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第80話「焦燥」

 東大陸南部、スザク国上空。

 世界の東の果てへ向かって、彗星の如く突き進む影あり。それは小型の緑龍の背に乗る銀髪の大女。2人は吹き荒ぶ風圧に耐えながら、ただ一目散に東へと進み続ける。特に女の方は怒りの感情を顔の内側からありありと示し、時折苛つきをぶつけるように龍の背を蹴りつけた。

「い、痛え! レイちゃんなにすんだよ!」

「おせえぞバルア! もうちっとスピード出ねえのか!」

「さっきも言ったろ。流石の俺だってもう限界だよ。何とか3日で到達してみせるから、もう少しだけ我慢してくれって」

 神速の飛龍バルアのぼやきも耳に入らず、レイは肌を突き刺す冷たい風の中、仁王立ちをして鋭く目を光らせていた。彼女が仲間の死、高堂亜門の死を知ったのは昨晩のこと。今だに整理できぬ気持ちと、昂ぶる感情を抑えきれず、彼女は1人天に気を吐いた。虚空に流れ消えていく叫び声が消えるのを待ち、バルアは神妙な顔で話しかけた。

「レイちゃん……気持ちはわかるぜ。俺のダチも同じ戦いで死んだらしい。前線での立派な戦死だとよ。それはきっと間違ってねえし、誰かに何かを言うつもりもねえ。でもよ……だからといって割り切れるもんでもねえよな」

「……ああ」

 沈黙が流れた。レイにとって、近しい仲間の死を経験するのは初めてのことだった。こんな悲しみが生まれるとは知らなかったし、自分が他者とそんな関係を築けるとも思っていなかった。涙は出なかった。しかし、心臓の中心が破裂しそうに痛んだ。シャーロットとリースの気持ちを想像しただけで、拳の中で漆黒の感情が爆発するようだった。

「しかしあの田舎侍よ、そう簡単にくたばるようなタマには見えなかったけどな。もしかして……なにかの間違いなんじゃねえのかな?」

「そう思いたいけどよ、テキトーな想定は迷いを産むだけだ。アマニは信頼できる男だ。あいつがそう言ったんだから、きっとそうなんだろう。リースはもう……使いもんにならねえみてえだから、あとは自分の目と耳で確認してみる。あのクソ商人とちがって、俺はそうすることでしか物事を判断できねえからな」

「命ってのは……脆いもんだねえ。つくづくそう思うよ。ま、俺とレイちゃんの絆だけは永遠だけどな」

 そう言ってバルアは、無理やりながらも笑顔を作った。レイも気が抜けたように、ほんの少しだけ微笑んだ。

「お、やっぱ笑うと可愛いね。しかしレイちゃん、ほんとに平気なのかい? ほら、例の件でさ」

「ま、なんとかなんだろ。なるようにしかならねえさ。セロはもう……いねえしな。それも事実だ。けどよ、確かに残されたモンもある。俺はそいつを引き継いで闘う。ただそんだけだよ」

「……レイちゃん。死ぬなよ。絶対に。レイちゃんが死んだらさ、俺許さねえかんな」

「へっ。てめえに許されたところでな。……あんがとな。俺は死にゃしねえよ、たぶん。俺にも1つ“約束”があってな。たいそうなもんじゃねえが、しちまったからしょうがねえ。生きてそいつを果たさねえとよ」

「ん? ちょい待ち! それって怪しい臭いがするんですけど! ……男? それって男? ねえ、レイちゃん? 俺とそいつとどっちが大事なの?」

「うるせえ!! 黙って飛びやがれ!」

「グェポ!!」

 呆れるくらいに晴れた空。天高く馬肥ゆる秋空の下、傷心の闘士の拳は金剛石よりも硬く、地に滾る灼熱よりも熱く握り締められていた。


 一方、龍の郷。

 秋雨がしとしとと振り続く中、金蛇屋藤兵衛は濡れた地面に腰を落とし、複雑怪奇な術式を組み立てていた。怪しげな紋様が幾重にも揺らめき、彼は目の前の雨に喜び跳ね回る1匹の蛙を見つめていた。そして、彼の集中が頂点に達したその時、絶叫と共に術が放たれた。

「……よし! 来たわい! ここじゃ! ……『転移術・大蛇』!!」

 空間がぐりゃりと歪み、術空間が8の字の蛇のようにうねると、蛙を丸呑みのように飲み込んでいった。次の瞬間、少し離れた水場にポイと吐き出された蛙は、何も知らぬまま呑気に水をすするばかりだった。藤兵衛はふうと一息つき、周囲で様子を伺う龍の集団に声を掛けた。

「どうじゃ今のは? 完璧であろうて!」

《ええ。完璧ね。全くブレはないわ。この調子ならいけそうだけど、問題は……》

 ちらりと周囲を見渡す紫龍ウペンド。上空を飛び回る龍の群れは、地上の何かを探して目を皿のようにしていた。暫くしてから遠方の1人の龍が大声で叫ぶのが聞こえた。

《おい! 見つけたぞ! シャーロット様は風車の中だ!》

《怪我はしてないぞ! すぐに引き上げろ!》

 一斉に彼女に駆け寄る龍たちと、ほっと胸をなでおろす藤兵衛。彼はキセルを取り出して火をつけると、片手で頭を抱えて蹲った。

「……はあ。本当によかったわい。今までよりは近い様子じゃが、転移地点が定まらぬことには変わりないか。何故こう……上手くいかんかのう?」

《ハーシル様の言う通りだわ。彼女の持つ膨大な闇力が、自動的に術の邪魔をしているみたい。どうにかして抑えられればいいんでしょうけど》

「うむ。その通りじゃろうて。色々試してはみたのじゃが、結界も術具による抑制でも、相手がシャルでは効果が弱すぎるわ」

《あのやり方はどうかしら? ほら、この前に1回試したあれ。龍族が龍力を発動させて闇力を抑えつつ、2人同時に送るやつ。あの方向性が理論的には正しいと思えるけれど》

「発想としては決して悪くなかったの。しかし……お主も身を以て感じたじゃろうが、実に酷いもんじゃったわ。闇力を抑える所までは良かったが、どうやら二者同時転移は、寸法差が大きければ大きいほど不安定となるようじゃ。結果的には、2人とも郷の外まで飛んで行ったではないか。やはりお主らとシャルでは種の性質というか、そもそもの規格が異なり過ぎようて」

《確かにあれは死ぬかと思ったわ。どうしたらいいものかしら。時間は限られてるというのに。ハーシル様は誰に対してもお優しい方だけど、約束を違える者を許しはしないわ》

「ガッハッハ! 儂に任せい、ウペンドよ。儂を誰と心得るか? 儂は……」

「そうです! 藤兵衛はこの世界最高の商人なのですよ! ですから何も心配要りません!」

 ひょこりと現れた魔女シャーロットが言葉を遮った。全身傷だらけ煤まみれになりながらも、美しい笑顔を顔中に浮かべて。ウペンドは愛おしそうに彼女に手を伸ばすと、指から召喚した清き水で洗い流した。

《大丈夫ですかシャーロット? よく見たら怪我だらけじゃない。少し休んだ方がいいのではない?》

「私はへっちゃらです! 私は藤兵衛のことを信じています。彼がやると言っているのですから、私がぼやぼやしていてはいけません。『時は金なり。時間を無駄にする者は真の大うつけじゃ』ですよ、ウペンド様」

《ふふ。 何というか……まあそうなのね。ならば私も付き合うわ。一緒に頑張りましょうね》

 笑い合う2人の姿を横目で見ながら、藤兵衛は何も言わず、小さく強くキセルを噛み締めた。歯茎から染み出す流血を忌々しそうに吐き捨てると、彼は心中の淀みを洗い流すかのように、大きく千切れんばかりに笑った。

「グワッハッハッハ! それでこそ未来の儂の妻じゃ! よかろう、次こそは成功させてやろうぞ! 儂を舐めるでないわ! 『転移術・大蛇』!!」

 再び産まれる闇の蛇に、笑顔で手を振りながら飲み込まれていくシャーロット。一瞬置いて叫ぶウペンド、飛び交う龍の群れ。藤兵衛の挑戦は、やはりと言うべきか、順風満帆とは全く行かなかった。

 その姿を、郷内の全てを見通す千里眼で見守る銀龍ハーシルの姿があった。彼は手を強く握りしめながら、時に苛ついたように、時に声を上げてその光景を食い入るように見守っていた。そんな偉大なる帝龍の姿を見て、側近の1匹の龍が呆れたようにため息をついた。

《……ったく。そんな気になるんなら、一緒に行って手伝ったらいかがですか? んな意地張る必要ないでしょ》

《馬鹿を言え! 我にもプライドというものがあるのだ。男が一度口にしたことを易々と反故にする訳には……おい! 今の見たか?! かなりいい感じだったぞ! 50メートル以内に収まったのは初めてだろうが!》

《まったく……困った爺さんだよ。我が主人ながら》

 龍は苦笑しながらも、その場にごろりと座り込んだ。同じくごろんと横になり、腹を見せて寛ぐハーシル。

《しかし……本当に難しい問題だ。シャーロット様を秋津国に送り込まねば、この戦いは勝てぬ。龍だけでも、人だけでも神には勝てん。かつて戦った我が言うのだから間違いない》

《神大戦……ですか。懐かしいですな。私は南大陸で戦っていましたが、東大陸は神々の本拠地。戦闘は苛烈を極めたのでしょう?》

《ああ。血に塗れた忌まわしき記憶よ。今でも昨日のように思い出せる。だが……我にとってあの日々は……おっと、つい感情的になってしまった。これだから歳を取ると困る。忘れよ》

 口調にいつもとは異なる強張った色を感じ、龍は慌てて口を閉ざした。彼の緊張感をほぐすように、再びハーシルは柔らかく語りかけた。

《皮肉なものだ。ハイドウォークの強大すぎる力が故に、力を振るうべき場所を制限されるとはな》

《どうにか出来ないものですか? ハーシル様のお力があれば……》

《何度も言わせるな。これは約束であり、試練だ。それに……我とて万能ではない。更に言えば既に帝席すら失った、只の老いぼれ龍に過ぎんわ》

《そいつは貴方様がご自身で決断されたことでしょう? 私は、正直言って今でも彼らを受け入れるのは反対です。亜門はさておき、全く龍と縁もゆかりもない下卑た人間を受け入れるなど。ただ、大恩あるアガナ様の子孫のため、そう思っているだけなんです。今だって見てください。シャーロット様が傷付き苦しんでいるというのに、あの商人の余裕の表情。本当にアレに任せていてよいのですか?》

 果たして、彼の言う通りの光景だった。血塗れ傷だらけになりながらも健気に微笑むシャーロットに対し、無傷でキセルの煙を鼻から出して下卑た笑いを浮かべる藤兵衛。だが古龍はふんと鼻を鳴らすと、目を閉じて忌々しそうに言った。

《違うな。アレは……そういう男ではない》

《え?》

 ハーシルが指差したその先。何度も何度も繰り返される動作、失敗、再び動作。傷付き打ちのめされながらも、彼女の顔からは決して笑顔が消えることはなかった。勿論、彼の余裕の表情もまた。

《実に不快だが、あいつは分かっている。自らの行いが如何に非合理的で馬鹿げているかを。自らの力量、経験、全てを計算に入れた上で、不可能と断じながらも、それでも為すべきことを果たそうとしている。これが……人間というものよ。神大戦の時の典膳や……ソウタも同じだった。更に言えば龍戦争の時もそう、亜門もまたそう。一部の人間が持つ、極めて純度の高い精神性。これこそが他の種族には真似できぬ、奴ら人間をこの星の支配種族に押し上げた証左よ》

《それは良く捉えすぎですよ。昔の方々はさておき、アレはどうせ金が絡んでるとかそういうことに決まってます!》

《グッハッハッハ! そうかもな。確かにアレの場合、そっちの方がしっくり来るな。……さて、ムサアダ。遊びはそろそろ終わりだ。例の件、お願い出来るか?》

 ひとしきり高笑いをしてから、老龍は決心を固めたように鋭い目付きに変わった。側近ムサアダは目を潤ませながら、感情を押し殺して頷いた。

《……はい。いよいよですか。名残惜しうございます。ですが……アレを持ち出すのはちと早過ぎはしませんか?》

《構わん。こちらで何とかする。“エキドナ”を起動する準備、それだけに注力してくれ。……我を信じよ》

《はっ! 仰せの通りに!》

 一直線に飛び立つムサアダを見て、ハーシルはどこか寂しそうな目をして、だがその目の奥には確かな光が見えていた。奥底から弾け飛びそうな威を放ち、彼は一声嘶いた。天地が震えんばかりの渾身の一声が、郷の空気を切り裂いていった。

《全ては……あの時と同じなのか? 運命とは覆せぬものなのか? ……否! そんな筈は無い! そんなことはこの我が絶対にさせん! アガナ様、プリシラ、ナンディン、典膳、龍鳳、フィキラ、そして……ソウタよ。見ていてくれ。我は必ず……我らは……この下らぬ輪廻の鎖を振り切ってくれようぞ!》


 日暮れ時。

 藤兵衛とシャーロットの“特訓”はまだ続いていた。この一月近く、同じように続いた同じような流れ。1つだけ変わるとするならば、シャーロットの疲弊度合いだった。連日の試行の余波は、確実に彼女の体力を削っていった。闇力を可能な限り押さえ込んだ状態で、訳も分からぬ場所に一瞬で叩き付けられる。それが朝から晩まで続く状態では、いかに彼女とて深い消耗を隠し切れなかった。

 しかし、彼女は文句1つ言わなかった。いつもと同じ、美しい微笑みを藤兵衛に向けるだけだった。だが当の彼は、それに目もくれずふんと忌々しそうに息を吐くと、次なる術を構えようとした。だがその時、協力していた龍たちが見るに見かねて言った。

《おい! ちょっとやり過ぎなんじゃないか? シャーロット様のことも考えてやれよ》

《そうだ! ふらふらじゃないか! 後は明日でいいだろ》

 その言葉に答えず、集中して術を練る藤兵衛。ざわりとした剣呑極まる雰囲気の中、明るく答えるシャーロットがいた。

「ご心配かけてすいません。ですが、私はへっちゃらなのです! まだまだやれますよ!」

 空元気なのは誰の目にも明らかだった。ふらつく足、乱れる息。心配そうに見守る龍たちに、藤兵衛は悠然とキセルをふかしながら一息唸った。

「ふん! 何を言うかと思えば浅慮極まるの。全てシャルの言う通りじゃて。さあ、次に進むぞ。次こそは成功させてみせるわ!」

「ええ! もちろんです! 私もやっと本気を……出し……」

 ばたり、と急に倒れ込むシャーロット。駆け寄るインギアと騒めく龍たち。ざわさわと巡る風の中、藤兵衛は強く奥歯を噛み締めて目を閉じた。


 同時刻、セイリュウ国近辺。

 地平線に沈みゆく夕日を眺めながら、空をひた走るバルアとレイ。黄金にも近い輝きを全身で浴びながら、レイはぼそりと告げた。

「美しい……な」

「なんだい? 今日はずいぶんと詩的だね。さてはイケメンの背中にずっと乗ってるからかな? そうなんだろ? な? な? な?」

 興奮するバルアの後頭部をおもむろに蹴りつけたレイ。輝きが収まりつつある世界。闇が包むほんの手前にある世界。大地と海が重なり合うように色を織り成す光景に、レイは大きな目をまん丸に開いた。

「いや……世界は広えな。ただそう思ってよ」

「そりゃそうよ。俺のジイさんが言ってたぜ。俺らの知る範囲なんて、本当の世界の広さからしたらごま塩みたいなもんだってよ。なんでも俺らの住む大地の果てや、空の遥か上には、更にとんでもねえ世界が広がってんだと。昔はとんでもねえ与太話だと思ってたけどさ、最近なんか不思議と納得してんだ。わかる、こういうの? 俺って結構ロマンチストなんだぜ」

「てめえのことなんざ知らねえし、今後知ることもねえし、クソにたかるハエよりも興味はねえが、言ってる意味だけはわからんでもねえな。こうやって見てるとよ……いろんなことが見えてくるぜ。醜さも美しさも。強さも儚さも。破壊も再生も。夢も現もな」

「ハッハ! まるでどこぞの王女様みたいだね。好きだぜ、レイちゃんのそういうとこ。いつだって恋の始まりは普段とのギャップだからさ」

「ギャハハハ! ちげえねえな。らしくねえわ、ほんと。……ま、アホのたわごとさ。忘れろよ。ほれ、さっき取ってきた魚でも食えや。手を加えたモンはムリなんだろうから、鱗だけ剥がしてぶつ切りにしといたぞ。これ食ってせいぜい力つけろや」

「おっ! 気がきくねえ。さすがはレイちゃん! いいお嫁さんになるよ。んじゃ1つ小休止といきますか!」

 そう言って水面すれすれに急降下し、小島に着陸するバルア。僅かに微笑んで風を感じるレイ。夢がたなびき、世界がほんの少しだけ歪んで見える、夕と闇の狭間。龍と人は少しだけ穏やかに、仮初めの平穏に身を任すように、静かに言葉を交わしていた。

「……で、そこで俺は言ったのよ。『この地の果てまで、空という空は俺のもんだ!』って。そしたら眷属どもビビリまくっちまって、後ずさりして逃げてくんだもんな。あいつら口ばっかのゴミどもの集まりだかんな」

「へっ。俺がハーシルのジイさんから聞いてた話と違うけどな。我先にびびって逃げたのはてめえで、結局ケツ拭いたのはアマニの野郎だってな」

「う、うう! 聞いてたのかよ! だったら初めからそう言ってくれよ! ……そうさ、俺は飛ぶことしかできねえよ! 戦いなんてまともにやれたこともねえんだ。マジ情けない話だけどさ」

 レイは急に真顔になると、そう言って下を向くバルアの腹を思い切り蹴り飛ばした。胃液を吐き出し悶える彼を、レイは厳しい目付きで見下ろしていた。

「グェッ!! な、、なにすんだよ!」

「ったく、情けねえ野郎だ。てめえにゃ誰にも負けねえ翼があんだろうが! ダメなとこばっか見てガタガタ抜かす暇あったらよ、前向いてハッタリでもいいから笑ってろよ。少なくともウチのクソ野郎はそうしてるぜ」

「……レイちゃん。もしかして……俺に惚れた?」

「んなワケねえだろ! このクソが!!」

「グェポ!!」

 2人は楽しそうに話を続けていた。陽が落ち闇夜が世界を包んでも、降りかかる悲劇を束の間だけでも忘れようと、下らない話をいつまでも繰り返していた。例えそれが逃避であったとしても、何の意味もない行動であったとしても、それでも。

「ところでさ、愛しのシャーロットちゃんを奪った蛇の旦那のことなんだけど。ぶっちゃけあいつどうなのよ? いい奴ではあるけどさ、ずいぶんと胡散臭い男じゃない? あんなんと一緒になったら、シャーロットちゃん絶対に苦労するよ。やっぱ俺の方がお似合いなんじゃない?」

「ギャハハハ! その通りだな。あいつほど胡散臭くて、性格の腐りきったやつは後にも先にも見たことねえよ。ほとんどはてめえの言う通りさ」

「な、ならさ……」

「でもな……1つだけ確かなこともある。あのドブくせえ最低最悪のクソ商人は、絶対にお嬢様を幸せにする。それだきゃ間違いねえさ」

 丁寧に鱗を落とし切り身になった魚にかぶりつきながら、レイは迷うことなく言い切った。その余りに明確な断言振りに、バルアは思わず目を丸くさせていた。

「な、なんでそんなこと言い切れんだよ! レイちゃん、あいつのこと嫌いなんだろ?」

「ああ。死ぬほど嫌えだね。全生物ん中でダントツかもしんねえ。でもな、あのゴミは俺に、『シャルのことは儂に任せろ』と、そう言った。だからなんの心配もねえよ」

「い、意味わかんねえよ! なんでそういう結論になんだよ! わけわかんねえから!」

「ま、てめえにゃわかんねえさ。でも間違いねえ。とは言ってもありゃクソだ。ちと不安な部分もねえわけじゃねえが、俺も手を打っといた。問題ねえさ」

「ん? それって、あのウペンドに渡した手紙のこと? 何書いたのさ? まさかラブレターじゃ……」

「なんでてめえが手紙のこと知ってんだ! このノゾキ野郎が!!」

「ハガポ!!」

 再びバルアを蹴り飛ばすと、レイは一息ついて懐から包みを出した。そこには切り身の魚が紐でぐるぐる巻きになっており、黒い紙のようなものに包まれていた。レイはそれを取り出すと、美味そうに一切れずつ食べ始めた。その様子を、指をくわえてじっと見つめるバルアがいた。

「なあ、レイちゃん。それなんだい? 見た感じ魚みたいだけど」

「あ? てめえら龍は、加工した料理食えねえんだから関係ねえだろ?」

「そんなこと言わずに教えてくれよ。めちゃくちゃ美味そうに見えるんだけど。もしかしてレイちゃんの手作り?」

「おう。ちっと手が空いてたんでな、昨日から干しといた昆布に巻いて、塩振って漬けといたんだ。これにちとライムを絞って食うと……ううん! 我ながら最高だぜ!」

 心から美味そうに口に運ぶレイを見て、バルアはよだれを垂らし、やや逡巡した後に意を決して言った。

「……なあ、レイちゃん。それ、1つ俺にくれない?」

「え? そ、そりゃマズいだろ! だってお前らそういうの食うと死ぬんだろ?!」

「まさか! 死ぬわけないじゃん! 大丈夫だって。間違いないさ」

「馬鹿野郎! なんでそんな事言い切れる……って、まさかてめえ!?」

 ギロリと睨み付けるレイに対し、バルアはごろりと横になって目を閉じ、実にあっけらかんと答えた。

「そそ。俺何度かやってるよ。だから死なないのは間違いないさ。だからちょうだいよ!」

「!! ど、どうしょうもねえアホだな。しかし……よくもまあ、なんというか……」

「まあまあ。龍令っつってもいろいろあってさ、仲間殺したりすんのは絶対ダメ。龍族全体のやつで、破るとマジ死ぬから。でもこういう軽いのはヘーキヘーキ。ウチの“列”だけのやつだし。やってる奴結構いるぜ。ま、やり過ぎると龍位は下がっちゃうし、ちょっとしたお仕置きみたいなのはあるけど」

「そ、そうなのか? その龍位とやらが下がんのはまずくねえのか?」

「全く問題なし。どうせ俺最下位だし。そもそもこっちの掟って、ハーシル様が勝手に決めたやつだから、罰もそう大層なもんでもないのさ。って訳で1つお願い! 頼むよレイちゃん!」

 そう言って拝み倒すバルア。レイは躊躇いながらも、おずおずと料理を差し出した。

「おい! 俺は止めたからな! どうなっても知らねえぞ!」

「大丈夫大丈夫。ちょっと雷みたいのが落ちるだけだからさ。んじゃいただきます! ……。………!! ヒ、ヒャア!! うめえ! マジうますぎなんだけど! レイちゃんの料理すごすぎだろ!」

「お、おい! 食いすぎだろ! マジで知らねえかんな! ……ああ、ぜんぶ食いやがった!」

「ふう、最高だったよ。もはや悔いはないね。あ、レイちゃん離れて。結構デカイの来そうだから」

 のほほんと告げるバルア。レイは半信半疑ながら、後ろに下がって状況を伺った。5秒後……何も起こらない。眉を顰めるレイ。10秒後……全く何も起こらない。首をかしげるバルア。そして1分が経過した。しかし……何一つ状況は動かない。

「……おい! 話が違えぞ! なんともねえじゃねえか!」

「あれえ? おかしいな。つい数日前にまんじゅう食った時は、すぐに雷落ちてきたのに。じゃあこれは……セーフってことなのかな? 料理ってほどじゃないってこと?」

「んなわきゃねえだろ! そこそこ手え加えたんだぞ! 俺の料理をナメんじゃねえ!」

「そ、そりゃそうだね。けど……ならどうしたんだろう? 変な感じ」

「それで終わりかよ! けっこうアッサリだな! ま、いいや。時間のムダだったぜ。んじゃそろそろ行くぞ。秋津国は目と鼻の先だ。気合い入れろよ!」

「好きなこと言ってくれるねえ。俺の翼あっての話でしょ。ま、そんなワガママなレイちゃんもステキだけどね」

 目を合わせて笑い合う2人。瞬く間に引き起こされた2つの風は1つになり、秋津の橙空へと消えていった。


 夜も更けて。龍の郷出口近辺。

 藤兵衛は1人岩に座り込み、静かにキセルをふかしていた。その目にはどんよりとした鈍い色が浮かび、焦点が定まることはなかった。静かな夜だった。虫の声すら控えめに響く、秋の長き夜。彼はただ孤独の海に身を浸し、いつまでもそこで動かずにいた。動けずにいた。

 その時、風が舞った。凛と肌に張り付く風。彼が空に目をやると、そこにいたのは紫龍ウペンドだった。彼女は不思議な色の瞳で彼を見つめると、ゆっくりと降下してすぐ隣に座った。

《報告よ。シャーロット様が意識を取り戻したわ》

「そう……かの」

 それ以上は何も言わなかった。何も言えなかった。ウペンドは彼と同じ方向を向いて、静かに風に身を任せていた。暫しの時間が経過した。やがて風に流された煙が彼女の目に流れ込んだ。

《痛い!》

「……?! おお、すまぬすまぬ。つい漠としてしもうての」

《珍しいわね。何か考え事?》

「そんな大層なものでもないわ。ただ……ちと色々との。まあ大したものではないわ」

 藤兵衛はキセルの灰をぽんぽんと下に落とし、懐に仕舞いながら所在なげに呟いた

《……そう。ならいいわ》

「あっさりしておるの。お主こそ、儂に何か言いたいことがあるのではないか?」

《別に。特にないわ。強いて言うなら……ちょっと焦り過ぎかもしれないな、と》

「やはり……そう映るかの?」

 再び風が吹いた。生温く、まとわり付くような風。2人の間の空気がゆらりと漂った。

《さっき、倒れてるシャーロットちゃんの周りで、仲間たちが話していたわ。いくらなんでも酷すぎると。かのアガナ様の末裔をあんなにも傷つけるなんて、あの商人は鬼畜外道だと》

「……」

《あなたへの罵倒は暫く続いていた。その時、シャーロット様がいきなり目を覚まして、皆に向けて言ったの。『そんなことを言わないでください!』って。あの大きな目に涙を溜めて、凄く必死な声で。私も彼女のそんな姿見たのは初めてだったから、正直心の底からびっくりしたわ》

「シャルが、大声で? 俄に信じられぬの」

 藤兵衛は目を丸くして驚きを隠し切れなかった。ウペンドは目を優しく潤ませ、静かに言葉を続けた。

《皆も驚いていたようね。まあ私もだけど。そして彼女は続けたわ。『一番痛いのは藤兵衛です! あの人は私の為に、一銭の得にもならないことの為に、自らを擦り減らして頑張ってくれているのです! あの人しか出来ないことを、私の為に命懸けで闘ってくれているのです! 私のことは何と言っても構いません。けれど……あの人のことを悪く言うのは絶対に許しません!』と。みんな黙ってしまってね。そりゃびっくりするわ。あんなほんわかした子が、いきなり怒り出すんだから。あなた……本当にいい子を捕まえたようね》

「儂には……過ぎたる女じゃて」

 それだけ、ぼそりと言った。手が震えていた。血管が浮き出て全身も痙攣が止まらない。彼は思い通りに動かぬ身体を必死で押さえ付け、無理矢理に平静を保とうとした。そんな彼を、優しき龍の翼がそっと包み込んだ。

《やはり……そちらも無事ではないみたいね。それはそうよ。あのレベルの禁術を、あれだけの密度で撃ち続けたのだから。やはり少し休んだ方が良いのではなくて?》

「それは出来ん! ぼやぼやしている暇はないのじゃ! 冥土におる亜門に何と言えばよい? リースに何と詫びればよい? 全ては無策で彼奴を送り出した儂の責じゃ! 儂は……何としてもやらねばならぬ!」

《……》

 ウペンドはそれには答えず、鱗の隙間から一枚の紙を取りすと、無言で藤兵衛に差した。不審がる彼に向け、彼女はとても静かな微笑を浮かべた。

「何じゃこれは? 手紙……のようじゃが」

《出立の日、レイに託されたものよ。どうしても色々なことが上手くいかなくなったら、もしあなたが煮詰まっていたら、これを渡してくれと。きっと今しかないと思うわ》

「虫がじゃと?! どういう風の吹き回しじゃ? 何ぞ変なものでも拾い食いしたのかの? どれどれ……」

 藤兵衛は手紙をひったくると、その中身に雑に視線を這わせた。次の瞬間、時間が停止したかのようにぴくりと動きが止まると、彼は顔を真っ赤にして手紙をその場に叩きつけた。

《ど、どうしたの? 何が書いてあったの?》

「あああああ!! 虫が! 銀蠅が! 筋肉達磨が! あの阿呆は心底満点の阿呆じゃ!! ああ、心底憎たらしいわ!」

《ま、まあまあ。落ち着いて。……って、どこへ行くの? こんな時間に》

「知れたことじゃ! 頭に登った血を降ろさねばならぬ。自主訓練じゃ! ちと思いついたこともある故な。シャルには言うでないぞ! ……『転移』!!」

 そう言って忽然と消え失せる藤兵衛。ウペンドは不思議そうに首を傾げ、地に落ちた手紙の文字に目をやった。そこには赤い大きな字で、一行だけ書かれていた。

『アホ! カス! クソ! 冷静に周りを見やがれこのゴミ野郎!』

と。


 神代歴1279年12月。

 深まりつつある秋の夜に、冬を迎える準備が整い始めた龍の郷に、藤兵衛の咆哮がいつまでも鳴り響いていた。

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