第84話「アガナ=ハイドウォークの肖像」
今から約600年前。世界が世界たり得る遥か以前の話。
この地に“神々”が降り立った日より、大地は平穏を極め、あらゆる生命は彼らの加護の下で繁栄と祝福を謳歌していた。神々は別の高位種族たる龍族を力で屈服させ、また一方で従わぬ巨人族を殲滅し、従順な奴隷として人間を創造した。圧倒的な力、『闇力』と呼ばれる超自然の力は時として天を穿ち、世界そのものを変異させるほどの力を秘めていた。
だが、その力の副作用によって生まれた闇に生きる者、闇の眷属と呼ばれる存在は人々を脅かし、時に龍にすら危害を及ぼすほどであった。人はそれを悪魔と呼び恐れ、神々という超越の存在に身を委ねる他に手段はなかった。それが彼らに齎されたものとも知らず、盲に信望を捧げる、哀れで弱き存在。それがこの時代の人間だった。
彼らがこの地を統治してから、図らずしてこちらも600年。超越者、絶対者である神々の中にも、徐々にある種の歪が生まれようとしていた。彼らが何処から何の為に来たのか、そんなことは誰にも分からない。だが一つだけ言えるのは、彼らも全て一丸ではないということだ。強きものと弱きものがあり、強き腕は泥中で溺れしものを粉砕する。ただそれだけの話。つまりは自然の摂理。
物語は西大陸の東辺、カイゼルタウンと呼ばれし街から始まる。これは生まれながらに最強と呼び得る強さに恵まれ、その力と向かい合った戦士の物語。愛に生き、愛に死んでいった女の物語。そして、そんな彼女を愛した者たちの物語。
カイゼルタウン辺境。とある屋敷内。
広々とした王宮を思わせる、石造りの3階建ての屋敷。豪奢な見た目とは裏腹に、極めて質素な、悪く言えば無機質な部屋の中、3人の男達が顔をつき合わせて静かに座り込んでいた。彼らの服装は金銀様々な宝飾で彩られており、明確な身分と地位を感じさせた。
「遅いぞえ。もう1時間も待っているというのに、顔一つ見せん。あいつは一体何をしておるのか!」
男の一人、口ひげを長く伸ばした中年の男は、たるんだ腹を揺さぶらせながら激しい口調で言った。残る二人も同じ気持ちらしく、冷め切った茶の残りを口に流し込み、彼に同調するように無言で頷いた。
「やはり、あの狂人に物を頼むなぞ土台無理な話だわい。本家の長子として生まれながら、やりたい放題と我侭の連続で、挙句の果てに家督まで放棄したとの話ではないか。とても同じ神の系譜とは思えんわ」
「まあまあ。お気持ちは分かりますがね、ナハス卿。あいつの力が圧倒的であることは間違いありません。陛下のみが行使し得た術の数々を独力で復活させ、世界そのものを操作するほどの才能は、我らにとっても脅威の二文字でしかない。何としてでも味方に付ける他ありますまい」
痩せ細った長身の男が、げんなりした様子で言った。だがそれを遮るように、赤ら顔の小男が目を怒らせた。
「いや、バルク殿は甘すぎる。あいつは危険ですぞ。素直に我らの味方となるなら問題ないが、万が一敵となるならここで殺したほうが良い。あいつと敵対したティアマト伯がどうなったか、お二方もご存知でしょう? たった一度の戦で、数えられるほど僅かな術によって、万近い軍が殲滅させられたのですぞ。そんなことが出来るのは、陛下を除けばあいつかしかいない。絶対に排除すべきだ」
「これこれ、エルレート。物騒が過ぎるぞえ。ティアマト伯の件は確かに驚嘆の極みだったが、陛下と比肩し得るとはこれいかに。それに……殺すならいつでもできるのでな」
「違いありません。我らが連携すれば造作もないことでしょう。ですので、ここは穏便にお願いしますよ。なあに、所詮は世間知らずの小娘。ちときつめの鼻薬を嗅がせればすぐに落ちますよ」
「さすがはバルク伯。女の扱いには精通されておられる。あのおぼこがどう乱れるか楽しみですな」
「ハッハッ。これは見ものだ。いい見世物になりそうだな」
「ウッフフフ。ナハス卿まで下品ですぞ。あんな女、奴隷人形10万詰まれても御免ですがね」
極めて下劣で、悪意のある笑い声が部屋中にこだました。彼らの笑い声はしばらく続いていたが、ある瞬間から虚空に吸い込まれるようにその場から消え失せた。彼らは驚愕の顔つきで、到底信じがたい光景を目にしていた。そう、忽然と彼らの目の前に現れたのは件の娘、アガナ=ハイドウォークだった。
彼女は部屋の隅のソファにもたれかかり、気だるそうな瞳でぼんやりと宙を眺めていた。一度見たら忘れられぬ美貌と、吸い込まれそうな大きな瞳を持ち、特徴的な長い艶やかな黒髪が静かにふわりと浮いていた。透き通るような純白の肌の上に薄手のローブを羽織り、独特の威圧感が場に放たれていた。
彼女は彼らに一瞥をくれると、手に持った分厚い羊革の本をぱらりとめくり、無言のまま優雅に読み進めていた。暫しあっけに取られていたナハス達だったが、すぐに我に帰って勢いよく席から立ち上った。
「こ、これ! アガナ殿! 散々待たせておいて何をしておるのか!」
アガナは涼しい眼でナハスを見遣ると、すぐに再び本に目を落とした。その様子に更に苛立った彼は、バンと大きく机を叩いた。
「いい加減にしないか! 我らを何と心得る! そこに直れ!」
「アガナ殿。流石に礼を逸しておりますぞ。大人しく耳を傾けていただきたい」
「ふん。やはりこんな者など使い物にならん。さっさと行くぞ」
散々に言い捨てる三人。だがアガナは動じない。この美しい女性は生来動じたことなどありはしない。彼女は本から目を離すことなく、その艶やかな唇を静かに動かした。
「儂は最初からここにおったわ。貴様らこそ何のつもりじゃ? 人の住処に勝手に上がり込み、勝手に好き放題言いおって。研究の邪魔じゃ。さっさと失せい」
冷徹な響きのする威圧的な声に、3人の体は同時に固まった。彼らがどうすべきかを見失う中、ナハスだけが顔を赤らめて前に一歩出た。
「た、確かに邪魔したことには失礼した。しかしな、アガナ。事は急を要しているのだ。斯様な地に引き篭もり、世間を断絶しているお前でも知っていよう。今、世界は大きく変わりつつあるのだ。一部の龍と人間が手を結び、我ら神族に弓を引かんとしている。現に苦戦を強いられる我らを救うべく、セラフの1角たるジャハイム卿まで南大陸に駆り出されているのだ。このまま放置していては、神の沽券に関わる事態になりかねん」
「儂には関係ない。失せよ」
心底から気だるそうに告げるアガナ。困惑する二人をよそに、エルレートは怒りに顔を真っ赤にさせて立上った。その両手には闇力の塊がはちきれんばかりに握り締められていた。
「だから俺は反対だったのだ! おい、アガナ。二つに一つだ。我らに従うか、ここで死ぬか。いかにセラフの家系に生まれ、天才と呼ばれたお前でも……」
「遅い」
エルレートの言葉を遮り、いや、全く気にするそぶりも見せず、アガナは闇力を奇妙な形に形成した。小さな闇の粒子が幾重にも重なって八の字の図形を成すと、一瞬の煌きとともにボロボロと崩れ落ちた。と同時に、そこから大量の糸のような物質が部屋中を覆いつくさんと湧き出てきた。三人は抵抗する間もなく糸に絡まり、顔だけを残して雁字搦めにされた。
「な、何だこれは! こんなに早く術を使うなど……」
「『術式』。儂が開発した、簡便かつ迅速な術形態じゃ。貴様らの術など時代遅れの遺物に過ぎぬ。人間に遅れを取るのも頷ける話じゃのう」
「おのれ! アガナ、術を解け! 我らにこんなことをしてどうなるか分かっているのか!」
「知らぬ。先に仕掛けたのは貴様らじゃろう。殺してもよいが、面倒事は御免じゃからの。おい、御三方のお帰りじゃ。丁重に案内いたせ」
「ま、待ちなさい! まだ話は……」
その言葉は、当然のようにアガナの耳には入らなかった。気だるそうに立ち去る彼女と入れ替わりに、数名の使用人が慇懃に無表情に彼らを担ぎ出したのだ。怒り冷めやらぬ彼らだったが、同時に恐怖と、安心感も感じていた。この様子では、アガナが人間たちに味方する可能性はゼロであると。現に彼らは帰り次第そのように報告し、彼女自身もそのつもりなど毛頭なかった。彼女は術の研究だけに没頭し、それのみに自身の全てをつぎ込んでいた。現代では聖女と呼ばれ、人と龍の間で本当の神のように扱われる偶像からは、現時点の彼女は程遠い存在だった。
アガナがその神性を発揮するには、今しばらくの時間が必要だった。とはいえ、その影はもう目の前まで迫っていた。
神代暦618年。
世界がそのありようを変化させていく中、孤高の天才アガナ=ハイドウォークを巡る環境も、大きく変わっていこうとしていた。
数日後。アガナ邸、使用人詰め所。
こじんまりとした屋敷によく似合うような、小柄で穏やかな年配の使用人がのんびりと各所の清掃を行っていた。ここアガナ邸の使用人は、限られた範囲のみ立ち入りを許可されていた。とは言え、それは非常に分かりやすい括りで、1階と2階の居住空間は自由、それ以外には用がなくば入れない。ただそれだけの規律でしかなかった。アガナ=ハイドウォークは共に3階にある自室と研究室を行き来するだけの生活を送っており、数少ない例外を除いて他者と関わることは一切なかった。よって使用人の仕事は極めて簡単かつ気楽であり、様々な事情から他の神々の家で働けなくなった使用人が、代々送られてくる慣わしだった。
神々に使えて50年、アガナ邸に勤めて10年の熟練した使用人であるケイトは、皺だらけの顔に更に皺を寄せて、窓拭きをする手をぴたりと止めた。外は小春日和。暖かな風が窓の隙間から吹き寄せていた。
彼女は今年いっぱいでこの家を離れる。後人の育成、と言えば聞こえはいいが、要は戦力外通告だ。確かに目はかなり遠くなり、耳もろくに聞こえない。ここ1月で3枚も皿を割ってしまった。寂しくはあるが、これも仕方ないことと割り切ってはいた。何のとりえもない少女だった自分が、末席とはいえ神族の乳母を任され、老いた今でも安寧の生活を送れるのも、全てはこの仕事をしていたおかげだ。最後に担当したこの屋敷の女主人も、決して皆が言うほどの悪人ではない。ちと(かなり)風変わりな部分はあれど、根底には優しさと愛があると、長い付き合いから彼女はそう確信していた。つい数日前に神々の執行部を軽くあしらったことも、アガナの秘めた力から考えれば大人しいものだった。一度、彼女を心底怒らせた者の末路を知っているだけに、彼女は今回の出来事すら微笑ましく思った。
それよりも、ケイトの最大の懸念事項は、辺境に閉じ篭る偏屈な主人のことではなかった。バタンと勢いよく扉が開く音を聞き、彼女は持病の偏頭痛が悪化していくのを感じていた。
「お待たせしましたぁ。どもども~」
喧しく間延びした声が響き、頭を抱え込むケイト。そうだ、これだけが彼女の気がかりなのだ。バタバタと現れたのは、ふわりとした茶髪をきっちりセットし、かっちりと化粧を施した年若い使用人だった。
「プリシラ、ここにお出でなさい。今日という今日は……あなたに言わねばならぬことがあります」
「へ? わたしぃ? 特に用なんてないんですケド」
「当たり前でしょう! 遅刻に次ぐ遅刻! 仮病に早退につまみ食い! あなたは仕事を何だと思ってるんですか!」
「ええ~。だってホントのこと言ったら、どうせおバアちゃん怒るでしょ?」
「だ、誰がお婆ちゃんですか!? まったく……どうしてあなたのような方が、神々のお屋敷で働くのを許したのですか。それも……神々の長セラフの一角たるハイドウォークの家系に。私にはとても信じられません」
不審そうに頭を横に振るケイトに対し、プリシラはほわんと平然とした顔で答えた。
「知らなぁい。なんか前のお屋敷で若様に手を出したら、こっち行けって言われちゃったぁ」
「な、な、な、な?! 前のお屋敷って、神々の?! あ、あ、あ、あなた何をなさったか、自分で分かっているのですか!?」
「あ、もうこんな時間〜。お茶持ってかなきゃ。じゃあね、おバアちゃん。あんま怒りすぎると早死にしちゃうよ〜」
「こ、こら! 誰を何と呼んでいるのですか! 待ちなさいプリシラ!」
ケイトの怒りを全く気にも止める様子もなく、プリシラは鼻歌を歌いながらキッチンへと向かっていった。彼女は頭を押さえて蹲り、悪夢のような状況に懺悔の言葉を吐いた。
「すみません、ガブリエル様。全てはこのケイトの力不足です。けれど、1つだけ良き点があるとすれば……」
乱雑に階段を上がる音と、食器がかちゃかちゃと鳴る音、そして次第に上から零れ出る談笑を耳にし、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をほんの少しだけほころばせた。
3階、アガナの私室。
とは言ってもこの屋敷は、3階部全体がアガナ個人の自室であり、実験室だった。研究中は誰も入らないこと。その令だけを守り、使用人たちは変わり者の主人を気遣って、食事や着替えなどは部屋の前の机に置いておくのが通例だった。
部屋の中は様々な物でごった返していた。複数の言語で記された書物群、何に使うか一目では分からない実験器具、大小様々な呪物、魔道具。混沌とした室内の奥に、小さなテーブルがあった。そこに置かれている草臥れた色のティーカップ、その前で複雑な術式を組み立てる女性の姿があった。
長い黒髪を後ろで乱雑に束ね、飾り気のない白衣姿でもその艶と美しさを隠しきれない、神族きっての天才と呼ばれたアガナ=ハイドウォーク。彼女は周りの音や風景に何一つ気を配ることなく、ただひたすらに目の前の術に集中していた。
「……いける! やはりこの配合か! ……『メタースタシス』!!」
複雑な術式がボロボロと崩れ落ちると共に、見たこともないような鮮やかな光が机上のティーカップを包み込んだ。そして次の瞬間、それは彼女の手元に音もなく移動していた。超高難度の術式を完成させた満足感からから、ふうと小さく息を吐く彼女の背後から、不意にがばりと暖かい感覚が襲った。
「……な!?」
「すっご! なに今の?! あんな術見たことないんですケド!」
「何じゃ。誰かと思えばプリシラか。お主いつから居ったのじゃ?」
「ずっといたよ〜。アガナっち集中すると何も見えてないもんね。ほら、座んなよ。お茶入れるからさ」
暖かな抱擁に笑顔で応え、安心し切った表情でソファに座り込むアガナ。その手に握られたままのティーカップに、プリシラが手に持ったポットから茶を注いでいった。暖かい紅茶の香りの奥に、甘くてふわりとした優しい芳香が流れ出た。
「これは……今まで飲んだことがない味じゃな。何やらぽかぽかと体が温まるわい。実に美味じゃの」
「でしょ〜! わかる? 実はタマゴスズメバチの蜜を取ってきたんだよ。この辺で採れるって聞いてたからさ〜、頑張って行ってきたの。エラいでしょ?」
「ふうむ。儂も研究用に巣を取ったことがあるが、中々に凶暴ではないか? 無事じゃったのか?」
「それがさ、聞いてよ! やっぱハチに追っかけ回されて、しかも蜜を狙ってたカイザーグリズリーと鉢合わせてさ。もうホントかんべん、って感じ」
「……そこまでして、何故行ったのじゃ? 普通の蜂蜜で良いではないか」
アガナの極めて冷静な問いに、プリシラはきょとんとした顔で平然と答えた。
「へっ? そんなの決まってんじゃん。こっちの方が美味しいから、アガナっちが喜んでくれると思ってさ。甘いの好きでしょ?」
「……そういう意味ではなくてな、そもそも、何故儂のためにそこまでする? 仕事など普通にこなせばよいではないか。神族の鼻つまみ者の儂にそんな事をしても、お主に何の得もあるまい?」
「ええ~。言ってることよくわかんないケドさ~、これが普通でしょ? だってさ……わたしとアガナっち友達じゃん! 友達のためにいろいろするのってトーゼンでしょ? ほら、グリズリーの肉は燻製にしてあるし、残った蜂蜜でパイも作ったんだ。仕込みに張り切りすぎて寝坊しちったけど、たぶん美味しくできてると思うよ。一緒に食べよう!」
そう言っていそいそと料理を広げ出すプリシラを見て、アガナは美しい瞳を大きく見開いて、本当に嬉しそうに笑った。まるで大輪の花が太陽目掛けて咲き誇るかのような、美しく気高い笑顔。プリシラもそれを見て、嬉しそうに屈託無く笑った。
「……お主は不思議な奴じゃな。神々の中でも異端と呼ばれ、誰からも忌み嫌われた儂に、ここまであっぴろげに接するとは。さては頭がどうかしておるのではないか?」
「べつに~。だってアガナっちイイ奴じゃん! 誰が何言ってるか知らないけどさー、わたしはそう思うから。素っ気ないし、“研究命!”って感じだから誤解されてるんだろうけど、ホントはすごくみんなのこと考えてるって知ってるよ。ババアもそう言ってたし」
「ふふ。何だか不思議な気持ちじゃな。そう言ってくれるのはお主だけじゃ。……しかしこの料理は美味いのう。このままでは食べ過ぎて太ってしまいそうじゃ」
アガナはパイをつまみながら、穏やかな微笑みを浮かべていた。この笑顔を見れば、みんな好きになっちゃうのにな。プリシラは思う。ああ、もったいない。わたしがこの顔なら、1000人斬りだって夢じゃないのに。そう思った。というか言った。
「1000人斬り? 確かに儂はそれ以上殺めておるがの。この間のティアマトとの戦だけでも……」
「違う違う! そういうことじゃなくてぇ、オトコの話。もしかして……意味わかってない?」
「男? 斬る? 剣術の話か? ……むう。今一つ掴めんのう」
「ああ、いいのいいの。アガナっちにはまだ早かったみたい。けどさ、ほんっとここっていい男いないね〜。困っちゃうなあ」
互いに首を捻り合う2人。穏やかな午後の時間が流れる中、紅茶の湯気だけがゆらゆらと立ち昇っていた。
「男……か。儂の愚弟で良ければ紹介するぞ。術の才能はないが、その代わり頭は切れる。まあ100年ほど会っておらぬがな」
「いいじゃんいいじゃん! アガナっちの弟ってことは、イケメンで金持ちってことっしょ? 絶対紹介して! 絶対だからね!」
「ハッハッハ! お主は本当に面白いのう。こちらも楽しい気持ちになるわ」
「ありがと! わたしもアガナっち大好きだよ! ……あ、でも1つだけいい?」
一瞬だけ躊躇いの間を置くプリシラ。だがアガナはふっと微笑み、気を置かぬ親しげな表情で返した。
「何じゃ? 儂のお主の仲じゃ。遠慮なく申せ」
「アガナっちさあ、最近夜中に外出歩いてない? あれって危ないからよしなよ〜。ほら、最近は情勢も悪くなってるしさ」
その言葉にピクン、と即座かつ派手に大きくアガナは反応した。そして彼女は、ぐるぐると目を泳がせながら大袈裟に首を何度も横に振った。
「べ、べ、べ、別に! な、な、な、何もしておらぬぞ! た、た、た、ただ外の空気を……そう! たまに外の空気を吸いたかっただけなのじゃ! け、け、け、決してやましい事などある訳もないわ!」
「あ! アガナっち何か隠してる〜! ま、一応ご主人様だからいいケド、でもホント気をつけなよ〜」
「そ、そ、そ、そうじゃな! き、き、き、気をつけるとしよう。お主の忠告痛み入るぞ。さ、さ、さ、さて。そろそろ儂は研究に戻るとするか。お主もやることが残っておろう。で、で、で、ではの」
あからさまに怪しい態度で、ツカツカと彼女の前から走り去るアガナ。プリシラはそれを見て、笑顔のまま小さくため息をついた。こんな素敵な人はそうはいないな、正直そう思った。使用人に対してもそう、他人に対してもそう。本当は慈愛と誠意に満ちた方なのだ。だがその力ゆえ、美しさゆえ、天才性ゆえに、彼女は自ら孤独であることを望んだ。それ故に、彼女の内はいつも乾いていた。望むものと、望まれるものがいつも釣り合っていなかった。現時点でそれを知るのは、彼女のただ1人の友と呼べる存在、プリシラのみであった。
だが、それも間もなく終わる。アガナ=ハイドウォークが歴史の表舞台に登場するのは、これよりまだ少し先ではあるが、その時は確実に近付いていた。
その日の夜。
三日月がぼんやりと雲の間から顔を出す、静かで風の穏やかな夜。薄明かりが目に優しく、草原の生き物達を照らしていた。
アガナは今日も、只1人こっそりと草原の端にある岩場の陰に隠れ、気配を殺して続けていた。緩やかな時間の流れがそこにあった。同時に緊張感もまた、彼女の胸の中には存在していた。
やがて暇を持て余し、彼女はその辺の生き物の数を数え出した。蝶々が5匹、雀が1匹。すぐに目につくのはそれくらいだ。たった1人で可哀想だな。アガナはそんな雀を自分と重ね合わせた。孤独を感じたことがないと言えば嘘になる。けれど、下らない俗物の道具にされるのは御免だった。誰もが、彼女を力の象徴として見ていた。自分の身内でさえ、両親でさえそうした面はあった。
だがそれも頷ける話だった。それ程までに、彼女の力は異端極まるものだった。現在の彼女は、術の歴史を数百年先にまで引き上げていた。いや、実際はそれ以上かもしれない。彼女の人柄や、本来持ち合わせている豊かな愛情、そういった面を見ようとする者は殆どいなかった。故にアガナは心を閉ざし、偏屈かつ偏狭な面だけを表に出し、決して歴史という舞台に上がろうとはしなかった。それが、天才と呼ばれる彼女にとって1番楽な生き方だった。傷付かない唯一の方法だったのだ。
いつしか1、2、3と、羊がたくさん集まってきた。そう、羊。アガナの胸が高鳴った。そう、それはすぐにやって来た。
音。
高い音、低い音。
様々な音が彼女の鼓膜を捉えた。それは、楽器と呼ばれる人間の文化であることを、彼女はまだ知らなかった。だが、それが心地よく胸の内に響くことを、彼女はここ数ヶ月の経験から知っていた。
アガナは岩陰からそっと、ほんの少しだけ音のする方を眺めた。月明かりの下、1人の男が羊を引き連れて楽しそうに草を咥えていた。見た目だけで言えば、実に平凡な男だった。この時代の平均的な体格で、凡庸でどこかぼんやりとした表情。麻で織った緑色の、薄汚れた標準的な平民服を着込み、20才ばかりの何処にでもいる若者。恐らくはこの時点での彼を目にした全ての人がそう評した事だろう。
彼が強弱様々な息を吹きかけると、不思議なことに草の端から様々な音色が流れ出た。何とも優しい音で、吹いている男の人間性が伝わるようだった。彼女は、自分の心の中が暖かい気持ちで満ちるのを感じた。こんなにいい気分になれることは今までなかったから。素晴らしくて、気持ちよくて、心底満ち足りた。
そんな彼女の陶酔感が警戒心を薄れさせたのか、それともそうなるのが運命だったのか、男はちらりと岩場の方を向いて、よく通る朗らかで大きな声で言った。
「……ねえ、キミ。よかったらこっちにおいでよ。ずっと聞いててくれたんだよね? 一緒に歌でも歌わないかい?」
ドキン、と強く心臓の鼓動が鳴った。瞬時に乱れた彼女の頭の中で思考が錯綜した。
(バレた!? ど、どうしよう!! いっそ始末して……いやそんなこと出来る訳が……)
けれど、何故か彼女の足は、意思に反して彼のいる方向に進んでいった。止めようとしても止められない。いや、実際は止まりたくなかったのだ。この男と話がしてみたかったのだ。そう、神々の系譜の中でも最強と崇め立てられるハイドウォーク家の長子にして、有史以来最高の天才と崇められるアガナは、この冴えない見た目の、何処にでもいるただの人間である羊飼いの青年に、この時点で既に抗えないほど惹かれていたのだった。
「初めまして。ぼくの名前はソウタ。きみの名前は?」
運命は動き出す。ある一点を、全ての終末へ向けて、確実に。
だがこの時の2人にとって、運命の糸は自分たちを結び付ける薄赤の紬にしか見えなかったのだ。




