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第81話「受け継ぎしもの」

 秋津近海、名もなき孤島。

 暗雲立ち込める天を切り裂くように、1人の真紅の巨龍が背中に金髪の少女を乗せたまま、墜落するが如き速度で着陸した。その様子を林の中で伺っていた龍たちが、歓声を上げて飛び出して来た。

《アマニさん、ご無事でしたか?!》

《当たり前だろ? 俺を誰だと……くっ!》

《凄い傷じゃないですか! 早く手当をしないと!》

《要らねえよ。それより……やることがある。大至急準備するぞ》

 アマニは背の少女をそっと陸に降ろし、気迫を込めて全身に龍力を溜め始めた。少女は漠とした瞳を空に向けたまま、不思議な笑顔で龍たちに話しかけた。

「初めましてぇ。わたしぃ、リースっていいますぅ。亜門くんがお世話になったみたいでぇ、その節は本当にありがとうございましたぁ」

 その姿にちらりと視線を向けると、アマニは目を閉じてほんの僅かに首を横に振った。即座に龍たちも全てを察し、皆一様に目を伏せた。

「どうしたんですかぁ? もうすぐ亜門くんも帰ってくると思うんでぇ、そしたらみんなでパーティーしましょうよぅ。きっと楽しいですよぅ」

 1人の若い女龍がさっとリースの側に寄って、赤子の相手をするように話を聞き始めた。残った龍たちはアマニの前に座り込み、彼の術の成果を見守っていた。

《知っての通り俺たちは敗れた。龍兵に多大な犠牲を出し、我らの同志であり盟友たりうる人間、高堂亜門も死んだ。そして亜門の恋人であり、北大陸の符術士リースは……壊れた。情勢は既に、金蛇屋藤兵衛の時空間術を通じて、全て叔父貴に伝えてある》

 その言葉に、龍たちの間に少なからず動揺が走った。亜門が死んだ。あの強き人間が。その知らせは衝撃以外の何者でもなかった。そして、最強の龍であるアマニが負った重き傷、敗北し逃げ帰って来たという状況。全ては絶望的だった。そして、次に発せられたアマニの言葉に、彼らの絶望は致命的なまでに膨れ上がった。

《敵将の名はカリス。強力な剣技と闇力と……龍人の体を持つ男だ。故に俺たちでは奴に勝てん。絶対に。そしてもう1人。カリスを背に乗せるは……秋津国の帝龍ムワーナだった》

《ム、ムワーナ様ですと! 本当なのですか!?》

《信じられん! まさかあの誇り高き御方が裏切るなどと!》

《事実だ。かの偉大なる大龍フィキラ様のご子息は、間違いなく敵の手の内にある。この状況では、あらゆる意味で手が出せねえ。俺たちは敵に触れることすらできない。この意味が分かるか?》

 彼らは何も言えずにその場で絶句した。あまりに絶望的な状況だった。そんな彼らを見て、深いため息と共にアマニは言った。

《言葉も出ねえよな。気持ちは分かるぜ。ここで……更に追い討ちだ。帝龍代理として叔父貴の方針を伝える。全軍、順次撤退だ。特に龍位3席以下の者たちは即、郷に帰還。次なる指令に備えろ》

《そ、そんな! それは無茶です!》

《そうです! となると残るのは……》

《そうだ。俺だけだ。しかもご丁寧に“龍令”の形でよ。ふざけてやがる! だが……従わねばならん》

 彼らの中に、更なる動揺と困惑。この状況下では正しいことなど何も分からない。命令を信じるべきなのか、それとも……。

《ざけんな! 俺は残るぞ! あんたにだけカッコつけさせてたまるかよ!》

 その時、若い龍の1人が前に出た。目を爛々と輝かせ、強い意志を込めてアマニに向かって叫んだ。

《これは龍令だぞ。意味が分からん訳ではないだろう?》

 冷たく言い放つアマニに、龍たちは揃って詰め寄った。その表情には鬼気迫るものがあったが、彼は感情を封殺するように奥歯を噛み殺した。

《冗談じゃない! あんなに仲間が死んだんだぞ! 客人まで殺されて許せるわけがないでしょうが!》

《帰りてえ奴は勝手に帰れ! 俺は残るぞアマニ!》

《私も残ります! 絶対に眷属どもを許してはおけない!》

《駄目だ。“限定龍令”とは言え、破ることは許されない。帰るんだ!》

 遣り取りが白熱する中、突如として上空から突風が吹いた。二筋の神速の風は、彼らの侍るすぐ側に流星のごとく舞い降りた。それは龍族第5席疾風のバルアと、シャーロット一行最高戦力たる孤高の闘士レイの姿だった。

「アマニさん、客人が到着だぜ。一旦軍議は中断してくれや」

「おうおう、ずいぶんとヤッてんじゃねえか。アマニ、待たせたな。大トカゲの旦那からてめえらを逃せと言われてるぜ」

《レイか! 待ち侘びたぞ。お前が来れば百人力だ!》

 2人の手が空中で交差し、パンと乾いた音を立てた。ここ数日で初めて、アマニの顔に笑顔が蘇った。

「おう。てめえらは退かなきゃならねえが、亜門の敵討ちは俺がやる。絶対にな。ところで……リースは? あいつは無事なのか?」

《それは……》

 アマニは目を細め、無言で首を振った。代わりに前に出た女龍が、無邪気な朦朧の中に浸るリースを小さく指差し、静かに耳打ちした。

《ずっとあの調子だ。……力になれず申し訳ない》

「てめえらが謝るこっちゃねえさ。出る前にちと時間だけもらうぜ」

《無論だ。現状ではお前しか敵陣に対抗出来ん。こっちは幾らでも待つさ》

「心配すんな。すぐ……終わすよ。あ、そうそう。そこでヘバってるアホ龍が用事ってか、アマニになんか届けもんがあるそうだぜ」

《俺にか? バルア、一体なんだ?》

 バルアはぜいぜいと息を切らしながら、無言で1つの金属の箱を差し出した。龍族の紋様、ハーシルの列の印が刻まれた、小さな小さな箱。アマニは不思議そうにそれを手に取り、首を傾げた。

《何だこりゃ? 俺も見たことがねえぞ。箱? と言うか……どうやって開けるんだこれ? どこにも切れ目1つないぞ》

「俺ごときが知るわけないっしょ。ハーシル様からの命令で持って来ただけなんだから。そっちで何とかしてよ。あと、列召喚の“許可”出すってさ。南大陸でインギアさんがスタンバってるよ」

《そうか。そりゃ助かるぜ。早速喚び出すとするか》

「で、悪いんだけど俺……正直疲れたから、ちっとだけ休ませてよ。もう限界……」

 そう言い残してぐたりと倒れ込むバルア。アマニは目を細めふっと微笑むと、その体を強く両手で抱え込んだ。

《よくこの短時間でレイを届けてくれたな。お前は心底有能な男だ。戦は俺らに任せてよく休め。おい、誰かバルアを寝床に運んでやれ》

 すぐに龍たちが駆け寄り、抜け殻のような彼の体を抱き抱えて飛んで行った。アマニはその姿を見つめながら、手の中に収まった小箱を静かに眺めていた。内から不思議な力の欠片は感じられるものの、それが意味するところは彼でさえよく分からなかった。しかし、これが重要なものだということは本能的に理解出来た。

《……叔父貴。あんた何考えてるんだ? 俺に何をさせようとしている? そして……あんたは何をしようとしているんだ?》


 海岸沿い。

 砂場に座り込んで、瞬く星空を眺めるリース。焦点の合わない目で見つめる先には、何一つ写っていなかった。そう、そこには何一つありはしなかった。

「おう。久しぶりだな」

 声がした。リースははっと勢いよく振り返り、嬉しそうに声の主に抱きついた。

「亜門くん、遅いよ! どこ行ってたの? あたし……寂しかったんだよ! もう1人にしないでね。絶対だよ!」

 勿論、そこにいたのは亜門ではなかった。銀髪の闘士レイは、リースの体温を胸で感じながら、見たこともないような複雑な表情をしていた。

「もう戦いは終わったの? ならさ、ちょっと観光でもしていこうよ! 亜門くんのおうち、あたし見てみたい! あたしの予想ではさ、きっとすごく大きなとこだと思うの。どう、当たってる?」

「……」

「それでさ、次はあたしの国に連れて行くね。雪ばっかりでなんもないところだけどさ、きっと気に入ってくれると思うんだ。あたし、色々案内するから! シャルちゃんやレイも連れて行こうよ。クソ狸は置いてくけど」

「………」

「あ、もしかして、2人っきりが良かった? もう、やあね! それはその次にとっておこうよ。だってこれからはさ、ずっと一緒だよ。ずっとずっと一緒なんだから。絶対に……絶対………」

 嗚咽。そう、全ては……終わっていた。そんなことが分からない彼女ではなかった。けれども、認めたくなどなかった。こんなことで終わるはずがないと信じたかった。永遠などという陳腐な言葉を肯定したかった。ただそれだけ、それだけが彼女の望みだった。終わることのない嗚咽。決して開くことのないレイの口。それだけが答えだった。限りなく暗黒に浸された真実だった。

 数時間後。

 泣き疲れたリースが死んだように倒れ込む中、レイは1人拳を握りしめた。固く、強く、熱く。レイにとって、そこに込められた力こそが唯一つの答えだった。やるしかねえ、それだけ思った。未だ声を発することのできぬリースの肩にそっと手を当てて、レイは空を見上げて独り言のように呟いた。

「リース。俺は……亜門の仇を討つ。約束する。ぜったいにぜったいだ」

「……」

 返事はなかった。ただ、すすり泣きが存在するだけだった。レイはそちらに視線を遣ることなく、ただ言葉を続けた。

「てめえがなにを考えどうしようが、そいつは好きにしな。なにも強制するつもりはねえ。ただ俺は……必ずやる。やってみせる。……必ず!」

「……」

「じゃあな。俺は戦に出る。そしてたぶん……俺も死ぬ。敵はそれだけの相手だろう。だが、必ず俺は……あのバカを殺したゴミ野郎をぶちのめしてやる!」

「……」

「もう会うこともねえだろうが、達者でな。おめえと……おめえや亜門と過ごした日々は……俺にとって最高の時間だったぜ。言っとくが嘘じゃねえぞ。俺はあのクソとちがうからな。心から礼を言う。本当に……ありがとな」

 最後にそれだけ残し、くるりと振り返るレイ。燃え盛るように熱く闌ける拳。レイの中央に聳え立つ鋼の芯に、熱く輝く炎が感じられた。確固とした意思が力となり、闘気は無尽蔵に膨れ上がっていった。

 その時、遠くから声がした。龍の斥候部隊の叫び声が、悲哀の空気を一気に切り裂いた。

《敵襲だアマニ! こちらに向かっているぞ!》

《随分と早いお越しだな。レイ、準備はいいか? こちらも議論の暇はなくなった。今は全霊で立ち向かい、敵を討ち払うのみだ!》

「へっ。早速かよ。おもしれえ……やってやるぜ!」

 レイは全身に闘気を漲らせ、気配のする方に一目散に跳んだ。視界の端に一つの影が浮かんでいた。強力で、禍々しい力の波動が高速で近付いて来るのを感じる。その背後に浮かぶ闇の眷属たちも霞むほどに強力な霊域。レイはごくりと唾を飲み込んで、すぐにかっと目を見開いた。

《……敵将の襲来だ。やるぞ、レイ。あれこそが俺たちの仲間を殺し、亜門の命を奪った……全ての元凶魔剣士カリスだ!》

 龍の憤怒は天地に響き、腹の底に熱く漆黒の鳴動が走った。レイは全身を激しく震わせ、闇を自らに降ろす。稲光のように貫く闇の衝動、みるみる獣のそれに変化する体躯。

「雑魚は任せたせアマニ! 奴だけは俺がやる! ハナっから全力だ! ……『降魔・フェンリル』!!」

 巻き起こる銀色の疾風。同時に飛び立つ龍の群れ。再び世界は揺れる。誰のせいでもなく、ただひとりでに。そして……握り締められる少女のか弱い拳。血が滲むほどに力の篭る、意思の象徴。全ては終わってしまったのか? このまま物語は終わり続けていくのか? 

 ……否! 決してそうはならない! 強き意志と、不屈の魂のみが、それを可能にする。その2つを持ち合わせた者たちの戦いが、各所にて始まろうとしていた。


 龍の郷、奥地。

 静まり返る深い深い森の中の、最も奥に位置する朽ちかけた社。そこには古龍ハーシル以外には、他の者の影は一つたりともなかった。彼は祈りを捧げるように跪くと、目を細めて中央に位置する偶像を眺めた。その姿はシャーロットに生写しの、1人の女性の像だった。褪せた銅で作られた、慈愛の表情に満ちた姿。彼はそれを愛おしげに手で触れると、静かに1人語り始めた。

《アガナ様……来るべき時が来ました。思えば我も長く生きました。漸く……其方へ参れそうです》

 ハーシルは目を細めふっと笑うと、龍力を高め複雑極まる独自の術を形成していった。

《全ては整っています。あと数日で懐かしき友にも会えそうです。やるべきことは山積みですが、これも最後の責務と思い、老体に鞭打つとしましょう。ですが……我が幸福なのは、後を託せる後継者を育てられた事です。アマニは帝龍に相応しき男。まあ“試練”を越えられればの話ですが》

 小さく自嘲気味に笑うハーシル。吹き荒ぶ風の音が、彼の銀色の鱗を逆立てた。だがその時、背後から激しい叫び声がした。

「おい! どういうことじゃ! さっきから聞いていれば貴様……死ぬつもりか!?」

 耳に響く低いダミ声。ゆっくりと振り返った先には、闇の塊が形を模した金蛇屋藤兵衛の姿があった。

《何とまあ……よくもずけずけと来たものよ。ここは聖域だぞ。人が断りなく入っていい場所ではないわ。特に貴様の様な下賤な男はな》

「黙れ! そんなことはどうでもよいわ! 先程の台詞、一体どういう意味じゃ! 儂の眼前で無為に死すは決して許さぬぞ!」

《闇人形の身でよくほざくわ。我にはもう時間が迫っている。そもそも……我は今、生きているのが不思議な位なのだぞ。とうに死すべき運命を、時間操作の秘術により辛うじて繋ぎ止めているに過ぎん。気を抜けば即、死が待つのみよ》

 透き通った眼差しで、ハーシルは厳正に告げた。その目の奥に虚偽の色は一欠片たりとも存在していなかった。藤兵衛はちっと大きく舌打ちをして、不快そうに頭を掻き毟った。

「ったく……何じゃそれは! ふざけた種族もあったものじゃて。納得は出来んが、儂の知ったことではない。ならばさっさと死ねい! 骨は儂直々に拾ってやろうぞ」

《グッハッハ! そうだ。それでいい。今更貴様にしんみりされてもむず痒いわ》

「何じゃその態度は! 間も無く死ぬ者が何故笑うか! 理解出来んわ!」

 2人の間に独特の空気が流れた。澄んだ目で楽しそうに笑う死に行く銀龍と、顔を顰めさせて叫ぶ人間。ここに至り、2人の間には不安定ながらも、ある種の関係性が出来上がっていた。

《我にとって、死など何も怖くはない。我が唯一恐れるのは、“使命”を果たせず無意に潰える事のみよ》

「それは何じゃ? 貴様程の男が最後に為すべきことならば、儂の頭に刻み付けておかねばならぬ」

《……救うこと。あの日救えなかった魂を、時を超えた今、我は……必ず救う。必ずだ》

「ふん。よう分からんの。これだから死にかけの呆け老人は周りくどくていかん」

《グッハッハ! 貴様の様な穢らわしき男には分かるまい。……それより、術の進捗はどうだ? こんな所でコソコソとしている暇があるのか?》

「そこじゃ! その話をしに来たのじゃ! 正直言って順調とは程遠いの。故に、貴様に頼みがあってここに来たのじゃ」

《フゥム。呆れたものだな。あれだけ我に偉そうに謳っておきながら、よもや協力させようとは。人間とは誠に都合のいい生き物だ》

 小馬鹿にしたように言い放つハーシルに対し、藤兵衛は迅速に、実に手慣れた流れるような華麗な動きで、真っ直ぐ地面に額を擦り付けた。そう、それは土下座。摩擦で焼き切れんばかりの、激しくも格式高い、完全なる屈服の姿勢。これにはハーシルとて想定できず、ぽかんと大きく口を開けたまま絶句していた。

「何卒、何卒儂にお力を! 御怒は尤もかと存じますが、どうぞこの卑しき矮小の極みたる存在に、閣下のお手をお借りできますまいか! 何卒、何卒です!」

《何とまあ……貴様には矜持がないのか? 何故当たり前のようにそんなことが出来る? 仮にも人間の中では名の知れた男なのだろう? 何故そんな簡単に頭を下げられるのだ?》

「知れたことよ。頭はいくら下げたところで一銭も損せぬからのう。必要とあらば全裸にて行おうぞ。貴様が好むなら尻穴を貸してやってもよい。どれ、ちと待つがよい」

《ま、待て! この狂人が! 間も無く死を迎えようとする我が、何故貴様の粗末で不潔なものを目に焼き付けねばならぬのだ! わかった! 話だけは聞いてやるから、ともかく仕舞え! ……ええい! 早く下着だけでも履け!》

 焦り喚き散らすハーシルの様子を見て、藤兵衛は手早く頭を上げると、全裸のままどかりと踏ん反り返って、悠然とキセルに火を付けた。

「うむ。それでよい。さっさとそう言えい。では話をするぞ。儂の頼みは他でもない。彼奴の解放じゃ」

《……先程まで頭を下げていた男の態度とは思えんな。だがいい加減もう慣れたわ。やはり貴様もそこに至ったか。そうだ。そこしかない。今の貴様がシャーロット様を『転移』させるには……龍人を使う他あるまいな》

「それが分かっているなら、何故早々に解放せぬ? 何ぞ理由でもあるのか?」

《2つ。1つは、存在の不安定。1つは、龍力の未覚醒。貴様にも意味は分かるだろう?》

「ふん。言いたい事はよく分かるが、彼奴が……セロがおらねば儂の図面は埋まらぬ!」


 あの日、レイの出立の前日のこと。

 素っ裸のレイは、ここ龍の聖地にてぼりぼりと股ぐらを掻きながら、ぶっきらぼうに言った。

「おい! いつまで俺を裸にすんだ! 寒くてカゼ引いちまうだろうが!」

「安心せい。阿呆は風邪など引かぬわ。特に貴様は脳が筋肉で置換されておるからのう。臓器も固すぎて弱りようも……グェポ!!」

「うるせえ!! てか、なんでよりによっててめえがいるんだ! さっさと出てけ! ……それともなにか、そんなに俺の裸が見てえのか? ったく、てめえも素直じゃねえなあ。そんなに言うならぜんぶ見せてやらあ」

「あ、阿呆が! 儂の目が腐るではないか! 止めい! 近付けるでない! な、何じゃそれは!!」

[ちょっと! いい加減にしてよ! ボクの体をおもちゃにしないで!]

 レイの体の奥から声がした。それは彼女の“同居人”のセロ。かつてハイドウォークの手により、この体の持ち主となった存在。

「何じゃ、騒々しいのう。そもそも貴様、そこから離れるらしいではないか。さすれば、“それ”は虫に所有権があろうて」

[そういうのいいから! 理屈じゃないの! ボクの体なんだから、ボクのなの!]

「……だとよ。ま、なんか知んねえけど、こいつはこれでいいんだと。人間の体を捨てて、龍として生きるんだとよ」

 呆れたように力なく首を振るレイ。奥の石像前で術を練り続けるハーシルは、彼らの話に答えるようにぼそりと告げた。

《龍ではない。“龍人”だ。この像に封印された、龍人族の女帝エキドナ。彼女の精神は完全に崩壊しているが、肉体は健在だ》

「ふん。よう分からんの。普通の人間の身体では駄目なのか? 何故斯様な特殊な身体を使用するのじゃ? それに随分と唐突ではないか」

《貴様に説明した所で時間の無駄だが、一応話してやる。エキドナには精神の特異性が存在するのだ。普通の人間では、セロの人格を受け入れる事は出来ない。自己と他者の棲み分けは、それこそ今の2人のように、赤子の頃から馴染ませねば不可能だ。その点、エキドナには既にその領域が開かれている。龍人族の成り立ちに関わる部分は省略するが、この女の精神の海には、他所の魂を受け入れる余地が存在している。更に言えば今宵は新月。闇の力を1番抑えられる日なのだ。つまり、今日この時にエキドナの身体にセロの人格を移すことが、現状で我が考え得る最善手と考える。何か質問はあるか?」

「……ふうむ。実に簡潔かつ明白じゃな。理解し難い部分もあるが、セロを生かすにはこれしかなかろう。仕方あるまい。貴様の案に乗ってやろうではないか」

「なんでてめえが仕切ってんだクソが! ま、とにかくよ、セロがこれでいいっつってんだ。やるしかねえだろ」

[……うん。正直怖いけどさ、ボクやってみるよ。意味も分かんないまま、人に強いられた生き方を進むより、まずは自分の足で立ってみたいんだ。ボクは……自分の人生を生きてみたい]

「へっ。強くなったじゃねえか。だ、そうだぜ。んじゃ始めてくれや」

 セロとレイの言葉に深く頷くハーシル。即座に儀式は始まり、周囲に術空間が巻き上がっていった。

《一応最後に確認するぞ。レイ、貴様は今の体のまま生き続ける。闇力も降魔もそのままだ。感覚としては恐らく何も変わらない。暫く違和感はあるだろうが、すぐにいつも通りの力を振るう事が出来る。問題ないな?》

「あるわけねえだろ。問題はセロの方だからよ」

《ではセロ。貴様は新しい体に転生することとなる。闇力と、それに付随する力は全て失う。魂と呼ばれる意識の核を、レイの魂に同化した精神体のみを、無理矢理に引っぺがす訳だ。正直、何がどうなるか我にも予測はつかぬ。意識が定着するまで数ヶ月、あるいは数年掛かるやもしれん。それどころか、最悪の場合は一生目を覚ます事がないかもしれん。本当に……それでいいのだな?》

[それは嫌! ぜったいに嫌! ふざけないで!]

 いきなり癇癪を起こしたセロに、一同は絶句した。そんな周囲を無視するかのように、暫しの間ずっと喚き立て続ける彼女。

[ほんとは嫌! 死にたくなんてない! このまま生きたい! 目が覚めないかもなんて意味わかんない! 美人のまま過ごしたい! なんでトカゲとのハーフになんなきゃいけないの! 幸せにお嫁さんになりたい! 大好きな人に抱かれたい! 普通に生きて普通に死にたい! こんな人生ほんとうんざり!!]

「こ、これセロや。ちと言葉が……」

「……いいよ。言わしてやれや。頼むからよ」

 言いかけた藤兵衛を止めたのは、真剣な表情のレイだった。無言で首を振り、そのまま耳を傾けた。藤兵衛はその雰囲気を肌で感じ、彼にしては珍しく、振るいかけた言葉をそのまま飲み込んだ。

[ああ! もう! ほんと嫌! 最低! 最悪! 幸せな奴が憎い! ああ、爆発しろ! 全部ぶっ壊れろ! あああああ!!!!]

 絶叫。そして、沈黙。静かで緊迫した空気の中、息を整えたセロは顔を上げて、けろりとした声で告げた。

[あ、お待たせ! じゃそろそろやる?]

「な、何じゃ貴様は! 精神が破裂したのかと思うたぞ!」

[そんなのとっくに破綻してるよ。ああ、言いたいこと言ってスッキリした。じゃ、レイ。さよならだね。『トール』をよろしく。お父さんの形見だからさ、大切に使ってよ]

「いつからオヤジになったんだかよ。ま、いいさ。ガンジの仇もついでに討ってやるとするか。そんじゃ……またな」

《別れは済んだか? それでは術を行うぞ。そこの下賤な商人は下がっておれ。巻き込まれては命の保証は出来んぞ》

 みるみると術空間が広がっていくにつれ、藤兵衛は小さく一つ頷いて後ろを向いた。

「さて、儂は退散するかのう。亜門たちの状況も気になる故、連絡を取らねばならぬ。では幸運を祈っておるぞ」

 答えは帰って来なかった。藤兵衛は振り返ることもなく、1人その場を去っていった。ふと、風が吹いた。頬を通り過ぎる感覚に、彼はぼそりとどこか感傷的に言った。

「秋も……更けたの」


 そして、現在。金蛇屋藤兵衛と老龍ハーシルの会話は続いていた。

「セロは龍人となったのじゃろう? 儂もそこまで詳しくは知らぬが、龍人とは龍の力を持つ人だと言うではないか。それならば、シャルの力を龍力で抑えつつ、最小限の質量で同時に『転移』出来ようて。これしかない! これが儂の答えじゃ!」

 力強く言い放つ彼に、老龍は目を閉じて今にも眠りそうな姿勢のまま言った。

《先程も言ったが、セロは未だ目覚めておらん。意識も、無論龍力もな。いつになるかは誰にも分からん》

「ならば叩き起こせばよいではないか! 場所を教えよ! 儂が力尽くでやってくれる!」

《無茶を言うな。無理をすれば全てが台無しになる。それが分からん貴様でもあるまい? だが、希望を1つ。もしセロが覚醒すれば、恐らくは貴様の言う通りの展開になるであろう。シャーロット様を『転移』させる可能性は飛躍的に高まる。我が保証しよう》

「ふん! 貴様に保証されたところで、当の本人が起きぬでは話にならぬわ! ならば……そうじゃ! セロの周りだけ時を早く出来ぬか? 強制的に時間をかければ、奴の目覚めは結果的に早まろうて。貴様なら可能じゃろうて」

《確かに可能だ。セロに時間術を集約すればな。だが、代償に郷の時間は通常に戻る。今の我には時操術を連で行うことは出来ん》

「ふむ。理に叶うの。仕方なきことじゃて」

《つまり、2つに1つだ。あと1週間、術を磨きながら目覚めを待つ道。もしくは時間を元に戻し、その分をセロに集中し、恐らく数ヶ月分にして与えるか。前者は貴様らの力は磨かれようが、セロの時間は足りぬ可能性が高い。後者はその逆だ。どうするかは貴様が決めろ。さあ……選ぶがよい。金蛇屋藤兵衛!》

 究極とも呼べる二択。迷いが迷いを呼ぶ筈のその質問に対し、藤兵衛はキセルを加え、余裕綽綽たる風態で悠然と鼻から煙を吐いた。そう、藤兵衛は動じない。この男は……迷わない!

「ふん。何ぞ試しておるのか? 決まっておろう、後者じゃ。術の精度は足りておる。後は決め手と加減のみよ。そもそもじゃ、今から儂がどんなに奮進したところで、結果なぞたかが知れておる。人間1人の力なぞ小さきものぞ。儂は使えるものは、ゴミでも糞でも虫でも、人でも魔女でも龍であろうと存分に使う。可能性から逆算すればこれ以外の答えなぞ存在せぬわ。直ちににセロに施術せい! 貴様が死ぬというのなら、せめて最後の絞り滓を出し尽くすのじゃ!」

《グッハッハ!! やはり貴様は狂人だな。我も運が悪い。生尽きん今際の時に、貴様のような存在に出くわしてしまうとは。覚悟はしていたつもりだが、死ぬのがちと惜しくなるわ》

 ハーシルは大口を開けて、古びた牙を剥き出しにして、心底愉快そうに笑った。帝龍と呼ばれし偉大なる龍が、まるで自らの人生に思いを馳せるかのように澄んだ目に変わるのを見て、金蛇屋藤兵衛はキセルの灰を小気味よく落としながら、表情を大きく変えて実に楽しそうに笑った。

「ゲッヒャッヒャッヒャッ! それでよいわ。それこそが生じゃて。最後に学べて良かったのう。儂に感謝しながら冥土に行くがよい。亜門にも……不甲斐ない儂の生き方を、せめて彼奴にも伝えてくれい」

《それだけは……出来ん。言ったであろう? 我は命を懸けて“救う”と》

「む? 何を言っておるのじゃ? シャルはともかく、亜門はもう……」

《まあそれはいい。実はもう準備は出来ておる。貴様を試す積もりであったが、その必要はなかったな。……『時操術・有限発動』!! 郷の時空を元に、か弱き生命の器に時を降ろせ!》

 掛け声と共に、ぐにゃりと大気がねじ曲がった。と同時に流れ込む異形の空間。遂に術が振るわれた。藤兵衛はその強烈な流れに弾き飛ばされ、瞬く間に外に吹き飛ばされた。

「グゥゥ!! 頼むぞ、ハーシル! 儂は任せられる者にしか……グォォオオオオ!!」

 小さくなる影。それを脇に見ながら、ハーシルの腹部が鳴動した。時が、その一点に収束したのだ。彼の腹の中にいる人影が、微かだが確実にピクリと動いた。老いた巨龍は今日1日の出来事を思い出し、口を大きく開けて嬉しそうに笑った。

《誠に……現世とは愉快なものよ。アガナ様、共に戦った掛け替えの無い仲間たちよ。我も明日にはそちらへ向かうぞ。シャーロット様は渡さん! そして……亜門は返してもらうぞ! 必ずだ! “元”帝龍ハーシルの名にかけて!》

 龍の咆哮は絶え間なく流れ、時の狭間の中に消えていった。だが、残る炎は確実に存在する。決して消え失せぬ業火がそこに!


 神代歴1279年12月8日。それは世界の命運を握る時の前日のこと。

 幾つかの光と闇が交差し、世界そのものに華を添えていった。歴史の陰に消え行く龍は、ただ澄んだ瞳を天に向けるのみだった。

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