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第82話「風雷」

 秋津国、南海の孤島。その遥か上空。

 魔帝ルシフェル配下の闇の眷属と、東大陸の龍の軍団が相まみえる、激しい戦闘が切って落とされた。

 数で勝るは圧倒的に眷属達。1000を超える数の悪魔ガーゴイル、亡霊ファントムといった飛行種族が、50にも満たない龍族を取り囲み、一斉突撃の準備をしていた。同時に、海からは300程度のニクサー、ダゴン、クラーケンといった海棲の種族が術式を構えていた。そして、彼らの後方には、自他共に認めるハイドウォーク家最強の魔剣士カリスと、秋津国の守護者にして帝龍の一角ムワーナが控えていた。

 どう考えても勝ち目はない。龍たちはそう思った。自分たちはここで死ぬのだ、そう諦めた。彼らは絶望の淵にいた。そう……あの2人を除いては。

《レイ。一応聞いとくが、何か作戦はあんのか? ちと数が多いみたいだぜ》

 真紅の巨龍アマニは、体操でもするように翼をぐるりと回しながら、空を蹴り飛翔する銀髪の女にのんびりとした口調で尋ねた。

「あ? ナメたこと言ってんじゃねえぞ! あのクソ商人じゃあるめえし、俺にそんなことできるわけねえだろうが! いいか、俺は暴れる。あとはてめえがなんとかしろ。以上だ」

 怒りに燃える闘士レイはそう言うな否や、空の敵陣のど真ん中に風を纏って突っ込んでいった。その姿を見てアマニは、心底愉快そうに笑った。

《ワッハッハ! そうだよな、それが戦士だ。……おい、インギア。俺も出るぞ。俺は海のクズどもを一掃する。俺とレイが撃ち漏らした連中を皆殺しにしつつ、仲間たちの撤退を助けろ。くれぐれも龍人には気をつけろよ》

《は?! また単騎で出撃? まだ傷は完治してないじゃない。……まあ無理すんなって言っても無駄でしょ? 昔から何も変わらないな》

 副官の女龍インギアは呆れたように蒼い翼をはためかせた。彼は当然だと言わんばかりに不敵に笑うと、そのまま海上に向けて一直線に突進していった。龍族は彼らの姿を目にし、全身に漲る力を感じていた。それは気のせいでも何でもなく、内から生まれ出る可能性の力。絶望を打ち払う、意思の力と呼び得るものだった。

《全軍……出るぞ! 第1隊は空、第2隊は海にて敵を打ち払え! 第3隊は領土防衛しつつ退路を確保しろ! アマニとレイに余計な負担を与えるな! ここが私たちの決戦の場だぞ!》

 インギアの美しくも威厳のある声が空中に響いた。龍たちは大きな鬨の声を上げ、一気に飛び立っていった。全ての意思が1つに纏まり巨悪を薙ぎ倒さんと震える中、ただ1人、可憐なる少女リース=シャガールは自らの檻に閉ざされていた。虚空の果て、意識の迷牢の中、彼女は這い上がる術を知らない。夢よりも重い絶望の中、彼女の心に射す光はまだない。

 しかし……しかし! 目の前で繰り広げられる命の灯火の鳴動。大切な仲間の血、肉、呻き。扉はほんの少しだけ、極めてゆっくりとだが、確実に開き始めていた。


 空。

 疾風の闘士レイの闘いは、いつも以上に苛烈を極めていた。レイの通った後には銀色の疾風が走り、群がる眷属達をゴミのように蹴散らしていった。それはまるで暴風。悪鬼羅刹の子招く怨恨の拳。上位者の命に従うだけの意思なき生命体である彼らですら、彼女の苛烈な闘いを目の当たりにして、本能的な恐怖を抑えることは出来なかった。

「オラァ! さっさと来いやカリス! いつまで高みの見物してやがる!

『滅閃』!!」

 レイの拳から放たれる闘気の閃光は、空を覆い尽くすガーゴイルの群れを容易く吹き飛ばし、一直線にカリスの喉元へと向かっていった。破壊の意思が込められた究極の打撃を前にして、彼は一瞬だけ眉を顰めると、剣先を突き出してそっと脇へ逸らした。すり抜ける衝撃波が微かに頬を焼く中、彼は極めて冷徹に命令を下した。

「ガーゴイル兵、全隊突撃。奴の動きを止めろ。ファントム兵は全隊術式構え。……味方ごとで構わん。一帯を焼き尽くせ」

 即時、彼らは動いた。数で押し潰さんとレイに襲い掛かる小悪魔達。潰しても薙ぎ倒しても間に合わぬ、圧倒的な物量。いかにレイとはいえ、神速を誇る彼女の降魔とて、身動きが取れねば何の意味もない。そこに降り注がれる術式の嵐。一つ一つは微力なれど、束となることで回避不能の弾幕と化していた。当たれば確実に無事では済まない熱量が、唸りを上げてレイに襲い掛かった。

 しかしレイは動じない。怒りに脳髄を焼かれる今のレイには、そんな暇は存在し得ない。彼女は思い出していた。かつての記憶、旅の記憶を。

 あの日、シャーロットと旅立った日のこと。当てのない旅路、漠とした不安と絶望の毎日。ただ彼女を助けるためだけに戦い続ける毎日。時折見せる笑顔。しかし光は射さぬ毎日。押し潰されそうになりながらも、脳を空にしてただ力を振るう日々。

 それが変わったのは、あのどうしようもないクソ商人が来てから。目に見えて変わり続けるシャーロット。明確に増える美しい笑顔。ほんの一筋差し込める光。そして、それは広がり続ける。高堂亜門との決闘、旅、料理、笑顔。リース=シャガールとの生活、3人でに買いに行った髪飾り、化粧の仕方、笑顔。そう……笑顔、思い出、自分を呼ぶ声……レイという名前。

 だがそれは、既に壊れた絵。深い亀裂の入った、存在し得ぬ思い出。全ては終わってしまった。それが現実。直視しなければならない真実。自分にとって大切なもの、本当に欲しかったもの、守らねばならなかったもの。損なわれた額縁、侵食された肖像画、闇に浸った感情。

 そこまで考えると、レイはかっと目を見開いた。鋭い眼を大きく大きく見開いて、現在の状況と自分を交互に見据える。認める。そうだ、俺がしなければならないことは……。

[レイ、1つだけお願いがあるの。必ずあいつらを、ボクの代わりに“こいつ”でぶん殴って!]

 セロの声がした。もう居ないはずの、かつての“同居人”。そうだな。そうだよな。レイは思う。深く深く丹田の奥から脳髄の先まで浸透するように、声を何度も何度も循環させる。そうだ、俺のやることは……やらなきゃいけねえことは!!

「……来いや! 全てだ! 全て来い! ……『多重降魔・フェンリル&トール』!!」

 ファントム達の放った術式の鈍い闇が彼女を覆い尽くす直前、レイの身体から凄まじい闇力が湧き出た。その力は瞬時にガーゴイルの群れを焼き尽くし、そのまま神速で術式を回避しつつ、目にも留まらぬ程の高速で回転し続けながら、全方向へ向けて蹴りを見舞った。

「ふざけんじゃねえ! 俺は……怒ってんだ!! 『草薙・天雷』!!」

 稲妻を秘めた強力極まる衝撃波が、周辺のファントム達全てを襲った。なすすべも無く塵と化す眷属に目もくれず、既にレイは次なる行動へと移っていた。風雷の轍を残しながら空中を蹴り、一瞬で黒騎士カリスの間合い内に入り込むレイ。その勢いを乗せて振り抜かんとする強力な右拳に合わせ、カリスは身じろぎ1つせずに、そっと刀先を彼女に合わせた。速度など彼の前では意味を成さない。全ては初めから決まっていたかのように、軽く触れただけに見えた斬撃は、すれ違い様にレイの右腕を根本から切断し、血飛沫が戦場に花のように舞い散った。

「終わりだ人形。お前など最初から俺の敵ではない」

「へっ。言ってくれんぜ。確かにてめえは強え。だがな、俺は……マジでブチ切れてんだ!」

 間髪入れずに止めの一撃を見舞おうとするカリスが目にしたのは、にやりと不敵に笑うレイの顔だった。……まずい! そう思った時には既に遅かった。遅すぎた。

 最初からレイは“その”つもりだったのだ。まともに攻撃が入るとは思ってなどいない。そう、最初から……何を犠牲にしても、“これ”だけのためにここまで来たのだから!

「ざけんなクソが! 亜門の仇だバカ野郎! 『八咫』!!」

 レイの切断された右肩から、圧縮された雷と風の渦が巻き起こっていた。それはあたかも関節のように、切れ落ちた腕をしっかりと掴んでおり、認識不能の角度から無造作にカリス目掛けて叩き付けた。雷と風の双方の動きにより不規則に突っ込む腕は、自身すらも焼け焦がしながら速度を増し、避けようとしたカリスの鎖骨を下部からえぐるように巻き込むと、そのまま顎部まで綺麗に撃ち抜いた。バランスを崩し落下する彼を、後方から黒龍が全速力で追いかけていく姿を見て、レイは指を刺しながら腹を抱えて笑った。

「ギャハハハ! 必死だなおい! ああ、いい気味だぜ! すかした顔で亜門ブッ殺しやがって。ザマミロってんだ!」

「……言っておくが、そんなことで俺は油断せんぞ」

 割れた甲冑の下で、髭面の口が小さく動いた。レイは残った左腕でぽりぽりと頭を掻きながら、頭の中でゆっくりと思考を巡らせた。

(やっぱ浅えか! アイツ……完全に直前で反応しやがった。どんな反射神経してやがんだ? しかし……マジどうすっかね? 腕がねえのは困ったもんだ。とはいえよ、なんの策もありゃしねえし、とりあえず一発ブン殴ってせいせいしたし、なんかアイツ冷静で勝てそうもねえし……こりゃ死ぬな)

 そう思った時には、既に目の前に龍騎の侍。振り下ろされた斬撃こそ辛くも避けたが、レイの動きを先読みするように、彼らは人龍一丸となって容赦のない追撃を開始した。彼女は戦場の誰よりも疾く動きにキレもあり、誰であっても容易には捉えられない筈だった。だが、目の前のカリスとムワーナは、全く苦もなくその動きに付いてきた。その上、レイの方は敵の攻撃を全く見切れず、死角から即死級の斬撃が矢継ぎ早に繰り出されていった。

(おいおい、こりゃ反則じゃねえの!? 強すぎんだろマジ!)

 レイがそう思ったのも無理はない。卓越した洞察力を持つカリスと、大空を我が物とする龍の連携は、常人の動きとはまるで異なっていた。レイでなければ既に何度絶命していたか分からない程の猛攻を、彼女は全身を切り刻まれながら必死に回避し続けた。

 だが、徐々に追い詰められ、反撃すらも許されない一方的な戦局。レイの体には避け切れぬ大きな傷が増え、血が滲み体力を奪っていった。闇力で止血した右腕の切断面からも、水流のように血が吹き出していた。最早レイに勝ち目はない。誰が見てもそう思ったことだろう。

 しかし、レイの心は折れない。折れるわけがない。折れたら即、死ぬ環境に身を置いていたから。レイは策を練れない。練れるわけがない。いつも頭より先に体を動かしてきたから。レイは生き延びた。生きて勝ち続けた。それは……誰よりも鼻が効いたから。いついかなる時も自分の野生の勘を信じ、最適な行動を行なってきたから。その勘が告げている。このままでは負ける、と。考えるな、と。……“切り替えろ”と。

「ルシフェル様やバラムは軽視しているが、お前は実に危険な女だ。ここで確実に俺が殺す。殺さねばならない。例えどんな手を使ってもな!」

「へっ。愉快な野郎だぜ。できもしねえことホザきやがる。俺はまだ……ぜんぜんへっちゃらだぜ!」

 反吐を吐きながら負け惜しみを言うレイに痛烈な突きを見舞いつつ、カリスの頭には明確な光景が浮かび上がった。次に放つ斬り払いが、横薙ぎにレイの体を両断すると。彼は確信していた。今までの動き、力量、癖、思考、全てを鑑みるに、次に避ける方向は後方。積み重なったロジックが、確実な勝利を導き出した。

 止めは、常に優しく。カリスの信条だった。最後の時こそ完璧な角度、タイミングで、最低限の力で相手を仕留める。それこそが彼なりの相手に対する敬意だった。今日もそれは変わらない。確かに強敵ではあった。あのガンジを倒したというのも頷ける話だ。しかし、自分には遠く及ばない。過信ではなく、冷静にそう分析した。

(奴の身体は定まっていない。今なら当たる。先ずは三連撃。上下中段からの角度を変える。打ち終わりを狙う所に、今まで一度も見せていない横薙ぎ。それで終わりだ)

 思考の終了と同時に、ゆらりと振るわれた刀。彼の意図を汲んで、黒龍ムワーナは必要な距離だけ一気に前に詰めた。後は肉を断つ感覚を手に感じるだけだった。……だがその時!

「グォッ!!!」

 手に感じたのは、違和感。明らかな斬り損ないの、根元に引っかかるような感覚。だがカリスはそれを確認することは出来なかった。違和感は1つではなかった。顔面に、頭に痛烈な衝撃! 目が眩むほどの打撃が撃ち込まれた!

(殴られた? ……いや、違う! 頭だ! こいつ……まさか逆に踏み込んで!)

 それは本来、有り得る筈のない動きだった。追い込まれ、先手を取られた状態から、レイはあろうことか全力で前に飛んだのだ。当然のように左腕に斬撃を喰らったものの、根元で受けたことにより威力は半減していた。更にレイは予め闘気を左手に集中させていたことで、即座の切断を免れることが出来た。その上で発動する、全霊の突進による頭突き。兜こそ完全に破壊されたものの、攻撃による損傷自体はさほどでもなかった。だが、カリスに一瞬の判断の揺れを引き起こしたのは間違いなかった。

(……損傷は軽微だ。神経系にやや乱れこそあるが、体は動く。刀は左腕に刺さったまま。引き切れば簡単に切断される。返しに何かを食らったとしても、両腕を封じることが先決だ。これが最後の攻防だ。窮地にこそ対応を待つな! 攻めろ!)

 カリスがするりと力を込めたと同時に、容易く叩き斬られるレイの左腕。だが彼女は、血飛沫噴き出し地に落ちる腕を全く気にかけず、左足で更に大きく踏み込んだ。

(腕はない! 脚が来る! 下半身の動きに集中しろ! 筋肉の動きを見ろ! 呼吸に合わせるのだ!)

 が、その時、カリスの右腕に違和感! ぐいと身体全体を引っ張られる感覚。唖然として視線を向ける彼の肩を、漆黒に染まる腕が破裂せんばかりに力で握り締めていた。

 それは、闇力で固められた雷の結晶だった。既にレイの身体は獣のそれではなく、黒雲の塊の如き異形と化していた。

「……『降魔変極・トール』!! ぶっつけのワリにゃ上等だぜ。てめえの動きは封じた。観念しな」

(くっ……先程の攻撃はガンジの……まさか『降魔』を2種使い分けるとは……)

 必死で逃れんと刀を突き刺すカリス。だが既にレイの狙いは完遂していた。胸を抉られ血反吐を吐きながらも、レイの両腕からは途方も無い電気が流れ出した。カリスの動きが意思に反して強制的に止まり、レイはにっと血塗れの口を曲げて、極めて美しく微笑んだ。

「へっ。どうやら俺も終わりか。だが……てめえだけは道連れだ! とりあえず死んどけ! 『百鬼・花雷』!!」

 レイの両腕に込められた、殺意と闘気の奔流が雷の形となって襲い掛かった。神速かつ爆発的な連撃は、動きを止めたカリスの装甲を容易に粉砕し、止まることのない攻撃は遂にその肉体までをも黒焦げに焼き尽くしていった。

(……くっ! いつまで続くのだ!? このままでは……殺られる! 『降魔』を使わねば危ない! だが……速すぎる! 使う暇など何処にもない! くそ! ならば……“解放”するしかない!)

(クソが! 意識が飛びそうだぜ! だか……てめえがくたばるまでは終わらねえ! 『降魔』を使われたら間違いなく終わりだ。ここしかねえ! コイツでぜんぶケリつけてやる!!)

 全霊を乗せたレイの連打は決して止まる気配を見せず、完全に生身となったカリスの全身に痛打がめり込んでいった。打撃だけでも致死的な威力にも関わらず、その後に遅れて来る雷の一撃は内部の神経すらも貫いていった。カリスは吐瀉物を吐き黒焦げになりながらも、何かを合図するかの様にくんと指を上げた。

(……限界だ! これ以上は保たん! 来いムワーナ! 龍力を解放しろ!)

《解放確認。ハイドウォークの名に於いて、帝龍玉を限定解放……発動!!》

 次の瞬間、黒龍の全身に力が満ちた。拘束具の一部が唸りを上げて吹き飛び、高らかに咆哮を上げた彼はそのまま2人の戦いに割って入った。

「んだてめえ! 邪魔すんじゃ……げぇっ!!」

「でかしたぞムワーナ! だが……ぐうっ!!」

 暴走にも近い龍の突進により、両者は遥か彼方まで吹き飛ばされた。海面に落下するカリスを見届けることすら出来ず、満身創痍のレイは地面に膝を付き呼吸を荒げた。もう何一つ、まともに動く事すら出来はしない。黒龍ムワーナの咆哮が腹に響き、殺意が肌から内臓まで伝わってくる。だがレイは動けない。雷の腕はとうに損なわれ、血流が滝のように零れ落ちる。レイは、迫りつつある龍の巨大な爪をちらりと眺めると、ふっと小さく笑って目を閉じた。

(終わり……か。ここまでたあ情けねえ話だ。笑えるぜ。ま、あの野郎をブン殴れたからよしとするか。クソ商人……後は任せた。お嬢様を頼んだぜ)

 鋭い爪が近付く。金剛石するも両断しそうな禍々しい迫力。レイは抵抗すら出来ず、横たわり目を閉じたままだった。あと数秒で自分は死ぬ。覚悟はできていた。後は切り刻まれ大地に帰るだけだった。

しかし、その結果は訪れはしなかった。当然と言えば当然のこと。今まで彼女が紡いで来た物語では、斯様な結末は起こり得る訳がなかったのだから。

「レイ!! またムチャして! 絶対に死なせないわ! もう……絶対に!! アガナ神教最終教典……『ユグドラシル』!!」

「へへ。そう来たか。そりゃそうなるか。待ってたぜ……リース!!」

 遠方から高速で近付く龍と人。同時にレイの身体を包み込み癒す光の大樹。暖かき光に包まれて、レイの意識は次第に失われ、やがて虚無に溶けていった。


 やや時間を遡り、海上。

 海面すれすれを飛ぶ赤龍アマニは、旋回を繰り返して海中から雨のように降り注がれる術を避け続けていた。時折、海面付近で不用心に顔を出した眷属を仕留めていたものの、敵軍に対する決定打には程遠かった。海中からは殆どの術式の威力は減退される。しかし、それ故に安全地帯となった場所から、数で盲滅法に放つ彼らに、龍族は苦戦を強いられていた。

《くっ! 手出しの出来んところからチマチマと!》

 インギアは潜っていた海中から一旦上がると、忌々しそうに吐き捨て、手にはこびり付いた眷族の死体を振り払った。そんな彼女の苛立ちを他所に、スリルを楽しむかの様に紙一重で攻撃を避け続けるアマニの姿があった。

《アマニ司令官、何を余裕ぶってるんだ! このままじゃ押し切られるぞ!》

《まあまあ。そんなカリカリすんなって。マジメ過ぎんのは悪い癖だぜ、インギィ》

《う、うるさい! こんな所でその呼び方はやめろ! 悪いのはお前だ! 昔っから適当で、いつも私に面倒ばかり押し付けて! 今日だってあんなに雑に呼び出して! もう……やんなっちゃう!》

《ありゃ。まーた怒った。めんどくせえ女だよ。一応さ、俺は上官だぜ》

《そんなの分かってる! 本当に知らんぞ!!》

 プイとむくれて飛び立つインギアに、アマニは余裕の表情を崩さずに笑っていた。彼は周囲の気配を把握すると、急速に飛び立ち空の一点でぴたりと動きを止め、不意に目を閉じた。

《ち、ちょっと! アマニ司令官?! 何してるんだ!》

《……瞑想。亜門に習ったんだ。カッコいいだろ? さては惚れたんじゃねえか?》

《バ、バカ! 隙だらけで狙われてるぞ! 早く戻れ!》

 彼女の言う通り、動きを止めた敵主力を好機と見た眷属達が海面近くに集まり、揃って術式を構築し始めた。明らかに不利と思われる状況でも、アマニは動かない。世界に名高き真紅の巨龍は動かない。

《いけねえ! このままじゃ本当にやられちまいますぜ! インギア様、早くアマニ様を助けねば!》

《……無駄だ。500年以上の付き合いだが、あのバカは一度やると決めたら死んでも動かない。放っとくのが一番だ。私たちは周辺の敵を蹴散らすぞ》

《は、はあ。ですが……》

《あいつは大技を打とうとしている。ああ見えて……怒っている。離れねば巻き込まれるぞ。即座に散開しろ。これは命令だ》

 インギアに促され、龍たちは一斉にその場所から飛び立っていった。そして、眷属の術式が放たれようという時、アマニを中心にぐにゃりと空間が捻じ曲がった。まるで世界の理そのものが変化したかのように、彼の周囲の自然が彼に味方し、独自の術空間を作り出した。

《湿っぽいのは好きになれねえ。仇がどうとかも好みじゃねえが、それでも……許さねえこともある。一応あいつはアマニ流の門下だしな。龍族の頂点の力、味あわせてやるぜ! 超龍技……『エレメンタルロア』!!》

 瞬間、海が割れた。アマニの超絶の龍力は自然を支配下に置き、最高位の術式に遜色ない威力を驚くべき速度で発揮した。海中の眷属達は海ごと抉り取られ、吹き荒ぶ風により空に飛ばされ、そこに猛烈な冷気が襲い掛かった。そこにある生命は全て一瞬で凍り付き、やがて完全に砕かれ海の藻屑と化していった。

 全てが終わったことを確認したアマニは大きく息を吐き、疲労の色を隠しながら全軍に檄を飛ばした。

《こっちは片付いた。回復し次第、俺はレイの援護に向かう。残りの雑魚どもは任せた!》

《まったく……帝龍格の技を勝手に使って。いつもながら無茶をする。だが了解だ。こちらは任せろ!》

 孤島上空では、インギア率いる部隊が残りの眷属達を順調に屠り続けていた。幾人かの負傷者を出しつつも、戦いは常に彼らが優位に進んでいた。そう、あまりに不自然な程に。

《インギア隊長、西側から上陸した部隊があります。数は50。救援お願いできますか?》

《任せろ。あのバカにだけにいい格好はさせん》

 彼女は意気揚々と西側の海岸へと飛来した。そこには数に押され、後退を余儀なくさせられる部隊の姿が見えた。彼女は龍力を高めると、空中で停止して翼を大きく疾く強くはためかせた。

《元々龍技は得意ではないが、この程度ならな! 『ウインドカッター』!!》

 インギアの龍言語は即座に風を起こし、強烈な鎌鼬が敵方向けて巻き起こった。風は刃となり眷属の群れごと切り刻んでいく。沸き起こる歓声、しかし邪眼と称される彼女の眼が捉えていたものは、全く異質な光景だった。

《!! 混じっている!?》

 そう。それこそが敵の罠。群れの中央に、一体だけ様相の異なる者あり。闇の衣で姿を隠しているが、その奥には鱗の見える肌、縦に開いた瞳孔、それは間違いなく……龍! 龍人!!

(ま、まずい! このままでは……)

 気付いた時には全てが遅すぎた。インギアの放った無防備な刃は、眷属達を容易くなます切りにし、その刃は龍人の首筋をもさらりと切り落とした。

《何だと! あれは……おいインギィ!!》

 漸く気付いたアマニの声が遠方から届いた。彼女は逃れられぬ運命を悟ってにっこりと微笑むと、観念して目を閉じた。

(私のミスだ。誰のせいでもない。ごめん……アミィ。副官失格だな。でも最後に聞けたのが……お前の声で………)

 気が遠くなる。絶望が場に広がる。残る眷属達は下卑た笑いを浮かべ、彼女を指差して笑った。龍位2席の大龍が、かくも簡単に死ぬのだ。偉そうに空を飛び回っているだけで何も出来ぬではないか。そう言いたそうに、反吐が出る程の下品な表情で。

《待ってろインギィ! 『ウインドチャージ』!!

 気付いた時にはアマニは飛んでいた。全力で龍力を爆発させ真空波を巻き起こし、矮小な眷属を消滅させながら。そんな事をしても、既に意味はないと彼自身も分かっていた。しかし、飛ばずにはいられなかった。彼にはそうすることしかできなかった。

 だが。

 アマニがその場に到着した時、ドスンと何かにぶつかった。それは他でもない、生身のインギア。彼女は……全くの無事であった。体も崩れず、ぽかんと口を開けて不思議がるのみ。アマニですら何が起こったかさっぱり分からなかった。向こうで死んでいる男は、間違いなく龍人だ。龍令により傷付けてはいけない、龍玉を持つ同族に分類される存在。間違いなく数日前の戦いでは、彼らを傷付けた同胞が無残に砕けていった。なのに……何故?

《え? なんで生きてんのお前?》

 インギアに抱き付きながら、心から不思議そうにアマニは尋ねた。彼女は、自分の胸の中に顔を埋める彼をぼんやりと見つめてから、やがて恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤に染めた。

《し、知るか! そ、それより……いつまで触っているのだ?!!》

《別にいいだろ。減るもんじゃねえし。それより……心配したぜインギィ。無事で良かった》

《バ……バカ!! なんだ急に! そういう所が昔から嫌いなんだ!!》

《痛え!! んだよ、心配してやったのによ》

 2人の遣り取りの最中、眷属達は次々と龍によって滅ぼされていった。そう、やはり彼らは怒らせていい種族ではないのだ。従わねば、殺す。そんな簡単な生き物ではないのだ。この星の太古からの支配者は伊達ではない。手傷を負いながらも、彼らは殲滅の咆哮を吐き続けた。

《……ん?》

《な、なんだいきなり? む、胸を揉むな! ちょっと!》

《そうか。そりゃそうだよな。俺の弟子が選んだ女だもんな》

 アマニが見た方向。海面に眩く立ち昇る光の柱。その中央に立ち尽くしていたのは、アガナ神教特殊工作部隊第三隊長にして、比類なき光術士リース=シャガールの勇姿だった。決意を込めた瞳は爛と輝き、ただ一点を捉えていた。無論それは、激闘続く戦場の中心。彼女の最愛の仲間であるレイが、漆黒の人龍に苦戦を強いられる姿だった。

「心配かけてごめん。もうあたしは……大丈夫! すぐ乗せてってアマニ! あたしは絶対にレイを救う! 必ず!」

《フッハッハ! 俺は人間は乗せねえが、今回だけは特別だ。安くしとくぞ》

「へへ。ありがとうアマニ。じゃあこれチップね。あとはクソ狸から取り立てて頂戴」

 リースはアマニに駆け寄ると、その頬に軽く口付けをしてから背に乗り込んだ。不穏な雰囲気にインギアの邪眼が怪しく光る中、アマニは愉快そうに微笑むと、標的を見定めて龍力を爆発させた。

《……面白えな。実に面白えもんだ。これだから広い世は堪らん。しっかり掴まっていろよ。『ウインドチャージ』!!》

 風を纏い、一直線に闇を切り裂く人龍。目の前で斬り裂かれるレイの姿を見て、リースは確信する。両腕を失いながらも矜恃を失わない彼女を見て、喉の渇きと鼓動の高鳴りを同時に覚える。

 そして、リースは符を纏う。今自分の成すべきこと、高潔なる彼女の血が告げている。もう2度と、決して失ってはならぬと。例え命尽きたとしても、損なってはならないものがあると!

(亜門くん……見ててね。あたしは必ずやり遂げてみせる。君の分まであたしは……大切な仲間を守る!!)


 そして、戦場。光に包まれる戦場。必死で仲間を守る人間と、それを見守る2人の巨龍。拘束を解かれた漆黒の龍は、高き赤龍に向き合い、膨大な龍力を真っ直ぐに向けていた。

《……アマニか。久方振りだな。ハーシルの爺は元気か?》

《ムワーナ! てめえ何してやがる!? 本当に裏切りやがったのか!》

 当たり前のように話し掛けてくる黒龍に、驚きつつも警戒の色を隠さないアマニ。彼はやや俯きがちになり、声を潜めて周囲を伺った。

《この戦士のお陰だ。まさかあのカリスを、降魔なしとはいえ正面から討ち払うとはな。その上で闇を払う彼女の結界。ようやく僅かながら時間が作れた。感謝しかない》

《やはり敵の制御下にあったか。まさかお前ほどの男がな。敵は“あの”ルシフェル=ハイドウォークで間違いないのか?》

《ああ。敵は強大だ。かつての戦争とは比較にならん。兎も角、私には時間がない。どうやっても敵の術を破れんのだ。恐らくは『唱技』も無効だろう》

《そりゃ参ったな。どうすりゃいいもんか……お、おい! リース?!》

 つかつかと2人に歩み寄る少女。その気迫の面相を見て、黒龍は顔を背けて項垂れた。

《あの時は……すまなかった。謝って済む話ではないだろうが……》

「あ、そういうのいいから。もう泣き飽きたわ。とりあえずそこのトカゲさん、ちょっといいかしら」

 リースは更に一歩ムワーナに進み寄った。と、同時に大振りのビンタが彼の頬を振り抜いた。がちんという鈍い音。唖然とする一同に、彼女は鱗で切れた血まみれの手を拭きながら、何事も無かったかのように言った。

「ふう。スッキリした。レイの言う通りね。ぶん殴れば一応は落ち着くわ。ほんとは即死んで欲しいけどね」

《リ、リース。これはだな、どうもこいつにも事情があるようで……》

「見りゃわかるわ。とりあえず貼っといたから。これでダメなら諦めて死んで」

 リースの指差す先には、正確に言えば彼女が先ほど叩いた頬の部分、鱗の奥の奥には、数枚の符が折り畳んで入り込んでいた。そこからじわじわと光が漏れるのを感じ、ムワーナはその作用が齎す痛みにぐぅと低く唸った。

《むう……これは北大陸の光の力か。闇の束縛がやや軽くなった気がするが》

「見た感じ、あんたにかけられた術は相当なレベルだけど、ここまで効くのには理由があって、あんたら龍族の魂の中央、“龍玉”ってんだっけ? そこ押さえられてるの。種族の弱点ってとこね」

《如何にもその通りだ。しかし、この短時間でそれを見抜くとは……お前は相当の術士なのだな。感謝するぞ》

「べつに。あんたなんかに褒められたくないし。前にインギアに掛けられてた術と種類は同じだからね。コツは分かってたから解除は可能だけど、さすがに半日は欲しいわ。でもそんな時間ないでしょ? だからそれで我慢して」

《その通りだ。流石の俺でも龍人には勝てん。レイが戦えない今、再びムワーナが敵に回ったら勝ち目はゼロだ。逃げるしかない》

 アマニの言葉に答えるように頷くと、リースは一枚の符を取り出した。いつもの白色のものはなく、青く輝く不思議な力の籠もった符だった。

「決まりね。カリスが再生する前に、今のうちに逃げるしかないわね。今から“特殊符術”を使うわ。これをあんたの体に埋め込む。そうすれば術がゆっくりと作用し、時間はかかるけど、確実に龍玉を浄化するわ。まあいつまでかかるかわかんないし、ずっと全身に激痛が走るけどね。あんたなんてどうなってもいいし、コレ作るの時間かかるからあげたくないんだけど、あんたが復活すれば敵の隙を突ける可能性はあるわ」

《それは助かる。心底礼を言わせて貰うぞ》

「あっそ。好きにして。最終的な“発動”は、あたしが行わないとダメだけどね。あと、ルシフェルとかバラムあたりに見つかるとアウト。殺されても文句言わないで。じゃ、やるから」

 そう言うとリースは誰の意見も待たずに、特殊符をムワーナの体内に無造作に差し込んだ。不思議な程するりと入り込んだそれはすぐに作用を開始し、彼は継続して流れ込む苦痛に顔を歪めた。

「どう? けっこう効くでしょ? あたしからしたらどうでもいいけど」

《……確かにな。だが、久々に感じる痛痒だ。生きている実感を感じているよ》

「あっそ。ま、泣いても喚いてもやめるつもりないけど。じゃ、あたしたち逃げるから。後は好きにして」

 そう言って振り向きもせずにレイの元に駆け寄るリース。闇が再び周囲に満ち、不穏が沸き立つ場の中で、撤退の準備を始める龍族。アマニは彼らに指令を出しつつ、その場で身動き一つしないムワーナをちらりと眺めた。

《で、何かないのか? 言いたくねえが、お前のせいでこうなってんだぜ》

《私か? 言い訳しても仕方ない。全て私の力不足だ。それより時間がない。カリスに呼ばれている。今度は確実に皆殺しにされるぞ。とにかく今は引け。ポイント1185.996だ。そこに私たちの拠点がある。東回りで北に向かえ》

《操られてる分際で偉そうにまあ。ま、今に始まったことじゃねえがな》

《……待て。それは何だ?》

 ムワーナが指差した先、アマニの背の鱗の隙間、そこにある小箱が、不思議な光を放ちぼんやりと輝いていた。

《あ? 叔父貴から受け取った変な箱だよ。何のことやら分からんが、来るべき時が来れば分かるとよ》

《……そうか。なら私から言うべきことはない。ただ“それ”が、今そこにあるということ。加えて今回の戦の不自然な点を鑑みれば、結論は1つだ。“それ”は必要な時に必ず開く。そういうものだ》

《回りくどい男だな。ま、今に始まったことじゃないが。じゃあ俺は行くぜ。せいぜい飼い犬稼業に勤しむことだな》

《待て、アマニ。そして……リースとかいったか。人間の娘よ。1つだけ言っておくことがある》

「なによ? あたし、もうあんたの顔なんて見たくないんだけど」

 心底うざそうに、一応といった感じで振り向くリース。ムワーナは翼を大きく広げ天空に消え去りながら、衝撃的な一言を残した。

《全ては繋がった。ハーシルさんがやろうとしていること、それは……禁忌とも呼べる術。だが、それ故に確信した。此度の戦場での不自然から鑑みても間違いない。先日カリスによって屠られた人間の侍、高堂亜門は……生存している可能性がある》

「え!!!! な、なんて言ったのよ?! ちょっと!! 意味わかんないんだけど!」

《おいおい! 適当言ってんじゃねえぞ! 俺は確かに見たんだ。あいつは龍人をぶった斬ったんだぞ! あれじゃ……生きてる訳がねえ!》

《全ては繋がっている。龍を縛る鎖は解かれた。世界はこれから、あらゆる意味で自由となる。ではまた会おう》

 2人の驚きと怒り、不穏を他所に、ムワーナの姿は小さくなり、やがて点となっていった。不穏な空気が世界全体を包む中、南海での死闘は終わろうとしていた。

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