第89話「再会」②
運命の夜。神々への反逆集団ガリアンの本陣は混迷の極みにあった。
謎の霧が広がってから僅か5分。人間たちは揃って正気を失い、虚ろな目のまま棒立ちになるのみだった。正気を保っていられたのは人間以外の種族、龍族と神族のみだった。
《おい典膳! しっかりしろ! ……『英唱』!!》
「……!! な、なんだこりゃ!? おい、フィキラ! 龍鳳!」
《何らかの術攻撃を食らっている! この範囲、威力、間違いなくかなり高位の術だ!》
「……まじいな。完全にハマってやがる。お前の龍言語で何とか出来ねえのか?」
《やってはみるがよ、俺1人じゃたぶん難しいぜ。術規模が桁違いだ。こんな時にハーシルのバカは何処ほっつき歩ってんだ! だがまあやるしかねえな。いくぜ……『絶唱……グゥッ!!》
術詠唱に入ろうとする黒龍フィキラの背後から、霧に紛れた強力な打撃が振り下ろされた。全身を激しく打ち付けられ吹き飛ぶ彼に向かって、秋津典膳は必死の叫び声を上げた。
「フィキラ!! このデカブツが……よくも俺のダチを!」
そこに立っていたのは、2体の巨人だった。人間からすれば、まるで雲を見上げる程の巨大な岩の塊。彼らの手には既に無数の龍たちが握り締められていた。屈強な侍である典膳であっても、圧倒的な存在感に流れる汗を止めることが出来なかった。
[無駄だ。お前らはここで死ぬ]
[これは決定なのだ。偉大なる我が主人、ティアマト=ミミン様の名の下に]
「ナメんじゃねえウスノロ! 金島の侍の力、見せてやらあ! 『凌』!!」
気迫と共に飛び掛かった典膳の刀が、唸りを上げて上段から振り下ろされた。彼の最も得意とする渾身の一撃。今までこの技で断てなかったものは存在しない。だが……現実は無惨。彼の刀は巨人の肌すらも傷付けることなく、キンと乾いた音を立てて容易くへし折られた。
[無駄だ。2度言わせるな]
[脆弱な人間は大人しくしていろ。我らの使命は龍の排除のみ。お前らにはすぐにティアマト様の沙汰が下される」
「ぐおおおおお!!!!」
巨人達に両腕を踏み潰され、身動きも取れず虫のように地に伏せる典膳。彼らの視線の先には、本陣にいる隻腕の男と、不気味な闇とともに降臨する豪奢な女性の姿があった。
神々の指導者『セラフ』の一柱ティアマト=ミミンは、肌の露出した羽衣のような衣装をしなやかにたくし上げると、その場にへたり込む兵士を椅子代わりに妖艶に座り込んでいた。一方で反逆集団『ガリアン』のリーダーの人間アサイラムは、くっと歯を噛み締めて小刀を脚に深々と突き刺し、その激痛により辛うじて正気を保っていた。
「あらぁ。誰かと思えば、奴隷くん321号じゃない。20年前は世話になったわねえ」
「やはりてめえか……ティアマト! 皆の仇だ! てめえだけは絶対に……」
「うふふ。アガナとの紛争の混乱に乗じて、わらわの奴隷を解き放った問題児くん。早くお仕置きしたいと思ってたのよ。……『お坐り』」
ティアマトが指を艶かしく動かすと、周囲の霧の密度が数倍に膨れ上がった。即座に焦点を失うアサイラムに向けて、彼女は子供をあやすように言った。
「で、キミがここのリーダーさんなのかしら? 随分と出世したわねえ」
「……は……い。ありがとう……ございます」
「うふふ。素直でいいわあ。奴隷には柔順が一番よ。キミはここで死んじゃうけど、それでいいわよね?」
「……身に余る……光栄です」
「ヒャハハ! ハハハ! おもしろ! 偉そうにゴミを集めといて、敵の親玉を目の前にして、何も出来ずに死んじゃうってダサすぎ! ヒャハハハハハハハ!!」
「ありがとう……ございます」
完全に術中に嵌った彼を、助けようとする者は誰一人としていなかった。この場の全ての人間は彼女の術から逃れられない。ただ棒立ちに、ティアマトの命のまま動くのみであった。
「さ、死んでもらう前に幾つか聞きたいんだけど、ここにソウタとかいう人間……いるわよねえ? さっさと出てきて頂戴」
返事はなかった。暫くしても誰も名乗り出ない状況に、ティアマトは不思議そうに眉を顰めた。
「変ねえ。術に抵抗できる訳もないし。トカゲさん達はソドムとゴモラが潰してくれたし、そうすると……キミに聞くしかないわよねえ、ナンディン?」
群衆の中の一つの影がビクンと反応した。神族の端くれたる彼には、最初からこの術の効果は薄かった。ティアマトが指を鳴らすと、曖昧な彼の意識は即座に戻っていった。彼は現状を確認すると、全身から冷や汗を流して蹲った。
「こ、これは……ティアマト………様」
「お久しぶりねえ。キミが生きててくれてほんと助かったわあ。キミのお陰で全てが手に取るようにわかったんだからあ」
「な! そ、それはどういう……!!」
その時ナンディン=テイルスタッドは猛烈な違和感を感じ、はっと自分の首回りを注視した。そこには闇力が渦になって皮膚の内側に減り込んでいた。そう、あたかも……首輪のように!
「素敵でしょお? キミのその『首輪』を通して、全ての情報は筒抜けってわけ。色々教えてくれてどうもありがとう。結果としてキミが皆を裏切ってくれて助かったわあ」
「そ、そんな! 朕が全ての元凶だと?! そんな訳が……」
「残念。現実よお。その首輪なんだけどぉ、必要に応じて“起爆”なんかも出来るわ。例えば……こんな風にね!」
「ぐっ!! な、何を……おのれ!!」
ティアマトが嘲笑しながら指を鳴らすと、彼の首筋の闇力が激しく鳴動した。破裂しそうに膨れ上がる首輪を見て、ナンディンは顔を紫に染めて必死に引き剥がそうとした。彼女は心底楽しそうにその様子を見つめ、衝動のままに笑い転げていた。
「キャハハハハ!! なあんてね。キミにはまだまだやってもらうことがあるから、簡単には殺さないわあ。ソウタくぅん、聞こえてるぅ? あなたのお仲間、そろそろ死にそうよぉ」
「止めろティア……マト! 殺すなら朕を……」
「バッカじゃない? 死にたい奴を殺して何が楽しいのよ。それに……どうやら来たみたいねぇ」
彼女の闇力空間は、一対の人龍を捉えていた。空から一直線に向けられる敵意を肌で感じ、彼女はうっとりと妖的に微笑んだ。
「ああ! やっと来てくれたのね、ダーリン! お目にかかれる日を楽しみにしていたわ!」
「お前がこれをやったんだな! 許しはしないぞ!」
《待てソウタ! 無策で突っ込むのは危険だ! まず我がこの空間を解除して……》
「あら。よく見たら私のペットくんもいるじゃない。いつの間にか印を外してるけど、面と向かって戦えると思ったのかしら? ……『待て』」
怪しく蠢くティアマトの指先。と同時に銀龍ハーシルの動きがぴたりと止まり、そのまま地面に向けて急降下した。咄嗟に背から飛び降りたソウタだったが、着地の際に足を激しく打ち付けてしまった。一方で銀龍は頭からまっすぐ地に突っ込み、その後ぴくりとも動かなかった。
「どうしたハーシル!? 大丈夫か!?」
「あらあ、お優しいのね。こんな化け物に心遣いなんて。そりゃあのブスもいちころになるわけだわあ」
「化け物なものか! ハーシルはぼくの友。愚弄するのは許さないぞ!」
「おお、怖い怖い。足を折りながらよく吠えること。それより、あなたには大事なお話があるの。まずは彼らの件なんだけど」
ティアマトは目を細めながら、指で糸を操るように霧を動かした。すると、ガリアンの男たちが彼女の前に出て、示し合わせたように剣を抜いた。
「な、何だ?! お前たち何をするつもりだ?!」
「うふふ。じゃあ妾からお仕置きをしまぁす。今から彼らには、互いに殺し合って貰うわ。いいアイデアでしょ? 妾も疲れないし、何より汚れないから」
「ま、待ってくれ! そんな事が許されるわけが……」
「残念! 全部許されちゃいまあす。何故なら妾は……神だから! 『始め』」
彼の目の前で、無慈悲に剣が振り下ろされた。目を覆いたくなるような鮮血。無表情のまま損なわれる命。ソウタは絶叫した。あの日以来何度も怒りを覚えたが、ここまでのものは初めてだった。彼は動かぬ足を引きずりながら、地に唇を噛み締めてはっていった。
「き、貴様ああああ!!!!」
「やだあ。芋虫みたいに這いずり回って。いい男が台無しよお。でも、それも無意味。……ゴモラ!!」
一体の巨人が典膳から足を退け、ゆっくりとソウタに向かっていった。そして、同じように彼の体を容易く踏みにじった。
「ぐぉっ!!」
「……ぐっ! ソウタしっかりしろ!! 今行くぞ!」
しかし典膳の言葉は行動へは繋がらなかった。もう一体の巨人が無慈悲に彼を押さえ付けていた。ただ足を乗せるだけで、2人の高貴な魂は無為に消えていった。
「キャハハハハ! それそれ! その顔サイコー! さて、ここまでで分かったでしょ? キミたちはここで全滅する。これは運命なの。でも、一つだけ回避する術はある。聞きたい?」
「……」
「ま、キミの意思はどーでもいいわ。答えは一つ。そこにいる片腕のゴミ。妾の奴隷を逃しただけでなく、神々に逆らう指導者気取りの彼に、全ての責任を取ってもらうわ。こいつをね……きみの手で殺めるの」
「出来るわけがないだろう! ふざけるな!」
「あらあ、反抗的ねえ。じゃあ、こいつらは皆殺しね。ま、どちらを選んでもきみだけは助けてあげるけど。妾の大切な奴隷として、ね」
濁りきった闇力を発散しながら、ティアマトは心から楽しそうに笑っていた。官能的な動きでくねくねと笑い転げる彼女に、ソウタの憎しみと歯痒さは爆発寸前だった。
「ソウタ! 乗せられるんじゃねえ! どうせこいつは約束なんざ守らねえ! 戦え! 俺が必ず助けてやる!」
「口だけの坊やがよく言うわあ。信じるも信じないも勝手だけどお、このままじゃみんな死ぬのだけは確か。さ、どうするう? いい子ちゃん。きみがその手を汚せば、みんな助かるかもよお?」
「……この足を退けてくれ。ぼくの覚悟、ここに示そう」
ソウタは毅然とした表情で、はっきりとそう言った。迷いのない目の光を見て、ティアマトは込み上げる下半身の疼きを感じながら、巨人達に合図を送った。
「うふふ、いいわ。退きなさいゴモラ。さてさて、どんな“結論”かしら。楽しみい」
巨人が足を退かすとすぐに、ソウタは剣を杖代わりにして一歩、また一歩と前に進んでいった。ぜいぜいと息を切らせながらも、やはりその目に迷いはなかった。
彼とティアマトとの距離は数十メートルまで近付いた。奴隷化した人々の中にアサイラムの姿を視認すると、彼はにこりと微笑んだ。と同時に、術式が彼の手から巻き起こった。
「へえ。それで殺すの? で、誰を? 彼? それとも……妾かしらぁ?」
「あいにく、ぼくは人を傷付けるような人間じゃないんでね。この術式は敵にしか振るうつもりはない!」
「なあんだ。想像通りじゃない。つまんないの。そんな雑魚い術じゃ100回当てても妾に傷一つ付けられないわよお」
「100回でだめなら、200回でも1000回でもやってやるさ! こんな理不尽をぼくは絶対に許さない! ただし……それをやるのはぼくじゃない! ……『エクスプロシオーン』!!」
ソウタは術を放つ刹那、咄嗟に方向を変えた。狙いはただ一点、秋津典膳を封じる巨人ソドムの足! 油断しきっていた巨人はまともに爆発術をくらい、僅かにぐらりと足をよろめかせた。典膳はその隙にするりと脱出し、それと同時に黒い閃光が天空から舞い降り、彼を背に乗せて飛び去った。
《すまん典膳! 回復に手間取った! 無事か?!》
「ったりめえだ! こんなもんかすり傷よ! すぐに皆を助けるぞ!」
《無論だ! もう不覚はとらん!》
空中で気迫を込める一対の人龍。計算違いの事態にやや表情を張り詰めさせながらも、不敵に笑うティアマト。
「なあるほど。ま、それはそれでいいわあ。キミたち、戦いたいなら好きになさい。その代わり、こいつらがどうなっても知らないわよお」
「くっ!!」
術を強く練るティアマトの動きに合わせて、人々はその刃を自らの首筋に押し付けた。思わず動きが止まりそうになる彼らに、ソウタから檄が飛んだ。
「こいつの甘言に乗るな、典膳! 現実を見据えろ! ぼくらはもう助からない。ぼくらは敗北した。けれど……ガリアンにはきみがいる! きみらだけなら逃げられる!」
「あ!? できるかそんなの! ふざけんじゃねぇ!」
「ふざけてるのはきみだ! ぼくらは勝てなかった。だから……きみが繋いでくれ! そして、いつか必ずぼくらの無念を晴らしてくれ!」
言葉をぶつけ合う2人。ソウタの気迫の前に押されつつある典膳。そう、もう勝負は付いたのだ。ガリアンの勝ち目はゼロだ。やはり、神に勝つなど不可能なのだ。そう……彼らだけでは。
「あらあら。美しい友情だこと。でも、妾が逃すとでもお思い? 奴を必ず仕留めなさい、ソドム、ゴモラ」
[は、かしこまりました]
[容易き任務にて。必ずや尸をティアマト様に捧げます]
動き出す巨人。今までの愚鈍に見えた動きとは打って変わり、地響きを起こしながら典膳たちに駆け寄る2人。彼は折れた刀を握りしめ、目を閉じた。
「やるしかねえ。俺の魂を燃やすぞ! 何としてでもあいつだけは仕留める!」
《駄目だ典膳! ソウタの意思を無駄にするな! 今は逃げるぞ!》
「ふざけるな! 俺は戦うぞ! ……おいフィキラ! 逃げるんじゃねえ! 俺は……!!」
迫る巨人から一目散に逃れる黒龍。その速度は敵の速度を遥かに凌駕していた。だが、それを不敵に見つめるティアマトは、両腕を艶かしく振り上げた。すると即座に霧が動き出し、生き物の様に形を変えて人龍の動きを阻害した。
「くっ! こりゃ一体……動きが取れねえ!」
《やはり無理か。実力が違い過ぎる。……おい典膳。お前だけでも生き残れ。最後の力を使うぞ! 聞いてんのかバカ!》
《当たり前だ! 絶対に生かす! 我に合わせろ……『絶唱・双』!!》
地の底から気迫の波動、天地両方から合わせられた龍族の最強の言語が、瞬く間に霧を無効化していった。双龍が命を削り放った力により、人々は意識を取り戻して混乱し切った場を見つめていた。しかし、ティアマトは動じない。全て計算づくであると言わんばかりに、巨人達に顎で命じた。
「はい。これが最後ねえ。あの様子じゃ、もって3分かしら。じゃあソドム 、ゴモラ。ゴミ掃除は頼んだわあ」
[御意]
[すぐに仕留めます。龍も、人間も余す所なく]
蹂躙が始まる数秒前。無力な人々が、術も力も通じない敵に皆殺しにされるほんの数秒前。アサイラムは覚悟を決める。全ての決意を声に込め、最後の魂をあらん限り吐き出した。
「全軍に告ぐ! 次のガリアンの指導者、ソウタを連れて逃げろ! 俺の最後の命令だ! 必ず……!!」
直後に貫かれる心臓。飛び散る鮮血。愉快そうに嘲笑うティアマト。即座に絶命した彼の骸を不快そうに投げ捨てると、彼女はキセルに火を付けて煙を吐き出した。
「はい、終わりと。じゃあソウタちゃん逃げたら? 折角このゴミが言ってくれたんでしょお? 早くしないと妾の術が復活しちゃうわよぉ?」
「ぼくが逃げる訳がないだろう! 今しかない! ハーシルとフィキラが時を作ってくれた今しか、お前を倒せる時は……」
「莫迦者めが! アサイラム殿の死を無駄にするな!」
だが、そんな彼を押し留めたのはナンディンだった。この場において、ただ一人冷静だった彼が。趨勢は決まっていた。巨人に挑みかかる典膳が無残に吹き飛ばされ、龍たちに死の鉄槌が下らんとしているこの状況で、既に彼らの勝ち目は有り得なかった。ナンディンは周囲の兵に指令を送り、暴れるソウタを担ぎ上げさせた。
「ふざけるなナンディン! ぼくは……こんなの認めないぞ!!」
「冷静になれ、ソウタ。あの日を思い出すのだ。責任は朕が取る。勝てる訳はないが、最後の足止めとなろうぞ!」
「止めろ! きみまで死ぬな! アガナの意思を無駄にするのか!」
ナンディンはそれには答えず、自嘲気味にふっと笑って振り向いた。彼は見下したように嘲笑し続けるティアマトに向き合い、最後の刃を振るわんと力を込めた。
同じ時、秋津典膳も死に瀕していた。巨人の桁違いな打撃により全身の骨は砕かれ、彼はただ強い意志のみでその場に立ち尽くしていた。
「典膳! 退くでござる! もう其方は……」
「舐めんな龍鳳! 俺は……秋津典膳だ!!」
気迫が刀に込められ、炎と化した。彼は呼吸を止め、敵の呼吸に身を任せた。結末の時は近い。巨人の腕が振り上げられ、同時に典膳の両腕も引き絞られた。
《まずい! 終わりだ!》
フィキラも完全なる諦めを感じ、龍言語を中断して敵に向かって駆け寄ろうとした。
そして、その時! 遂に……風が舞った。鋭き一閃が前方の山々から一陣、袈裟斬りのように巨人の肩先に突き刺さった。いや、それはよく見れば2陣! 同時に重なった強烈な斬撃が巨人ソドムをまともに捉え、一瞬のうちに真っ二つに切り裂いたのだ。
「……え?」
そこにいる誰しもが唖然とし、目を丸くした。想像を超えた事態に思考は一瞬停止し、一様に風の吹いた方向をを向いた。
「な、なんだありゃ?! イカれか?」
《まさか……ハーシルのバカが言ってた》
「おお……奇跡が起こったぞ! 朕は再び……奇跡を目にしているのだ!」
「おのれ……来るとは思っていたが、まさか今とはねえ!!」
《やはり来て頂けましたか。お前に託して正解だったぞ……友よ》
「ああ……信じられない! ぼくは夢でも見ているのか?」
小高い山の頂上に、2つの人影が見えた。奇妙な格好をした、2人の女性。1人はすらりと背の高い黒髪で、全身真紅のボディースーツと蝶を模した仮面を優雅に身に纏い、実に堂々とした態度で彼らを見下ろしていた。もう1人は豊満な体をした小柄な女性で、はちきれんばかりに広がったピンク色のボディースーツを身に纏い、豹柄の仮面を恥ずかしそうに手で隠していた。
「ね、ねえ。アガ……いや、パピヨン! なんかすっごい見られてるんですケド! や、やっぱ恥ずかしいよ~」
「戯け者が! 敵を欺かんとすればまず味方からじゃ! そもそもお主が変装せいと申したのであろうが、パンサー!」
「いやあ! その呼び方もやめてえ! だってこんな服だなんて思いもしなかったんだもん。コレなにでできてんの~? すっごいぴちぴちなんですケド」
「何じゃと! お主の好きなピンクにしてやったのじゃぞ! 儂もその色が良かったのに、不平不満ばかり申しおって! それに何じゃさっきの攻撃は! ソウタに当たったら何とするか!!」
「だってコレほんと動きづらいんだよ~。ああ、また見られてる〜。ホント死にたいぃ……」
場違いに言い争う2人を見て、ティアマトは怒りの血管を額に浮き出し、それでも感情を押さえ付けて努めて冷静に言った。
「お久しぶりねえ……アガナ=ハイドウォーク! 20年振りかしら。妾はあなたに会いたくて仕方なかったわよ」
「誰じゃそれは! 儂はまるで知らぬ! アガナなど見たことも聞いたこともないし、貴様のようなババアに会ったことはないわ! どうやら痴呆でも始まったようじゃな」
ビクン、とティアマトの闇力が爆ぜた。凄まじい怒りに地が震えるようだった。しかしアガ……パピヨンは動じない。この女は動じない。
「儂がここへ来たのはな、そこの者たちの命を救う為じゃ。儂には縁もゆかりもない有象無象共だがの。特にそこの凛々しくて、優しい笑顔の殿方なぞはまるで知らぬ! そこで情け無く伸びている銀蜥蜴も知らぬ! じゃが命は命。むざむざと貴様に奪わせる訳にはいかぬ」
「……ねえ、正気? それで誤魔化してるつもりなの? 暫く見ないうちにおかしくなっちゃったのぉ?」
「意味が分からぬ! 儂の名はパピヨン、隣はパンサー。世界を股にかける正義の使者じゃ!」
「あっそう。どうも頭が茹で上がっちゃったみたいねえ。ま、いいわ。妾のやることは変わらないし、後か今かの違いだけねえ。昔はまんまとしてやられたけどお、今の妾を甘く見ないことね。妾の固有術『幻想空間』、『首輪』。2つの術は完成しきっているわぁ。天才とか呼ばれて調子に乗ってたのも昔の話、今の妾はこの地で最強の存在なのよ!!」
「ほう。その哀れな術が“最強”と? ……ヒャッハッハッハッハ!! 笑わせてくれるわ! そんな児戯にも等しき“遊び”がのう。頭が沸いておるのは貴様の方じゃな」
再び、爆ぜる闇力。あまりの衝撃で吹き飛ばされる一同。だがパピヨンは止まることなく、腕組みをしたまま見下し切った目を向けた。
「ほう。良かろう。ならその“最強術”とやら、儂に見せてもらおう。何ぞ楽しいことが起こるのじゃろう? ほれ、早く見せてみよ。遠慮は要らぬぞ」
「……昔から大嫌いだったわ。その人を舐めきった態度。天才? 神の中の神? そんなもん知ったことじゃないわ! 見てなさい! あんたの前でこいつら全員皆殺しにしてやるわ! ……『幻想空間』!!」
指を激しく艶かしく動かして、全霊を込めたティアマトの術が発動した……筈だった。しかし、現状何も起こらない。霧は発動せず、誰一人動くものはない。それどころか、人々は少しずつ意識を取り戻しつつあった。ぼんやりとした意識ではあったが、彼らの目に徐々に光が灯っていった。
「な!? な、何をしたの!! 何故術が発動しない?!!」
「する訳がなかろう。そんな薄い闇力で儂の結界を貫けるとでも? まあ着眼点は悪くないの。極上の闇力虫を空間中に這わせ、体内に入り込んで支配する。貴様にしては上出来じゃ。褒めてつかわすぞ」
パピヨンは両腕を振り上げて、空間内に光の光子を撒き散らせながら言った。闇術は完全に無効化されていた。怒りで発狂しそうになるティアマトを尻目に、パピヨンは手早くパンサーに指令を出した。
「な? 言ったじゃろう。こんな雑魚に苦戦する儂ではないわ。すぐに縊り殺す故、お主はあのデカブツをなんとかせい」
「はあい。わかりましたあ。こっちも早めに潰すね~」
影だけを残し、その場から高速で飛び去るパンサー。パピヨンはふんと唸って顎を上げると、即座に10以上の術式を形成し、ティアマトに向けて放った。
「では戦じゃ。遠慮せずに殺ろうぞ。……『マグナ・グランデ・ディエス』!!」
「な、何なのこれ!? 上級術を一瞬でこんなに! ……『幻想空間・堅牢』!!」
桁外れの威力を持つ炎術の嵐に焦り汗を流す彼女。咄嗟に霧を集めて防御したものの、全身は確実に焼かれていた。その様子を見たパピヨンは、ふうとあからさまなため息をついた。
「何じゃ。やはりその程度か。成長せぬのう。神だかセラフだか知らぬが、雑魚の弱い者虐めほど不快なものはないわ」
「お前に……何が分かる! 天才だか何だか知らんが、努力もせずに何の苦しみもなく力を手にしたお前に、妾の何が分かる!!」
「知らん!」
「死ね!」
炸裂する感情と、凄まじい術同士のぶつかり合いが始まった。実に数十年年ぶりの、セラフの家系同士による正面からの戦いが切って落とされたのだ。




