第1話 おっさん異世界にとばされる
「さあて、家に帰ったら、フグのフルコースで乾杯だ!」
一人のおっさんが、嬉しそうに自転車を漕いでいる。
彼の名前はナカムラ、30代後半の釣り好きのおっさんである。おっさんと言うには若い気もするが、可愛がっていた姪から「おっさん」と呼ばれたことをきっかけにおっさんを受け入れてしまった。
ナカムラには夢があった。釣りが好きで週末は近場の堤防に自転車で通っていたが、堤防といえば、あいつが釣れる。そうフグである。彼にとって、釣れた魚はできる限り食べたいし、できれば知人にも振る舞いたい。そんなサービス精神旺盛なおっさんにとって、フグは頭を悩ませる存在だった。いつかフグを自分で捌いて、皆に振る舞いたい。そんな夢を叶えるため、数年前にある決心をした。
彼は脱サラしてフグの調理師免許を取得するために知り合いのフグ料理屋で働きはじめ、今年、念願のフグの調理免許を取得したのだ。師匠とよぶ板前に厳しくも温かい声をもらいながら数え切れぬフグを捌き、彼は夢を叶えるに至ったのだ。
今日も堤防で釣れたフグを持ち帰り、家に戻り、知り合いに声をかけフグ三昧なパーティーを開催する。彼の頭の中には、喜ぶ人々の顔が浮かんでいた。
しかし、その帰り道で悲劇が起きる。
「うおっ」
小さな段差に若干バランスを崩し矢先に道路にたまった砂、タイヤをとられ、ハンドルを切り損ねて転倒。無様に地面に叩きつけられる。頭を強く打ってしまったのだ。衝撃で意識を失い視界が暗転する中、 最後に浮かんだのは、皿の上に美しく並ぶフグの刺身だった・・・。
「ぐふ……」
ナカムラは意識を失った。
――波の音が聞こえる。
嗅ぎ慣れた潮の香りに鼻をくすぐられ、ナカムラが目覚める。
ゆっくりと目を開けると、見覚えの無い海辺があたり一面に広がっていた。白い砂浜、青く透き通った海、ありきたりのフレーズを思い浮かべながら、立ち上がる。
「痛っ」
急に頭に痛みが走り、ぼやっとした脳内がはっきりとしてくる。
「自転車で転んで頭を打ったはずだが……」
特に血が出ているわけではないようだ、なぜか自転車は見当たらず、カゴに載せていたクーラーボックスも無くなっていた。釣り具をいれたバックパックは背負ったままなので、記憶が飛んでいるわけでもなさそうだ。
「とりあえず、どこにいるのか確認しないとな……」
携帯電話を取り出すが圏外になっており、周辺に目印になる建物も無い。こうなってくると何処にいるのかさっぱり分からない。仕方なく周辺を歩き始めた。
しばらく歩き、初老の男性が海辺で貝らしきものを拾っており、声をかけてみる。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいのですが……」
白髪の男性は、少し不思議そうな目でナカムラを見つめた後、返事をする。
「見かけない恰好の人ですね、どこから来たんですか?」
問いかけに対して、それを聞きたいのはこちらだと言わんばかりにナカムラも返事をする。
「実は、頭を強く打ったあと気づいたらここにいて、周辺を歩いていたら、あなたを見かけたんです。あっ、ナカムラといいます。」
「ナカムラ……名前も変わっていますね。このあたりはタチの海と呼ばれています。よければ、これから村に帰るところです。ご一緒しますか?」
どうやら人のいい男性のようだ。ナカムラは人のいる村まで行ければ、ここが何処か分かると期待しながら、同行することにした。
――結果として、ここが何処だかまったく分からなかった……。
たどり着いたのは小さな海辺の村、潮風に晒された木と石で組まれた家々はどれも色褪せ、屋根の隙間からは風が吹き込み、壁にはひび割れが走っている。道端には雑草が伸び放題で、子供たちが裸足のまま駆け回っているが、その笑い声にはどこか覇気がない。
年老いた者たちは腰を曲げて畑仕事に励んでいるが、その畑には売り物にならない形の悪い野菜ばかりが転がっている。 村全体が、活気を失っていた。潮の匂いと、どこか湿った静けさだけが漂い、風が吹くたびに軋む家屋の音が虚しく響く。
初老の男は、カマヒと名乗り、それもまた自分の住んでいる地域では聞きなれない名前であり、それでも家に案内して少し休憩させてくれようとする親切心に不安よりも感謝の気持ちが勝った。
カマヒの家に入ると、家の中には最低限度の家具以外何も無い。奥に座っている姉妹と思われる2人の女性は、大分やつれており健康そうには見えない。カマヒも最初は意識していなかったが、かなりの痩躯であり、食事を満足に食べているようには見えなかった。
「海が近いのに、魚は獲れないのか?」
思わず口にしたナカムラの問いに、カマヒは苦しげに答えた。
「魚は獲れるんです。でも……ほとんどが丸く膨らむ毒魚なんです。その毒で、村人も何人も亡くなり、それ以外の魚はあまり獲れず、売り物になる魚を出荷しなければ村を維持することも難しい状況なのです」
その言葉に、ナカムラの耳が反応した。
丸く膨らむ毒魚――その特徴に、彼の中でひとつの答えが浮かぶ。
「……もしかして、それはフグじゃないか?」
カマヒは首を傾げる。聞き慣れない名なのだろう。
だがナカムラは確信していた。修行の中で何百匹と向き合ったあの魚に違いない。
「なら、捌けるぞ!」
自信に満ちた言葉を告げるナカムラの声に、カマヒは驚いた表情を見せる。
異世界にとばされたおっさん、フグを捌いてたら伝説になる。その幕開けであった。