第89話「再会」①
雨上がって。
森の中、木と蔓で作った簡素な椅子に優雅に腰掛けるアガナ。彼女は手に持ったティーカップから沸き出る湯気に目を細めると、静かに一口付けてにっこりと微笑んだ。
「相変わらず美味いの。また腕を上げたのではないか?」
地面に座り込むプリシラは息を吹きかけながら茶を飲み込むと、ほんわかとした声で返した。
「そ~でしょ? やっぱアガナっちなら分かってくれるよね~」
「ふふ。当たり前ではないか。儂とお主の仲じゃろうが」
その言葉を聞き、その言葉の響きを感じ、プリシラはぴたりと動きを止めた。そして、俯き気味に手元に視線を向け、静かに告げた。尋ねた。
「……ねえ、アガナっち。ほんとうにそう思ってる?」
「10年前の件……か?」
同じように俯くアガナに、プリシラは下を向いたまま、大きな瞳いっぱいに涙を溜めながら、呟くように言った。
「どうして……わたしを置いてっちゃったの? そんなにわたしって頼りにならない? アガナっちにとって要らない存在だった?」
「……違う。断じて違うわ。あれは……単なる儂の我儘じゃ。あの日儂は、困っている人の為に生きようと決めた。そのまま朽ち果てていこうとおもったのじゃ。だから……お主を付き合わせるのは申し訳なかった。お主にも生活があるじゃろう? だから……」
「そんなつまんないこと言わないで! わたしがどれだけ心配したと思ってるの! どれだけ探したと思ってるの!!」
それはアガナが初めて聞いた、プリシラの怒声だった。と同時にカップが地面に叩き付けられ、激しい音とともに割れた。背後の森から鳥がバサバサと飛び立って行く中、彼女は呆然と見つめ返すしか出来なかった。大人になってから初めて真剣に怒られた。それも、私利私欲の欠片も無い感情から。しかも最愛の友によって。彼女は俯いて堪え切れずに大粒の涙を流すと、手で顔を覆いながら振り絞るように言った。
「……本当にすまぬ。儂はあの時……何も信じられなくなっておったのじゃ。何かを信じて、失うのが怖かったのじゃ! お主に……唯一の友人に嫌われるのが怖かったのじゃ!!」
「なんなのそれ! わたし、アガナっちのことずっと友達だと思ってたんだよ! ずっとずっと変わってないよ! それなのに……なのに!!」
いつしかプリシラも大粒の涙を滝のように流していた。アガナは涙で美しい顔をぐしゃぐしゃにして、彼女の肩を強く掴んで叫んだ。
「信じてくれい! 儂にとってお主は特別なのじゃ! 儂の唯一の本当の朋友なのじゃ! 心底詫びよう! 本当に申し訳なかった!!」
「うんわかった~。許すね」
「な!?」
地に着かんばかりに頭を深く下げたアガナに対し、いとも簡単に笑顔に変わるプリシラ。拍子抜けしてがくりと肩を落としたアガナだったが、すぐに、何となく笑みが溢れてきた。それは彼女が久方振りに振り撒いた、本当に気持ちのいい心からの美しい笑みだった。
「まったく……お主は変わらんのう。こちらの気が抜けるわい」
「えへへ。そうかな~。あ、おにぎり作ってあるよ。一緒に食べよ」
「気がきくではないか。腹に穴があきそうだったところじゃ。どれ……」
「あ!! 一番大きいの食べた! ひど~い!!」
「五月蝿い! ごちゃごちゃ抜かすな! ……おお、実に美味いのう! この肉は何じゃ? 独特の風味がするが……」
「えへへ。それはね~、この辺で取れたオオフンコロガシのミンチだよ。すっごい珍味なんだってさ~」
「フ、フンコロガシじゃと!! オェェェェエエエエエ!!」
「ああ! もったいないよ~。せっかく作ったのにい」
穏やかな時間が流れた。2人は10年という月日を埋めるように、互いに話をした。2人とも笑顔だった。暖かい時間だった。アガナは、自分が捨てた筈の、捨てたと思い込んでいた感情を、ありありと心中に蘇らせていた。そうだった。こういうことだったな。彼女はそう思った。深く深く反芻した。時間は絹の如く滑らかに経過していった。
「……ほう。ならお主はハイドウォーク家から出奔したという訳か。彼処にはお前の好きないい男が山ほどおったろうに」
「ああ、いろいろいたけどね~。ムサいのしかいないんだもん。ガンジくんイジメるのにも飽きたし、なんとなく出てきちゃったあ」
「父上と……ルシフェルは元気にしておったか?」
「あ、ガブっちは元気だよ。アガナっちのことでよくボヤいてはいたケド。わたしに優しくしてくれたしね~。でも……ルシフェル様はちょっと変だね~。みんな雰囲気変わったって言ってたよ~」
「……そうか」
沈黙。流れ始めた剣呑な雰囲気にはっと気付いたプリシラは、慌てて話題を変えようとした。
「ええと、でさ、アガナっちは聖女やってたんでしょ? なんか噂聞いてるよ~。無償で誰でも治す女神様だって? すっごいじゃん!」
「儂のせいで沢山の血が流れたからの。せめてもの償いのつもりじゃったが、やがて……なんとなくじゃが、やり甲斐を感じてきてな。まあつまらぬ自己満足じゃて」
「へ~。なんかイイじゃんそういうの! で、これからどうするの?」
「これからも続けていこうとは思っておる。しかし、近年の負傷者の数は異常じゃて。治しても治しても追いつかぬわ」
「あ~。神々の軍団と、人間と龍の連合軍が戦ってっかんね~。すごい激戦だってさあ。なんかパルポンカン近くまで迫ってるっぽいよ」
「!! 神の都までか!? だいぶ近くではないか。大層な話じゃな。まあ……儂には何も関係ないが」
「そうだねえ。すぐそこにソウタもいるけど、アガナっちには関係ないよね~」
ビクンと実に分かり易く全身を震わせて、強烈に反応するアガナ。あまりにも明確な狼狽え方に、プリシラは内心の笑みを必死に押し殺していた。
「ソ、ソ、ソ、ソウタじゃと!! な、な、な、何故それを知っておる?!」
「ええ~。ハーシルが教えてくれたよお。あ、でもアガナっちには言うなって言われてたんだあ。まあでもさ、もうぜんぜん関係ないもんね~」
「う、う、う、うむ。そ、そ、そ、その通りじゃ。儂は一度拒まれた身。どの面を下げて会えばよいか分からぬからのう」
「なんかね~、ソウタもアガナっちに会いたがってたみたいよ。どうしても伝えたいことあるみたいだけど……もう関係ないもんねえ」
その言葉に露骨に態度を変えたアガナは、白々しい顔をした友の両肩を掴み、力いっぱいに揺らした。
「!!! つ、つ、つ、伝えたいこと?! な、な、な、何じゃそれは!? 早く申せ! 早く!!」
「知らないよ~。ハーシルが言ってただけだもん。あいつに聞くか……直接本人に聞いてよ」
「むむむむむ!! あの糞蜥蜴めが!! 許してはおけぬ!! し、し、し、しかしじゃ。冷静に考えよ。あれからもう10年も経つ。人間にしては大層な時間じゃろう? もう妻などを娶ったのではないか? 何せあれは良い男じゃ。優しくて、暖かくて、一見ひ弱そうにも見えるが、その実内面に強いものを持った……実に素晴らしい男じゃからな。そ、そうじゃ! そうに違いない! はは、これはうっかりじゃ! 早合点して道化となり、その分だけ余計に落ち込むパターンじゃ! そうに違いない! はは! ははははは!!」
「あ、ソウタ独り身だってさ~。良かったじゃん」
「な、な、な、何じゃと! あれ程の男がか?! そ、そ、そ、そうか。それは良かっ……いや、あいつにとっては良くはないがの。し、しかしじゃ。今更どうすることも出来まい。儂の力なぞあいつには要らぬじゃろう?」
プリシラは内心でほくそ笑み、こっそりと拳を握り締めながら、にこやかに、それでいて力を込めた目で言った。
「それがね~、そうでもなさそうだよ。東大陸のスザク地方でソウタたちを待ってるの……誰だか分かる?」
「この時勢じゃ。セラフは終結しておろうの。まさか……お父様か?」
「だったらまだいいケド。よりによってさ、ティアマトのババアだって~」
「!! あの売女か! じゃが……それは変じゃぞ。彼奴は儂に殲滅されて以来、陛下から直接戦闘を禁じられておる筈じゃ。パルポンカンが攻められたというのなら分かるが、いきなり出張る道理はなかろう?」
「そうなんだよねえ。かなりムチャしたんだろうね~。あのババア、アガナっちのこと大っ嫌いだもん。ぜんぶ調べ上げてるんでしょお。もちろんソウタのことも」
「ふん! 逆恨みも甚だしいわ。しかし……そうなると事態は剣呑じゃな」
その時、アガナの眼に初めて鋭い光が宿った。プリシラはそれを好機と捉え、一気に畳み掛けようとした。
「うん。かなりね~。このままじゃヤバいカモ。誰かが助けてあげないとね~」
「儂は行かぬぞ。そんなこと関係ないわ!」
プリシラは内心でがくりと肩を落とした。やれやれと心中で思いため息をつきながらも、彼女は確実な手応えを感じ、最後の切り札をそっと差し出した。
「そうなの~? ならいいけどさあ。あ、でも……あのババアの“能力”、とうぜん知ってるでしょお?」
「ん? 知らぬ。そんなもの眼中に無かった故な。前の戦の時も、奴程度の術では儂に何の効果も齎さなかったわ」
「そりゃそうだよ~。だってね……ちょっと耳貸して」
プリシラはアガナの耳元に近付き、何事か耳打ちした。すると、みるみる上気していく彼女の顔。
「……な!! なんと! そ、そんな破廉恥な術が!!」
「そうなの~。だからね……でしょ? それで……が中にね……」
「な、な、な、な!!!!」
「で……蜜が……となって、最後に……アレが……ああなるってわけ。いくらソウタでもこれはね~」
「お、お、お、お!! な、なんという!! あの売女めが! 絶対に許せぬ!」
「そそ。このままじゃさ、ソウタはババアの“奴隷”にさせられちゃうよ~。それでもいいのお?」
「……」
沈黙。深い深い沈黙。数分に渡る沈黙を経て、アガナは不意に大きく美しい目をかっと見開いた。
「一つ聞くぞ、プリシラ。そのソウタの所属する軍団は、一体どの程度の規模なのじゃ?」
「ええとね、ざっと1000とかそんなもんじゃないかなあ? セラフを落とすにはぜんぜん足りないよね~」
「すると……ここで儂が奴らを見殺しにすれば、1000もの尊い命が失われる。そう考えて良いのじゃな?」
「うん。間違いないよ~。実際あのババアかなり強いからねえ。側近のあのデカい2人……なんて言ったか忘れたケド、あいつらもなかなかだよ~。わたしと正面からやり合って生きてたくらいだもん。人間じゃひとたまりもないんじゃない?」
「……ふむ。分かった。これはな、あくまで人助けじゃ。分かるか? 決して私利私欲からではない。あくまで世界の平和と人命を守る為、止む無く行う献身的な行為じゃ。理解したか? ちゃんと聞いてるか、プリシラ?」
「わ、わかったよ~。ちゃんと聞いてるから落ち着いてえ」
「ならば話は終わりじゃ。すぐに行くぞ!」
がばりと立ち上がるアガナ。その眼には今までにない光が灯り始めていた。慌ててそれに続くプリシラの目には、今迄とは種の異なる涙が浮かんでいた。
「うん! それでこそアガナっちだよ! わたし……ずっと信じてたから」
「ふん! 儂はただ、無為に命が損なわれるのを見逃せぬだけよ。何の下心もないわ。何一つの。分かるじゃろう、プリシラ? お主なら儂を理解しておるじゃろう?」
「わ、わかってるよ~。でもさ、マジ大丈夫? アガナっちだいぶ実戦から遠ざかってたんでしょ? いきなり戦って平気なの?」
アガナはその言葉をふっと一笑に付すと、灰のローブをばっと投げ捨てて、括った髪を一気にとき解き、実に生き生きとした美しい表情で言った。
「何を言うかと思えば……儂を誰と思うておる? 天地開闢以来最強最高の天才と謳われた、神々の麒麟児アガナ=ハイドウォークぞ! 大船に乗ったつもりでおれ! グワッハッハッハッハ!!」
くすり、とプリシラは笑った。そうだった。これだった。わたしは……ずっとこれを求めてたんだ。この人と一緒にいたかったんだ。心の中に暖かな感覚が広がるのを感じ、彼女は掌をぎゅっと握り締めた。
スザク地方西部。ガリアン駐屯地。
戦士たちは束の間の休息を取っていた。ここ神の本拠地に入ってからの連戦に次ぐ連戦により、多くの損傷が彼らを蝕んでいた。しかし、彼らの戦意は衰えない。徐々に敵のの喉元に近付いているのが分かっていたからだ。もう間も無く、間も無く! そんな希望が彼らの重く沈み込みそうな足を必死に動かしていた。
歩哨の足音で、ソウタははっと飛び起きた。時刻は2時過ぎ。まだ目覚めの朝は遠い。汗だくの彼はふうと一声つくと、ぼんやりと窓から見える夜明け前の空を見つめていた。
「おや? ずいぶんと霧が深いな」
乳白色の霧が世界を包み、夜を幻想的な赤い色に変えていた。彼は自分の両手に視線を下げ、ふうとまた一声ついた。
噂を聞いてから一月ほど。結果として彼が、“灰の聖女”の足取りを追うことは出来なかった。本当にそんなものが存在するのかどうかも含め、彼には何も知ることは出来なかった。だが、彼には確信があった。この話が確実に自身の根幹へと繋がっていることを。自分が進んでいる方向が間違いではないことを。
彼は護身用のナイフだけを腰に挿して宿舎を出ると、見張りの兵たちに一礼した。彼らは畏まった様子で敬礼の姿勢を取った。
「これはこれはソウタ様! こちらは異常ありません!」
「うん。ありがとう。ちょっと外すから引き続きよろしくね。後で見張りは代わるよ」
「バカなことを仰らないで下さい! ソウタ様は我らガリアンの指導者に等しき方。どうかゆっくりお休み下さい!」
「指導者……か。ぼくはそんなの柄じゃないよ。全部きみらと一緒なんだけどね。……まあいいや。とにかくちょっと出てくるね」
彼が向かった先は、陣営地から少し離れた岩場だった。まばらに草が生え、よく空が見える場所。かつて彼が羊の世話をしていた、思い出の地に少し似た場所。ここにいると彼の心は少しだけ落ち着いた。過去も現在も、未来すらも少しだけ忘れることができた。彼はその辺の葉っぱを引きちぎり、おもむろに口に付けてそっと息を吹くと、独特の優しい音が流れ出て、周囲の風景に色を付けていった。
(……懐かしいな。思い出すのはきみの顔ばかりだ。アガナ……ぼくは本当に……)
暫くの間、彼は自身と世界とを音によって結び付けていった。それは彼にとって、一種の神聖な儀式だった。誰かに邪魔をされることのない、自身の内面に深く降り立つ為の行為だった。
ずいぶんと長いこと彼は音楽に没頭していた。それは、彼にとっても久方振りの経験だった。何が自分をそうさせたのかは分からないが、自らの内を吐き出すように、静かに自分だけの世界に入り込んでいた。その時、背後から控え目な声が投げ掛けられた。
《何処へ行ったかと思えば……またか。そろそろ夜も明けようぞ》
彼の盟友たる銀龍ハーシルが、呆れたように笑いながら呟いていたた。彼ははっと我に帰り、すぐににこりと笑い返した。
「おはよう、ハーシル。これはぼくの唯一の趣味みたいなもんでね。うるさかったかい?」
《別に構わん。もう慣れたわ。貴様のそういう所……我は嫌いではない》
どかりと座り込んで、彼は顎を地に付けた。ソウタは彼に歩み寄ると、同じように隣に腰掛けた。
《しかしな、最近の音は随分と荒れているぞ。……何ぞ不安でもあるのか?》
「はは。きみにだけは隠し事は出来ないね。どうしてもフィキラの話が気になっちゃってさ」
《灰の聖女……か。黙っていてすまん。今は大切な時期故、不確かな話はすべきでないと思ってな。以前に懐かしき友にも話したが、そちらをかなり刺激してしまったことがあってな》
「友? それは一体……」
その時、ソウタの視界が揺れた。ぐにゃりと世界全体が混迷する感覚。目眩のように広がる感覚に、ソウタは頭を抑えて蹲った。
《ん? いきなりどうした? 具合でも悪いのか?》
「う、うん。なんか変だな。目の前が揺れてるんだ。ちょっと寝た方がいいかもしれない」
《貴様が弱音を吐くとは、よっぽどの事態だな。どれ、我が背に……!!》
ここに至り、ハーシルの目にも異変が映った。この空間内に“それ”が巻き起こっていることを。霧のように見えた存在の正体、それは!!
「くっ……力が………」
《いかん! 術結界だ! しかもこの術は……ええい! 言っても始まらん! 先ずは我らだけでも振り払わねば! ……『英唱』!!》
咄嗟に放った龍言語により、彼らに降りかかる限定範囲内の霧は無効化された。ぼんやりとした頭を自ら叩き、ソウタは深い霧に包まれた自陣を鋭く見つめていた。
「まずい! 敵の攻撃だ! すぐに戻らなきゃ! 乗せてくれ、ハーシル!」
《無論だ! このままでは壊滅だ! 行くぞ!》
人龍は一体となり天地にかかる霧を突き進んで行く。その先にある絶望へ向けて、ただ切り開く一本の地導となるべく。




