし、薄く切られた身を口に含んだ瞬間に、彼らの瞳が大きく見開かれた。
「これは、柔らかくて、なのに歯ごたえも…甘味まで感じられるっ」
「美味しい……こんなに美味しいおさかな……嬉しいよう……」
子ども達も恐る恐る食べ、驚きと歓喜の声を上げる。
「贅沢な食べ方を教えよう、数枚重ねて食べてみるといい、俺の地域では金持ちがやる食べ方だ、滅多に出来ないぞ」
そういって続けて数枚を重ねて口に入れる、繊細だった食感が一気に厚みを増し、ぷりぷりと跳ね返すような歯ごたえに変わる。上品で静かな甘みが、喉の奥まで満たしていく。華美な飾りも、香り立つ調味料もない。ただ、木の皿と塩だけ。その潔さこそが、素材の美味さを際立たせ、シンプルでありながら贅沢な一品となっていた。
皿の上の刺身はあっという間に消えた。家の中は歓声と笑い声に包まれ、長らく沈んでいた空気が一変する。カマヒは深く頭を下げ、声を震わせた。
「ナカムラさん……あなたは、我が村を救ってくださるお方かもしれない……お力をを貸してもらえないか!?」
ナカムラは肩を竦め、照れくさそうに笑った。
「ただ魚を捌いただけだ。だが、俺の腕が役に立てるなら、まだまだやれることはあると思う」
それは長い飢えと恐怖の中で失われていた希望だった。
――こうして、ナカムラは“毒魚を食材へと変える”という村人達の希望となったのである。